プロローグ
「嫌だ」
お兄さまの返事は実に簡潔で、そして実に大人げなかった。
午後の庭園。夏の気配が春を呑み込み始め、外で過ごすティータイムはそろそろ厳しくなってくる時期だ。そんなことをぼんやり考えながら散歩をしていたわたくしの元へ駆け込んできた兄は、なぜかボロボロだった。
「お兄さまったら……」
「嫌だ」
「嫌だ、ではありません。恥ずかしいですわ」
「はずっ……! あ、アイリーン、どうして兄ばかりを責める? あのクソバカ王太子だって私の申し出を受けたんだ。同じだけ責めないと不公平だ!」
子どもか。
軍神を信仰する国だ。国民性として喧嘩っ早いのはしかたない。我が家の人間は特に、家柄もあってかなり、ものすごく喧嘩っ早い。しかしそれは、鉄の意志で抑え込み笑顔の仮面を被るのが我が家のルール。……我が家でなくとも、拳の前に言葉で喧嘩するのは人間として当然の選択だ。
なのに、国が法として定めた決闘を持ち出してまで喧嘩するなんて、カサンドラの風上にも置けない。こんな人が我が家で一番優秀で、歴代最高の猟犬で、我が家は本当に大丈夫だろうか。
「お兄さま、勝ちましたの?」
「へ……?」
「鼻血垂らして、頬も腫れあがって、右目には青痣までつくって。随分と男前が上がりましたわね、お兄さま。で? それだけボコボコにされたのです。殿下にも同じだけ返し、見事勝利を収めたのでしょう?」
にっこり笑んで迫る。
陛下に付き添う王妃さまの名代として後宮の管理を任されているわたくしは、兄の愚痴に延々と付き合ってあげられるほど暇ではない。――たとえ暇でも、敗走して逃げ込んできたということなら、死にかけでも叩き出す。
「あ、アイリーン……」
「アイリーン、あまりいじめてやるな」
びきぃ、と。お兄さまのこめかみに青筋が駆けた。
「いじけてるんだ、優しくしてやれ」
「あら殿下――」
背後から近づく気配に振り返って、表情が抜け落ちた。
穴が開くほど、殿下の顔を凝視する。鼻血の痕はなく、頬はつるりとし、瞳にはいつも通り悪戯っ子のような気配が宿っている。そっと、忍ばせていた扇を取り出す。
「お兄さま」
「ひぃっ」
心が底冷えしていく感覚に、自然と声から熱が抜けていく。
「カサンドラの猟犬が決闘の場において一方的にぶちのめされたなどという不名誉を晒しておきながら、よくわたくしの元へ逃げ込めましたわね?」
再教育だ。ぱらり、と扇を広げる。
「この世にも地獄があるということを、思い出させてあげなさい」
直後、雨のごとく礫が降り注いだ。さすがにこれは容易く避け、お兄さまは身を翻した。遠ざかっていく背を追うように、今度は短剣の雨が降る。
今日は晴天、運動するにはいい天気だ。
「面白いな。それが合図か?」
「こんなことの為にあるのではないのですが、今回はしかたありません」
番犬。カサンドラ家当主の影、絶対服従の護衛団。
本来なら領地にいるお父さまに張り付いているはずの彼らを、お父さまは丸ごとわたくしに譲渡した。寝ても覚めてもまとわりつかれて煩わしい、と。
娘を心配してのことだ、と感激したこともあったが、違った。本当に煩わしさから押し付けていた。隠密行動に特化した彼らの気配など、空気と変わらぬはずなのに。そこにいるけど、どこにもいない。それが番犬であるはずなのに。
わたくしへの譲渡はさすがに番犬も吠えたようだが、全員をぶちのめして黙らせたのには驚いた。俺より弱いやつに守られてもしかたないだろ、と言い切ったお父さまは、それはそれはカッコよかった。お母さまが惚れるだけのことはある。さすがはわたくしのお父さま。
護衛対象にボコボコにされたときゃんきゃん泣く彼らを慰めているうちに懐いたので、そのままわたくしが頂戴した。
「あなたの家は、本当に飽きないな」
「光栄ですわ。でも似たような護衛を殿下もお持ちでしょう?」
「まあな、だがあなたのほど面白くない。……あれは、あなたの言うことなら何でも聞くのか?」
「父はあれを放棄しましたから、命令系統の長はわたくしですわ」
だから、兄がやめろと言ってもやめない。
「なるほど。俺も気をつけねばな」
「あら、わたくしを害さなければ彼らも噛みつこうとはしませんわ。それに、殿下は強い方ですもの。お兄さまに勝ったのですから、人気は急上昇です」
強い。そう、強いのだ。殿下はあまりに強すぎる。
兄は喧嘩で手を抜いたりしない。本気で殴り殺そうと挑んで、そして負けている。規格外だ。兄がめちゃくちゃに喧嘩を吹っかけるせいで慣れた、ということもあるのだろうが、それにしたって強すぎる。強くなりすぎている。
「どうした?」
「殿下、兄からの決闘をぽんぽん受けてはいけませんわ」
「何だ、説教か」
つまらない、と呟いた殿下の鼻をつまむ。
「大人なのですから、拳の前に言葉で殴り合ってくださいまし」
「……しかけるのはあいつだ」
「断ってください、子どもの駄々なのですから。大体、決闘が頻発するほどの何があるというのです?」
今月に入って五度目の決闘、頻度が高すぎる。この国の決闘のルールは、そう気安く申し込んだり受けたりできるものではない。証人も介添人も付けずにその場の勢いで始めて、申し込みの作法さえ守っているか怪しいというのに名ばかり決闘と言い張っている。そのくせ死んでも恨みっこなしだ。うっかり置いて行かれた場合の、家族の身にもなってほしい。わたくしはどちら側にも含まれる。
「毎回、書類の上下を入れ替えるから面倒になって、そのまま判を押したんだ」
子どもか。
え、嘘……本当にそんな理由で決闘したの? わたくし、そんな理由で毎回、兄か夫を喪うかもしれない状況に立たされているの?
すう、と心が冷えていく。握った扇を広げようとして、全員を兄にけしかけたことを思い出した。
「殿下、今後一切、兄との決闘は禁止です。大人の作法での喧嘩を覚えてください」
「しかけるのはあいつだ」
「禁止です。兄にはわたくしから伝えます」
不服そうな顔を睨め据える。
「決闘をしたら離婚です。兄とも縁を切ります」
「ぐっ……それは困る」
わかった、と頷いたのを確認して、わたくしは追撃する。
「わたくし怒りましたので、しばらく夜はお一人で寝てください」
「は……?」
「しばらく反省されるとよろしいでしょう。兄にも何か罰を考えなくては……」
辞去を述べ、踵を返す。しかし踏み出す前に、殿下に腕を引かれた。
「ち、ちょっと待て、アイリーン!」
「……何でしょう」
「俺が悪かった、反省した、すまない」
眉尻を下げて肩を落とす姿は、まるで雨に濡れた子犬のよう。その憂い顔は思わず抱きしめたくなるほどの悲愁を背負っている。けれど、
「その調子ですわ、殿下」
わたくしの怒りを静めるほどではない。
「アイリーン!? 待て待てまだ行くな!!」
解こうと腕を振ってもビクともしない。ムッとしてぶんぶん振ってみるが、がっちり掴んだ殿下の手はやはり放れない。
「わたくしは怒っているのです」
「チャンスもくれないのかあなたは!?」
「殿下は上手に誤魔化してしまうから駄目です」
「誤魔化されている自覚はあるのか……」
むぅ……悔しいが、ある。
わたくしがカンカンに怒っても、殿下はのらりくらりと躱してしまう。まあいっか、と流されてきたせいで、殿下はわたくしの怒りをうやむやにする腕ばかりメキメキあげている。
今日こそはきちんと怒って、反省することを覚えてもらう。わたくしの決意は固いのだ。
駄目です、と譲らないわたくしに本気を見たのか、殿下はうんうん唸っている。その間にも腕を引き剥がそうと奮闘するが、こればかりは頑として放してくれない。
ふと、殿下が表情を輝かせた。
「そうだ! アイリーン、俺はあなたの兄に勝ったのだが?」
思い出したような殿下の声にハッとする。
わたくしとしたことが、と怒りを一旦、隅の方へ追いやる。姿勢を正し、正面から殿下に向き合い、心からの笑みを浮かべる。殿下も背筋を伸ばし、手を放した。
「お見事ですわ、キースさま。さすがはわたくしの旦那さま」
「あなたは本当に、勝利を褒める時は惜しまないな。俺が戦闘狂になったらあなたのせいだぞ」
「あら、そうなる前に、わたくしが噛み殺して差し上げますわ」
「……心強い奥方だ」
嬉しそうに腰を抱き寄せる腕を、やんわり押し返す。殿下の笑みが引きつった。わたくしの笑みは崩れない。
「それとこれとは話が別です。しっかり反省なさいませ」
では、と今度こそ踵を返し、殿下の手が届く前に走り去る。
誤魔化されてなるものか。
さて、兄への罰も考えなくては。番犬を動かすことも視野に入れつつ、ひとまずはわたくしの寝所から殿下の私物を運び出す。それだけは固く決意した。
◇
回廊を歩いていると、聞き慣れた声が叫んでいた。
「アイリーンまだか!? アイリーン!? 早く来ないと兄が死ぬぞ!!」
どうやらわたくしが戻ると確信しているらしい様子に、ちょっとムッとする。角を曲がると、わたくしの部屋の前でお兄さまが番犬を次々殴り飛ばしていた。建物内に入ったことで、直接戦闘へ切り替えたらしい。
すぐさまわたくしに気づいた兄が絶叫する。
「アイリーン! 私が悪かった! 反省してる! すまない!」
殿下と同じ謝罪に、ますますムッとする。
「なぜさらに怒ったんだ今!? ちょ、待て本当に死ぬ!! いくら何でもお前らアイリーンに従うようになってから腕を上げ過ぎだろう!?」
褒められた、と受け取ったのか、番犬たちが剣を抜いた。
殿下に惨敗するような腑抜けでも、お兄さまの評価はまだまだ高い。褒められて喜ぶ程度にはしっかり懐いている。
「違う褒めてない! ――っっこちらは素手だぞ!?」
お兄さまはもう泣きそうだ。でも駄目、まだ許さない。
「お兄さま、今後一切、殿下との決闘は禁止です。決闘をしたら縁を切ります」
「アイリーン!? 痛っ! アイリーンそれは困る!!」
「禁止です」
「ぐぅ……わかった! わかったからこいつら止めてくれ!!」
もう少し、反省してもらう必要がありそうだ。
「陽が沈んだら戻りなさい。――それまではお兄さま、頑張ってください」
悲鳴のような兄の声を聞きながら、わたくしは部屋に入った。扉を閉めてから、兄への罰を伝えていなかったことを思い出す。慌てて扉を開けて――何かがぶつかったのが衝撃で分かった。次いで『あ……』といかにもやっちゃったという空気の声と、血の匂い。
あーあ、やっちゃった。
「アイリーン」
「はい、お兄さま」
「私が悪かった、すまない。反省したから、これで許してくれないだろうか」
「はい、お兄さま」
兄の太腿に刺さった短剣を見て青褪める番犬を散らし、医官を呼ぶよう侍女に言いつける。
「また医官に叱られるぞ。なんて言い訳したらいいんだ」
また、と言った。大方、殿下と喧嘩するたびに叱られていたのだろう。それでも懲りずに吹っかけるのだから、この兄もなかなかしぶとい。
「わたくしを怒らせた、と素直に言ってしまえばよろしいですわ」
「倍叱られるじゃないか」
「自業自得です」
ぐぅ、と唸って何やらぶつぶつ口の中で呟いている。素敵な言い訳を思いつくと良いのだけれど。
「では、お兄さま、わたくしはお先に」
「え、嘘……私を置いていくのか? 足に短剣が刺さってるのに!?」
「置いていきます」
医官のお説教は厳しく長い。
「わたくしまで叱られるじゃありませんか」
そんなのお断りだ。
「まあまあ、妃殿下。そうおっしゃらず、聞いて行かれなさい」
穏やかな、しかし有無を言わさぬ声に跳び上がる。
振り返った先には果たして、数多いる医官の中でも最高位。最も腕が良く決して声を荒げたりしない。代わりに最も説教が長く切なる反省が見えるまで決して許さない厳しさを持つ我が国の重臣が、晴れやかな笑顔で青筋を立てていた。
「どういう喧嘩をすると人の太腿に短剣が刺さるのか、わしもじっくり話を聞かせていただきたいですからのぅ」
「あ、あのこれは……」
「まあまあ、とりあえずそこにお座りなさい」
逃がしませんよ、と。猛禽類を思わせる双眸がそう告げる。
「はい、すみません……」
「まったく……仲が良いのもよろしいが、喧嘩はまず、言葉でおやりなさいね」
子どもではないのですから、という言葉が耳に痛い。
「申し訳ありません……」
深々と吐かれた溜め息が、怒りの度合いを突き付けてくる。あぁ、これは長くなるやつだ、と。腹にぐっと力を入れて、覚悟する。
――懇々と続いた説教は夜まで及び、それでは、と終わりを告げられる頃には兄もわたくしも、足が痺れて立ち上がれなくなっていた。立ち上がる為の手助けを、彼は当然、してくれなかった。




