01
「殿下、私の金で吐くほど酒が飲みたくありませんか?」
たった今、その辺で何人かぶっ殺してきた、とでも言わんばかりの形相でやってきたメレディスは、執務室の扉を開けるなりそう問いかけた。ノックくらいしろ。
……真っ昼間から何を言い出すのかと思えば。まったく侮られたものだ。タダ酒で殺人に目を瞑ることも、酔いで殺人を見逃すこともないぞ、俺は。そんな愚は犯さない。きっちり縛り上げて、なんなら余罪も山盛りにしてやる。不敬罪とか、不敬罪とか不敬罪とか。
呆れた奴だ、と溜め息を一つ吐き出して、
「金なら俺も出す。吐いても飲むぞ」
戸棚の奥から手持ちの中で最も値の張る酒を一本、執務机の上へ叩き出した。
◇
レーヴェ帰省の知らせが入ったのは今朝のことだった。
他国へ嫁いだ姫がそう頻繁に帰省するものじゃない。ただでさえ北方は第二王子が立太子を済ませたばかり。
言って聞くような姪でないことは重々承知で、しかし言わずにはおれず眉をひそめた。その姪が、アイリーンを巻き込んで良からぬ催しをするというのだから余計に。何だ、夫の悪口大会って。人の妻を巻き込んでまでやることか。己の夫への不満くらい己で消化しろ。
ヴィートラ卿もヴィートラ卿だ。きついのを一発、レーヴェの頬に叩き込んでやればいい。どうせあの我儘娘が癇癪を起こして駄々をこねているだけなのだから。ヴィートラ卿はレーヴェに甘過ぎる。甘やかすな。調子に乗るから。
不満を爆発させる俺など視界にも入れず、レーヴェはアイリーンどころか、義姉上とメレディスの奥方まで巻き込んだという。ろくでもない姪だ。
「私の妻まで連れて行かなくてもよろしいでしょうに……」
「……誘ったのはアイリーンらしいな」
「兄をいじめたって楽しくないだろうに」
楽しいが?
ひょっこり本心が顔を出しかけたが、すんでのところで呑み込むことに成功した。酒を飲むんだ。ただでさえ嫌いな相手と愉快でない理由で飲むのに、面倒は減らしたい。
「どうせなら夫を褒め称える大会を催していただきたいものです」
「何だ、お前。褒められたいのか」
「ひどい夫だと言われるより、ここが好きだと語られたいでしょう?」
「そんなことは俺の前で言え」
執務室の中央、テーブルを挟んで向い合せのソファーにそれぞれ腰を落ち着ける。ありったけかき集めた酒は値段も種類もさまざまあるが、飲めれば何でもいいでの気にしない。
手あたり次第にグラスを満たし、適当に数杯を干す。
「アイリーンが殿下のどこを好きでおそばにいるのか、いつか聞き出しますよ」
「やめておけ。嫌いなところを見つけるほうが難しい、と言われて大泣きすることになるだけだ」
「……自惚れもここまでくると清々しいですね。どこから来るんです、その自信」
「アイリーンを見ていればわかるだろ?」
「アイリーンしか見ていないのでわからないですね」
……うん、楽しくない。
せっかく酒を飲んでいるのに、なぜこんなにも愉快でないのか。安い酒では舌が腐るのではないだろうか。メレディスも同じ気持ちなのだろう。二人して高い酒に手を伸ばす。
「悪口大会に参加するくらいです。アイリーンだってきっと殿下への不満をこれでもかと抱えていますよ。あの子もそろそろ、殿下の中身が泥水だと気づいていい頃です」
「今更、そんなことで俺への愛が揺らぐものか。俺のことよりも、最初から評価の低いお前のほうが問題だろう」
父親から妹バカを隠し通せと忠告される男の妻を務めるなど、カサンドラ夫人はこの国でも類を見ない苦労を背負ったものだ。このバカのどこを好きでそばにいるのだろう。今夜にでもアイリーンに聞いてみよう。仲が良いので知っているかもしれない。
「私の場合は責任の大半を宰相に押しつけられるので救いがあります」
「……」
「リリーが私に不満を抱いているとすれば、帰りが遅い、の一点に尽きるでしょうから」
お前もなかなかの自信家だぞ、とは言わないでおく。
平然と言っているが、仕事にかまける夫、というのは妻にとって最悪と言っていいのではないだろうか。北にいた頃、同僚から腐るほどそんな話を聞かされた。
仕事と私、どっちが大事なの。
どうしてか妻とは同じ疑問にぶち当たるようで、似たような言い回しで胸倉を掴まれた男が同調しながら泣いていた。正解を導き出せたやつがいなかったので、俺は答えを知らない。そんな質問をさせること自体が問題だろうとは思うが、俺にそれを言う資格はないだろう。
俺であれば、王族の権力を振り翳すなり、暴力に物を言わせるなり、アイリーンを優先して仕事を後回しにできる。もちろん仕事の内容にもよるが、一日やそこら放って置いただけで取り返しがつかなくなる仕事など俺にはない。俺はまだ王ではないから、ない。
「これまで結婚の『け』の字もなかった子犬が、急に親離れして寂しいんだろうよ」
最近の宰相は、メレディスの帰宅を遅らせたいのか目一杯に仕事を振っていると聞く。新婚なのだから早く帰してやれ、と言ってやりたくても、言われるとわかっているのかなかなか俺のところに来ない。狸め。
メレディスはともかく、メレディスの奥方は堪ったものではないだろう。
「私はカサンドラなので、今は宰相より妻です。寂しさなどご自分で何とかしてください」
「宰相に言え」
「言いましたとも」
それが原因で拗れているのではないだろうか。やはり、この男はバカだ。
「さっさと仕事を終わらせればいい、と言われても、終わらせる端から追加されるのでは帰りようがないんですよ」
「帰ればいいじゃねえか。逃げ足の速さがお前の取り柄だろう」
「……それはそう、なんですが」
仕事となるとつい、いやでも……ごにょごにょ。
次期宰相候補はすっかり仕事にとり憑かれているようで、積まれた仕事を翌日に持ち越すのがどうにも気持ち悪いらしい。アホか。アホだ。
宰相は宰相で、妻と離れて仕事に没頭する日々に浸り過ぎた。こまめに休暇をとっては会いに行っているそうだが、新婚時代などという遠い記憶はもう薄れてしまったのだろう。妻への気遣いがすこーんと抜け落ちてしまっている。
「宰相を負かすのが先か、奥方に愛想を尽かされるのが先か。結果は報告してくれ」
「手伝っていただきたいんですがね、殿下」
「俺が? なぜ?」
お前の幸福には一切の興味がない。
はっきりと顔に書く。
途端に憤怒で真っ赤になったメレディスが、ワインのボトルをそのまま呷る。この野郎、そりゃ俺が持ってきたものだぞ。
「私がリリーに捨てられたら、義姉ができたと喜んでいるアイリーンが悲しむでしょう!」
「……」
アイリーンの名を出すな。俺の明確な弱点だぞ。
「あの子は原因究明に全力を尽くし、この場で私の救援要請を拒絶した殿下のことも見逃しませんよ。そうなったら、私と一緒にアイリーンに膝詰めで説教です」
今のを救援要請というのはあまりに図々しいだろう。
「怒り狂ったアイリーンがどんな罰を思いつくか知れませんよ」
メレディスは是が非でも俺に手伝わせたいのか、吐く言葉ひとつ一つで脅迫してくる。こいつの脅迫に屈するのは非常に腹立たしいが、言っていることは間違っていない。アイリーンがどんな罰を思いつくか。考えるだけでも背筋が凍りそうだ。
「殿下! アイリーンが――」
「わかった! 宰相のことは俺がぶん殴ってやるから、アイリーンで俺を脅すな」
「さすがは私の妹だ。くそったれ王太子もあっさり膝を屈する」
こいつのことも殴ろう。本人を前に『くそったれ』とは何事だ。
「その自慢の妹は、俺の妻でもあるんだが?」
「殿下が何をおっしゃっているのか、私には理解できかねます」
「よし、休暇をやるから奥方と旅行にでも行ってこい」
そしてしばらく帰って来るな。
「ぐっ……。断りにくいのでやめてください。え? 本当に休暇をくださるんですか?」
「やるわけねえだろ」
「本っっ当に泥水野郎ですね!」
何とでも言え。アイリーンに好かれている俺は、俺のすべてを肯定している。お前の悪口が刺さることはない。
テーブルに額を打ちつけて歯軋りするメレディスを尻目に、俺は勝利の美酒を堪能した。




