04
執務室に戻ると、メレディスが待ち構えていた。誰の許可を得たのかソファーでくつろぎ、茶まで飲んでいる。
「ここは俺の部屋だと思ったが、違ったらしいな」
「私を呼び出しておいて遅いんですよ、殿下」
こいつ、不敬罪で首を刎ねてやろうか。
ツン、と澄ました顔が実に腹立たしい。
「アイリーンがしょんぼりしてましたよ。私の妹の肩を落とさせるとは、許しがたいですね」
「今夜にでも慰めるさ」
「おや、許されたんですか。良かったですね」
「ああ、お前のアドバイスのおかげだよ」
がちゃ、と置きかけたティーカップがソーサーを打った。
顔を上げたメレディスから、表情が抜け落ちる。
「何だ、お前が言ったんだろう? 顎の下をくすぐってやれば大人しくなる、と」
残り少ない体力では、くすぐるだけで限界だった。とりあえずそれだけは実行して、あとはもう目を開けていられなかった。
ゆらり、と立ち上がったメレディスが拳を握る。
「決闘です。殺します」
「禁止されたろ」
「バレなきゃいいんですよ、隠し通します」
……俺が死んだらバレるだろう。
この男は本当に、妹のこととなると途端にポンコツになる。
「残念だが、そんな暇はない。仕事だ、働け」
命令だ、と強く告げる。
拳を解いたメレディスの顔は、あっという間に猟犬のそれだ。この切り替えの早さは、素直に褒めてやる。
「北方の情勢を洗い出せ。特に第一、第二王子の動きは些末なことでも見逃すな。レーヴェの旦那と奴の部隊の動向も探れ。それとレーヴェが連れてきた侍女の一匹、茶髪の娘だ。それも調べろ。どこにも漏らすな、誰にも気取られるな」
「仰せのままに」
迷うような仕草は一瞬だった。
「陛下にご報告は……」
まあ、そうくるよな。一国の王太子が他国に口出ししようとしてるんだ。猟犬としては、止めるよな。けれど、そんな賢明な判断は認めない。
「するか? 発端はアイリーンだぞ」
メレディスの双眸がわかりやすく揺れ、怯えが宿った。素直な反応に思わず笑声がこぼれる。
「お前、そんな臆病でよくアイリーンを野放しにできたな」
軍神が好む女だと、気づいてなお放置した。歴代最高と名高いこの猟犬が、それでもアイリーンを生かし続けた。その意味を。
「うっかり首を刎ねなかったとは、驚きだ」
「……刎ねませんよ。アイリーンは、首を刎ねるには惜しい」
「惜しい、ねえ」
メレディスがアイリーンを評する時、妹だから、とは決して言わない。猟犬の資質が己を上回る。その一点で褒めるから、みな口を噤むしかない。
戦闘能力では父にも兄にも俺にも劣るアイリーンを、なぜ己を上回る歴代最高の猟犬と称するのか。その答を、この男は本能で知っている。
カサンドラの禍。アイリーンをレオンの婚約者に迎える際、カサンドラの猟犬共が宮廷内の腐敗を一掃した一件についた名だ。
ぬるま湯に浸かっていた連中は軒並み排され、愚鈍な連中は気づいた頃には路頭に迷っていた。ただの下っ端だと思っていた猟犬さえ牙を剥いて。全ての不義に確たる正義を以って、些細な罪も見逃さず、余さず喉を噛み砕いてみせた。
レオンとの約束だから、と公には評されているが、あれは猟犬共が主人の新たな住処を掃除した、という方が正しい。
カサンドラ家の直系の娘。犬は己より格上と認めた相手に逆らわない。それと同じ。カサンドラの猟犬共は、決してアイリーンに逆らわない。
「だからお前をそばに置いているんだよ、俺は」
アイリーンを叱り飛ばせる。アイリーンに説教できる。
たとえ資質でアイリーンに劣ろうと、アイリーンを御せるというだけでこの男には価値がある。
「殿下のことは大嫌いですが、アイリーンがいるのならそばにいますよ」
それは妹への恐怖からか、あるいは愛からか。
「私がこの世で最も可愛がっている大事な妹で、しかも猟犬としても最高です。首など刎ねては国の損害だ」
「なるほど……」
あくまで先行するのは愛か。
だったらそれは、その発言は逆だろう。致命的だ。しかしこの男は気づかない。多分、死ぬまで、否、死んでもきっと気づかない。
優秀だから生かしたんじゃない。生かしたいから、優秀になるよう育てるしかなかったんだ。
妹の狂気がもたらす脅威より、身に着けた猟犬としての在り方の方が利になる。その証明の為に、アイリーンの十八年に丸ごと人生を放り込んだ。俺がいなければ、アイリーンが死ぬまでそうしていた。バカだ。この男は間違いなく、国一番の大バカ者だ。
――さっさと首を刎ね落とせばよかったのに。
拭いきれない不安を嗅ぎ取っておきながら、生まれたばかりの妹を愛しいと思ってしまった。愛情の方が先だったから、幼いメレディスは残酷になり損ねた。その結果が、これだ。首は落とせぬまま、不安は拭い去れぬまま、アイリーンは惜しまれるほど優秀な猟犬に育った。育ってしまった。
祓えなかった狂気が国を蝕む。避けたかった恐怖が現実味を帯びても、メレディスではもう妹の首を落とせない。幼いメレディスの甘ったれが、いつまでもメレディスを苦しめる。カサンドラの溺れるほどの情。それを妹に向けてしまったのが運の尽きだ、バカ者め。
褒美のつもりでくれてやった約束だが、ちと甘やかし過ぎたな。
俺なら首を刎ねられる、と。そう思わせた俺の落ち度だ。愛情より先にアイリーンの歪を感じ取った俺なら、と。信頼が重い。大嫌いな男にその信頼は重いぞ。
「アイリーンが乱を起こしても?」
途端、部屋の空気が凍土と化した。
「何の為に殿下にお預けしたと思っておいでか。させませんよ」
「信頼されたものだな、俺も」
「大嫌いですよ、殿下なんて」
「俺もお前が嫌いだ。気が合うな」
誰もがメレディスを非情だという。けれど、メレディスの根幹にあるのはいつだって妹への情だ。非情になりきれなかったから、こいつは今も地獄に片足突っ込んでもがいている。
「行け。一つでも情報を取りこぼしたら殺すぞ」
「……御意」
まったく、躾の行き届いた、良い猟犬だ。
◇
夜、いつもよりずっと早く部屋へやってきた殿下は、なぜかものすごく不機嫌だった。
「殿下? どうかされましたの?」
返事はなく、ずかずか中へ入ってしまう。本当に、何かあったのだろうか。念の為に控えていた侍女を下がらせ人払いを済ませる。
「殿下、」
振り返った先に姿は見えず、きょろきょろしていると名を呼ばれた。
声の方へ移動すれば、殿下は早くもベッドで横になっていた。
「あなたも早くこい」
もう頭の中は疑問符でいっぱいになってしまって。わたくしは考えることを放棄して殿下の懐に飛び込んだ。
ぎゅう、と抱きしめてくる腕は力強いけれど痛くない。加減されていることが嬉しくて、自然と口角が持ち上がる。
「レーヴェの奴、結局あなたの話はしてくれなかった」
ぴしり、と体が硬直する。
「もう直接あなたから聞くしかない」
何の拷問だろう、それは。愛でる、と宣言されていることを自ら語らねばならぬなど、わたくしが一体どれほどの罪を犯したというのか。
「アイリーン、」
目を合わせまいとうつむけた顔を、殿下の指は容易く上向かせる。そのまま顎の下をくすぐられ、体から力が抜けてしまった。
「あなたの過去を俺に教えてくれないのか?」
「そ、それは……」
「俺だけが知らない」
その声がとても寂しそうで。つられてわたくしの声も沈んだ。
「わ、わたくしだって知りません」
レーヴェさまとのおしゃべりはとても楽しくて。たくさん笑う殿下を見られるのが嬉しくて。でもレーヴェさまが語る殿下の過去は、わたくしの知らないものばかりで。
「キースさまはわたくしのものです。どなたにも差し上げません。これからのキースさまはわたくしが独り占めします。だから、北方でキースさまを待っている大勢の女性がわたくしの知らないキースさまを知っていることは、我慢して差し上げるのです」
言いつつ顔が熱くなってまた下を向いた。
わたくしの知らない殿下の過去を知っている女性たち。それはとても寂しいことだけれど、代わりにこれからの殿下のことは何一つ知らせてやらない。わたくしが独占する、わたくしだけの旦那さま。
二度と戻らぬ殿下を想って、寂しく泣けばいい。精一杯の強がりだ。
「あなたは本当に、堪らないことを言ってくれる」
嬉しそうで、でもどこかくすぐったい声。顔が見たくてあげた視線は殿下の手が塞いだ。
「なっ――見たいです」
「ダメ」
唇に触れた熱が、わたくしから言葉を奪った。
「あはは! 拗ねている俺がバカみたいだな」
頭を抱く腕で塞ぐから、自力では抜け出せない。空いた手で腰を抱くから、暴れることもできない。
「もう! お顔を見せてくださいまし!」
「ダメだ。俺だってあなたの顔を見たいのに我慢しているだろう? おあいこだ」
「殿下が勝手に塞いでいるのです!」
じたばたと足を動かしても、胸板を押しても、殿下はからから笑うばかりでちっとも放してくれない。
「なあ、アイリーン。本当に教えてくれないのか?」
「教えません! わたくしが殿下の過去を諦めたのです! 殿下も諦めてください!」
恥ずかしい思いをして我慢すると言っているのに、どうして諦めてくれないのだろう。……絶対に教えてやるもんか。意地になった気持ちが勝手に口から飛び出していく。
「わたくしは今の殿下が好きなのです! 殿下も今のわたくしで満足してください!」
わたくしの心を全部もらったくせに。わたくしに心を全部くれたくせに。
「幼いわたくしは殿下のことなんて好きになりません!」
「な――っ! 言い切ったな!?」
「殿下は意地悪です! 昔のわたくしは意地悪な殿方なんて好きになりません!」
手が放れた。視界に飛び込んできた殿下の顔には、かちーんときた、と書いてあった。笑んだ口端が引きつっている。
「そうだろうとも。あなたは優しい男が好きだったものな!」
レオンのような、と。それは声にならない言葉だった。
わたくしが気づいた、とわかったのだろう。殿下の顔が弾かれたように、痛々しく歪んだ。それを見て、わたくしはカンカンに怒った。
いつまでもわたくしが引きずっていると思って。こんなに好きだと言っているのに。ぷちーん、と。頭の奥で音がした。
「わたくしはキースさまが好きなのです! キースさまより優しい殿方は知らないのです! もう! 知らない頃のお話はおしまいです! これからのわたくしはキースさまが独り占めするのですから、存分に愛でていればそれで良いのです!!」
昔の話をいつまでもじめじめと! いい加減になさいませ!!
わーんと叫んで、はたと気づく。……今、何かすごいことを言ってしまった気がする。
じわじわと熱が集中するわたくしの顔をじぃっと見つめて、それからふわりと殿下が微笑んだ。
「あなたは俺をどうしたいんだ?」
「ど、どうって……」
殿下の手が頬を撫でる。
「アイリーン、言っておくが、俺を待っている女などいないぞ」
「……ほ、本当に?」
「あなたがいるんだ。待たせてなどやらんさ」
顔が熱い。
「さて、奥方から許可が出た。愛でさせてくれるのだろう?」
「わ、わたくし……殿下、」
「キース」
「ふぇ……?」
熱でくらくらする。喉の奥が詰まって、うまく声が出せない。
「名前を呼ぶことを覚えろ。あなたくらいしか呼べない名だぞ、出し惜しむな。呼ばねばもったいないだろう?」
もったいないって何だ。理屈がさっぱりわからないけれど、なんだか特別なことのようで。嬉しくて、それがくすぐったくて。
「き、キーしゅ、ス……しゃま」
思いきり噛んだ。
「あはは! まあ、今日はそれで勘弁してやる」
「で……キースさま!!」
「はいはい、可愛い可愛い。ほら、愛でてやるから、目を瞑って大人しくしてろ」
熱い、もう火が出てしまう。出ないで、という気持ちを込めて。
ぎゅう、とがむしゃらに目を瞑った。




