02
待ち合わせ、と言っていいのでしょうか。指定されたのは庭園の隅、木々が生い茂りちょっとした日陰になっている場所だった。薄暗いせいかあまり人も寄りつかない。とはいえまったくの無人というわけでもない開けた場所だ。いつ誰が通りかかるとも知れない。
聞いた時は何かの間違いではと耳を疑ったけれど、木々の隙間に隠れるように建つ東屋の中で佇んでいるのは間違いなく殿下である。
大事な話をするのであれば場所は当然、王宮内の一室だとばかり思っていたのに。よりにもよって外、それもガーデンパーティの只中に。
「アイリーン、よく来てくれたね」
カーテシーをとろうとわたくしが視線を下げたのと、殿下がこちらへ手を伸ばしたのは同時だった。
「、お待たせいたしました、殿下」
硬直しかけた体を叱責して、素知らぬ顔でカーテシーをとる。……こんな、ただの挨拶の場面でさえすれ違う。この十年、幾度も交わしたやりとりだというのに噛み合わない。取り繕うことばかり上達して、ぎこちなさは一向に改善されないままだ。
殿下の中途半端な高さで静止した腕が下がるのを待って、姿勢を戻す。
「き、今日は楽しんでいるかい? アイリーンは薔薇が好きだろう?」
……その話題の振り方はあまりに強引でしょう。そして残酷だ。ガーデンパーティは四度目で、わたくしはそのすべてに参加している。前回までは殿下の隣で、一緒に薔薇を愛でたのだ。その頃にはとうにわたくし達の間にある溝は深まっていたけれど、それでも、殿下と過ごした時間を超えるほどの今日を過ごせているはずがない。今日わたくしの隣にいたのはお兄さまで、殿下とはさっきまで目も合わなかったのだから。
「殿下と過ごす時間ほどではありませんが、薔薇は変わらず美しいですわ」
「そ、そうか……」
ほら、ご自分の言葉が刺さるばかりで、話題もこれ以上は膨らまない。ぎこちない空気が重々しく横たわる。
殿下はしばらくの間、言葉を探すように視線を迷わせていた。けれど諦めてしまわれたのか、あるいは覚悟をお決めになったのか、
「アイリーン、大事な話があるんだ」
顔を上げてまっすぐわたくしの目を見据えた。今日、初めて交差した視線だった。
「殿下、ここでは人の目がございます。お話でしたらどこか――」
最後まで言えなかった。否。言わせてもらえなかった、というほうがこの場合は正しいでしょう。
東屋の中へ立ち入る人間がいた。小柄な……女性だった。表情こそ申し訳なさそうに眉尻を下げているけれど、その足取りに迷いはない。彼女は当然のように殿下の隣に並んだ。
「アイリーン、紹介するよ。彼女はイザベル。ポスカ伯爵家のご令嬢だ」
知っている。彼女のことは知っている。後宮で行儀見習いをしている娘だ。
殿下と同じ金の髪はふわふわと柔らかく、わたくしのまっすぐな黒髪とは大違い。愛嬌があり、可愛らしい顔立ちはどこか小動物を思わせる。笑みの一つでも浮かべれば、さぞや殿方の心をくすぐることでしょう。
後宮ではもっぱら人脈作りに精を出しているようで、その手腕は見事と言わざるを得ない。近衛騎士団から宮廷楽団、果ては殿下の側近まで、殿方に的を絞って振るわれる社交術は、王妃さまをして口が閉じられないほど。同性からの評判はもちろん、同僚からの評判も芳しくないけれど、その野心には素直に感心する。
そんなイザベル嬢がいよいよ殿下にまで粉をかけ始めた、という噂は、既に社交界ではトレンドになっている。なにせ女は内緒話の時に限って戸を閉め忘れる生き物だ。ここだけの話がここだけで済んだためしがない。
粉をかけ始めたどころか、すっかり骨を抜き取ってしまったあとのようだけれど。
「あ、アイリーン……、実は……彼女を愛しているんだ」
何が『実は』なのでしょう。大事な話があると婚約者を呼び出して、話を切り出す前に他の女を場に加えたのならそれはもう、裏切りの告白以外の何物でもない。わざわざ言葉にしていただく必要性は皆無だ。なんなら気分が悪いので黙ったままでいて欲しかったくらいである。
すまない、と殿下は目を伏せた。つまり殿下には自覚があるのだ。婚約者を放っておいて別の女性と懇ろになったという自覚が、それをわたくしに秘匿したことへの罪悪感が。
後宮はより確実な血の継承の為にあるのであって、男の不誠実を容認するものではない。継承権も正妃が男子を授からない、あるいは子を生せない場合に初めて与えられるものである。
それでも殿下の幸福の為なら、と覚悟を決めたわたくしに、これはあんまりな対応でしょう。
後宮に迎え入れたい、とそれだけ伝えていただければ、わたくしは、そうですか、と応じてすぐさまお兄さまの元へ戻るというのに。わざわざ愛していることを言葉にされるなんて思わなかった。
――あぁ、なんてこと……。
理性ばかりが冴えわたる。遅れてきた感情はそれなりの衝撃を伴ってわたくしに襲いかかり、体の自由を奪ってしまったというのに。
殿下の心変わり。猟犬の娘が捨てられる、と我が家を快く思わない貴族達の嗤い声が聞こえるようだ。
返事をしないわたくしをどう思ったのか、殿下は沈痛な面持ちでさらに言葉を重ねようと口を開いた。
「アイリーン、聞いてくれ。頼む、説明するから」
聞いている。今のわたくしにできることといえば、殿下の言葉を聞くこととあとはせいぜい思考することだけだ。驚愕とはここまで人から自由を奪えてしまうのか。
「君の気持ちはわかる。私は君を裏切ったのだから怒って当然だ」
ぴくり、と片眉が跳ね上がった。
……わかられて堪るか。十年だ。婚約が決まってから十年。殿下の為に捧げた十年だったというのに。お兄さまの教育と並行して王妃教育にも励む日々は目が回るようだったけれど、殿下が導く国の為、何より殿下の支えとなる為と思えば苦ではなかった。
殿下が成人を迎え次第すぐにでも婚姻を、と陛下には常々せっつかれていたのだ。やっと陛下に安心していただけると思っていたのに、殿下はわたくし以外の女を愛していると言う。
わかる、などと。軽々しい。
これまでわたくしがどんな思いで社交の場に出席していたか。殿下とて男ですもの火遊びくらいなさいますわ、なんて涼しい顔で口にする為に、どれだけ心を割いたことか。今日だってそうだ。大事な話があるという連絡は手紙で済ませ、時間と場所の連絡すら侍女任せ。時間までは目も合わせず放っておかれた。エスコートすら断られ、わたくしはお兄さまと入場したのだ。心配して声をかけてくださった陛下と王妃さまにご説明申し上げるのに、一体どれだけ苦心したことか。
そんなわたくしの気持ちを、わかる、と言うのならあんまりな仕打ちでしょう。いよいよ結婚という段になっての薄情な対応。十年という婚約期間で育んだすべてを疑いたくなるような態度。わたくしがどれだけ恥ずかしくてどれだけ悲しかったか。わかっていながらの仕打ちだというのなら、きっと殿下に人の心はないのでしょう。
それに、勘違いしないでいただきたい。わたくしは断じて、怒っているのではない。
「アイリーン、」
名を呼ばれても、わたくしは返事をしない。
沈黙が、周囲の気配を浮き彫りにする。密やかに囁かれる声は淑女の噂話特有の気配が滲んでいる。絡みつくような視線もあちこちから感じる。やはり人の目は誤魔化せない。潮時だ。一刻も早くこの場を治め、人目のない場所へ移動しなくては。
対峙する王太子と婚約者。王太子の隣には噂の女性。誰が見たって同じ感想を抱くでしょう、わかりやすい構図だ。
王太子の心変わり。捨てられる悲劇のヒロインは、わたくしだ。
「申し訳ありません、アイリーンさま」
いつまでも返事をしないわたくしに焦れたのか、殿下の隣に突っ立っていた娘が口を開いた。浅く頭を下げた動きに合わせ、胸元のブローチが碧く光る。
反射的に射抜くような視線を向けてしまったけれど、下を向いている為に交差しなかった。しかし、そちらには見えなくとも、わたくしには見えたこともある。口元だ。わずかだけれど確かに持ち上がった口端が、はっきりと見えた。すぐに引っ込めたようだけれど、遅い。
相手との身長差にはもっと気を遣わなくては、その角度では表情を隠しきれていない。的外れな指摘が浮かぶ。
脳が焼き切れるほどの熱が炎のように燃え上がる。これは怒りだ。この娘には、明確な怒りを覚えた。
「殿下は、」
ようやく出た声は冷え切っていた。
「こちらのご令嬢を妾妃に迎えるとおっしゃるのですね」
「不実だと、私を責めてくれて構わない。だがわかってくれ、愛してしまったんだ」
構わない、という言葉が突き刺さる。急がなければという焦燥など吹き飛び、奪われていた自由が瞬く間に戻ってきた。
今、構わないと言ったかこの男。
おおよそ殿下に向けていい言葉ではなかったけれど、胸中だけなので不問とする。
不実を責めるのはわたくしに与えられる当然の権利、そして殿下にはわたくしの責めを受ける義務があるはずだ。それを、言うに事欠いて構わないだと?
「アイリーンさま、殿下は悪くないのです! 私がいけないのです。殿下はお優しいだけで……だからどうか、」
何を言っているのでしょう、この娘は。
今度は視線が交わった。イザベル嬢がひぃっと喉を鳴らし、殿下に縋るように下がった。
お前が悪いことなど百も承知だ。十年来の婚約者がいる、それもこの国の王太子に粉をかけたのだ。無実で済ませるはずがない。わかりきったことを聞かされ、わたくしは本気でかちーんときた。もはや目に宿る殺意を隠す余裕もない。
それにしても、お優しい、とは笑わせる。真にお優しい方であったなら、今、わたくしはこんな思いをしていない。それともわたくしには、殿下が優しさを向けるだけの価値もないとでも言うのか。
「あ、アイリーン……?」
殿下がわたくしの様子がおかしいことに気づいた。無意識でしょう、庇うようにイザベル嬢の肩を抱く。それがわたくしの感情を逆撫でるとは、思い至ってくれない。
――あぁ、そうか。
この胸を焼く感情は、怒りというにはあまりにどす黒い。
殿下の言葉がようやく追いついた。愛している、君を裏切った、愛してしまった。重ねる言葉は言い訳にもなっていなくて、説明というにはあまりに薄っぺらい。
「殿下は、わたくしではなくイザベル嬢を王太子妃に迎えるおつもりなのですね」
婚約を解消したい。つまりはそれを告げる為の今なのだ。大事な話とは、妾妃を迎え入れたいという提案ではなく、婚約解消という宣言だったのだ。
わたくしはなんて、なんて愚かなのでしょう。お兄さまはここまでわかっていたのでしょうか。だから急務と、そう言ったのでしょうか。何にせよ、わたくしの愚かさは覆らない。
「すまない、アイリーン」
目が合わない。うつむいて目を逸らしてしまう殿下の表情は窺い知れない。わかるのは、わたくしの予想は正解で、殿下は本気だということだけ。
「愛しているんだ……」
――あくまでも、
「アイリーン!」
悲鳴のような声に思考が断たれた。
振り返ったわたくしに駆け寄るのはお兄さまと、心なしか焦燥していらっしゃるご様子の陛下だった。慌てて跪き礼を示す。
「そこまでだ。続きは中で。お前達は先に行け」
短く、そして厳しい陛下のお声に、わたくしの臓腑が凍りつくほどに冷える。
やってしまった。衆人環視を認知しておきながらこの醜態。責を問われれば首を差し出す他ない失態だ。
まさかあんなにも容易く理性が焼き切れてしまうなんて、わたくしったら一体どうしてしまったのでしょう。覚悟は決めていたはずなのに。
「アイリーン、行こう」
柔らかい声が降ってきた。差し出された手をとり、立ち上がる。
「……はい、お兄さま」
指先に感じるお兄さまの体温は普段と変わらず温かいのに、視線はまるで刃のように冷え切っている。恥ずかしい。失態だ。
「……申し訳ありません、お兄さま」
幼子のような声が出た。情けなさで眉が下がる。お兄さまの冷気がわずかに緩んだ。
「失態だね、アイリーン。けれど、次は大丈夫だね?」
「……、もちろんですわ。お任せください」
宰相などという地位ではなく、軍の参謀を拝命したほうが性に合っているだろう。そう言ったのはお父さまだったかしら。まったく、脳まで筋肉でできている殿方はこれだから。たった一言でわたくしの頭を冷やし、立て直しを促した。人心掌握と操作こそ、お兄さまの武器。わたくしはもう大丈夫。
さあ、反撃を始めましょう。