01
夏の日差しが照らす西の離宮。
終わりの見えない説教に、俺はもう何度目になるかわからない溜め息を喉の奥で潰した。
「キース、貴様まさか余にアイリーンの子を抱かずに死ねというのか?」
「まさか」
最近すっかり顔色が良いじゃねえか、とは言わない。侍医からも、もうちょっと大丈夫かも、とか言われてるらしいじゃねえか、とも言わない。
持ち直してくれたのは何よりだが、俺にもアイリーンにも黙ってる理由が、俺を脅す為といういやがらせ目的なのが腹立つ。じわじわ効くんだ本当やめろ。
「最近は寝所も別々だとか。何かあったの?」
ずっと兄に張り付いてるくせに情報収集に余念がない。
一番突っつかれたくなかった部分に話が及んで、俺はぐっとこぶしを握りこむ。
「まあ、ちょっと……アイリーンと喧嘩しまして」
一方的に怒らせた、とはさすがに言わない。
なかなか許してくれないのだ。
反省してはいるのだが、謝罪のたびに悪い虫が疼いてしまうせいで結局また怒らせている。おかげで最近はずっと一人寝だ。
「あらあら、」
「やれやれ、」
綺麗に揃う声すら腹立たしい。
「女性は優しく扱うものですよ」
「なぜ可愛いアイリーンをいじめるんだお前は」
「俺の過失だと疑いもしないな二人は……!」
当然、とこれまた声が揃った。その通りなので強くも出られない。
「アイリーンがあなたを怒らせるようなことするとは思えません」
「アイリーン相手なら非がなくともお前が土下座して終いにするだろう」
「夫婦揃って信頼が篤くて嬉しいよ」
いくら何でも信頼されすぎだろう、アイリーン。兄など刀剣王の面影が毛ほども残っていない。溺愛だ。この分だと、喧嘩するたびに俺ばかりが叱られるな。
「とにかく、さっさと謝ってしまえ」
「そうよ。もうすぐレーヴェも遊びに来るのに、夫婦喧嘩をしたまま迎えるつもり?」
レーヴェ・アレキサンド。
兄の最初の子、北方の国の騎士団第六班隊長ジュリアス・ヴィートラに嫁いだ、レオンの姉だ。レオンの身柄を預かり管理している。俺の結婚祝いを口実に、久し振りに里帰りすると言い出した。明日にも到着予定の、じゃじゃ馬だ。
「護衛はうちの第三軍が?」
「ああ。……はぁ、アイリーンもこんな阿呆に嫁いで、可哀想に」
「将軍が直々に護衛に就いたと聞いたが?」
「ああ。……はぁ、アイリーンが一人で泣いていないと良いのだが」
「レーヴェはしばらく滞在するのか?」
「ああ。……はぁ、せめてレーヴェがアイリーンを癒してくれれば良いが」
「……」
ぶん殴ってやろうか、このクソ兄貴。
「何だ、その微妙な顔は。まさか手遅れか? 取り返しがつかんほど怒らせたのか? 余らのアイリーンに何したんだ貴様!?」
「あれは俺のだここぞとばかりに盗ろうとすんな!」
「じゃあどうして仲直りできないの? まさか夜に不満が? そうなると解決は大変よ、どうしましょう陛下」
「待て、義姉上待ってくれ! ……その心配だけは本当にやめてくれ」
三十過ぎてまさか兄夫婦に夜の心配をされるとは、情けなくて死にたくなる。
「もう少し待ってくれ。ガキじゃないんだ、仲直りくらいできる」
奥歯を噛みしめる俺の気も知らず、兄が急に声を潜めた。とはいえすぐ隣に座っている義姉上には筒抜けだが。誰に向けての内緒話だ、それ。
「仲直りと称してベッドに連れ込むとマジギレされるぞ。あれは恐ろしかった……」
遠い目をする兄の隣で、やはり聞こえたらしい義姉上の双眸に怒りが宿った。兄は、気づいていない。……知らねえぞ、俺は。
「知りたくもなかった性癖の情報をどうも。二度と要らねえ」
……確かに、あの時は本気で怒っていた。あの後ばかりは一日、口をきいてもらえなかったのだ。おまけに以来、夜は寝室へ入れてもらえなくなった。そうでなくとも寝る前には部屋から叩き出されていたというのに。
「とにかく、何とかするからこれ以上の口出しは遠慮してくれ。戻っていいか? いつまでもここにいたんじゃ仲直りも何もないだろ」
そろそろ俺を解放してくれ、という気持ちが半分。義姉上がキレる前に避難したい、という気持ちが半分。とにもかくにも、俺をここから出してくれ。
「うぅむ、しかたない。戻れ」
席を立ち脱兎のごとく扉へ直進する。
部屋を出る直前、陛下、と呼ばれた兄の口から飛び出したひぇっという悲鳴に、俺は口角を吊り上げた。――ざまあみろ。
◇
執務室に戻ると、待ってましたと言わんばかりのタイミングでメレディスが乗り込んできた。差し出された書類の束を受け取り、ざっと目を通す。……上下どころか表裏までバラしてきやがった。
決闘を禁じられた途端、嫌がらせの内容を濃くするというのはもう、いっそ清々しいほどの悪意だ。俺のこと嫌い過ぎだろう。
「何しに来た」
「意地悪しに」
「帰れ……!」
「お断りです」
喜色満面。愉快で堪らない、と顔に書いてある。
「勝手にしゃべってますので殿下はどうぞ、書類に集中してください」
「その書類のせいでちっとも集中できてねえんだよこっちは」
「それはそれは、昼食を抜いた甲斐がありました」
こいつ、本当はバカなんじゃないだろうか。最近、本気でそう思う。この感情はもう、心配といってもいい。大丈夫だろうか。
「どうですか、アイリーンには許してもらえそうですか?」
取り消す。脳が腐っていようが溶けていようが知ったことか。
サインをして、書類をめくって、向きを揃える。それだけに集中して、メレディスの声は意識から弾き出す。
「おや、アイリーンも強情ですね」
メレディスの声が嬉しそうに弾んだ。
「顎の下をくすぐってやらないからですよ。あの子はそれですぐ大人しくなります」
機嫌よく放られた情報を、耳が勝手に拾った。ぐぅ、と喉の奥で唸る。
「……俺の奥方は犬じゃねぇぞ」
「猟犬ですけどね」
「……」
何でこんなくだらない会話なのに、そんな嬉しそうなんだこいつは……!
心を乱されるだけ損だとわかっている。わかってはいるのだが、俺を不快にさせるためだけにつくりこんであるこの笑顔がどうしようもなく、腹立たしい。
「そう殺気立たないでください。満足したので出て行きます」
「さっさと出て行け。二度と来るな」
「無理だとわかって言ってますね、殿下」
最後はなぜか呆れを含んだ声で、溜め息までついてきた。
アイリーンとの結婚の為に追いかけ回した古狸の一匹、宰相は、それはそれは根深い怨嗟を抱いているらしく、俺への連絡はどんな些事であってもメレディスを介するようになった。俺の嫌がることを良く知っている。
扉へ向かうメレディスに舌を鳴らし、書類に向き直る――
「そうそう、私はあの後すぐ許してもらったのですけれど、どうして殿下はダメなのでしょうね?」
ベキィッと。手に持ったペンがへし折れた。
一瞬で、脳が沸騰するような殺意に支配される。ダメ、と言ったかこの男。それがアイリーンに許してもらえない、という意味でなく俺を否定する意味で落とされた言葉だと。俺が気づかない可能性を思い浮かべただけで、ぶちのめす理由としては十分だ。
「よし、殴る」
立ち上がった俺を見てもまだ、メレディスの余裕は崩れない。
「決闘は禁止されたでしょう?」
「ああ、だから殺さずいてやる」
右腕一閃。
「あっ――ぶ、ねぇでしょう!? 正気ですか!?」
「チッ……避けるな殺すぞ」
「正気じゃないですね!」
うるせえ、と足を払うが、これも躱される。
「ずっと思ってましたけど、アイリーンの前で猫被り過ぎでしょう!? 凶暴さと口の悪さの落差が激しいんですよ!! あとすぐ手が出る!!」
「ああ? お前とアイリーンで同じ態度なわけねえだろ!」
「限度があるでしょう!? 子猫と獅子くらい違いますよ!」
だから何だ。可愛い奥方に好かれようとカッコつけて何が悪い。
頭蓋を掴もうと振るった腕は空を切り、メレディスは身を翻して出て行った。
深々と溜め息を吐き出す。どっと疲れが押し寄せる。一発も当たらなかった。ペンも壊れた。良いことなしだ。
さて、メレディスは即日許されたと言ったな? ……よし、泣かそう。
◇
そろそろ眠ろうかな、という時間帯。いつものように扉の外が騒がしくなる。
夜は一人で寝てください、と突き放した日から毎夜、殿下は懲りずにやって来る。仲直りと称してベッドに連れ込まれて以来、部屋に入れるな、と命じている番犬との攻防は殿下の負け越し、連敗記録更新中だ。
さて、喧騒がやみシン、と静まり返る。あとは殿下の悔しげな声が響いて、それでおしまい――
――ばあんっ! と。
可哀想なほどの音を立てて扉が開け放たれ、殿下が室内に入ってきた。
「勝ったぞ!!」
鼻血を垂らして、着衣も乱れて、擦り傷だらけで、ボロ布のようになった殿下が肩で息をしながら、それでも声を張った。ぐいっと鼻血を拭った殿下が大股でわたくしとの距離を詰める。
……わたくしが鍛えた番犬を、少数の配置だったとはいえ全て打ち負かした。
その言葉にわたくしは、
「さすがはわたくしの旦那さま」
心からの笑みをもって称賛する。怒っていたことなど全部どうでもよくなった。全部許した。なんにも覚えてない。
「……アイリーン、そろそろ勘弁してくれ」
「もちろんですわ、キースさま。わたくし欠片も怒っていません」
にこにこ見上げるわたくしを見て、殿下の表情も緩んだ。しかしそれは一瞬で、深い、深く長い溜め息を吐きながらその場にしゃがみ込む。
番犬が殿下の強さにうっかり本気で殺しにかかったか、と不安に駆られ、慌ててそばによる。同じようにしゃがみ込んで顔を見ようと覗き込むが、腕で隠れて見えない。
「殿下、殿下どうされましたの?」
顔が見たくて腕を引っ張るが、ビクともしない。
「殿下――」
「アイリーン」
息が詰まった。
「あまりいじめてくれるな」
唇の上で囁かれ、返事も許されず、今度は深く口づけられた。
触れる唇が熱くて、頬に添えられた手が熱くて、ぎゅっと瞑った瞳すら熱くて。燃えるような熱に浮かされて眩暈がする。
何度されてもちっとも慣れなくて、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうで。そのせいで殿下はふとした隙をついてはこうしてしかけてくる。
「んんん~~……意地悪ですわ!」
「あはは! 勝利の褒美をねだっただけだ」
「言葉でねだってくださいまし!」
「あなたからしてくれるのか、嬉しいね。次回からはそうしよう」
「――っ!? 意地悪ですわ!!」
もう、もうと、言葉にならない感情を込めて殿下の胸板をぽかぽか叩く。キスをされるとふやけてしまって、握った拳に少しも力が入らない。そんなわたくしの様子も殿下を喜ばせてしまうようで、楽しそうにからからと笑っている。
「可愛い可愛い。よし、寝るぞ」
一人、満足げにうんと頷いて、殿下はさっとわたくしを抱き上げベッドへ向かってしまった。
「殿下、手当をしませんと」
「もう待てん」
「辛抱してください。すぐ済みます」
「うん、嫌だな」
さらに重ねようとするわたくしをぽーんとベッドの上へ放り投げ、強引に言葉を潰した。
「ら、乱暴ですわ!」
「あっはっは、久し振りではしゃいでいる。許せ」
快活なその声と晴れやかな笑顔に、きゅん、と。胸の奥が小さく鳴いた。
「どうした? 可愛い顔して」
「な、何でもありませんわ……」
痛いほど鳴る鼓動は殿下にまで聞こえそうで、そっと胸に手をやる。熱が集中した顔からはもう火が出そうで、きつく目を閉じる。
「アイリーン」
「……はい」
「今日は寝るから、そういう顔はよしてくれ」
どんな顔でしょう……?
目を開け見上げると、困ったような顔をしている殿下と目が合った。
「自覚的でも参ってしまうが、無自覚というのも危ういな」
「何のお話でしょう?」
「う~ん……良い、忘れろ。それより俺は、あなたに聞きたいことがあるんだ」
ベッドにもぐりこんだ殿下は、わたくしを包み込むように抱きしめた。これでは寝返りも打てない。一応、抵抗らしいことをしてみるが、力ではどうあっても敵わないことを思い知らされただけだった。
「メレディスが機嫌よく教えてきた」
「お兄さま?」
「あっちは即日許したと聞いたぞ。不公平じゃないか?」
それは、まあ……しかたないだろう。何せ足に短剣だ。
「俺は一人寂しく枕を濡らしていたというのに、ひどい奥方だ」
「いくら鈍いわたくしでも、それが嘘だということくらいはわかります」
「本当だとも。もうあなたの体温なしでは眠れないんだ」
「抱き枕のような扱いですのね」
「愛する妻の扱いだと思うが?」
むぅ、こういうやりとりでは勝ち目がない。重ねれば重ねるほど、わたくしが追い詰められる。悔しくて睨んでも、殿下はどこ吹く風だ。
「それで? なぜ俺ばかり許されなかったのか教えてもらおうか」
「そ、れは……っ、くぅ~ん……」
殿下が意地悪するからですわ、と。言おうとしたわたくしの顎の下を殿下の指がくすぐった。くすぐったくて、喉から変な声が出た。堪らず腕を振り払いきゃんきゃん吠える。
「もう! わたくしをどうしたいんですの!!」
「うん? 抱き潰したい」
「だっ――!?」
「しかしな、今日はもう体力が底を尽きた。すっからかんだ」
ぎゅう、と抱きしめる腕に力がこもる。
「だから、寝る」
言うなり目を閉じた殿下から、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
なんて方でしょう。残り少ない体力を使い果たした瞬間にコテンと眠ってしまうなんて。
ふふ、とこぼれた笑みに慌てて口を塞ぐ。
――殿下ったら、子どもみたい。
おやすみなさいませ、と。寄せた唇はしかし、起こしてしまうかも、という気持ちに負けた。




