01
春の穏やかな日差しが照らす王宮庭園では、満開を迎えた薔薇が招待客の目を喜ばせている。王家の紋に描かれていることもあって、リアスコット王国ではこの時期になるとさまざまな場所で薔薇が咲き誇る。とはいえやはり、ローズガーデンと言って真っ先に名が挙がるのはここ、王宮庭園でしょう。丹精込めて丁寧に手入れをされた薔薇はどれも美しく、種類にしても世界中の薔薇が集まっていると評されるほど豊富だ。
王家主催のガーデンパーティは春に三回だけ開催されるのが通例だけれど、先日お誕生日を迎えられたレオン・アレキサンド王太子殿下の成人祝いも兼ねて、今回特別に四回目が開催された。
レオン殿下は、日に透ける金髪と晴れの日の空に似た青い双眸が大変に麗しい。線が細くていらっしゃるものの均整の取れた体つきで、年頃のご令嬢のみならず妙齢のご夫人もが思わず頬を染めてしまうと評判だ。また古参の臣下が相手でも真っ向から意見を述べる豪胆さと、彼らと対等に渡り合える聡明さを持ち合わせ、有望な王の器として将来を期待されている。
王太子としての手腕を遺憾なく発揮され、幼い頃から完璧と称されるほど隙のない殿下は、幼少時から王太子らしくあろうと徹底して過ごされてきた。
現在この国には殿下の他に王位継承者はいない。殿下は王家の三番目、上の二人は姫だ。その二人も既に他国へ嫁がれたあと。唯一、可能性のある王弟殿下はとうの昔に継承権を放棄している。殿下はたった一人で、国の将来を背負ってきた。そのせいか、義務や責任感にがんじがらめになっている嫌いがある。感情より理性を優先し、己を国の奴隷とすることを迷わない。
理想的な王太子はしかし、人間と呼ぶにはあまりに孤独だった。
「大丈夫かい、アイリーン」
隣に立つお兄さまが、にこやかに見える笑顔でわたくしの顔を覗き込む。陽光を弾くような黒髪が、さらりと流れた。
完璧な角度で持ち上げられた口元はあふれんばかりの優しさを浮かべているけれど、射抜くような黄金色の双眸のせいで台無しだ。自然と背筋が伸びる。
「もちろんですわ、お兄さま」
形ばかりの笑みを返す。
わたくしは非情になり損ねた。人間らしい幸せを何一つ拾い上げようとなさらない殿下が、他でもない愛に基づく幸福を得ようとなさっている。家が望み結ばれた関係ではなく、殿下自身が見つけ抱き上げた関係で、愛を育もうとなさっている。
たとえ相手がわたくしでなくとも、誰かを愛することで殿下が幸せになれるなら。
「軍神の加護でも祈ってあげようか?」
「遠慮しておきますわ」
この国が信仰している神は軍神だ。近隣諸国と覇権争いを繰り返していた戦乱の時代を過ぎてなお、信仰心は変わらず民の心に根づいている。
戦を司り、狂乱と破壊を根源とする彼は、残忍な戦闘を何より好む。容姿こそ絶世だとされているけれど、その内面は粗野で非常に気まぐれ、おまけに不誠実だという。荒ぶる神として近隣諸国では畏怖され、信仰を続けるこの国の人間を蛮族と忌避する声も少なくない。安寧秩序の中にあっては恩恵をもたらすことはまずないけれど、ひとたび戦闘が起これば必ず降臨し気まぐれに加護を振りまくといわれている。授かった者は、人の身でありながら一騎当千の力を得られるという。
そんな力を授けていただく必要はない。過剰戦力にも程がある。
「かの軍神が好む戦闘でもないでしょうし」
臨むわたくしが望んでいない戦闘だ。彼の心を滾らせはしないでしょう。
戦乱の終結は二百年前。貴賤も貧富も関係なく、人の手によって命が蹂躙された時代。明日をも知れぬ日々の中、より確実な血の継承の為、貴族が多くの女を囲い込んだのはしかたのないことでしょう。男子継承ということもあり、一夫多妻や側室制度とその時々で名を変えて、特に王家には後世まで残留した。平和を得てからも王家は後宮を稼働させ、多くの妃を擁してきた。必要に迫られれば妾妃の子であっても王位継承権を与える。
その流れがあったからこそ、わたくしは殿下が早い段階で妾妃を迎え入れるとお決めになっても、拒絶はしないつもりだった。王太子として、次期国王として、殿下が妾妃を必要とされるなら、わたくしの感情は後回しにして構わなかった。
「何かあればすぐに私を呼ぶんだよ」
その言葉の意味は重々承知していたけれど、素直に頷くには抵抗があった。
「お兄さまったら、殿下にお会いするだけですわ。それにお兄さまは宰相補佐としてのお勤めがあるのでしょう?」
心配性ね、と笑って見せるも、まとわりつく不安を拭い切れない。
「こちらのほうが急務だと、私は考えているよ」
さすがはわたくしのお兄さま。笑顔の仮面をいくら重ねようと、お兄さまを誤魔化せたことはない。
殿下の婚約者として招待されたわたくしはしかし、パーティが始まって随分と時間が過ぎた今なお殿下にお会いできていない。会場への入場も、同じく招待されていたお兄さまに同伴をお願いした。
招待状にわざわざ直筆の手紙を忍ばせて、『大事な話がある』と意味深な言葉を書き添えておいて、当日になってみればどうだ。殿下はわたくしとは目も合わせず、わたくしの隣には心配性なお兄さまが張りついている。
大事な話とやらをする為の場所も時間も、教えてくれたのは殿下付きの侍女だった。
「お兄さま、大丈夫ですわ。殿下はきっと、大丈夫です」
「いつからそんなに楽観的になったんだい? やはり心配だよ、アイリーン」
お兄さまの声に慈悲はない。きっともう、お兄さまの中で結論は出ているのでしょう。我が家で最も賢い、三十を待たず次期宰相の地位を確立してしまうほど優秀なお兄さまの声音が、言外に駄目だと、そう言っている。
「頼むから、私を失望させないでおくれ」
わずかに目を伏せただけで、おそらくは感情以上の気持ちも握られた。今度はさすが、と笑う余裕はない。
「……時間ですわ」
お兄さまを振り切るように踏み出す。時間にはまだ少し余裕があったけれど、不安に急かされた。
大丈夫、大丈夫と何度も言い聞かせる。行きたくないと駄々をこねる気持ちを叱咤するわたくしも、お兄さまにはきっとお見通し。けれど遠のく背に声をかけてはくれない。お兄さまのそういうところが、わたくしは少しだけ嫌いだ。
◇
我がカサンドラ侯爵家と王家の間で婚約話が持ち上がったのは十年前。当時わたくしは八歳、殿下とは二年の差があった。
家柄は申し分なく歴史も古い。政略結婚で求められる最初の条件を、我が家は問題なく満たしていた。とはいえ理由の最たるものはやはり、都合の良さでしょう。我が家は宮廷内のどの派閥にも属していない。一族は遠縁を含め、押し並べて統制が取れている。宮廷内の重要なポストにぽつりぽつりと一族の人間を置いてはいるけれど、上からも下からも押せども引けども思い通りにならないと、諦めをもって敬遠されているのが現状だ。
他者では揺るがせない愛国心と忠誠心。鬱陶しいと煩わしがられる一方で、熱狂的に支持する貴族も多い。とはいえ我が家の人間は誰一人、宮廷貴族による派閥間の権力争いには見向きもしない。そのくせ、火の粉が降りかかるようならば叩き潰すのもやぶさかではないという姿勢をとる。厄介ではあるけれど、宮廷内の綱紀を改めるにうってつけと判断されたのでしょう。
カサンドラ家は武勲で侯爵まで上り詰めた生粋の武闘派だ。国民性として好戦的なリアスコット王国においても、我が家は筆頭に据えられる。その気性の荒さは獣にたとえられるほど。
戦乱の終わりを見届け、最後の大戦が終結するその瞬間まで前線に立ち続けた。不敗でなくとも二度はなし。終には常勝の英雄と呼ばれるまでに至った活躍が認められたことで侯爵位を賜った。以来、時代が和平の道を歩み始めてもカサンドラ家は国の盾、王の剣として在り続け、今なお変わらぬ愛国心をもって王家にお仕えしている。野蛮な獣と軽んじられることも多いけれど、武勇に優れおまけに知略戦略謀略奇策なんでもござれ。戦場が宮廷へ移ろうと、カサンドラ家の人間は政でも他の貴族を寄せつけない。
他者では脅かせない貴族の在り方と誇り。そう、王家が家同士の繋がりを深めるのに、カサンドラ家は都合が良かった。
初めての顔合わせの日、殿下は既に王太子としての振る舞いを身に着けていらっしゃった。礼をとるわたくしに向けられた微笑みは大人びていて隙が無い。その時、ただでさえ感情の起伏が乏しいと言われていたにもかかわらず、わたくしは思わず練習に練習を重ねた笑みを貼りつけ忘れた。
気持ち悪い、と。
不敬であることは承知で、それ故に決して面に出すまいと表情を削ぎ落した。しかし取り消そうとは思わず、内に秘めた。
この方がわたくしの未来の旦那さま、そしてこの国の王となるお方なのだ、と。それは絶望にも近い感覚。
我が家は国の盾、王の剣たる猟犬の一族。娘であるわたくしも、可愛らしいだけの侯爵令嬢ではいられなかった。貴族令嬢に求められる貞淑さも気品も、カサンドラ家の娘に求められる猟犬の素質に比べれば些事だ。有能な戦士であり闘志が服を着ているようなお父さまと、優秀な戦略家であり歴代最高の猟犬と名高いお兄さまに鍛え抜かれた。戦場での立ち振る舞いを、敵を潰す方法を、裏切りへの対応を、情を切り捨てる冷徹さを。
叩き込まれたカサンドラ家の矜持はわたくしから子どもらしさや無邪気さを奪いはしたけれど、心を殺すほどではない。
殿下は笑みこそ浮かべていたけれど、そこに感情らしいものは読み取れなかった。まるで人形。『王太子』という役割を与えられ、『婚約者との顔合わせ』という場面を演じる人形のように、レオン・アレキサンドという人間の存在は隠れてしまっていた。わたくしはそれが、その寂しい殿下の在り方が、堪らなく気持ち悪かった。
だからでしょうか。散歩という名目で二人きりになった際、無邪気を装ってまで言葉を吐いた。どうにかして、王太子の仮面を剥ぎ取ってやりたかった。
「殿下はお人形さんみたいで、とっても素敵ですわね」
声にわずかな拒絶を滲ませて。気づかれっこない、という驕りは、それこそ不敬な考えだったけれど、言わずにはいられなかった。
わたくしの言葉を受けて。咲き誇る美しい薔薇に囲まれ、春の柔らかな陽光に照らされた殿下の顔が、笑みの形をしたまま凍りついた。
「……私は、人形に見えるかい?」
声に滲んだ悲傷に殿下の心を見た気がした。
寂しい、と吐き出すことも許されない。賢く見目麗しく、降り注ぐ称賛にも驕らず研鑽し続ける。あまりにも怜悧で、孤独な王太子。たった一人で、腹に一物も二物も抱えた連中と渡り合わなければならない。唯一の後継者だからこそ、跡目争いとは違う醜さが殿下を取り巻き蝕もうと這い寄ってくる。
孤独は、王にとって致命傷だ。守るべき民と国を抱えて、そばで支えてくれる臣下もなく、己以外に頼りを知らない。――潰れてしまう。
このままではいけない。この王太子が無事に王位を継いだとして、敷く治世は諸刃だ。
「はい、見えますわ」
だからわたくしは、装うことをやめた。
誰かを信じること、誰かを頼ることを覚えていただかなくては。でなければ殿下は、誰からも信じてもらえず、誰からも頼りにされないまま王になってしまう。今、陛下の側で志を同じくする臣下がみな、殿下の側に残ってくれるとは限らない。信頼ではなく、利害の一致で互いを利用し合うだけの臣下に囲まれたのでは、殿下は王でなくなる。そんなものはただの傀儡だ。
「随分とはっきり言うのだね、君は」
「殿下はわたくしの未来の旦那さまなのでしょう? わたくし、家族の前では素直に生きると決めておりますの」
「私はまだ、君の旦那さまではないよ」
殿下の目が、わずかに物騒な色を纏う。
王家との婚約は繊細な政治案件だ。いつ覆るとも知れない。けれど、
「その為の努力は惜しみません」
戦場へ赴く男達の心を支え、留守を預かり、未練となって死地からだって引きずり戻す。腕っ節では負けなしの男達も、家では女達の心根に敵わない。それがカサンドラ家である。戦乱の世の頃から変わらず、男より女のほうが強いのだ。
そしてわたくしもまた、カサンドラ家の女。好いた殿方でなくとも、国の傀儡になりかねない王太子でも、夫となる方であるならば、支え守り、未練となろう。
性根を叩き直し、心をこじ開け、まずはわたくしと信じ合い頼り合える関係を築く。幸いにも殿下はまだ十歳。成人まで十年もある。大丈夫、殿下はまだ大丈夫。
「権謀術数ひしめく貴族社会で、可憐なご令嬢の努力が何になる?」
殿下の悲傷が鳴りを潜め、冷笑へと変わった。そんな顔もできるのね、とわずかに心が弾んだのを覚えている。
「わたくしはカサンドラ家の娘です。猟犬たる一族の名に懸けて、すべての不義の喉元に牙を突き立て、噛み砕いてご覧に入れましょう」
わざとらしく恭しい礼をとり、微笑む。
「わたくし、家族には愛されている自覚がありますの。わたくしが可愛らしくおねだりすれば、一族総出で頑張ってくれますわ」
この時、思わずといった風に表情を崩した殿下の顔を、わたくしはきっと忘れない。初めて見た殿下の素の笑顔に、わたくしはうっかり見惚れてしまった。
「ならば私も努力すると約束しよう、未来の奥さん」
最後に見せた茶目っ気が功を奏したのか婚約は無事に成立し、わたくしの宣言通りカサンドラ家は宮廷内の腐敗を一掃し、後宮内の腐蝕を食い止めた。
それから十年、わたくし達は約束通り努力をしてきた。互いを知り、少しずつ少しずつ距離を縮めた。殿下は心の氷を溶かし、人形の糸を一本ずつ切っていった。仮面ではない素の感情を、今では素直に見せてくださる。
それがどうして、こんなことになったのか。一体いつから、わたくし達は道を違えてしまったのか。わからない。けれど、わたくし達はきっとどこかで何かを間違えた。……わたくしの何かが、いけなかった。