エピローグ
「嫌です」
将軍の返事は実に簡潔で、そして実に大人げなかった。
「将軍ったら……」
「嫌です」
「嫌です、ではありません。恥ずかしいですわ」
「はずっ……! 妃殿下、なぜ私にばかりこのような仕打ちをなさるのですか!? 私はただ、娘の幸せを願っているだけですぞ!?」
今まさにその幸せを壊そうとしている人が何を言うのか。
「その娘のリリーさまから、是非、というお返事をいただいたのです」
「そ、れは……きっと気の迷いです! あの子ならばきっと善良で優しい男が見つかります!」
あんな妹狂いの性悪は嫌です! と頭を抱える将軍にムッとする。世界一のお兄さまなのになんてこと言うんだ。
「お兄さま以上の殿方が万が一にも存在したとして、その方が将軍の顔を恐れず、尚且つリリーさまの心を射止める可能性が一体どれほどあるというのです?」
「ぐぅ……優しい笑顔の練習は欠かしておりません」
その練習が全て泡となったから、リリーさまは結婚を諦めてしまったというのに、なんて往生際の悪い。
「将軍、なにも今すぐお兄さまを認めてください、とお願いしているわけではありません。それに、この件に関して将軍が口出しできる隙などもうありません」
「そ、そんな……」
親善試合ではお兄さまに敗北し、その後のキースさまの説得でも膝を屈した。二度も敗北した将軍に、お兄さまを引き留める権利などないのだ。それに、お兄さまが求めたのはあくまでも、リリーさまにデートの申し込みをする許可だけ。リリーさまが否と言えばそこでお終い、きっぱりそこで諦める。無理強いしない、という約束だ。そしてリリーさまは是非、とお兄さまの申し出を受け入れた。
「当日になってわたくしに泣きついてくるなど、恥をさらすのも大概になさいませ。大体、将軍は北方へお戻りになったはずでしょう? 仕事はどうしたのですか?」
「……虫の知らせで、娘に忍び寄る性悪の気配がしたもので……戻って参りました」
「恥ずかしいです」
「妃殿下!? もうあなたさましかいないのです! 助けてください!!」
助けません。
わたくしは全面的にお兄さまの味方だ。リリーさまのことも大好きだ。二人が互いを選んで幸せになるのなら、将軍のことは蹴飛ばしてでも加勢する。
リリーさまのことは、もうお義姉さまだと思っているのに。わたくしのことも、やっと名前で呼んでもらえるようになったのに。この機を逃せば次はないのだ、絶対に逃してなるものか。
せっかく夫人が日時など細かい情報は締め出してくれたのに。こんなところで勘を働かせなくてもよろしいでしょうに。
「キースさま、笑っていないでわたくしに加勢してください。お兄さまの未来がかかっているのです」
「ふっ、すまん……無理だ。ふふ……あいつの未来は知らん」
キースさまったら、お兄さまのことが嫌い過ぎる。
やはりお兄さまは、人に好かれる努力をした方がいい。せっかく見つけた恋なのに、あっちもこっちも敵ばっかりだ。せめて、リリーさまだけでも味方になってくれると良いのだけれど。
「まったく……」
いよいよ泣き出した将軍を前にどうしようか、と溜め息を吐いた――その時、
「アイリーン!!」
可哀想なほどの音を立てて開け放たれた扉が、そのまま外れた。飛び込んできたお兄さまの後ろでは、げんなりしたリリーさまが繋がれた手をしょんぼり見つめていた。
「大丈夫かい? 将軍が怒り狂ってお前の部屋に向かったと聞いたが」
「お兄さま」
「どうした? 何かされたか? クソバカ王太子は何をやっていたんだ私の可愛い妹の危機だというのに!!」
「さすがにお味方できかねます。反省してください」
扇を広げる。
サッと青褪めたお兄さまの足元に、短剣の雨が降り注いだ。
「リリーさま、愚兄が大変な失礼を……」
「私、メレディスさまには多少の好意を抱かれているとばかり……自惚れでした。まさかアイリーンさまが恋敵になるなんて……」
「自惚れではなく、ただお兄さまが愚かなだけです」
リリーさまは悪くない。お兄さまだってこれからはきっと大丈夫。これまでのお兄さまはちょっと……かなり妹に目が眩んでいただけだ。恋を自覚したのなら、カサンドラ家の男は大丈夫。
「ところで、父は何を?」
「子煩悩が暴走したようですわ」
途端、リリーさまの双眸が怒りで燃え上がった。
「妃殿下、父にも反省が必要なようですわ」
「では、遠慮なく」
指示を出すと、すぐさま将軍めがけて短剣が飛ぶ。しかし伊達に将軍職を長年勤め上げていない。腰に下げた剣を抜きざまに全て叩き落されてしまった。
「まったく、殿方ってどうしてああなのでしょうね、アイリーンさま」
「いつまでも子どもみたいですわね、リリーさま」
「お嬢さん方、俺をあんなのに含むなよ」
今気づいた、とばかりにぎょっとして礼をとるリリーさまを手で制し、キースさまがわたくしを腕の中に閉じ込めた。
「アイリーン、違うと言ってくれ」
どうしましょう、とリリーさまと目を見合わせる。ぴくりと片眉が跳ね上がって、二度、瞬いた。その反応が仰せの通りに、と物語る。
「はい、キースさま。違いますわ」
上手に嘘を吐くつもりだったのに、うっかり目を逸らしてしまった。リリーさまの口端が引きつる。一瞬だが、殿下はそれをしっかり見た。
「嘘が下手だな、アイリーン」
「上手に嘘を吐かなくても、一緒に戦ってくれる旦那さまがいてくれますもの。気が抜けるようになったから、嘘も下手になったのです」
「……しかたない、誤魔化されてやる」
見上げる額にキスが降る。
「素敵な旦那さまに愛されて、幸せですわねアイリーンさま」
「お兄さまも、きっとリリーさまを幸せにしてくれます」
「そうでしょうか……」
「愛され過ぎて、きっと溺れてしまいますわ」
「ふふ……では妃殿下、是非ご協力を」
「もちろんですわ」
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら番犬を相手取る二人を見遣る。短剣を弾き空いた胴に拳を打ち込み、暇を見つけては互いへのちょっかいも忘れない。
「アイリーンさま、メレディスさまはいつもああなのでしょうか?」
「……残念ながら」
「失礼を承知で申し上げますが、まるで子犬のようですわ」
「子犬であれば愛でようもありましょう。それに、躾は早い方がよろしいと申しますわ」
きらり、と光が宿った瞳を、わたくしは確かに見た。肩をびくつかせて、殿下がなぜか後ずさる。
「妹のピンチに駆けつけることをやめられない。しかし想い人の手も放したくない。とんだ我儘坊主ですわ」
「私のこと、一途に想ってくださるかしら?」
「お兄さまは歴代最高のカサンドラの男ですもの。お兄さま以上の殿方なんて、お父さまと、わたくしの旦那さまくらいのものですわ」
今度はちゃんと澄まして言い切る。でも顔は上げられなくて、顎の下をくすぐるキースさまの指を避けられなかった。
「くぅ~ん……」
「あらあら、アイリーンさまったら……。なるほど世界で三番目に良い男、お嫁に行くにはこれ以上ありませんね」
「そ、そうでしょう? キースさま、いつまでもわたくしで遊んでいないで、加勢してください」
愉快でならない、と書いてある顔が、困ったように眉尻を下げた。
「アイリーン、俺はあなたの兄が嫌いなんだ」
「お兄さまの愛の為、そしてわたくしの幸せの為です」
「……あなたの幸せの為ならしかたない。将軍を黙らせるくらいのことはしよう」
「さすがはわたくしの旦那さま」
番犬を引かせる。
「あ、アイリーン……ふぅ、死ぬかと思った……」
「妃殿下……ひぃ、……ハァ……」
「反省しましたか?」
コクコクと首を縦に振る姿はそっくりだ。
「アイリーン、私はお前のことを思って、」
「いい加減になさいませ。意中のレディを放って駆けてくるなんて、それでもお父さまの息子ですの?」
「そのお父さまは、私の呼びかけを無視したがな」
リリーさまをデートに誘うから将軍の気を逸らしてほしい。お兄さまは将軍の勘を鈍らせる最善手を打つべく、お父さまに手紙を出した。しかし、無情にも返事はわたくしへ、お兄さまは無視されたのだ。
「『メレディスは良い男だから大丈夫』と、言っていたお父さまを裏切るつもりですの?」
「『妹バカは隠し通すように言っておけ』と但し書きがあったんだろう?」
「当然です。現に、リリーさまはわたくしが恋敵などとおかしなことを言い出してますわ」
「妹が恋敵なはずがないだろう!? 私はリリー嬢にしか恋していない!」
言ってから、ハッとお兄さまが赤くなる。つられたようにポッと頬を赤らめたリリーさまと、しばし二人で見つめ合う。
「あらあら、大丈夫そうですわね」
「はは、そうだな」
泣きながら怒る将軍の口を塞ぎ、暴れる体を締め上げながら殿下が空笑う。
「アイリーン、番犬を貸してくれ。デカいし重い」
このままでは力んでへし折る、と言われ慌てて番犬に加勢させる。
羽交い絞めにされてはさすがの将軍も力負けし、引きずられるように退室させられて行った。わたくしも、そっと部屋を出る。
回廊を少し進むと、キースさまが戻ってくるところだった。
「将軍はどうされましたの?」
「あまり野暮だと娘に嫌われる、と脅して向こうの部屋に置いてきた。膝抱えて泣いてたぞ。あんなのが将軍で、北方は大丈夫か?」
「お父さまの好敵手です。きっと大丈夫です」
わたくしのお父さまが認めた方だ、間違いない。
「あなたは本当に、家族への信頼は揺るぎないな」
何を他人事のように言っているのだろう。
「キースさまへの信頼だって、揺らいだりしませんわ」
「どうかな。俺は一度、疑われている」
「……あれは、わたくしの駄々です」
嫌われたくない、その一心で。ずっと、ずうっと怯えていた、臆病なわたくしの我儘。
「キースさまが愛してくださるから、もう大丈夫なのです」
わたくしはもう、寂しくない。棘はもう、痛くない。
「そうか……自身のことも、少しは愛してやれそうか?」
たくさんの愛をもらって、心を満たしてもらって。それでも愛せなかった。大嫌いなわたくしを、それでも愛せと言う。世界で一番、わたくしを愛してくれるキースさまがそう言うから。
「その為の努力は、続けようと思います」
大丈夫、わたくしはきっと大丈夫。
「そうか」
「はい、キースさま」
だって、愛し方なら知っている。大好きな人たちを愛するように、自分のことも愛してあげる。今のわたくしならきっと、できるはずだから。
わたくしはもう、大丈夫。




