02
盛大に、とは言ったものの、王妃さまも参加される催しで、しかも内容が『夫の悪口大会』とあっては、めったな人を呼ぶわけにもいかない。王妃さまの夫といえば当然、相手は国王陛下である。陛下への悪口を語る王妃さまへ一体どこの誰が『オホホ、そうですわね』なんて返事をできるでしょう。
キースさまなら嬉々として高笑いされるでしょうが、それはわたくしが困ってしまう。なにせわたくしの夫だ。目の前で悪口を吐き出すなんて、心臓がいくつあっても足りない。
声をかける相手は必然的に限定され、頷いてもらう為にそれはもう何本の骨が折れたか知れない。
「り、リリー・カサンドラと申します。本日はお招きいただき、こ、……光栄です」
真っ青な顔でカーテシーをとるのは、わたくしのお義姉さま。先月、メレディスお兄さまと結婚式を挙げたばかりの、新婚である。
大会の会場に選ばれた王宮内のサロンは丁寧に掃除がされ、麗しい花々に彩られている。テーブルいっぱいに並んだお菓子は淑女のお茶会とは思えない量があり、指揮を執ったレーヴェさまの本気がうかがえる。
「あなたが猟犬を手懐けたという女性ね。会うのを楽しみにしていたのよ」
「あ、ありがとうございます」
晴れやかに笑むレーヴェさまに反して、リリー義姉さまの口元は引きつっている。緊張しているのかしら。王家主催のお茶会への参加は初めてではなかったと思うけれど、こんなに少人数の場となるとやはり勝手が違うのでしょう。
『む、無理です! 私が王妃さまと、レーヴェ殿下とのお茶会に参加だなんて、……無理ですっ!』
最初にお誘いした時は泣きながら絶叫していたリリー義姉さまだったけれど、しつこく……一生懸命おねだりしていたら折れてくれた。
『アイリーンさまってばこんなに押しが強くていらっしゃったのね。……お父さまを喧嘩で負かすほうがずっと楽だわ』
ぼそぼそと何事か呟いていた気がするけれど、きっと気のせいでしょう。アスセーナ将軍との喧嘩を引き合いに出すほどの事態だったなんて、さすがにそこまでではなかったと思いたい。
「さあさあ、挨拶はその辺にして、座ってちょうだい。始めましょう」
声を弾ませる王妃さまの体は、そわそわと落ち着きなく揺れている。
「私もう待ち遠しくって! とっても楽しみにしていたのよ」
さあさあさあ、と急かされ、いそいそと大きな円卓を四人で囲む。わたくしの左隣はリリー義姉さま、右隣は王妃さま、正面にはレーヴェさまだ。
きゃっきゃと華やぐ空気に紛れ、さりげなく義姉さまがわたくしのほうへ椅子を寄せた。……そんなに緊張しなくても、レーヴェさまは噛みついたりなさらないのに。
「さあさあさあさあ、レーヴェ!」
王妃さまは待ちきれないのか、早口でレーヴェさまを急かす。
始まるのは夫の悪口大会なのだけれど、王妃さまが開催を待ちわびるほどの何があったのでしょう。キースさまからも、陛下からも、夫婦間で問題が生じたというお話は聞かない。わたくしに言えない事情も、もちろんあるでしょうが、少なくとも昨日のティータイムにお会いしたときは、お二人とも仲睦まじいご様子だった。
首を傾げたい気持ちをぐっと呑み込む。けれどレーヴェさまへ視線を向けることは止められなかった。リリー義姉さまの視線も同じほうを向く。
レーヴェさまはわたくし達の視線を受け止め、小さく溜め息を吐き出した。
「お母さまったら、これは夫の悪口大会なのよ? ただのお茶会じゃないんだけど、わかってくれている?」
「もちろんよ、レーヴェ。母はきちんとわかっています」
ピンと背筋を伸ばした王妃さまは、わかっていますとも、と大きく頷く。
「だといいけど……」
レーヴェさまはじっとりとした視線を向けただけで、それ以上の追及はなさらなかった。それじゃあ、と力強い声音で場を仕切り直し、参加者の顔をぐるりとご覧になる。
「始めましょうか」
最初はどなた?
歌うように問いかけながら、レーヴェさまは真っ先に、真っ直ぐ腕を天へ伸ばした。
王妃さまがやれやれと溜め息を吐き出すご様子が視界の端に映る。
「私から、いいかしら?」
晴れやかな笑みとは裏腹にどす黒いオーラを纏うレーヴェさまへ、反対意見など出るわけもない。カクカクとぎこちなく首を縦に振るリリー義姉さまに倣い、わたくしも頷く。
「もちろんですわ、レーヴェさま。どうぞ存分に語ってくださいませ」
……順番はどなたからでも構わないので、そう急に開始していただきたいわ。すっかり怯えてしまったリリー義姉さまが、さっきからわたくしのドレスの裾をつまんで離さない。レース編みの部分は繊細だから、引き千切れないことを祈るばかりだ。
「お母さまも、いいかしら?」
「好きになさい。主催はあなたよ」
「それじゃ――」
すさまじい言葉の奔流だった。時に激しく、時に荒々しく。相槌を打つ暇もない。
事前に軽く聞いていたわたくしが、圧倒されて言葉を奪われるほどの熱量で、レーヴェさまは語った。
自分が今、いかに寂しい思いをしているのか。夫であるヴィートラ卿の多忙さがいかほどのものであるのか。欠かさずおやすみのキスをもらえる娘が羨ましい。何をしてもどれだけ放っておいても変わらず愛してくれるなどと、自惚れが過ぎる。いい加減にしろ。妻が実家に帰る事態は本来、もっと深刻であるべきではないのか。なぜ追って来ないのか。追って来たら離婚だと言われて、素直に帰りを待つ夫がいるのか。迎えに来い。寂しい。どうして嫌いだと言ってやれないのだろう。どうしたって好きであるから夫は調子に乗るのだ。云々かんぬんぶつぶつぶつ……。
「信じられないわ! ジュリアスのバカ!」
とどめの言葉が耳をつんざいた。
場の空気と、レーヴェさまが醸し出すどす黒い雰囲気に呑まれていたリリー義姉さまは、ようやくここがどういう場所であるのか理解したのでしょう。対敵した戦士のような、覚悟を決めた凛々しい表情に変わっている。
夫の悪口大会。高貴な淑女が集まって、上辺だけのぬるいおしゃべりを交わす、そんなお茶会であるはずがない。身内という絶対に安全な面子だけで取り交わす、真なる本音のぶつけ合い。ここはそういう戦場である。
「気持ちの問題じゃないのよ。言葉で、態度で、全霊の愛を捧げなさいよ。私の夫でしょう!?」
レーヴェさまはその理知的で凛とした佇まい故に誤解されがちだけれど、内面は燃え盛る炎のように情熱的で、そして大変な甘えん坊でいらっしゃる。王家の三姉弟ということで、育児と公務に忙殺されるご両親からの愛情を取りこぼすまいと奮闘されてきた。おねだりは声高らかに、お願いははっきり力強く主張すると徹底して過ごされてきた。結果、レーヴェさまはご両親の愛情を両手いっぱいに抱えてホクホクと成長されたのである。
長女のバーバリーさまが、抱っこやキスといった愛情よりも、勉学や教養といった愛情に貪欲だったこともあり、そちらのほうはレーヴェさまが長く独占なさっていたらしい。
弟が生まれてからは我慢を強いられる場面も増えたそうだけれど、そこは持ち前の粘り強さを遺憾なく発揮され、なんだかんだご両親の時間を確保されていたという。
たくましい。
「あなたへの愛を原動力に、ヴィートラ卿は仕事に励んでいるのでしょう?」
わたくしとお義姉さまがすっかりお返事を忘れてしまっている間に、王妃さまが窘めるような声音でおっしゃった。
「お母さまったら! 原動力のほうが枯渇しそうという話よ!」
しかしレーヴェさまの怒りは収まらない。
「仕事と私を天秤にかけろと言っているわけじゃないわ! ただ、私にもおやすみのキスをしなさいよ!」
お顔を真っ赤にして憤慨するレーヴェさまの言葉を聞いて、うっとりと感嘆の吐息を漏らしたのは、リリー義姉さまである。レーヴェさまの乙女で愛らしい部分に触れ、ときめいてしまったらしい。
「夜更かしはよくないってことくらい、私だってわかってるわよ。それでも頑張って起きてる私に、ジュリアスのやつ!」
仕事で帰りの遅くなる夫を待つ妻の気持ち。それを理解できない者はこの場にいない。
「待たなくていい、ですって。待つに決まってるじゃない。ねぇ?」
求められる同意に、全員がもちろん頷いた。一番しっかりと頷いたのは王妃さまである。妻として長く陛下を支えてこられた方だ。心当たりも多いのでしょう。
ヴィートラ卿の主なお仕事は第二王子……現在は王太子となられた殿下の護衛である。
護衛任務を負った騎士には常に危険がつき纏う。
待つな、と言うほうが無理だ。
「娘のあとに私の部屋まで来てほしいって言ってるわけでもないのに、ひどいわ」
寝室は同じなのだから苦はないはず、というのがレーヴェさまの意見。もちろん全員が同意した。寝室どころか同じベッドで眠っているというのだからなおさらだ。
起きて待っているレーヴェさまへ一言、声をかけるだけでいい。眠っているところを起こして申し訳ない、というならまだしも。起きている相手へおやすみを告げるだけでいい。ただいま、と付け加えても時間に差はない。
渋る理由がない。それでもなお、キスの一つも出し惜しむ理由……。
「ヴィートラ卿は硬派な方ですわ。キスに照れていらっしゃるのでは?」
わたくしの意見に、レーヴェさまは一も二もなく首を振った。向きは横だ。
「ジュリアスはあれでも熱烈なの」
さらりと惚気られてしまったわ。
「……さようですか」
「もう! ジュリアスのバカ!」
考えれば考えるだけ腹が立つのでしょう。レーヴェさまはカンカンに怒りを発露する。
「家出までしているのに! はっ!? 娘を置いてきたから? 娘が自分のところにいる限り、私は絶対に帰るという慢心!?」
信じがたい事実に気づいてしまった。そう言わんばかり、迫真の表情で震えていらっしゃるところに、リリー義姉さまがおっかなびっくり挙手した。
「あ、あの……ご息女はお留守番なのですよね? その、寂しがっていらっしゃらないのですか……?」
母は帰省、父は仕事。邸には幾人もの人間がいるとはいえ、両親が不在というのは幼い子どもにとって寂しいでしょう。……甘いわ、お義姉さま。
「あら、娘は全面的に私の味方よ」
『ママは、パパとの鬼ごっこに行ってきます』
『パパったや、ママをちゅかまえうのが下手ね』
『困ったパパね』
『あたちが叱ってあげゆわ』
『お願いね。愛してるわ』
『あたちも愛してゆ!』
――というようなやり取りで毎回、レーヴェさまは帰省しているのだという。さすがはご息女。お母上に似て、たくましくていらっしゃる。
それにしても、鬼ごっこという名目で実家へ戻るレーヴェさまに、追ってきたら離婚だと告げられ、しかし娘からは早く捕まえろと叱られる。ヴィートラ卿の苦労は相当なものでしょう。おやすみのキスをしないばっかりに。
「随分とおしゃべりが上手になったのね。ばあばが恋しがっていると伝えてちょうだい」
「ええ、お母さま。近々あの子も連れてくるわ」
可愛い孫を想ってほっこり口元をほころばせる王妃さまのご様子に、わたくしとお義姉さまは顔から血の気が引く。いよいよヴィートラ卿の敗色が濃くなってきた。職務どころか護衛対象である王太子まで放り出して乗り込んできかねない。
遠慮ない言葉の応酬をなさる王妃さまとレーヴェさまだけれど、それは確固たる絆があるからこそ。大切な愛娘が悲しんでいる現状、王妃さまの中でもヴィートラ卿への怒りが募っていらっしゃるのでしょう。
「レーヴェさま、待っているばかりでは埒が明きませんわ」
ずばり切り込む。溜め込んだ感情を発露したあとは、解決策の模索だ。今こそ、お母さまより伝授された、とっておきをお披露目する時だわ。
「アイリーンさま、何か策があるの?」
わたくしへ視線が集中する。お母さまのお話をさせていただけるのが嬉しくて、自然と口角が上向いてしまう。
「目に見える形で罰を与えるのが効果的だと思いますわ」
「例えば?」
「わたくしのお母さまは、お父さまの鼻に歯形が残るほど強く噛みついたそうです」
犬や猫にやられたと言い訳するわけにもいかない、明らかな人の歯形に、お父さまは猛省したという。なにせ己の失態が目に見える形で刻まれている。周囲から投げかけられる冷やかしは、傷が治るまで毎日のように続いたと嘆いていた。
「さすがはアイリーンさまのお母さまね。過激だわ」
「これだからカサンドラは……」
「聡明で大人しいご令嬢だったのに、嫁ぐと変わってしまうのね」
……最適解だと思って口にしたことであったのに、どうしてかお三方の反応は鈍い。王妃さまに至っては、リリー義姉さまに、『あなたも気をつけなさいね』と助言めいた言葉を送っていらっしゃる。リリー義姉さまったら、どうしてそんなに真剣な眼差しで、なぜそんなに深刻そうに頷いているのかしら。
「わたくし、何か間違いを申しましたでしょうか……?」
首を傾げるわたくしに、レーヴェさまが微笑んだ。その表情からは、深い諦念が感じられる。
「カサンドラとしては、おそらく何も間違っていないわ」
うんうん、と王妃さまも納得されているご様子。傾げた首がますます傾く。
夫の悪口大会で溜め込んだ感情を発散し、その後、対策としてお母さまの技を伝授する。そういう計画でしたのに、どこで間違えたのかしら。
「カサンドラ式、夫の躾術はわかったわ。どなたか、一般的な方法を教えてくれない?」
……な、なんだかとっても、悔しいわ!
「一般的かどうかはわかりませんが、我が家のお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
何がいけなかったのでしょう。どこを間違えたのでしょう。なぜわたくしのことを流してしまわれるのでしょう。モヤモヤと唇を噛みしめるわたくしを尻目に、視線はさっさとリリー義姉さまへ移動してしまった。
「私の母も、父の帰りを待っては叱られていたそうです」
お義姉さまの父親、アスセーナ将軍もまた戦いに身を置き危険と隣り合わせの日々を歩む方。夫人がレーヴェさまと似た夜を迎えた日も少なくないでしょう。
「レーヴェ殿下、夫の身を案じているという気持ちを、はっきり伝えてみてはいかがでしょう」
「と、言うと?」
「ただ待っている現状では、良妻であろうと励んでいる、と受け取られている可能性があります」
「そ、そうなの!?」
「少なくとも私の父はそう受け取ったようです」
なるほど。誰ともなく感嘆の息を漏らす。
その通りであれば、待たなくていい、という夫の言葉は優しさ由来ということになる。無理をしてまで良妻たらんと励まなくとも、十分に務めを果たしてくれている。いいから早く休みなさい、と。
盲点だった。まさかそんなすれ違いがあるだなんて。……お父さまったら、鼻が残っててよかった、なんてお話よりもそっちを詳しく教えてくださればよろしいのに。
「夫婦とはいえ、言葉にしないとわからないこともあるということね」
「わかっているつもりでも、つい忘れていけないわね」
リリー義姉さまの助言をしっかり噛みしめるお二人の言葉に、わたくしは歯噛みしながら辛うじて同意する。
とっても恥ずかしいわ。お母さまったら、なんて過激なのでしょう。言葉よりも先に手を出すなんて、これでは我が家が野蛮な獣だと勘違いされてしまいかねない。カサンドラ家は問題の解決に暴力を持ち出す、なんて王家に勘違いされては息もできない。
「ありがとう、カサンドラ夫人。さっそくジュリアスに話してみるわ」
「お役に立てば幸いです」
オホホ、と華やかな笑い声が咲く。
「ジュリアスが私を迎えにきてくれれば、だけど」
ぴしり、と。リリー義姉さまの顔が微笑みごと凍りついた。そんな義姉さまの様子には気づかれなかったのか、レーヴェさまの笑声だけが軽やかに響いた。




