3.5 赤の懺悔
我が家から光を奪ったのは、病だった。
遠い南方の地に古くからある伝染病はリアスコット王国では未発見、まさに未知の病だった。
症状は感冒と大差なく、三日も安静にしていれば概ね回復する。問題は、回復しなかった部分。いつまでも下がらない微熱と、続く食欲不振、果ては嚥下障害と嘔吐。少しずつ、けれど確実に患者から体力を奪っていく。
若い頃は妖精姫と称えられるほど艶やかだったお母さまの髪は次第に褪せ、眸は徐々に光を失った。滑らかだった手は老婆のように枯れ、元気な頃の面影はすっかり消えてしまった。
陛下に直接お願いしてほしい。どうか、妻の為に薬を。
涙ながらに懇願するお父さまを退けたのはわたくしだ。王太子妃に、延いては次期王妃にと望まれるわたくしが、国の危機に己の家族を優先してほしいと願い出ることなどできるはずがない。
宮廷が保管しているわずかな薬はすべて、筆頭侍医が率いる医師団の研究に回されている。国内に自生している他の植物で代用できないか。似た効力をもつ薬はないか。一刻も早い回復の為に、一人でも多く救う為に。
南方から取り寄せている薬の到着まで、もう少しだけ時間がかかる。その間にこぼれ落ちる命を、一つでも減らす為に。
できませんお父さま、わかってくださいお父さま。わたくしは、王太子妃に据えられる猟犬なのです。
日に日に弱っていくお母さまを見捨てる。なんてひどい娘でしょう。それでも、曲げることはできなかった。
ごめんなさいお父さま、ごめんなさい。
同じように泣きながら謝罪を繰り返すわたくしに、それでも追いすがるお父さまを頑として拒絶する。
わたくしが直訴したところで、どうやっても薬はもらえない。そんなことお父さまだってわかっている。それでも、何もできないもどかしさがお父さまを突き動かす。
理性と感情の狭間で、先に限界を迎えたのはお父さまだった。
病の床で忍び寄る死に震えながらも、いいのよアイリーン、とお母さまが笑った時、お父さまはわたくしの頬を拳で打った。強かに床に打ちつけられた体が軋む。切れた口端から血が滲んだ。
鋼のような筋肉に覆われた巨躯から振り下ろされる拳は重く、わたくしなど容易く壊してしまえる。起き上がったのは、意地だ。
揺さぶられた脳がけたたましく警鐘を鳴らす。
「お母さま、わたくしをどうか、許さないで。お母さまの為に理性を捨てられない、薄情な娘をどうか許さないで」
ごめんなさい、ごめんなさいお母さま。
「そうあってほしいと望んだのは私達ですもの。猟犬として、王家に加わる娘として、あなたは正しい。愛しているわ、アイリーン」
明瞭な声を発する力も残っていないお母さまは、歩くことも大好きなティータイムも諦めてしまったけれど、笑むことだけはやめなかった。腕を持ち上げる体力すらないことに歯噛みして、子ども達の頭を撫でてあげることも、夫を抱きしめることもできないと泣いたけれど。泣いたあとには必ず笑った。
記憶の中で会う時に、泣き顔ではつまらないでしょう。笑った顔が一番好きだと言ってくれた泣き虫な夫の為にも。覚えていてくれるなら笑顔がいいわ。
助からないと悟っていた。わたくし達も感じていた。薬が手に入ったとして、お母さまは間に合わない。だってもう、水も飲み込めない。濡らした布で唇を湿らせることが精一杯の水分補給だ。
――神様、
わたくしのお母さまをどうか、どうか助けて。代わりが必要なら、わたくしの命を差し上げる。だからどうか、どうか――
「さあ、あなた。アイリーンと仲直りしてくださいな」
お父さまは謝らなかった。代わりにわたくしがたくさん謝った。そうして二人でわんわん泣いていると、お兄さまが王都から帰ってきた。
頬を腫れあがらせたわたくしを見て、お兄さまは迷わずお父さまにつかみかかった。お母さまの顔を見るより先に殴りかかったお兄さまに、お父さまもすぐさま応戦した。ただいまもおかえりも交わせないまま、お母さまと二人で大喧嘩が終わるのを待った。
いつも通り鼻から血を垂らしながらボロ布のようになって、両成敗とお母さまの審判が下った頃には日が暮れていた。
「あらあら、男前が上がったわね、あなた。メレディスも」
男の子はしかたがないわね、と笑うばかりで、お母さまが二人の喧嘩を止めたことは一度もなかった。でも、はい両成敗、と喧嘩の終わりを告げるのはいつもお母さまだった。
「みんな大好きよ。愛しているわ」
お母さまは冬を越せなかった。大好きな花の季節を待てず、お母さまは枯れ木のようにやつれて、痩せ細って亡くなった。
眠っている間にお母さまの命が尽きてしまったらどうしよう。目が覚めた時、お母さまだけ目が覚めなかったらどうしよう。毎晩、毎晩、夢に見て。眠ることを諦めたのはいつだったか。
一人で部屋にいる時間にすら怯えて、でも眠っているでしょうお母さまを起こすような真似はできなくて。しかたないから朝までお母さまの部屋の前で蹲っていようと夜の邸を歩いて。見つけたのは、大きな体を目一杯に縮めて蹲るお父さまだった。
黙って差し出された手をとって、二人で並んで座った。触れ合う肩に伝わる熱に涙が出た。声もなく二人で泣いていると、お兄さまもやってきて。そうして最期の一日まで、三人で泣きながら熱を分け合った。
眠ることも、目を覚ますことも恐ろしかった日々は、そうして涙と一緒に流れていった。
葬儀の夜、お父さまが初めて謝罪を口にした。すまない、と。優しく、優しく撫でられたのは、もう痛みも忘れてしまった頬。泣き過ぎて擦り切れてしまった目端をなお赤く染め、嗄れてしまった声でなお泣くお父さまを前に、わたくしの目端からも涙があふれた。
「アイリーン、王妃になれ」
わたくしの返事を待たずに続いたその声は、拒絶を許さぬ支配者のそれだった。
「はい、お父さま」
王妃の願いであれば、国は総出でこの病に打ち勝とうと奮闘してくれる。カサンドラ家が足掻くだけでは足らない。奪われたのはお母さまだけではないのだから。
不敗でなくとも常勝。それがカサンドラ家だ。次はない。二度の猛威は許さない。必ず滅ぼす。その為に地位が必要だというのなら、王妃の席が勝利への最短ルートだというのなら。わたくしは必ず、王妃になる。
「何でも言え。カサンドラ家のことであれば、俺が何とでもしてやる」
「ありがとう、お父さま。大好きです」
「あぁ、俺も愛しているよ、アイリーン」
お母さまの代わりにお父さまを抱きしめる。大きくて広い背を、お母さまの真似をして撫でた。わたくしの背は、お兄さまが撫でてくれた。お兄さまの頭は、お父さまがやっぱりお母さまの真似をして撫でた。
◇
慰める為の手を振り払われ、大嫌いと突き放され、殿下は戸惑っているようだった。無理もない。さっきまで信じていた愛に裏切られたのだ。
まるで迷子の子どものように目が泳ぎ、そしてわたくしを捉えた。
殿下の顔から血の気が引く。ともすればそのまま卒倒してしまうかと思ったけれど、そんなことはなかった。
わたくしに与えた傷が今、そのまま殿下に跳ね返っている。
でもそれが、何だというのでしょう。
大嫌い。好きじゃない。相手に言ってもらえるだけ、殿下はいい。わたくしは全部、自分で言った。殿下が言ってくれないから、自分で言って、自分の言葉で傷ついた。
はくはくと口を動かして、けれど何も言えずにいる殿下に思うことは一つだけ。我ながら薄情だと、なんだか可笑しくなってしまう。
ざまあみろ。
震える殿下から視線を外す。イザベル嬢の涙はまだ止まらない。
何が違ったのでしょう。同じ病で母親を奪われて、同じように王妃の席を欲しがった。同じように殿下に愛されたわたくし達。
違いはきっと、そんなに大きなことじゃない。
わたくしは知っていた。王家は助けようとしてくれていた。及ばなかっただけで、間に合わなかっただけで、精一杯、頑張ってくれていた。救えた命もあったのだ。間に合った命もあったのだ。わたくし達のお母さまの時間が足りなかっただけで。
彼女は知らなかった。こぼれた命の数だけ王妃さまが泣いていたことを。陛下が苦しんでいたことを。
知っているか知らないか。わたくし達を分けたのは、きっとそれだけだ。
無知とは実に、愚かしい。
己の無力に苛まれた果てに選んだ道がこれとは、まったく度し難い。
「あなた、もう少し愚かに生まれるべきだったわね」
「何……、」
「もう少し愚かであったなら、そんなに惨めな思いをしなくて済んだのにね」
イザベル嬢ははらはらと落ちる涙もそのまま、うるさい、と嘆いた。