エピローグ
その日、結婚式は盛大に開かれた。
盛大に、と命じたのは陛下だったけれど、その陛下が終わりのほうではげっそりしてしまうほど、それはそれは盛大な式になった。
信仰する神が不誠実な軍神であるせいか、この国の結婚式は名ばかりの宴会になることが多い。書類上の婚姻がきちんと整っていれば、それだけで婚姻の儀自体は終了だ。式はおまけなのである。この時ばかりは貴族の秩序などかなぐり捨てて、飲めや踊れやの大騒ぎ。ついでに無礼講、結婚式の間のできごとに関して宵越しはなし、というのが暗黙のルールだ。もちろん王族にも適用されるとあって、日頃の憂さ晴らしの場としても大いに盛り上がる。大人しくしているのは入場の間だけ。どこかの貴族の結婚式では、始めます、と言われた途端に大乱闘が始まったこともあるのだとか。
宮廷貴族も例に漏れず、開始の号が出た途端、お上品な人間など一人もいなくなった。
泣きつく侍医を蹴り飛ばしお酒を飲もうと暴れる陛下、騎士団の猛者達を涼しい顔で呑み負かす王妃さま、なぜかお兄さまと殴り合いの喧嘩を始め鼻血を垂らす殿下。上がこれでは下もいい子でいるだけ損だ。
お兄さまと殿下の喧嘩では賭け事が始まり、ここ最近ずっと胃痛に悩まされ、逃げ回ったせいで関節痛まで再発したと怒り心頭な古参の臣下達は有り金をすべてお兄さまに突っ込んだ。
結婚式の最中はどこかしらで何かしらの賭け事が始まるので、参加者は全員まとまったお金を握りしめて入場する。宵越しの金は持たない、と破産寸前まで持ち込む猛者もいるらしい。投じた金をとり返すのも、賭けの結果を覆すのもチャンスは式の間だけ。式が終わり、日が変われば勝っても負けても全財産をすっても、どんな結果になっても恨みっこなし。それがルール。そのせいで翌日、破産した夫を叱り飛ばせないご夫人は邸を出る前、必死になって夫の財布を検めるのだとか。
「あなたも賭けろ!」
お兄さまの顔を打ちながら殿下が怒鳴る。酒は飲むな、と一方的に厳命されてムッとしていたわたくしは手持ちのお金の半分を殿下に賭けた。代わりに、
「頑張ってね、お兄さま」
お兄さまにだけ声援を送り、見届けもせずさっさと離脱した。
近くで、お兄さまの奮闘をうんうん唸りながら見守っていたお父さまの隣に腰かける。お父さまは、ちらり、とわたくしのほうを一瞥し、渋面のまま口を開いた。
「やっと妹バカを認めたらしいな、あの馬鹿は」
「お兄さまには言わないであげてくださいね。きっと泣いてしまいます」
お父さまが、ぐぅ、とまた唸る。
「他では何者も寄せつけんのだがなぁ。どうしてお前のこととなるとああも馬鹿になるのか」
「お父さまに似たんですわ。お兄さまは、歴代最高のカサンドラの男ですもの」
「ふんっ……嫁も迎えず妹一筋か。まあ、領地にいる俺では守ってやれんお前の為に、しがみついて宮廷内に留まったんだ。褒めてやるか」
溺れるほどの情。ひとたび愛すると決めた相手の為になら、カサンドラ家の男は神殺しだって成し遂げる。それほど深く、わたくしを愛してくれたお兄さま。
「妹離れができたようで俺もホッとしたよ。放っておいたら、死ぬまでお前にくっついてずっとじめじめしてたぞ、あいつ」
お兄さまったら散々な言われようだ。でも本当にそんな気がするから、否定してあげない。
「お兄さまのお嫁さま候補探し、わたくしも手伝いますわ。お父さまにお任せすると、きっとお母さまのような女性ばかり選んでしまいますもの」
「あいつほどの女などおらん!」
「お父さまも、そろそろ嫁離れしてくださいね」
「あいつみたいな言い方するな! お前そっくりなんだから!」
泣くぞ、と言ったお父さまの目からぽろりと涙がこぼれた。お母さまの言う通り、わたくし達のお父さまは泣き虫だ。
「アイリーン、幸せになれそうか?」
しくしく泣きながら、お父さまがわたくしの目をじっと見据える。
「お兄さまの折り紙つきよ、お父さま。それに、殿下はお兄さまより強いもの。軍神さまにだって結婚生活の邪魔はさせませんわ」
ほら、と指差す先では、お兄さまが顔から床に沈み込んで負けていた。すぐさま古狸さま方が寄ってきて情けないと叱咤を飛ばす。
「そうか。……では、お前の為に殿下をぶっ飛ばしてくる」
「意味がわかりません」
眸はまだ涙で濡れていたけれど、すっくと立ちあがったお父さまの顔は戦士のそれになっていた。
「お手柔らかにお願いします」
「うむ、断る!」
なんだかとっても楽しそう。娘の旦那さまを嬉々として殴り飛ばしに行くお父さまを、わたくしは何とも言えない表情で見送った。
入れ替わるように陛下がやってきた。がっくりと肩を落とし、わたくしの隣に腰を下ろす。
「むぅ、なかなか飲ませてもらえん」
「みな陛下が好きなのですわ。我慢してくださいまし」
さりげなく陛下の手からワイングラスを盗む。ぐい、と干して、陛下には水の入ったグラスを持たせた。
「王妃もさっぱり構ってくれんし」
「……陛下にお酒が渡らないように、盾になってくださっているのですわ……きっと、多分」
絶対に違うけれど、しょんぼりした陛下に真実を告げることはできなかった。タイミング悪く王妃さまが座っている辺りから湧き上がった歓声を、咳払いで誤魔化す。
「アイリーン、後悔せぬか?」
しょんぼりした陛下の声は、泣き出す前の子どものようだった。お酒が飲めないことに対する悲傷だけではないのでしょう。うつむいた陛下の双眸は、ひどく真剣だった。
「愛する国の為とそなたは快諾したがな、余は後悔しておる。王としてではなく、大人としてな」
こんなにも、わたくしの為に心を割いてくださる。そんな陛下だからこそ、わたくしは素直に言ってしまおうと思った。
「陛下、これは殿下には絶対に内緒ですよ」
こっそり耳に口を寄せる。
「実は、殿下のことを愛してしまったんですの」
それは多分、国への愛よりずっと深い。
陛下は目を数度ぱちくり瞬いて、それからにんまり笑った。
「余もな、男としては国より王妃だ。参ってしまうな」
「そうですわね」
二人でくすくす笑い合う。
「旦那を差し置いてさっそく浮気か?」
意識の外からかけられた声に、跳び上がるほど驚いた。
「阿呆なこと言うな馬鹿者が! アイリーンは可愛いが、余は王妃一筋だ!」
「だったら俺の奥方と引っついて楽しげに笑うな! 俺はまだドレス姿を褒めてもないんだ!」
「ほったらかして遊んどるほうが悪い!」
「遊びで目潰しをしかけてくる奴がどこにいる!? あなたの家の男はみなああか? メレディスも義父上も、初手は目潰しだったぞ」
矛先がこちらに向いた隙をついて、陛下がそそくさと離脱していった。この状況で置いて行くなんてひどい。
恨み言の一つでも言ってしまいたくなったけれど、諦めて殿下と向き合う。
「勝ちましたの?」
「まず聞くのがそれか!? これだからカサンドラは……勝った、勝ったよ。負ければ返してもらうなどと脅されて負けていられるか!」
見れば、ぐったりしたお父さまを数人がかりで抱え起こしているところだった。カサンドラの暴れ熊と呼ばれるお父さまは、全身が筋肉でできているせいでものすごく重い。
……わたくしのお父さまが、負けた。
「さすがはわたくしの旦那さま」
勝利への称賛は惜しまない。心の底から笑んだ。
それを見て、殿下は深々と溜め息を吐きながらしゃがみ込んだ。
「うん、もういい。あなたにそう呼んでもらいたくて頑張ったんだ」
節が赤くなった手が頬を撫でる。
「男前が上がりましたわね、キースさま」
「喧嘩で男が上がるなら、毎日でも誰かぶっ飛ばすぞ」
ふふ、と笑みがこぼれた。
頬を撫でながら、ふと殿下が意地の悪い顔で笑む。
「そういえば、俺とは夫婦していられないから離婚するのだったな。決意は固いか?」
表情通り、とんでもなく意地悪なことを言いだした。よっぽど据えかねていたらしい。
意地悪されると意地になってしまいたくなる。喧嘩してじゃれるのが楽しい、とわたくしに教えた殿下のせいだ。
「おめでたい場でまで意地悪なさるのね。わたくし、ドレス姿を褒めていただくのを心待ちにしていましたのに!」
これは本当だ。渾身の気合を入れて着飾っている。頭の先から爪先まで、余すことなくばっちり殿下の好み一揃いだ。陛下と王妃さまから詳細に聞き出したので、これは間違いない。
「そうやって意地悪ばっかりなさるから、わたくしから心をもらい損ねるんです!」
「なっ――! 一度はくれると言っただろう!? 綺麗さっぱり忘れたから無効だとめぇめぇ泣くから、しかたなく待っている俺が可哀想だ」
「泣いていません! わたくしはカサンドラの女です、そんなにぽんぽん泣いたりいたしません!」
「覚えてないだけだ。涙を呑んで慰めた俺の身にもなれ!」
ムッとして睨めつける。なかなか褒めてくださらない。結婚式の最中だというのに、どうして素直に褒めてくださらないのでしょう。今日のわたくしはとびきり可愛いはずなのに。そう思ったらかちーんときた。
「甘やかして優しくして慰めてくださる約束です! 人生で一番可愛くしているのですから、早く褒めてください!」
人生で一番だ。これから先こんなに可愛いわたくしなんて絶対に見られないのに。どうして褒めてくださらないのでしょう。殿下に一番に褒めて欲しいから、お兄さまにもお父さまにも褒めるのは待ってねってお願いまでしてあるのに。
「……メレディスが殴りかかってきたのはそのせいか」
なんだか泣きたくなってきた。でも泣いたらお化粧が落ちてしまう。
「アイリーンに酒を飲ませたバカはあとで俺が直々にぶっ殺す」
泣きたくなくて、両の手で目を塞ぐ。
「はぁ……俺はまた心をもらい損ねるのか。アイリーン、俺の人生であなたほど可愛い女性は見たことないよ。可愛くて堪らないから、おいで」
抱っこの予感に、迷わず両の手を伸ばす。触れる体温はわたくしのお気に入りで、それだけでご機嫌になってしまう。
「あなたはそのまま眠ってしまうんだろうな」
「起きてますわ」
ぱちぱち、と瞬きを繰り返す。視線の先では、顔を真っ赤にしたお兄さまが怒りながら泣いていた。
「素面のあなたから心をもらうのは無理かもしれんな。ここぞという時に限って酒に邪魔される」
「差し上げますわ。わたくしの心は全部、殿下に差し上げます」
「、は……?」
だってもう殿下を手離せない。殿下なしではいられない。優しくされるのも、甘やかされるのも、慰められるのも、全部、殿下がいい。
「もらってくださるでしょう?」
「もちろん」
背を撫でてくださる手が心地いい。
「しかしアイリーン、あなたはどうせ明日になれば綺麗さっぱり覚えていないと言い出すぞ」
「大丈夫ですわ、証人はたくさんいますもの」
「無理だな、明日には持ち越さないルールだ」
「ルールなんて知りませんわ。わたくしと殿下の愛の為ですもの。持ち越してくださいませ」
しーん、と水を打ったように会場が静まり返った。わたくしは静寂が心地良くて、目を閉じる。
――と、爆音のような音が響いた。びっくりして目を開ける。一気に覚めた。
「アイリーン! 王太子をぶん殴ったのに持ち越されては困る!」
「全財産すったのに持ち越されては困ります! 妻に殺される!」
「持ち越さないと思っていたから、殿下ではなくメレディス殿に賭けたのですぞ!?」
「結構な暴言を吐いたぞ!? 持ち越されたら弱みになるじゃないか! アイリーン、兄をいじめないでくれ!」
四方八方から悲鳴が上がる。阿鼻叫喚だ。
「あっはっは! アイリーン、どうする? これでもあなたは、俺に心をくれるのか?」
「……差し上げます。どなたが泣いても撤回しません。今決めました!」
「そういうことだ。貴様ら、愛の為だ、諦めろ!」
悲鳴から逃げ出すように歩調を速めた殿下に縋りつくふりをして、燃えるような顔を伏せる。
「確かにもらったぞ。泣いても返さん」
「はい、キースさま」
わたくしの心は全部、殿下に差し上げます。
嬉しい、と。耳元で囁く殿下の声でより顔が熱くなって、でも両手は殿下を抱きしめる為に使ってしまっていて。耳を塞ぐ代わりに、わたくしはそっと目を閉じた。
幸せで、幸せで。あふれるほどの幸せが一粒、目端から滑り落ちた。




