10
「アイリーン! まったく、あなたは本当に……」
飛び込むように駆け寄って、抱きしめてくれた殿下に縋りつく。
「もっと早く呼んでくれ。駆けずり回って探したぞ」
「ごめんなさい、」
声が涙で濡れて、うまく喋れない。頭を撫でてくれる手の温もりに、ますます涙が出た。
「また泣いてるのか、あなたは」
「我慢しました。殿下の前でしか泣きません」
「はは……それでは俺が泣かせているみたいだな」
そう、殿下だけがわたくしを泣かせる。殿下だから、わたくしは泣いてもいいと思える。
「それで? 俺の奥方をいじめたのは貴様か?」
「初めまして、王子さま。……油断したよ、まさかアイリーンが誰かに助けを求めるとはね」
心底驚いたようなその声に、ざまあみろ、と胸の内で舌を出す。
「孤独こそが、君の美徳だと思っていたのに。独りぼっちでぼくを嫌って、そのうち壊れてしまうと思っていたのに」
その瞬間を、待っていたのに、と。悪意が鼓膜を揺らして。
殿下の纏う空気が一変した。肌が爛れるような、純然たる殺意。
「あはは! 熱烈な旦那さまだね、アイリーン。ぼくを殺す気だ」
軽薄なのは声ばかり、彼の双眸が鈍く光った。彼の心を震わせるほどの殺意。――ダメ。
殿下の頬に手を添える。どうせ殺したって死んではくれないのだ。怒るだけ、心を乱すだけこちらが損をする。わたくしのように、乗せられてはいけない。
「殿下――」
「アイリーン、あなたが噛み殺すと言ったんだ。邪魔はしない。ただな、惚れた女にフラれてなお未練がましく付き纏うようなガキの駄々に、付き合ってやる必要はないぞ」
瞠目する。ふわり、と笑んだ殿下と視線が交錯する。
「あなたはもう、俺のだ。他の誰にも譲るものか」
「はい、キースさま」
違う、絶対に。殿下と彼はまるで違う。わたくしの愛する旦那さま。この方がそばにいてくれるのならわたくしは、神様にだって負けはしない。
「何それ。ぼくのことを殺さないの?」
「惚れた女に噛み殺されるんだ、本望だろう?」
「ムカつくな~。せっかく心地良い殺意だったのに」
アイリーン、と呼ぶ声は優しくて、わたくしの心を逆撫でる。反射的に睨めつけて、それを見て彼が嬉しそうに目を細めた。
「ぼくは、君の大好きな旦那さまを殺せるよ」
「だから何だと言うのです。殺せるものならやってご覧なさい」
「できないと思うの? このぼくを相手に。ぼくがそれをしない、と言い切れるの?」
「はい」
「なぜ?」
「わたくしがあなたを殺せるから」
『あなたを殺す権利が欲しい』
昔むかしの約束。神様に愛された娘が、涙に濡れた目に怒りと憎しみを宿して交わした約束。そうして手に入れた、神殺しの誓い。
「今、それを行使するの? ぼくは君に殺されてあげるけど、争いがなくならない以上、何度でもまた生まれるのに?」
「陛下が守った平和なこの国はいずれ、あなたを生まない治世を敷ける新たな王を戴くのです」
「平和なんて永劫は続かないよ」
「わたくしの旦那さまを甘く見ないことです。あなたがわたくしを喪うまでの間の平和。その程度のことを為せない方ではありません」
わずかに目を丸くして、彼はパチパチと瞬いた。
「君、ちょっとばかり自意識過剰だね。それは自惚れだよ」
「いいえ。わたくしは、わたくしの存在を奪うことが罰になると知っている。それだけの愛をいただいてきたのです」
自惚れるほどの愛情を、これまでたくさんもらってきた。受け取った愛の質でわたくしが揺らぐことはない。
「ははは……ちょっと優しくし過ぎたかな」
「あなたに優しくしてもらった覚えはありません」
「ねえ、アイリーン。本当にぼくのものにならないの?」
「お断りです」
即答でばっさり切り捨てる。
「君がぼくのものにならないと、この国を滅ぼすと言っても?」
「わたくしの旦那さまを甘く見るな、と言ったはずです。軍神の戯れで滅ぼされるような脆弱な殿方に惚れた覚えはありません」
「何それ。どこからくるのその自信」
溜め息を吐き出して肩を竦めた彼が、殿下を見る。
「君たちって本当、しぶといよね。あの病だってあっさり滅ぼしてしまってさ」
わたくしを傷つける為の、そういう類の悪意だった。忌々しい。大嫌いだ。
「俺の奥方が本気を出したんだ、当然だろうが」
「あの国とは仲が悪かったじゃないか。あんな短期間でじゃんじゃん薬を譲ってもらえるほど、どうやって仲良しになったの?」
「世界の綻びしか見ないから気づけないんだ愚か者」
南方と不仲だったのは昔の話だ。レオンさまの二番目のお姉さまが嫁いで、以来、かの国とは友好的な関係が続いている。でなければ、あの病を滅ぼすことなどできなかった。
「うわームカつく~」
わたくしに視線が戻ってきた。真っ向から受け止めて、睨め据えてやる。
「今の王家を害するというのなら、軍神だろうと噛み殺します」
「猟犬か……厄介な一族を抱え込んだよね。君たちはいつだって、ぼくの力を恐れない」
当然だ。カサンドラ家の男は愛する人の為なら神殺しだって成し遂げる、溺れるほどの情を抱いている。そんな男たちに愛される女たちは、愛故に神など恐れない。
「菊の君もそう。恐れているのはぼくじゃない。ぼくに愛されている君が、ぼくを選ぶかもしれない、と。そればかりを恐れる。そして恐怖と同じだけ、君を愛する。矛盾の塊だね」
「お兄さまのその矛盾が、わたくしを人間たらしめるのです」
「まったく、矛盾だらけで不完全で、厄介な生き物だよね~」
「人間相手に何を愚かな。不完全だから好きなのでしょう? 歪だから愛したのでしょう? あなた好みの、これがやり方でしょう?」
完全なものが嫌い。完成されたものが憎い。そうやって何でもかんでも嫌うから、彼は誰にも好かれない。
「ふむ……そうだね。君、本当にぼくの奥さんにならないの? そんな歪をずうっと抱えて、大好きな旦那さまに嫌われるかもしれないのに」
「もう心は差し上げました。全部、余さず差し上げたのです」
名を呼べば、こんな地獄にだって探しに来てくれる。軍神のことを聞いても、自分のものだと言ってくれる。こんなにも愛してくれる旦那さまだから、その愛を疑うような真似は二度としない。
「その歪を受け止めるの? 人間が? ぼくの狂気の欠片なのに?」
参ったな、と。彼が初めて困ったように眉尻を下げた。
「そんなの人間じゃないよ。化け物だ」
「出来損ないの人間を娶った方です。帳尻があってよろしいではないですか」
「そうすると、ぼくの方が劣勢だ」
彼は殿下を殺せる。そうするとわたくしが彼を殺す。殿下は、彼からわたくしを永劫奪えてしまえる。彼はわたくしを殺したくない。堂々巡りだ。
「ねえ、王子さま。本当にアイリーンがいいの? それはぼくの寵愛を受けた娘だよ? それでも愛せる? 彼女の中には常にぼくの狂気が燻っているのに」
「くどい。俺の心は全て、アイリーンに渡した。貴様の欠片が居座る隙間はない」
「君を得る為に、アイリーンは国を滅ぼすかもしれなかったのに?」
「熱烈な求愛は大歓迎だ。しかしな、俺の奥方を見くびるなよ。いかに己を犠牲にできようとも、国を害するような真似だけは絶対にしない。メレディスに嫌われるような愚行を、アイリーンは選択しない」
お兄さまがいなければ、お兄さまがわたくしの為に地獄を歩いてくれなければ。殿下に愛される、今のわたくしはあり得なかった。
「またお兄さまか……。面白半分で約束なんてしなければよかった。そのせいでぼくは、夢の中で君を惑わすしかなかった。君は文字通り、ぼくを殺せるから」
彼の声が深く沈む。その感情が何なのか、わたくしにはわからない。笑みを消した彼の表情を見るのは初めてで。何が彼にそうさせたのか、それすらわからない。
「嫌がらせばっかしてるから、殺意しか向けてもらえないんだろ」
「違うよ、逆だ」
「逆だと?」
「そう。アイリーンはね、もともと歪だったの。でなければぼくが、わざわざ無力な赤ん坊に心を渡そうと思ったりするもんか」
ぐっと殿下が奥歯を噛みしめた。
「お前の言うことは話半分でも多い」
「バカ言うなよ。剣も持てない赤ん坊なんかに惚れるもんか。もとから心がひび割れだったの。だから素敵な女の子になるかもなって見てたんだよ。そうしたら思った通り、素敵な女の子になっただろう? だから求婚したのに、嫌われちゃってね、しかたないから嫌がらせだけしてまた見てたんだ」
彼の指が、わたくしの胸元を差す。
「狂気を植え付けたのは生まれたより後だ。思ったより馴染んだようで嬉しいよ。誤算だったのは、お兄ちゃんがうんと優秀だったことかな。アイリーンの歪にもぼくの狂気にも気づいて警戒して、でも大好きになっちゃって一生懸命人間にしようと奮闘してた。それがうまくいっちゃうんだもん、嫌になっちゃうよ。そのせいで、アイリーンはぼくを嫌いなまま、ぼくを殺す権利まで得た」
わずかに持ち上がった口角は、まるで何かを懐かしむような気配をしていた。
「完敗だよね。菊の君、あの人間ばかりは、さっさと殺しておけばよかった」
それは、軍神が贈る最高の賛辞。人間が人間のまま、神を負かした。
「おまけにこんな化け物まで引き当てて、」
「殿下はわたくしが自分で選んだのです」
「えー……そこに噛みつくの? 可愛くなーい」
「アイリーン、そんなにまっすぐ化け物だといわれると傷つく」
「君もそこなの~? もうヤダ何この夫婦」
あーあ、と彼が深々と溜め息を吐き出す。
「ぼくのものにしたかったなあ」
「俺のだ。誰にもやらん。欲しけりゃ俺の首をもいでいけ」
「無理だよ。それをするとアイリーンに殺される」
それは嫌だ、と。恐れとは違う何かが滲む声。
「ぼくのことを嫌っている人間は大勢いるんだけど、本気で殺そうとしたのはアイリーンだけなんだよ。だから是が非でも欲しいんだけど、困ったことに本当にぼくを殺せるんだよねえ。大体さあ、神様を脅して願いをもぎ取る人間ってなんなの? ぼくこれでもちゃんとした神様だから、恩恵はともかく約束は守らないといけないんだよね。それを利用するって君、最低だよ?」
「己に近づけたあなたが悪いのです」
「ん~……それを言われちゃうと、言い返せないんだよねえ」
からからと笑う彼は、なぜか寂しがっているように見えた。
◇
大嫌いな男がいる。
悠久の微睡みの中で、初めてぼくを負かした男。あいつのせいで、ぼくの悠久は地獄になった。あいつのせいで、ぼくはくだらない呪いに縛られ続けている。
『お前は誰にも愛されない。一番欲しいものだけは、絶対に手に入らない。その理由がお前にはわからないだろう? だから永劫に、お前の孤独は埋まらない』
最期まで笑っていた。夏の空のような笑顔が大嫌いで、おかげで今でも夏は嫌いだ。嫌いなものなんて山ほどあるのに、増えるばかりでちっとも減らない。
『ざまあみろ――』
馬鹿だなあ。ぼくが理由を知っていることにも気づかないで。ぼくが一番欲しがっているものも知らないで。
自分の大事なものをちゃんと大事にできる。その為なら自分の全部を賭けられる。面倒くさくて底抜けのアホで、バカみたいに優しい男。ぼくには絶対できない生き方が、その在り方が、ただ羨ましくて、眩しかった。
「君のお兄さんはね、ぼくが大嫌いな男そっくりだよ」
だから殺さなかったんだ。
だから殺せなかったんだ。
「そっくりで腹が立つから、君にあげた心は持って帰らない。君に殺されてもあげない。それはずっとずうっと、君の心に刺さった棘だ。せいぜいみんなで苦しむといい」
きっともう、ちくりとも痛まないのだろうけど。ぼくが永遠のその先まで生きたって得られない愛を得てしまった君にはきっともう、痛くも痒くもないのだろうけど。悔しいから、羨ましいから、これは絶対に教えてあげない。
「帰るよ。でもぼくは君の悲しみを知っているからね。悲しみで泣いたらすぐわかる。それが君の愛する旦那さまのせいだとわかったら、また会いに来るよ」
「ないから来るな!」
「あったら旦那さまを殺して、八つ当たりであなたも殺します」
「アイリーン、アイリーン頼むから、」
「あっはっは! ほんと、君のそういうところが好きだよ、ぼく」
でも残念。君はぼくのものになってくれない。
「さようなら、ぼくの薔薇姫。ではね、化け物の王子さま。せいぜい頑張って人間ぶるといい。奥方に飽きられぬようにね」
「滅べ」
「あっはっは! 君たちが喜んでしまうから、お断りだよ」
振るわれた何かを避けて窓から外に出る。そのままふわり、と舞い上がって夜空に紛れた。夜も月も星も嫌いだけれど、ぼくを一番上手に隠せるのはぼくが嫌っているものばかりだった。
あーあ、また独りぼっちになっちゃった。
でも、いいや。しばらくはまた、記憶の中でお前と喧嘩をして過ごそう。大嫌いなお前との喧嘩は、ぼくの数少ない好きなものだから。
◇
「アイリーン」
返事も待たず抱きしめる。加減はしない。力いっぱい抱きしめた。
「キースさま、痛いですわ」
「ああ、痛がれ。ちゃんと痛がって、しっかり反省しろ」
泣いているような、頼りない声が出た。
「愛してる。大事にするから、頼むから、自分のことも愛してやれ」
自分自身を犠牲にすることを前提に事を進めるな。
「あなたがいくら平気だと言っても、俺はあなたが損なわれることも傷つくことも惜しむんだ。苦痛も悲哀も耐えられん。だから、俺からあなたを取り上げるような真似をしてくれるな」
アイリーンの犠牲の果てに得た平穏を、俺は誇れない。
肩が濡れて、泣いているのだとわかった。
「泣いても駄目だ。今度ばかりは泣いても許してやるものか」
ごめんなさい、と嗚咽の合間に吐き出される謝罪は本心からだとわかったが、それでもしばらくは返事をしてやらずに黙って聞いていた。どれだけそうしていたか、いくらか落ち着いたアイリーンが言葉を重ねる。
「わたくしが悪い子でした、反省しました、ごめんなさい。……わたくしもキースさまが大好きです」
ぐぅ、と喉の奥で唸る。それは、ズルいだろう。
「愛しています、大事にします」
「……許す」
やはり、この奥方には勝てない。俺の全敗だ。
「今回は逃がしたが次はない。あなたをいじめる奴は俺が全員ぶっ殺してやる。だから、あなたはにこにこ笑って俺に独占されていろ。溺れるほど愛してやるから」
「はい、キースさま」
ホッと息は吐いて、アイリーンを抱きしめたまま座り込む。
「殿下、聞いてもよろしいですか?」
「何だ」
「それ、何ですの?」
握りしめていたそれを指差され、うっ、と呻く。
「……鉄フライパン」
「なぜ?」
「……ここに来る前にいたのが厨房だった」
顔を逸らしたがきっと意味はない。首まで熱い。
「目に着いたこれをひっつかんできたんだ」
武器を選ぶ余裕もなかった。必死だった。
ふふ、と聞こえた笑みにつられてアイリーンの方を向く。
「さすがはわたくしの旦那さま。わたくしのピンチを見逃さない」
「……ああ、もちろん」
ちっともカッコついてないが、火が出るほど恥ずかしいが。奥方が笑っているから、まあいいか、と俺は笑みを返して誤魔化すことにした。




