06
一通り嵐を巻き起こし終えたレーヴェさまは、深々と溜め息を吐いてから、静かに口を開いた。
「もう、いいわ。夫の悪口大会はこれより、惚気大会へと内容を変更します」
異論はないわね、と鋭い視線がわたくし達を射抜く。
「まあ、素敵です! 夫婦円満の秘訣などありましたら、是非お聞かせくださいませ」
しかしリリー義姉さまの弾む声を前に、視線はあっさり逸らされた。レーヴェさま、純真無垢なリリー義姉さまの反応に連敗ね。
「それじゃ、まずはアイリーンさまからね」
「え……」
「叔父さまの甘ったるい姿なんて胸焼けするじゃない。同じ理由で、お母さまは二番手よ」
その理屈でいくと、わたくしはお兄さまの甘ったるい姿で胸焼けすることになると思うのだけれど。にっこり笑むレーヴェさまが背負うオーラがどす黒くなっているので、黙っていたほうがよろしいのでしょう。
ちょっとした悪戯のつもりでしたのに、レーヴェさまったら根にもってしまわれたらしい。
「わかりました。先鋒を務めます」
とびきり甘ったるいキースさまのお姿をお披露目してさしあげましょう。意地悪な気持ちが浮かぶわたくしへ、レーヴェさまはぐっと顔を寄せ破顔した。
「私、気になっていたのだけど、アイリーンさまは叔父さまのどこを好きになったの?」
「え……?」
「あんな柄も口も悪くて意地悪なおじさんのどこが、アイリーンさまを魅了したのか、興味があるわ」
レーヴェさまったら、キースさまへの八つ当たりに遠慮がない。
「私も気になります」
「私も」
熱い視線に囲まれる。これは吐くまで逃がしてもらえない。であれば、吐くしかない。
「ひ、一目惚れですわ」
正しくはないけれど、嘘ではない。お兄さまへもこう言った。
顔に熱が集中して、堪らずうつむく。キースさま本人へは一度も伝えたことがないのに、周囲の方々にはどんどん広まってしまう。いつか耳に入って、問い質されたらどうしましょう。ちゃんとお返事できるかしら。
「まあ、猟犬も叔父さまの顔には弱いのね」
「あの子、顔はいいものね」
「アイリーンさま、可愛らしいですわ」
三者三様、というには偏った感想だった。熱が増し、両手で顔を隠す。
わたくしの初心さを好意的に受け取ってくれたお義姉さまはともかく、お二人はキースさまの顔面がきっかけだと疑いもしてくださらない。それとも一目惚れってそういうものなのでしょうか。
「……」
一目惚れ。我ながら薄ら寒い可愛い子ぶりだ。
わたくしは猟犬。犬は己より格上の相手には逆らわない。
あの日、謁見の間で初めて対面したキースさまに、わたくしの猟犬としての本能は屈した。この方こそ王なのだ、と。跪き、首を垂れる。それこそ真なる喜びだと錯覚するような、強烈な感覚。
一目惚れ。
口ではそう言ったけれど、あれはそんな可愛らしいものではなかった。支配される喜びを知った、獣の本能。
けれど恥ずかしいから、これは誰にも内緒だ。
「顔の良い男は得ね」
「王家の血かしら。陛下も負けていませんよ」
「血なら私もそうよね。美人に産んでくれてありがとう、お母さま」
「どういたしまして」
和やかなやり取りを交わすお二人に、赤く熟れたわたくしの頬をにこやかに指でつつくお義姉さま。……とっても恥ずかしいわ。
「叔父さまが、俺の妻は俺のどんな顔でも好き、って豪語していたけど、あながち間違いじゃなかったのね」
キースさまったらいつの間にそんなお話をなさったの!?
否定はしないけれど、武器だと認識して振り回されては堪らない。キースさまに関しては最近、弱点が増える一方で本当に困っているのに。それはもう、意地悪めいた悪口でないと見つけられないくらい。
「レーヴェさま」
「なぁに、アイリーンさま」
「……お顔だけじゃありませんのよ」
茹った頭でとりあえず、これだけは主張しておこう、と言葉を吐いた。
――しばしの沈黙。
「あははははは! アイリーンさまったら本当に可愛らしいわ!」
「ふふふ、安心なさい。知っていますよ」
「もちろんですよ、アイリーンさま」
「~~~~っっ!?」
間違えた。わたくしはきっと間違えた。主張すべきはそこではなかった。何が『これだけは』なのでしょう。
わたくしの夫は顔だけでなく内面も素敵ですのよ。
わざわざ主張してしまうなんて、とんだ惚気もあったものである。恥ずかしい。
違います。今のは違うんです。ちょっと頭が沸騰していて、思考が煮えてしまっただけなんです。
つらつらと言い訳を並べ立てようと燃える思考に水をかけるけれど、喉まで焼けてしまって言葉は出てこなかった。
違うんです、違うんです。ぼそぼそと言葉にならない声を喉の奥から絞り出し、わたくしは両手で覆った顔をうつむけ上げられずにいる。
可愛いねえ、と和やかな微笑みに囲まれて、熱は増す一方だ。どなたかの手が優しく頭を撫でてくださるけれど、どなたの手であるのか確認することもできない。恥ずかしい、恥ずかしい。忘れてください、違うんです。
どれだけそうしていたか。サロンの空気はすっかり、わたくしを温かい目で見守るものになってしまって。どう塗り替えればいいのか見当もつかない。
――不意に、サロンの外が騒がしくなる。誰かが開けようとしているのか、ガチャガチャと扉が揺れ――破裂音がした。
「アイリーン!」
耳をつんざく大声に、思わずお尻が椅子から浮いてしまった。
「き、キースさま……!?」
声は大きいけれど怒気は含まれておらず、しかし表情はとても険しい。何かあったのでしょうか。
「キース! いきなり何ですかノックもせずに!」
「叔父さま! お茶会の間くらい私達にアイリーンさまを譲ってちょうだい!」
厳しい叱責の声が二つ飛ぶけれど、キースさまは構わず踏み込んだ。
わずかだけれど顔が赤らんでいる。お酒を召し上がったのかしら。けれどこの時間、キースさまはお兄さまの嫌がらせを受けながらお仕事をなさっているはず。
どうなさったのでしょう。首を傾げている間に、キースさまはわたくしのすぐそばまで歩を進めていらした。
「アイリーン」
「はい、キースさま」
目が据わっている。
「説明を要求する。来い」
言うなり問答無用で抱き上げられ、キースさまはすぐさま方向転換した。
レーヴェさまや王妃さまの険しい声が飛ぶけれどキースさまは歯牙にもかけず、疑問符で頭が埋まったわたくしは声も出せず。振り返った視線の先で、リリー義姉さまだけがにこやかに手を振っていた。
キースさまは立ち止まることなくサロンを出て、まっすぐどこかへ突き進む。
「……誘拐されてしまいましたわ」
ようやく喉が溶けたわたくしの声を聞いて、キースさまは途端に渋面になった。
「人聞きが悪いな」
「事実ですわ。せっかく楽しくおしゃべりしていましたのに」
ひどい旦那さま、と頬を膨らませて見せる。キースさまは一瞥しただけで、歩みを止めてもくださらない。
「酔っ払いとは総じて理不尽なものだ。諦めろ」
「お仕事の最中にお酒を召し上がったの? いけない旦那さまですこと」
「ほとんどメレディスの嫌がらせだった。……ひどいだのいけないだのと、いちいち落とすな。拗ねるぞ」
わたくしが悪いのでしょうか。
「それより、あなたには説明してもらわねばならんことがある」
「何でしょう?」
そういえば連れ去る際にもおっしゃっていた。
「メレディスが言っていた。一目惚れだそうだな。顔がいい男は得だと、散々に笑われたぞ」
「……」
お兄さまのバカ!
どうしてバラしてしまったの!
最重要機密でしたのに!
バカ、バカ、と頭の中でお兄さまの舌を引っこ抜く。
「どうして顔だけじゃないと言っておかない?」
どうして顔だけじゃないことが確定しているのでしょう。確かに顔だけではないのですけれど、それにしたって何たる自信でしょう。どこからくるのかしら。
「お兄さま相手に詳細など語りません」
「語っておけ。どうせ俺のことは余さず好きだろう? 俺への愛で、あのバカを溺死させてやれ」
「キースさまったら……」
なんてことをおっしゃるのでしょう。
「ちなみにメレディスは今、俺の語ったあなたへの愛で窒息寸前だ」
「なんてことを……!」
お兄さまったら、生還できるかしら。……お迎えはリリー義姉さまにお願いしましょう。妻への愛でなんとか回復してほしいわ。まあ、お兄さまはカサンドラの男ですし、妻への愛があれば死地からだって無傷で帰ってこられるでしょう。
「まったく、俺の妻は意地が悪いな」
「わたくしの旦那さまはご機嫌が悪いですわ」
意地悪したのはお兄さまであるのに、これは八つ当たりだと思う。でも余計に機嫌を損ねそうで、言わないでおく。
「アイリーン、機嫌をとってくれ」
「……」
見上げたキースさまの表情は、正しく悪戯っ子のそれだった。落ちた機嫌を拾わせるにしても、せめて持ち上がった口角をどうにかしてからおっしゃっていただきたい。
ちょっと考えてから、意地悪を言ってみる。
「わたくしがおそばにいれば、それだけでご機嫌でございましょう?」
「ふむ……。俺は欲張りなんだ」
あっという間に返された。
「お昼寝でもなさって気分を変えてはいかがでしょう? 膝でよろしければ、枕を務めます」
キースさまが立ち止まる。目指していたのは寝所であったようで、それならば、と昼寝を提案してみる。どうせサロンへ戻るのは無理でしょうし、だったらキースさまのご機嫌が上向くまで読書でもして過ごしましょう。
「昼寝か。悪くない」
「それはよろしゅうございました」
何を読もう。早くも読書へ意識を向けるわたくしへ、ムッとしたキースさまの視線が刺さる。
「悪くないが、足らんな」
「はい……?」
「膝と言わず、抱き枕になってくれていいぞ」
「なっ……!?」
カァッと顔が熱くなる。
ただの添い寝であった抱き枕の意味が、それだけで済まなくなったのは最近のことだ。
「まだ昼ですのに!」
「昼寝とは昼にするものだろう?」
何を言っているんだ、と言わんばかりの白々しい表情に、わたくしはますます赤くなる。
「意地が悪いのはキースさまのほうです!」
「俺の妻は機嫌が悪いな」
はいはい、わかったわかった、そうだな、よしよし。
何一つまったく真剣に受け止めないまま、流水のようにわたくしの言葉を払い流し、キースさまはさっさと寝所へわたくしを運び込んだ。
「キースさま!」
「はいはい、可愛い可愛い」
レーヴェさま、今ならわたくし、いくらだって夫の悪口を吐けますわ。ですからどうか、どうか助けてください。
助けて。わたくしの願いはもちろん、どこにも届くことはなく。
すっかりご機嫌を取り戻したキースさまの鼻にはしばらく、痛々しい噛み痕が刻まれることとなった。




