3.5 白の独白
不幸は突然やってきた。
冬の冷たい風が吹き始めた頃、お母さまが風邪を引いた。三日ほどで喉の痛みも治まって、あとは微熱が引けば大丈夫、という状態まで落ち着いたのに、その微熱だけが半月経っても治まらない。
ただの風邪がどうしてかなかなか治らなくて、何人ものお医者さまが首をひねった。
ただの風邪ではなかったという知らせが届いたのは、それからさらに半月が経った頃だった。
伝染病。
特筆すべきはいつまでも残留する熱。そして食欲不振を引き起こすこと。
栄養を拒絶するかのように、胃が食事を受け付けなくなる。少しの量で満腹になり、無理して食べると嘔吐してしまう。そうして次第に水すら飲み込めなくなるという。
体が完全に飲食できなくなるまで少しずつ体力を奪い、最期は小枝のように痩せ細って死んでしまう。
なぜ流行ったのかもわからないその病は、冬が本番を迎える頃には国中に広がっていた。
幸いだったのは、南方の国では古くからある病で既に特効薬も開発されており、不治の病ではなかったこと。
不幸だったのは、薬の材料となる植物がリアスコット王国ではわずかしか自生しておらず、また実りの時期が春であったこと。冬も本番となったこの時期に、国中にいる患者を救えるほどの量を確保することは不可能だった。
「なぜだ! なぜ薬が手に入らない!」
お父さまの怒号が響く。
ポスカ伯爵家は宝石商の家系だ。ジェントリから成り上がり、築き上げた財で爵位を勝ち取った。お金なら他のどんな貴族より持っている。どんなに値の張るお薬でも、どんなに高位のお医者さまでも、我が家なら手に入れられるはずだった。
「材料が足りないのです。南方から取り寄せるにしても患者の数が多く、全員に行き渡らせるのにどれだけかかるか……」
「王宮には蓄えがあるはずだろう!」
「申請はしておりますが、貴族といえども優遇はできないと――」
「金ならばいくらでも払う!」
悲鳴のようなお父さまの言葉にも、お医者さまは頭を下げるばかりだった。
薬が欲しいのは我が家だけじゃない。国中が欲しがってる。伯爵家なんて上流貴族の端くれみたいな家柄の、それも女の為とあっては国も簡単に薬を回してくれたりしない。
結局、薬は手に入らず、お母さまは春を待たずに亡くなった。
葬儀の夜、お父さまは涙で嗄れた声で私に言った。
「王妃になれ」
突然の話で返事の遅れた私に、お父さまは続けた。
「手段は問わない。金に糸目もつけない。なんとしても王妃になれ」
「お、お父さま……?」
「お前まで失いたくない。情けないことだが、私では同じことが起きた時、お前のことを守ってやれない。今回のことで痛感した」
守ってもらえる立場を手に入れろ。お父さまの声は震えていたけれど、有無を言わせない強さがあった。
お父さまの目は悲しみのせいで濁っていた。澱みの中にいるような、底知れない圧迫感に黙り込む私の肩に置かれた手は震え、指先が食い込むほどの力がこもっていた。
「王妃になれば、最優先で守ってもらえる」
涙が一筋、頬を伝った。
「絶対に見捨てられない、何があっても救われる。この国で生きる女の中で一番、大切にされるのが王妃だ。王妃とは、そういう立場の人間なんだ」
次期王妃候補の選定はとっくに済んでいる。選ばれたのは侯爵家のご令嬢で、次期王妃として申し分ない方らしい。もう二年もすれば王太子殿下の成人だ。社交界でも評判の仲睦まじさで、ケチをつける人間はいないだろうと夜会でもたびたび話題に上る。
今から私が殿下の婚約者に成り代わって、王妃になる可能性なんてない。お父さまだって、そんなことわかってるはずなのに。
王妃になれ、とお父さまは繰り返す。
その声に強迫されるように、私は黙って頷いた。頷くことしかできなかった。
それを見て、わずかに口端を持ち上げてくれたお父さまが差し出したのは、お母さまの眸と同じ色をしたブローチ。
お母さまの病気が少しでも良くなるように、苦しむお母さまの心が少しでも晴れるように。お父さまがお守りだと言って渡していた品だった。そういえば、棺には入れていなかったと思い出す。
「幸福を呼ぶおまじないがかけてある」
幸せになってね、と笑っていたお母さまを思い出してまた涙があふれた。
幼い子どもをあやすように私の背を撫でながら、肌身離さず持っていなさい、と言うお父さまの声を聞いた。何度も、何度も頷いて、その夜はずっと二人で泣いて過ごしたのを覚えている。
思えばあの時から、私達はおかしくなっていった気がする。
◇
後宮へ行儀見習いに上がると決まったのは、春になり薬が流通を始め、病が終息してようやくのことだった。季節は夏の兆しを見せ始めていた。
少しだけ痩せてしまったお父さまの顔には、涙よりも笑みのほうが多く浮かぶようになっていた。邸にもようやく明るさが戻ってきた矢先の私の出仕に、不安がなかったと言えば嘘になる。それでも、王妃になれ、というお父さまの言葉に逆らってまで領地に残ろうとは思わなかった。
王妃になる。私を守りたいという、お父さまの願いを叶える為に。お父さまの悲しみを少しでも薄める為に。私は絶対に、王妃になる。
アイリーンさまを初めて見たのは、それから間もなくのことだった。
刺すような緊張感で背筋が凍る。遠目に見ただけ。すれ違っただけ。一言、言葉をかけられただけ。たったそれだけのことで、他人に対してあんな感想を抱くのは初めての経験だった。畏怖。多分、これが一番、近い。
猟犬、カサンドラ侯爵家の女傑。お若いながらに次期宰相の呼び声高いメレディスさまが、妹は己より優れている、と誇らしげに語るだけのことはある。
隙が無い。付け入る隙がまるで無い。
ひとたび微笑めば、誰もがその美しさを前に己を恥じてうつむいてしまう。百合のように白い肌、鴉の濡れ羽のような黒髪。眸にはまるで黄金が流れているよう。その美しさは間違いなく絶世で、容易く男達を跪かせる。かの軍神さえ、彼女の前では剣を置くだろうと噂される。アイリーンさまはそういう女性だった。とはいえ後宮には、美貌を誇る人間なんて山ほどいる。私だってその内の一人だ。
美貌だけが武器だったなら、あるいは。
そんな考えは、考えるだけ無駄だった。だって美貌だけなんて、そんなこと全然なかった。
アイリーンさまは、既に後宮を掌握していた。嘘や偽りが支配する、魔の巣窟であるはずの後宮で、彼女はどんな悪意も寄せつけない。
カサンドラ家は国の盾、王の剣と呼ばれる猟犬の家系だ。私にはその意味がよくわからないけれど、熱狂的に支持する貴族も多いと聞く。反して、獣と嘲笑い毛嫌いしている貴族もまた多い。お父さまも、カサンドラの名を聞くと眉をひそめる。
曰く、カサンドラ家が幅を利かせているから、この国は周辺諸国から蛮族などと軽んじられるのだ、と。
後宮に入って実際にアイリーンさまを見なければ、私もお父さまの意見をぼんやり受け入れていたと思う。けれど見てしまった。知ってしまった。
頭のてっぺんから足の爪先まで、指先の所作でさえ優雅。カサンドラ家を嫌う人達が言うような、力に物を言わせてふんぞり返るような真似はしない。武芸に優れた武人の家系だというのに、剣も盾も、もちろん拳も、誰かを傷つける武器を振るうことはなく、彼女はただ薔薇のように美しい。言葉でもって悪意を切り捨て、笑顔でもって悪意を防ぐ。アイリーン・カサンドラという人間は、そういう女性だった。
勝てっこない。まるで敵わない。
アイリーンさまを具に観察して、私が得られたのは敗北感だけだった。この人を突き崩すことはできない。この人は完璧だ。太刀打ちできない。
挑む前から、勝負にならないことは明らかだった。でも、それでも。
――まだ終わってない。
アイリーンさまを崩せないなら、レオン殿下だ。
王妃になる。諦めるなんて選択肢はない。お父さまの為にも、私自身の為にも。
そう思ったら、選択肢は他になくなった。私は迷わず実行に移した。とはいえ、対象を殿下へ切り替えてからは大変だった。後宮にいるアイリーンさまとは違い、殿下は宮廷での公務がある。行儀見習いでは宮廷には入り込めないし、そもそも伯爵家の娘である私では殿下の視界に入ることすら難しい。
少しずつ、少しずつ距離を縮めた。宮廷楽団、近衛騎士団。少しずつ、少しずつ。後宮への立ち入りが許される身分の男性に、より殿下に近しい人間にすり寄って。愛敬を振りまいて、媚を売って。
ようやく殿下と直接お話しできるようになった頃、疲れた、と頭の奥で声がした。でもそんな声は王妃になる為には邪魔でしかなかったから無視していた。
王妃になる。ただその為だけに、夢中だった。
少しずつ、少しずつ距離を縮めた。焦ってはいけない。何度も自分に言い聞かせ、少しずつ殿下の本心を引き出していく。
最初は他愛のない世間話だ。私は無害、ただの可愛らしい行儀見習い、そう思わせる。見かければ声をかけてもらえるようになり、そのうち立ち話をするようになり、そうなったらこっちのものだ。女のおしゃべりに恋愛は欠かせない。殿下とアイリーンさまの仲の良さは社交界でも有名だ。アイリーンさまを褒めることから始め、話を聞く殿下の様子を細かく観察する。返事が遅れた瞬間、表情が曇った瞬間を見逃さない。そこから話題を掘り下げつつ、不満や不安を語らせるよう誘導する。
殿下といえどもおしゃべりでは女性に勝てないのか、根気良く続けていくと次第にぼろを出してくれるようになった。
一つでも不満を聞ければもう私の手中だ。そこからじわじわと足場を崩していく。安っぽい手段だって効果があるなら使う。私なら殿下にそんな思いはさせないのに。殿下は寂しいと思われたのではないのでしょうか。不満を満たす言葉を使い、綻びを補う態度を見せる。
ガーデンパーティの時期を迎える頃には、殿下は私に素の笑顔を見せてくれるまでになっていた。
「私、アイリーンさまから殿下を奪ってしまうつもりなんてなかったんです」
予定外の四回目のガーデンパーティ。殿下の成人のお祝いを兼ねたその会で、遂にエスコートを申し込まれた。
「でも、でも私……」
王宮庭園の隅っこで、私はぼろぼろ涙を流して泣いた。
「自分の気持ちにこれ以上、嘘を吐いていられなくて」
ごめんなさい、ごめんなさい……。晴れやかな心にはしっかり鍵をかけて。慣れてしまった嘘泣きを真実だと、自分を騙して。思ってもいない謝罪を繰り返す。
「殿下のことが、好き……愛してしまったんです!」
抱きしめてくれる殿下の腕に縋って、ごめんなさい、とまた謝る。
……私、一体、何をしているの。
うるさい。もう少しなの。邪魔しないで。もう少しで王妃になれる。
反発する言葉が浮かんでは消える。最近はずっとこんな感じだ。嘘ばっかり吐いてきたせいなのか、自分のことでも何が本当で何が嘘なのかぼんやりしている。でもやめようとは、それだけは思いつかないから。
「イザベル、私もあなたを愛しているよ」
やっと引き出した。殿下からの、愛の告白。絶対に手放さない。
ガーデンパーティの最中に、誰でもいいから人に見せつけてしまえばそれで全部終わる。殿下と、殿下に寄り添う私を。独りぼっちになったアイリーンさまを。
あとは勝手に噂が独り歩きしてくれる。
やっとここまできた。やっと努力が報われた。そう思った。
これでお終い。私が王妃になる。そう思った。思ったのに――
◇
「どうしてうまくいかないのよ! あとちょっとだったのに!」
涙があふれて止まらない。悔しい、悔しい悔しい悔しい。泣き顔なんて、絶対に見せたくなかったのに。
庭園では勝ったと思った。殿下が私のことを、愛している、と言った瞬間に感情が抜け落ちたあの顔を見て。殺されると思うほど怒りに染まったあの顔を見て。感情を抑え過ぎて平淡になったあの声を聞いて。勝ったと確信したのに。
王宮に場所を移した途端、確信がぶれた。私が追い詰めていたはずなのに、気づいたら追い詰められていた。私を選んだはずの殿下さえ、私の味方ではなくなっていた。
「愛が一体、何だっていうのよ……」
目にも見えない。すぐ裏切る。
愛があったって病気は治らない。愛があったって一番にはなれない。私は選んでもらえなかった。お母さまと同じ。救われない。一番になれなかったから、幸せになれない。
「愛なんて、大嫌い、」
「イザベル……」
おそるおそる肩に触れた殿下の手を払いのける。
「触らないで! 大嫌い。好きだったことなんて一度もないのよ。私を王妃にしてくれない、――お母さまを助けてくれなかった王家なんて、大嫌い……!」
ごめんなさい、お父さま。私は王妃になれません。ごめんなさい。