04
閑話休題。
レーヴェさまのお顔から色が抜けるまで、わたくし達はのんびりお茶とお菓子を愉しむことになった。おしゃべりに花を咲かせたあとのお菓子は美味しくて、気分も盛り上がっていたわたくし達はお互いに控えるよう忠告することもせず、思うまま食べてしまった。
……これは本当に、庭を駆け回ることになるかもしれない。
食べ過ぎた。誰ともなく冷静になり青褪めるけれど、後悔するにはあまりに遅くて。サロンの空気がどんよりと重くなった頃、レーヴェさまが復活した。
「カサンドラ夫人は? 何か、夫に対して抱えている不満はないの?」
レーヴェさまったら、助走なしで走り出してしまわれると、周囲がびっくりしてしまうわ。
案の定、急に矛先を向けられ、リリー義姉さまがぎょっとする。そしてどうしてか、わたくしのほうへ顔を向けた。……確かにわたくしも『カサンドラ』だけれど、『カサンドラ夫人』ではないので困ってしまう。
「お義姉さま、何でもよろしいのですよ。わたくしのことでしたら気になさらないで。お兄さまの情けない姿には慣れてますの」
やんわりと、……やっぱり少しだけ力を込めて、ドレスの裾を引っ張るお義姉さまの手を押し返す。先程までの握り込みで随分とよれてしまった。これ以上はレースが千切れてしまう。
「さあ、お義姉さま」
わたくしが促すのと、レースが千切れるのは、ほとんど同時だった。
「……お義姉さま」
「……はい、ごめんなさい」
千切れたレースを受け取り、うつむいてしまったお義姉さまの背を撫で、改めて促す。
「ええっと……不満ですよね、メレディスさまへの……不満」
途端、リリー義姉さまは吹雪を背負った。ずっしりと肩を落とす。
「私達もう終わりです」
思いがけない言葉に、全員がぎょっとする。
まだまだ新婚であるのに、一体、何があったのでしょう。
「今こそ反旗を翻すときなのです」
王位を簒奪せんと画策する反逆者のごとき毒々しい声音はしかし、夫への怒りばかりが塗りたくられている。
「お願いでございます。協力してください」
「お義姉さま、落ち着いてくださいませ」
「これが落ち着いていられましょうか!」
……どうして落ち着いていられないのでしょう。
「お義姉さま、お兄さまの何がそんなにもお義姉さまを悲しませるのでしょう?」
まだ妹離れを頑張っている最中のお兄さまは完璧とは言い難いけれど、じわじわとお義姉さまの優先順位がわたくしを追い越しつつある。最近は、わたくしのおねだりにも首を横に振る回数が増えてきた。
わたくしに言わせれば遅すぎる進捗だけれど、お父さまの意見では頑張っているほうなのだそう。
『妹愛をこじらせすぎて、こびりついてしまったメレディスにしてはよくやっている』
つい先日も、情けないと嘆いてはいたものの、完全に否定はしなかった。頑張っているのだ、お兄さまだって。やればできる人だもの。ただちょっと、時間が必要なだけ。
「わたくしにお手伝いできることはありまして?」
王妃さまとレーヴェさまも、力強く頷いてくださった。
お兄さまのへし折り方なら心得ている。新婚でありながら早くも妻を不安にさせるような不甲斐ないお兄さまですもの。ちょっときつめに折ってさしあげますわ。
お父さまにお説教してもらうのはどうでしょう。それともキースさまに煽っていただいたほうが効果的かしら。宰相さまに妻の扱い方をご教授いただくという手もあるわ。
どうしようこうしようこれもいい、と思案するわたくしへ、リリー義姉さまの鋭い視線が突き刺さった。
「アイリーンさま、どうか」
ぐわっし、と両の手を包まれた。
「どうか私の為に、メレディスさまをへし折ってください!」
「……はい?」
素っ頓狂な声をあげたのは、レーヴェさまか王妃さまか。感極まってしまったわたくしには判別する余裕がない。
お兄さまをへし折る。
声に出したつもりはないけれど、家族になったことで通じるものがあったのかしら。お義姉さまがカサンドラ家の思考に馴染んでくれたようで、とっても嬉しいわ。
「アイリーンさまが恋敵でないことは理解いたしました。けれど、どうやらわたくしの恋敵はそれだけに留まらないようです」
わたくしが恋敵などという話を、まだ引きずっているとは思わなかった。理解は得られたようだけれど、結婚式を挙げてようやくというのが悲しい。お兄さまったら、情けない。やはり努力の問題ではなく、早々に妹離れしてもらわなくては。
「レーヴェ殿下のお話のあとで、同じ話をすることをどうかお許しください」
何がお義姉さまをこんなにも絶望させるのか。理解したわたくし達は、揃って項垂れる。夫婦の敵はいつだって、力や愛嬌でどうこうできない。天秤にはかけられない。
「仕事、そう……仕事です」
リリー義姉さまの双眸から光が消えた。
「宮廷にお勤めの夫ですもの。多少の多忙は承知の上。それでも、まさか連日の帰宅が深夜になるなんて……。宰相部はどうなっているのですか?」
~~っっ宰相さまったら!
わたくしは心の中で悲鳴をあげた。
仕事の量が多いのは、お兄さまへの期待の表れ。仕事を隙間なく詰め込むのは、お兄さまへの信頼の証。とはいえ相手は新婚。少しは加減していただかなくて困る!
王妃さまはよほど衝撃だったのでしょう。両手で顔を覆ってしまわれた。ごめんなさい、と誰にともなく謝罪されている。レーヴェさまには身近な悩みである故か、こめかみに走る青筋を揉み解していらっしゃる。まったくこれだから男は、と沸々と怒りの滲む声を耳が拾った。わたくしもまた、頭痛のする思いでお義姉さまの言葉を聞く。
レーヴェさまへ対策を提示できるくらいですもの。お義姉さまは既に、帰宅を待ち侘びる胸の内をお兄さまへ告げていることでしょう。それでも解決しないとなると、手強いわ。
「結婚して同じ邸に住んでいるのに、会話の機会が婚約時代より減って――」
「わかりました、お義姉さま」
言葉を遮って、わたくしのほうからお義姉さまの両手を握り直す。顔にはもちろん、にっこりと笑みを貼りつける。
「わたくしが責任をもって、お兄さまをへし折ります。とりあえず両の足ですわね。足が不能になれば、さすがの宰相さまも出廷しろとはおっしゃらないでしょう」
「え……」
声は三つ重なった。
……いえ、どうかしら。口に出してすぐ、もしかすると仕事はできるかもしれないと思い直す。腕の骨を折ったときでさえ、目と口が無事ならば問題ない、と言われて、お兄さまは仕事に駆り出されていた。むしろ自分で折っていた為に、罰として仕事が増やされたほどだ。足の骨では駄目かもしれない。
「あ、アイリーンさま……?」
急に黙り込んだわたくしを不審に思ってか、リリー義姉さまの声が陰る。
「お義姉さま、お兄さまの眼球をちょこっとだけ炙ろうかと思うのですけれど、いかが?」
「何のお話ですか!?」
怖い、と悲痛な声が鼓膜を叩いて、ハッとする。お義姉さまだけでなく、王妃さまの顔からも血の気が引いている。
「やはり目は危険ですわね。やめましょう」
「他の部位ならよろしいということではありません! アイリーンさま、何をなさるおつもりですか!?」
「お兄さまをへし折るというお話でしょう……?」
わたくし、何か聞き違いをしたかしら。
きょとん、と首を傾げるわたくしを見て、リリー義姉さまは顔を覆ってしまった。王妃さまとレーヴェさまも同じ仕草をなさっている。
「これだからカサンドラは……」
これまた三つ重なった。その内の一つには、不満を抱く。
「あら、お義姉さまもカサンドラですわ」
「……私、やっていけるか不安です」
何と言うことでしょう。お兄さまったら早くも離婚の危機を迎えてしまっているわ。何とかしなくっちゃ。
リリー義姉さまの背をさすり慰めるレーヴェさまに続くべく、わたくしは強めに声を張る。
「だ、大丈夫ですわ。わたくしがお兄さまをきちんとへし折りますから!」
「物理的に折ってほしいとお願いしたわけではありません……」
どうしましょう。大好きなお義姉さまを泣かせてしまった。
「わ、わたくし……わたくし……」
考えるのよ、アイリーン。人生経験ではリリー義姉さまに先を行かれるわたくしだけれど、妻としての経験はわたくしのほうがある。お母さまというお手本もいる。
仕事にかまけて妻を置いてけぼりにする夫への傾向と対策。噛みつく以外にもきっと、何かあるはずよ。
ぐるぐるぐるぐる……。ちっとも妙案を思いつけない自身に歯噛みしながらも思考は止めない。何か、何かあるはずよ。お兄さまとリリー義姉さまの結婚生活を支える、素敵な思い付きが。
『アイリーン、よく聞くのよ』
ふっ、と脳裏にお母さまの声が反響した。
「あ、ああ!」
思い出した。
急な声に驚いたらしいリリー義姉さまがびくりと肩を震わせて顔を上げた。
「思いつきましたわ、お義姉さま」
「アイリーンさま……?」
「円満な家庭の秘訣、わたくし、とっておきの案がありますの!」
お母さまが考案し、実際に成功した実績がある。これなら絶対に、間違いなしだわ。
「それは、暴力を行使することがありますか?」
「ございません」
「……武力は?」
「ございません」
「どなたかが怪我をするようなことは……?」
「お義姉さまは我が家を何だと思っていますの。穏便に問題を解決する術くらい、心得ていましてよ」
少なくとも、わたくし達のお母さまは得意だった。今回はそのお母さまの案を採用しようというのだから、血が流れるような事態になるはずがない。……鼻を噛む、という手段はちょっと、お母さまの過激な部分が露出してしまっただけ。今度は大丈夫。
「……どんな案かお聞かせくださいますか?」
「もちろんですわ」
どうしてか王妃さまが不安そうなお顔をされているけれど、この案には自信がある。
「服です、お義姉さま」
きょとん、と首を傾げるお三方にしっかりと頷いて見せる。
「どんなにやんちゃな殿方でも、さすがに服がなければ外には出ません。仕事を理由に家を空けている隙に、普段着から下着に至るまで、すべて隠してしまえばよろしいのですわ」
お母さまは、帰宅したお父さまが湯浴みをしている隙にそれまで着ていた服ごと替えの下着まで掻っ攫って隠したらしい。浴場から出ることもできなくなったお父さまは、大泣きしながらお母さまを呼んだという。
「アイリーンさま、本気で言ってる?」
「もちろんですわ、レーヴェさま」
一緒に過ごす時間を少しだけ長く確保したかったお母さまの、愛らしい悪戯。結果は大成功と言って過言ではなく、お父さまは一日、お母さまと二人でくつろいだという。外には出られないけれど裸ではない。最低限の服は返したという話だったので、お兄さまへの罰として昇華しても問題ない内容でしょう。
ふふん、と鼻高々に胸を張るわたくしへ、深い溜め息が三つ吐き出された。……どうしましょう。また駄目だったかもしれない。
「カサンドラ夫人、私から宰相へ話をしましょう」
「ありがとうございます、王妃さま」
和やかに手を取り合う王妃さまとリリー義姉さまに、がっくりと肩を落とす。宰相さまへお話するくらい、わたくしでもできますのに。
「アイリーンさま、義理のお姉さんができてはしゃぐ気持ちはわかるけど、落ち着きなさい」
「……はい、レーヴェさま」
「どうせカサンドラ夫人も、あなたのお母さまみたいにいずれカサンドラに染まるのだから、ゆっくり待っていればいいわ」
「……」
頷くには抵抗がある。『どうせ』とはどういう意味でしょう。
わたくしのお母さまが、まるでお父さまと結婚したことで人が変わったと言われている気がする。
カサンドラに染まる。そんなにいけないことかしら。……難しいわ。




