05
午後の穏やかな日差しが照らすレーヴェさまの私室はしかし、吹雪の夜のような様相を呈していた。
先日は殿下に姦しいと言われてしまったわたくしとレーヴェさまだったが、今日ばかりはぴったり口を閉じている。手にしているのは絹の布と針であるはずなのに、それらを見つめる視線は対敵した戦士のそれに近い。
「あ、あのう、御二方とも……もっと肩の力を抜かれた方が……ただのお裁縫ですわ」
ただの、の部分で揃って顔を上げる。
「おかしいわアイリーンさま。お裁縫って淑女の嗜みだったはずよね?」
「はい、レーヴェさま。しっかり叩き込まれましたわ」
そう、叩き込まれている。だからわたくしたちは、習うと言いつつもこの時間を楽しむつもりで臨んだのだ。それがどうしてこうなった。
レーヴェさまご自慢の侍女、エレオノーラの刺繍は見事だった。うふふ、と無邪気に微笑みながら、美しい糸目で針を刺していく。その整った糸目を眺め美しいわね、なんて言いながら自分の手元に視線を戻し、そこでレーヴェさまが気づいた。何か違う、と。すぐさま声をかけられ、三人の刺繍を見比べた。それがいけなかったのだ。
『あれ? 私とアイリーンさまって、もしかして大したことない?』
邪気のない、それは素直な意見だった。しかし、一度気づいてしまうともう拭えない。糸目が乱れているわけでも、模様がヨレているわけでもない。でも、なんとなくエレオノーラの刺繍と比べると劣って見える。
それからはもう、楽しむなどという目的は消し飛んだ。何だ、何が違う、どこがいけない。二人してぶつぶつ呟きながら、鬼気迫る表情でエレオノーラの刺繍を眺める。一針刺すごとに首を傾げ、二針刺すごとに頭を抱える。口端を引きつらせながらも微笑んでいたエレオノーラも、すっかり青褪めうつむいている。
「ダメだわ。全然わからない」
深々と溜め息を吐き出す肩を落とす。
「あ、あのう……もうよろしいのではありませんか? 旦那さまへ差し上げるものでしたら、技術より気持ちですわ」
控えめにかけられた声に、わたくしもレーヴェさまもびっくりして目を丸くした。
「これを?」
「旦那さまへ?」
「え? ……ち、違うのですか!? 御二方ともとても真剣でしたからてっきり……」
おろおろするエレオノーラの顔が真っ赤に染まった。
「私ったら早とちりを……」
恥じらう姿も可愛らしい。ふと、疑問が浮かんだ。
「あなたは、それを差し上げるお相手がいるの?」
途端、これ以上ないほど赤い顔がさらに燃え上がった。
「あら、それは初耳ね。エレオノーラ、いつの間に?」
「い、いえ私は……あの、その」
レーヴェさまの追撃にごにょごにょごにょ、と口ごもったエレオノーラは耐えられなくなったのか、両手で顔を覆ってしまった。
「あらあら、愛い反応。エレオノーラ、何かあったら私に言うのよ。恋のサポートなら任せなさい」
「ひゃい、レーヴェしゃま……」
レーヴェさまは、かつて親善試合の為にこの国を訪れていたジュリアスさまに一目惚れし、猛アタックして口説き落とした過去を持つ。短い滞在期間が火をつけたのか、これまでの才女の仮面を投げ捨て、殿方を骨抜きにするとろけるような笑顔を惜しみなく注ぎ、ジュリアスさまの心を鷲掴みにしたのだ。そんな、激しい攻めの恋をしたレーヴェさまのサポートは果たして、硝子細工のようなエレオノーラの恋を助けるだろうか。
「レーヴェさま、どうかお手柔らかに」
「悠長なことを言っていてはダメよ! 恋は攻めの一手よ」
「レーヴェさまったら……」
短期間で攻め落とさねばならなかったレーヴェさまの恋とは違うかもしれないのに。こと恋愛のお話になると、途端に火がつく。普段の慧眼も、恋の前では盲目だ。
可哀想なくらい赤くなってしまったエレオノーラの為にも、わたくしはわざとらしくも別の話題を振る。
「そうだわレーヴェさま、わたくしお願いしたいことがありますの」
裁縫箱の中に入れていた包みを取り出す。
「実は今、殿下とちょっとした勝負をしていますの」
「叔父さまと?」
「はい。お互いの大事なものを一つ、当てっこするんです」
「え? そんなあからさまな惚気があるの?」
嘘でしょ、とレーヴェさまが大袈裟な仕草で口元に手をやる。
確かに児戯のようなことをやっている自覚はあるけれど、そんなにはっきり言わなくてもいいだろう。しかしお願いをする側なので、不満は飲み込む。
「……いいじゃないですかそれは。で、わたくしの大事なものがこの中に入ってます。殿下に負けたくないので預かっていただけませんか?」
差し出すと、驚いたように目を丸くしてしまった。
「あなたが勝負事でズルするなんて珍しいわね」
「……うっかり乗せられたんです」
「なるほど、負けた時の要求ね。叔父さまったら何を要求したの?」
「……」
黙り込むわたくしに、今度こそ茶々なしで目を剥いた。
「言えないような要求を!? 叔父さまったら大人げないわ」
「部屋中を引っくり返してでも見つけるそうですわ」
「うっそ本当に大人げないわ……。任せて、肌身離さず持っててあげる。破廉恥な叔父さまをぎゃふんと言わせましょう! 大丈夫、私ってばこれでも口は堅いのよ」
もう殿下が破廉恥な要求をすることが確定している。
殿下にはちょっと申し訳ないが、わたくしはそれを、否定しない。
「お願いします」
「もちろんよ!」
晴れやかな笑顔で引き受けてくれたレーヴェさまにわたくしも笑みを返し、その後は熱の引いたエレオノーラと三人、穏やかな時間を過ごした。
◇
私室へ続く回廊に、見慣れない人影があった。
青褪めた顔でウロウロと彷徨いきょろきょろと落ち着きなく周囲を見回す姿は、わかりやすい、迷子に見える。
「目的地はどちら?」
声をかけると、人がいるとは思っていなかったのか、うひゃあ、と素っ頓狂な声が上がる。
「あ、えーと、私は……」
「第三軍の方ね。レーヴェさまの部屋は――」
説明しながら顔を眺めて、思い出す。そういえば、レーヴェさまが到着した日に、あの一団の中にはなかった顔だ。
「あなた、例の迷子の方ね」
「あ、はい……」
しゅん、と肩を落とす姿は捨てられた子犬のよう。
「体は鍛えられても、方向感覚は鍛えられず……申し訳ございません、ご迷惑をおかけして」
「構いません。けれど次からは、どなたかと一緒に行動するとよろしいでしょう」
びくり、と肩を震わせた彼の顔に恐怖が浮かぶ。
「ひ、妃殿下!? ……お、おおおお願いでございます! どうか、将軍には内密に! また迷ったと知られたら今度こそ自分は死にます!!」
「そう怯えなくても……わかりました。将軍には内密にしておきます。早くお行きなさい」
「あ! ありがとうございます!!」
駆けて行く背中を見送って、そっと詰めていた息を吐き出す。
方向音痴が理由とはいえ、毎度、将軍の怒りを受け止めるのはしんどいだろう。……可哀想に。
どうかバレて叱られませんように、と。見えなくなった背に向けて瞑目した。
◇
ぐっと背を伸ばし、肩を回す。
ここ数日、アイリーンはやたら熱心に裁縫に励んでいる。時間も忘れるほどの熱中ぶりで、余暇は部屋にこもりがちだ。連れ出そうにも、なぜかレーヴェも一緒になって針を睨みつけているせいでなかなか頷いてくれない。
おまけに、酔うと次の日、針を刺す手元が狂うと言って晩酌にも付き合ってくれない。酔いを翌日に持ち越したことなどないくせに。
不意に、執務室内に乱暴なノックが響く。扉を殴っているという方が正しいような荒々しさは訪問者を如実に表していて、その素直さに思わず破顔した。
「入れ」
入室したのは果たして、すっかりやつれたメレディスだった。
「この件が片付いたら休暇をください。アイリーンを連れて旅行に行きます」
「却下」
いつか殺す、と刺してくる視線は無視して手を出せば、叩きつけるように報告書の束が渡された。
「……王位争いが激化してます。どうやら王が体調を崩したようで、焦った馬鹿共がみっともなく騒ぎ始めているとか」
「王子は揃ってまだガキだってのに、ご苦労なこった」
王位継承者は六人。有力候補は上の二人だ。
間違いなく愚王となる第一王子と、賢王になるだろうが病弱な第二王子。
「第二王子は第六班を使って、せっせと目の上のたんこぶを蹴落とす準備を整えているようです。叩けばわんさか埃の出る王子なので、問題ないでしょう」
続けろ、と視線で促す。
「第一王子の方ですが、レーヴェさまへ刺客を送り込んでますね。ヴィートラ卿は愛妻家ですから、妻が殺されれば迷わず剣をとる」
「そんなんで厄介な弟を蹴落とそうって? アホか」
「アホです。第一王子側の戦力ではヴィートラ卿には勝てません。彼我の戦力差も把握していない、とんだ愚か者ですよ」
剣をとったヴィートラ卿が、そのまま第一王子の首を斬り落として終幕。そうでなくとも、問題行動のツケを払わされ引きずり落とされる。
「第六班はじわじわ第一王子側の戦力を削ってます」
「多忙の理由はそれか」
「はい。第一王子は丸裸にされます。ただ、レーヴェさまに仕向けた刺客に問題が」
ぴくり、と指が跳ねた。
「侍女か」
「はい。彼女の実家に厄介なのがいるようで、その件で脅されて……腹芸のできぬ娘です。山ほど毒を持たされてますよ。まったく、ガキの癖にえぐい手を思いつく」
「回収したろうな」
「レーヴェさまの部屋に仕掛けられていた分は全て。……苦労しましたよ」
だろうな、という軽口は腹の底に沈めた。
「今夜中に娘を回収しろ」
「どうするんです?」
「レーヴェに投げる。惜しんだから回りくどくアピールしたんだろ。責任もって処理させるさ」
吐き出した溜め息は深くなった。
「で? あの短絡バカが第二王子の首を落とそうと正面から突っ込んでいかない理由はなんだ?」
第二王子の暗殺ではなく、側近の妻の暗殺という薄っぺらい攻撃をしかける理由。
「この国を攻め落としたいようですよ」
「は?」
さらっと告げられた言葉に、遠慮のない声が出た。
「殿下は、もう少し人に好かれる努力をなさるべきです」
「急に喧嘩を吹っかけんな何だ」
「レーヴェさまが滞在中に暗殺されれば、あのアホ王子はそれを理由にこちらを攻める腹積もりです。鉱山でボコボコにされたことを大層、気にしているようで」
アホか。
アホだ。信じがたい。
「ガキの浅知恵ではそれが限界なのでしょうが、お粗末なものです」
「待て、本当に俺との喧嘩の延長戦で他国を攻めようとしてんのかあのアホ」
「してます。殿下も子ども相手なのですから手加減して差し上げればよろしいものを、わざわざ全力でぶっ飛ばすから。子ども心に大きな傷を残しちゃってますよ」
「知るか!!」
腹の底から叫んだ。冗談ではない。
「周りにまともな大人はいねえのかあの国は!」
「賢明な大人はみな、第二王子派です。厄介なやんちゃ坊主の尻拭いなんて誰もしたくないでしょう」
「さっさと殺せよそんな厄介者……」
「第一妾妃の実家が権力者ですからね、下手に手は出せませんよ」
勘弁してくれ、と。血の滲むような声が出た。
「これまでは王が何だかんだとしっかり手綱を握っていたようですが、病気じゃそれもままならない」
「その隙に馬鹿共が暴走した結果、俺はこんな虚しい気持ちになってんのか」
いっそ攻め込んで滅ぼしてやろうか。
「第一王子をぶっ殺すのにどれだけかかる?」
「もうちょっと言葉を選んでください、殿下」
「付き合ってられん。ガキのお遊びで戦争なんぞして堪るか」
どっと疲れた。
「もういい。さっさと娘と残りの毒を回収してこい。必要ならまとめて第二王子にくれてやれ」
そうして、さっさとくだらん王位争いとやらを治めてくれ。
ぐったり肩を落とす俺に笑んで、扉近くまで後退したメレディスがさも今、思い出したように声をあげた。
「あ、そうだ。ヴィートラ卿から親善試合の申し込みがきてましたよ」
「――最初に言えバカっっ!!」
デスクに拳を叩きつける。メレディスは快活な笑声をあげながら軽やかに退室していった。
とんだ徒労だ。くそったれが! 八つ当たりでも構わん、いつか絶対に首をもぐ。
◇
機嫌よく目的地へ向かっていると、都合の良いことに回廊の隅でぽつんと立っていた。
「どうかしたかい?」
殊更に優しい声を出す。
ハッとして顔を上げたエレオノーラが私を認め、見上げる双眸がしだいに涙で濡れる。
「猟犬さまでございますね。私のことはどうぞ、如何様にもなさってください」
おや、潔い。
「あなたの処遇を決めるのは私の仕事ではない。まずは証拠の提出を」
「……レーヴェさまのお部屋に」
「それは回収済みだ。求めているのは残りの方」
あくまでも優しく、天気の話をするような口調で要求する。
エレオノーラは双眸を揺らし、そして逸らした。
「お部屋にある分だけです。他には一つも、ございません」
そんなはずはない。回収した毒の量と、第一王子が彼女に渡した毒の量が一致しない。明らかに足りていない。まだ、あるはずだ。
「エレオノーラ、出すんだ。第一王子は倒れた。あなたが恐れるものはもうない」
大丈夫、と背に手を置く――と、拒絶するように身を震わせた。
その反応に、瞠目する。違う。
獣の勘が警鐘を鳴らす。違う、恐れていない。この娘は今、第一王子という言葉には何の反応もしなかった。知っていた。私が伝えるより先に、この娘は第一王子が討たれたことを知っていた。教えたのは――
エレオノーラの体を担ぎ上げる。
「きゃっ――何を、」
「黙れ!」
鋭い声で恐怖を植え付け言葉を奪う。
元来た道を駆け戻る。人目を避けるせいで、来た時の倍は時間がかかる。
くそったれ! これで私の首が落とされたら、地獄の底から這い出してでもぶっ殺してやる!




