03
用意されていたのは、王宮内でも奥まった場所にある一室だった。
「じゃあ私は一度、陛下のところへ戻るから。アイリーン、頼むから冷静にね」
お願いだから、と念を押してお兄さまは走り去った。最後の一滴まで優しい声だったけれど、一対の黄金が語っていた。次はない、と。お兄さまはこの場を戦場と定めたのだ。求められているのは悲劇のヒロインとしての対応ではなく、猟犬としての結果。なんて厳しく、残酷なお兄さまでしょう。
三人きりとなり、わたくし達は黙ってソファーに腰を下ろした。殿下の隣にはイザベル嬢が座り、わたくしは一人だ。
テーブルを挟んだことで、庭園にいた時より二人との距離が遠い。
重い沈黙が横たわる。改めて切り出す度胸はないのか、殿下は気まずそうに視線を泳がせるばかりだ。イザベル嬢が口を開く気配はない。
細く、長く息を吐く。
「殿下は、もうわたくしを愛してはくださらないのですね」
自分で言って傷ついた。けれどそんな心は後回しだ。
きつく眉根を寄せた殿下が、噛みしめるように言葉を吐く。
「……イザベルを、愛しているんだ」
うつむいたままの殿下の言葉に、イザベル嬢の表情筋への制止が緩んだ。喜色満面。隠そうともしなかった。そしてそのまま、彼女はゆっくりとわたくしのほうへ視線を向ける。勝利を確信した者の、敗者を見下す顔だ。
そうやって調子に乗っていろ。驕りは勝利から最も縁遠いのだということを、身をもって経験させてやる。
「では、わたくしはどうなります」
「……すまない」
愛しているんだ、と殿下は繰り返す。
――やっぱり、……あくまでも愛を免罪符になさるのね。
濁る思考も、腐りそうな心も、すべて隠し通す仮面を被る。視線はまっすぐ前を見据え、逸らさない。さあ、アイリーン。覚悟を証明なさい。
「では、しかたありませんわね」
「え……」
事も無げに装って吐息を漏らすわたくしに、殿下が目を丸くした。
驚くようなことではないでしょう。言わせているのは殿下のほうなのに、おかしな方だ。
「愛の前で人は無力と申します。どうぞ、芽吹いた愛を育んでくださいませ」
愛の為ならしかたない。
わたくしとの十年を捨ててしまうことも。わたくしの殿下への愛を踏み躙ることも。約束を放棄することも。
愛の前では関係ないのだ。
「殿下の愛を認めましょう」
理解できないと言わんばかりに瞠目する殿下とは対照的に、イザベル嬢はその喜びをもう殿下にも隠さない。
無知とは罪だ。わたくしの反撃はここからが本番だというのに。
「ですが殿下、わたくしの愛も認めていただきますよ」
「君の、愛……?」
「ええ、もちろん構いませんわよね。殿下はわたくしの十年を浪費したのですから、その分の対価は支払っていただきます」
わたくしの十年は今この瞬間ゴミとなったのだ。それくらい要求したって罪には問われないでしょう。
雲行きが怪しくなってきたことに気づいたのでしょう。二人はきょとん、と顔を見合わせた。
「わたくしの殿下への愛は諦めます。実らないと知っていて枯らせてしまうなんて、虚しいだけですもの」
殿下の為に研鑽した十年、殿下と育んだ十年分の愛。たった一人の娘に掻き乱されるほど、ぬるいものではなかったはずだけれど。わたくし達は一体、どこで間違えたのか。わたくしの何が、悪かったのか。
「我がカサンドラ家は代々、国の盾、王の剣としてお仕えしてまいりました。その愛国心は、わたくしにも受け継がれております」
「あ、あぁ……そうだね」
「ですからわたくしは、国への愛を実らせることにいたします。殿下はわたくしの愛の為に、わたくしを正妃に迎えてください」
その為の王妃教育、その為の十年。殿下へ向けていた愛を、国へ向けるだけのこと。大丈夫、わたくしは何も変わらない。愛の配分が変わるだけ。
事前に準備していた言葉を、繰り返し胸中で唱える。大丈夫、何も問題ない。
「イザベル嬢との愛を育むのに立場は関係ございませんわね? ですがわたくしの愛を果たす為には、王妃の席が不可欠なのです」
イザベル嬢が眦を吊り上げた。しかし彼女が口を開くより早く、殿下が絞り出すような声をあげた。
「イザベルは、どうするんだ……?」
――まず、気にするところがそこなのか。
ちくり、と痛んだ心に蓋をする。まだだ、まだ仮面を脱ぐな。
「囲って愛でてさしあげればよろしいでしょう。元々、後宮へ迎え入れることに関しては拒絶しないつもりでした。わたくしが嫡男を出産したあとでしたらどうぞ、イザベル嬢とも御子を生していただいて結構ですわ」
王位継承権、その一つ目を有する男子さえわたくしのそばにいれば、この国の未来はどうとでもなる。たとえイザベル嬢が男子を産んだとて、揺らぐような甘い育て方はしない。大丈夫、この国はまだ大丈夫。
「アイリーンさま、なんてひどいことを……」
ぽかん、と口を半開きにしたまま硬直する殿下の代わりに、イザベル嬢が声をあげた。先程までの喜色がすっかり鳴りを潜めている。
何がひどいというのでしょう。王位争いの火種になりかねない直系の子を産むことを、わたくしは許すと言っているのに。
「レオンさまは私を次期王妃に迎えると言ってくださったんです! なのに、私の未来を潰すおつもりですか!」
頭が沸騰でもしたんでしょうか。いよいよもって何を言っているのかわからない。
視界の端に、驚愕の色を浮かべた殿下の顔が映る。殿下は一体、何に対してこんなにも驚いているのでしょう。声を荒げるイザベル嬢か、想定外の方向へ話の舵を取ったわたくしか、あるいは……そう、次期王妃に迎える、という彼女の先の発言か。まあ、何に対してでも構わないのだけれど。意味なんてない。
それにしても、不愉快だ。肌を這いまわる不快感に胸中で舌を打つ。婚約者でもない娘が、正式な婚約者であるわたくしの前で殿下を名前呼びとは、一々癪に障る。
「わたくしの未来を潰した本人がよく囀るじゃありませんの。それに、あなたにどれほどの未来があるというのかしら」
「そんな……!」
わたくしはもう、この娘を許さないと決めている。攻め手を緩めるつもりはない。
ここは王宮内でも特に秘匿性の高い話をする際に用いられる部屋だ。間諜の付け入る隙はなく、おしゃべりな人間は近寄れない。言葉も外聞も気にせず攻められる。
「罪に問わないだけでもかなりの恩情をかけてあげているというのに、呆れたものだわ」
伯爵家と侯爵家だ。本来ならば勝負にもならないところを、わざわざ同じ舞台に立ってやろうというのに。
険しい表情に侮蔑の色を混ぜて、イザベル嬢がきつくわたくしを睨めつける。
「それがあなたの本性なのですね……!」
本性も何も、ここまで言わせているのはそっちでしょう。
憎しみで歪む顔を殿下に見られていると気づく余裕もないのか、イザベル嬢は早くも被った猫が剥げかけている。殿方を惑わす演技力は大したものだけれど、わたくしを相手にせねばならないこの戦場ではまるで役に立っていない。
「覚悟なさいねお嬢さん。あなたの言う本性とやらを、自身が引きずり出されぬように」
これだけの短いやりとりで剥げかける底の浅さで、どこまでやれるのか見物だ。
殿下から紹介に与った際に名乗らなかった時点で既に、この娘はわたくしを下に見ていた。伯爵家の娘が不敬にも、侯爵家の令嬢に名乗りもせず礼もとらない。マナー違反も甚だしい。礼儀知らずと詰られてもおかしくないというのに、いい度胸だ。宣戦布告としては十分過ぎる。
戦場では負けなし。不敗ではなくとも常勝。戦場は問わずそれが戦闘であるのなら、口喧嘩だろうと恋の駆け引きだろうと、全力をもって叩き潰す。それがカサンドラ家の流儀だ。上辺の飾りだけで誤魔化されると思わないほうがいい。
わざとらしい笑みを貼りつける。他の何が伝わらなくとも、馬鹿にしていることだけは伝わるでしょう表情を。
「愛を免罪符にするのだもの。この程度の覚悟はあるでしょう?」
あんまりだ、とでも言いたいのでしょう。イザベル嬢は睨めつける双眸をますます燃やし、不満を隠そうともしない。
――ああ、まったく、お話にならない。
冷めた感情が、せっかく貼りつけた笑みを剥がした。この程度の挑発で心を乱す。あまりに粗末だ。殿下のほうへ視線を移す。
わたくしにだけ集中していてはいけない。陥落させた男がいつまでも味方だと思っていると、足をすくわれるぞ。
「殿下、わかっておいでなのでしょう? お二人の愛にわたくしは不可欠ですわ」
ここにきてようやく、イザベル嬢は殿下が沈黙を貫いていることに気づいたらしい。弾かれたように殿下のほうへ顔を向ける。
「レオンさま……?」
切なげな声に、殿下は応えない。ゆっくりと持ち上がった顔に浮かぶのは色濃い後悔と、悲傷。今のわたくしに、その表情を晴らす手助けをするつもりはない。
イザベル嬢ではなく、わたくしをまっすぐ見つめて口を開く。言葉はまるで、砂でも噛んでいるようにざらついていた。
「わかっている。すまなかった、アイリーン。愚かな私を許しておくれ」
イザベル嬢の顔から表情が抜け落ちた。何を指すのか想像できるだけの知能はあるらしい。にっこりと、いっそわざとらしいほどの優しさを称え微笑む。
「もちろんですわ、殿下」
婚約は解消しない。否。できない。
殿下の側からの婚約解消など、端からありえなかった。
「何で……」
青褪め、わずかな絶望を滲ませた双眸を殿下へ向けるイザベル嬢に、先程までの威勢は欠片も残っていない。さしもの彼女も、まさか殿下のほうから手を返されるとは思わなかったのでしょう。
口を閉ざした殿下の代わりに、わたくしが返事をする。
「国益の為になされるべき結婚ですもの。小娘一人で揺らぐような王太子は、国を乱しこそすれ満たしはしない」
だから切り捨てる。
だから切り捨てた。
たとえそれが、唯一の後継者を国から奪うことになろうとも。陛下と王妃さまから、たった一人のご子息を奪う結末になろうとも。国を損なうくらいなら、わたくしは迷わず王太子の首を噛み千切る。
イザベル嬢のような娘が現れるたびに揺らぐかもしれない、と。そんな不安を臣下に抱かせる王太子に、王位を継がせてなるものか。不安はいずれ反感へ、果ては謀反へ繋がるかもしれないのだ。王家が揺らげば国が乱れる。
火種は、可能性から根絶やしにしなければ意味がない。
「わたくしとの婚約解消は、殿下のご廃嫡と同義。そうなると、王太子を誑かしたあなたは罪を免れないでしょうね」
おわかりかしら、と。いっそ慈愛でも感じられるほどの微笑みを添えてやる。
「っ……!」
イザベル嬢の頬にサッと赤が走った。やはりわかっていなかった。詰めが甘いなんてものじゃない。計画の段階で致命的だ。婚約したばかりならまだしも、十年も続いた関係に手出しできると本気で思ったのか。家にもわたくし自身にも、問題ないから続いた十年だ。舐めてもらっては困る。
「お二人の愛は苛烈を極めます。けれどわたくしの、国への愛を満たす前提であれば、お二人の愛をぬるま湯の中で満たしてさしあげましょう」
殿下が国王となりわたくしが王妃となる。イザベル嬢は妾妃として後宮へ迎え入れる。
他に道などありはしない。二人はもう、わたくしに縋るしかない。たとえそれが、それさえも救いにはなり得ないと気づいても。
あの場を指定したのはきっと、わたくしを辱める為に人目を必要としたからでしょう。愛に破れ捨てられる侯爵令嬢なんて、ゴシップとしては最高のネタだもの。噂好きの淑女が放っておかない。けれど、それでは済まない。王太子の心変わりの事実を、たった一人でも他者に漏らしてしまったのならその時はもう、お終いだ。未来の王への信頼は失墜する。不実の証明などしてはならなかった。そんな愚行を許してはいけなかった。殿下とイザベル嬢、敗着の一手を打ったのは他でもない、二人のほうだ。
「でもアイリーン、君もわかっているんだろう?」
殿下の声は憔悴しきって震えている。
今の問いを投げかけるということは、気づいたのでしょう。さすがは当代随一の明晰な王子さま。とはいえ既に何もかもが手遅れだ。今更、変えることも覆すこともできない。
「アイリーン、私達に未来はないよ」
「少なくとも、わたくしの未来を奪ったのは殿下ですわ」
失われてしまったかのように言うのはやめていただきたい。二人は自業自得だけれど、わたくしはあくまでも奪われた側だ。並べて語られるのは気分が悪い。
「どういう意味ですか、レオンさま……アイリーンさま!」
置いて行かれてしまったイザベル嬢が金切り声をあげた。こちらはまた随分と鈍い。殿下の手のひら返しが思考を鈍らせてしまったのかしら。
「殿下の不実を衆人環視にさらしてしまった。そしてそれを、陛下がご覧になってしまわれた」
陛下、という部分でイザベル嬢が肩を震わせた。さすがに牙を剥けない相手に怯んだらしい。
「あなたの家は刑を免れるかも怪しいものね。殿下も廃嫡はお覚悟ください。わたくしとの婚約も、継続は不可能でしょうね」
イザベル嬢がぎょっとする。
「何で……じゃあ今までの話は、」
「陛下がいらっしゃる前に、犯した罪を自覚してもらう為に決まっているでしょう。特にあなたは誰彼構わず噛みつく野良犬ですもの。牙はもいでおかなければ」
万が一にも陛下に噛みつかぬように、と睨めつけると、イザベル嬢の顔から血の気が引いた。救いを求めるように隣を向くけれど、項垂れた殿下は気づかない。
カサンドラ家は国の盾、王の剣。正しき治世を敷く王家を害するすべてから国を守る盾、掲げた理想を忘れ、誇りを失い堕落した王の首を斬り飛ばす剣。故に、猟犬。王家が自らの首筋に突きつけた刃が、カサンドラ家なのだ。
腐敗を嗅ぎ分ける嗅覚を、澱みを見極める視覚を、堕落を聞きつける聴覚を、翳りを感じ取る触覚を、罪を噛み砕く牙を研ぎ澄ます。たとえ愛した殿方が相手でも、わたくしの牙が鈍ることはない。
「殿下、お終いですわ」
「あぁ、そうだね……」
なんて虚しい幕引きでしょう。イザベル嬢が殿下に接近した頃から始まったこの戦闘は、誰一人幸せになれないまま終わる。最後に立っていたわたくしは、独りぼっちの伽藍の勝者。わが家の歴史においてもおそらく、最もくだらない戦闘になったことでしょう。
「じゃあ、私は何の為に……」
呆然と呟かれるイザベル嬢の言葉に応える者はいない。
「私が、王妃に……何で……守って、だって……」
愛を免罪符に、何を得ようとしていたのか。
わかっていたことだ。彼女が求めたのは殿下の愛じゃない。でなければ、わたくしを追い落とそうとする必要はなかった。妾妃として後宮に入り立場はわたくしより下になろうとも、殿下の愛を得ることはできたはずだ。場合によっては独占できる可能性も、ないと言い切ることは誰にもできない。一度は傾けた心なのだから、繋ぎ留めることだってできたかもしれない。
「あなた、そんなに王妃になりたかったの?」
返事はなかったけれど、顔を上げこちらを睨め据える双眸には殺意すら感じられた。
あぁ、本当なんだ。本気で王妃の席が欲しかっただけなんだ、この娘は。
「……王妃になれば、誰よりも優先して守ってもらえるの」
わたくしへ向ける憎しみ以外の何かを滲ませて、イザベル嬢が言葉を吐き出す。
「一番でなかったが為にお母さまは死んだのよ。王妃の座を狙って何が悪いの?」
ぽたりと落ちた涙を隠すように、イザベル嬢は両手で顔を覆った。
「王家が何よ、愛が何よ。一番でないから薬を分けてもらえなかった。あんなにお願いしたのに……。あなたはいいわよ、次期王妃だもの。真っ先に助けてもらえるものね」
顔を覆う手の、指の隙間を縫って涙が滴った。濡れた声を誤魔化す為か、言葉には次第に棘が増していく。
「わからないわよ! ぬくぬく守られてきたあなたに、わかるはずないのよ!」
「わたくしのお母さまも、あなたのお母さまと同じ病で亡くなったのよ」
「っ、……!」
何の話かなんて、考えるまでもない。彼女が母親の死を語るならそれは、二年前に猛威を振るった伝染病の話でもあるでしょう。
冷たい冬の風に乗って襲いかかってきた病は、雪と共に死の灰を降らせた。抗う暇も、ましてや逃げる術など、この国の誰も持っていなかった。