09
午後の穏やかな日差しが心地いい、西の離宮。ようやく療養に専念できるようになった陛下と、付き添いという名目で夫を独り占めしている王妃さまと、わたくしの三人で催されるティータイムのお茶会が今日も始まる。
心労が減ったからか、肩の荷が下りたからか、最近の陛下はとても顔色がいい。まだ公務から完全に離してさしあげることはできないけれど、宰相さまを筆頭に臣下総出で陛下から仕事を取り上げているのが現状だ。
「アイリーン、キースにいじめられていまいな」
「はい、陛下」
「アイリーン、キースはちゃんと優しいかしら?」
「はい、王妃さま」
最近、あまり会ってはくださらないのだけど、これは黙っておく。件の夜のことは結局ちっとも思い出せず、それを聞いた殿下はがっくりと肩を落とした。お兄さまによると、魔王も斯くや、と古狸達を追い詰めているらしい。
「あれはとにもかくにも口が悪い。鉱山の男所帯で鍛えられ市井で揉まれたあれの物言いは、うっかりするとそこらの貴族を卒倒させる。おまけに性格も捻じ曲がっておる。対する時は心を強く保つのだぞ」
まるで敵と対峙する際の心構えのような教えは、耳朶に刻み込まれてしまいそうなほど、毎度強く念を押されている。良いな、と迫る陛下の表情は真剣で、わたくしが頷くまで決して視線を逸らさない。おかげで、殿下と話をする際はちょっとだけ緊張するようになってしまった。
「いじわるされたら私達に教えてね。ちゃんと叱っておきますから」
王妃さまもまた、にこやかに念を押す。
まるでやんちゃな幼子に対する言葉の選び方だ。けれどおっとりした声音とは裏腹に目が据わっていらっしゃるから、報告したら本当にお説教が始まることでしょう。
「殿下は、お優しいですわ……とても」
言いつつ口端がわずかに引きつるのを感じる。いたるところがむず痒い。
大事にされている、と知ることは嬉しい。反面、とても照れくさい。殿下の愛し方はわたくしには未知の領域で、翻弄されっ放しなのだ。
「あれは闊達な男だ。面倒は遠慮なく押しつけてしまえ」
「うふふ、大抵の苦労なら買い取ってくれますよ」
殿下は窮屈な貴族社会のルールに縛られない。暗黙の了解など知ったことか。公にできないルールなど敷くな煩わしい、と蹴散らして古参の臣下達を困らせていると聞く。結果としてはこれ以上ない成果をあげるので文句も言えず、胃痛を訴える患者が増えたと医官達が首を傾げているらしい。不満になる前にさり気なく飴も与えているようで、その手腕は宰相さまをして手放しで見事と言わしめた。お兄さまは歯ぎしりしていた。
わたくしの支えなど必要としない強さをお持ちだ。あの日の殿下の言葉通り、きっとわたくしが寄りかかったところでびくともしないでしょう。
「アイリーン」
ふと陛下の声が深く沈んだ。
「あれはとぼけた男だが、そなたに不実なことはせぬ。そこだけは保証する。そこだけな」
目がじんわりと熱くなった。殿下のせいで最近すっかりゆるんだ涙腺を堰き止めるには、これでもかなりの労を要するのだ。
根気強く注がれる愛情は、わたくしが怯むと必ず引っ込められる。止まっているのとそう変わらないでしょう児戯のような情交。それでもわたくしが差し出すまでは決して、無理に心を盗ろうとしない。……認めましょう。わたくしの努力など何一つ及ばぬうちに、わたくしは殿下に心を差し上げたいと、そう思い始めている。
「殿下にいじわるしているのはわたくしのほうですわ。いただくばかりで、自身の心はあげないと、いつも突き放してばかりですもの」
泣いても返さない、と自分は最初に全部もらったくせに。
「構わん。存分にいじめてやれ」
……陛下は弟相手だと本当に容赦がない。
「あの馬鹿が変に古狸共を煽るせいで、いつまで経ってもアイリーンの花嫁姿を拝めんのだ」
殿下が言い出しっぺの、古狸共、という名称は、兄弟の間ですっかり定着してしまったらしい。
「いじめて気合を入れてやれ」
すかさず王妃さまが陛下を睨めつける。
「狸さんはあなたが脅せばよろしいでしょう? 何の為の病ですか!」
「ぐぅ……あれの加勢なぞ誰がするか!」
違う! そうじゃないでしょう!? 思わず涙も引っ込んだ。
なんて会話を繰り広げるのでしょう。心臓が口から飛び出るかと思った。それこそわたくしの寿命が縮んでしまう。
「アイリーン、こう、何かないのか? 余は是が非でもそなたの子を愛でてから死にたいのだ」
「名付けは一緒にしましょうね、アイリーン」
どうしましょう。前向きなのか後ろ向きなのかもわからない。プレッシャーで潰れてしまいそうだと思ったのは初めてかもしれない。
そもそも結婚すらまだなのに、もう子どもの話まで進展している。婚前交渉、という言葉が浮かんで、大慌てで頭から追い出す。
「で、殿下と相談してみませんと、わたくしだけでは、その……」
わたくしは心の中で殿下にそれはもう謝った。ごめんなさい殿下、ものすごく言葉を濁しておきましたから、うまい具合にお返事しておいてください。そこはかとなくお二人寄りの雰囲気は醸しましたけど、是とも否ともはっきり言っていませんから!
ちょっと帰りたくなってきた。どっと疲労感が押し寄せる。こんな時ばかりは、澄まし顔が得意な自分が憎らしい。そんなわたくしの状態など露知らず、王妃さまが追い打ちをかけてくる。
「大丈夫よ、好きな女の子には昔からうんと弱いから。あなたが是と言えば、水もワインになるわ」
殿下、殿下助けてください。今、駆けてきてくださるなら、心くらい、いくらだって差し上げます。そんなことを考えてしまうくらい、わたくしは今、この状況をひっくり返す機会が欲しいと切望している。
「そういえば、キースがそなたには酒を飲ますなと随分脅しをかけにきたが、何かあったか?」
心の中でぐっと握った拳を天に掲げた。
「お酒はあまり強くありませんの。先日、殿下とご一緒した時もすぐ眠ってしまいましたから、そのせいではないでしょうか」
しれっと微笑んで返事をする。
「あらあら、私達にアイリーンの寝顔を見せたくないのかしら。意外と独占欲が強いのね」
「あまり縛ると嫌われると脅してやろう。アイリーン、明日にでも付き合え。王妃と秘蔵のワインを開ける約束がある」
「侍医には内緒よ、アイリーン」
ほほほ、と笑声は軽やかだけれど、王妃さまはかなりの酒豪でいらっしゃる。内緒にできるかしら……。
「わ、わたくしでは不足かと、」
「あら、お酒は時間を楽しむものですよ、アイリーン」
有無を言わせない圧を感じ、堪らず頷く。
「そ、そうですわね。では――」
「駄目ですよ、義姉上」
背後から刺さった声に跳び上がるほど驚いた。振り返るより先に肩を叩かれ、喉の奥から変な声が飛び出る。
「義姉上に付き合わせたら、アイリーンは翌日寝込むことになりかねない。それから、独占欲に関して兄上にとやかく言われたくはない。まったく、ここにいると毒だな。連れて帰る」
言うなり抱き上げられ、またびっくりした。
後ろから腰をがっちり締められてはいるけれど、手足が自由な分いくらでも逃げようはある。――と思ったらあっという間に抱え直された。床に足がついたのは一瞬で、今度は足と腰を固定された。残る自由な手はしかし、高くなり過ぎた視点が怖くて殿下の首に回してしまった。
「あらあら、」
「やれやれ、」
あらあらではありません、やれやれではありません!
そもそも殿下はどうしてここにいるのですか、と。先程、心の中で呼んでいたことを思いきり棚上げして八つ当たりする気持ちが浮かぶ。お兄さまから、勉強という名の嫌がらせを受けている時間である。
「例の件を思い出してくれないだけでなく、あろうことかメレディスに話したそうだな。おかげで俺はいい玩具だ。まったく、あなたは俺をぎゃふんと言わせないと気が済まないのか!?」
「ぎゃふんなんて考えてませんわ!」
「とにかく、酔うたびにめぇめぇ泣かれては堪らない。あなたは今後、俺がいない席での飲酒は禁止だ。言うの二回目だぞ!」
二回目、と言われても一回目をそもそも覚えていない。いつの話だ。さっぱりわからない話でぎゃあぎゃあ怒られて、わたくしもかちーんときた。
「な、なんですのさっきから! わたくし泣いたりしていません! どうしてそう意地悪なんですか!」
「俺をいじめたのはあなただ! 据え膳を一晩耐えてやったんだ、一個くらい俺の言うこと聞け!」
「わけもわからないのに聞く言うことなんてありません! もう! 離婚ですわ! 殿下とは夫婦していられません!」
「ふざけんな! まだ結婚してないのに離婚されて堪るか! 離婚したけりゃまず俺と結婚しろ!」
何だとこのバカ王子! ぷちーんと理性の糸が切れる音を聞きながら息を吸って――吐くより先に陛下が吠えた。
「阿呆か貴様! 据え膳を食い損ねるとはそれでも男か!?」
「兄上! ややこしくなるから割り込むな!」
「陛下、これはいよいよ薬でも盛らないとダメかしら?」
「ほら見ろややこしくなった!」
殿下の声はもう半分は悲鳴に近かった。わたくしを抱えたままその場にしゃがみ込む。深い、深い溜め息が聞こえた。
「おい愚弟、早くせんと死ぬぞ」
「やめろ、その脅しは効く」
「ふふふ、ゆっくりしていられませんよ」
「何で義姉上は笑っていられるんだ。自慢の涙脆さはどこへやった……」
アイリーンと違って、泣いても私の涙じゃ未練になってくれそうにないから、代わりに笑っていることにしたの、と。こっそり教えていただいた話はしてあげない。ちなみに効果は抜群にあったようで、陛下からは、王妃の笑顔が可愛いからずっと見ていたい、死ねない、というような話を連日こっそり小一時間ほど聞かされている。
「あなたも、何をニコニコしている? 俺の困っている様は愉快か?」
わたくしに対してだけ、妙に言葉が刺々しい。まだ怒っていらっしゃるのかしら、怒っていらっしゃるわよね、当然だわ。でも、久し振りにしっかり殿下とじゃれ合えたのが嬉しくて、素直に声に出した。
「わたくし、こんなに大きな声でどなたかと喧嘩したことなんてありませんの。初めてのお相手が殿下で、とっても嬉しいですわ」
ぐっ、と悔しそうに顔を歪めた殿下の頬に、一刷け朱が差す。
「あらあら、薬は必要なさそうね」
「そうだな」
「……失礼する!」
ぐん、と視点が高くなった。喉から飛び出した悲鳴に構う間もなく、殿下の頭に縋りつく。文句を言ってやろうと体を離すと、とっても意地の悪い笑みを浮かべた殿下と目が合った。
「な――っ!?」
さっと体を反転させた殿下のせいで、また悲鳴が出る。今度は体を離す間はなく、さっさと歩き出してしまった。慌てて振り返り、早口で退室の挨拶を述べる。この状態ではもうマナーも失礼もあったものじゃない。陛下も王妃さまもニコニコと笑っていらしたので、それだけでも救いだ。……にやにやと表現したほうが正しいかもしれない、と。脳裏をよぎった考えはそのまま奥のほうに沈めた。
「殿下、下ろしてください」
「うん? 嫌だが?」
「意地悪ですわ」
「いじめてんだよ」
ムッとするわたくしを一瞥し、殿下はからからと笑った。
「俺の奥方は大変な頑固者だからな、このまま宮廷内を練り歩いて既成事実から作ることにしたんだよ」
「笑い事ではありませんわ!」
下ろしてください、と言いつつ攻撃箇所を探す。でもどこを攻撃しても、わたくしの体が落っことされる未来しか見えない。
しかたないので、特にダメージのなさそうな耳を引っ張ることで妥協した。案の定、殿下はけろっとしている。どころかずんずん進んで、このままでは本当に宮廷内を練り歩きかねない。どうしましょう、どうしましょうとぐるぐる考えていると、救いの手は思いがけずやってきた。
「何をしているんです?」
地の底から響く背筋の凍る低音。さすがはわたくしのお兄さま。妹のピンチを見逃さない。
「何をしているように見える?」
「私の妹をいじめているように見えます、殿下」
「仲良く散歩してんだよ、節穴め」
「それは失礼いたしました。アイリーン、おいで」
本当に仲が悪い。一言ごとに互いを刺している。
「お兄さま、相手は王太子殿下です。せめて殺意は隠してください」
「アイリーン、もっと言ってやれ」
「殿下も、あまりわたくしの兄をいじめないでくださいまし」
「アイリーン、もっと言ってさしあげろ」
お兄さまったら……。一周回ってひょっとしたら仲がいいのかもしれない。少なくとも、子どものような喧嘩のしかたはそっくりだ。
「殿下、言うこと聞く代わりに兄は引き受けます。殿下は書類をもぎ取っていらしてください」
「加勢してくれるとは嬉しいね」
ようやく床に下ろされた。
「ではそこの狸は任せるぞ、アイリーン」
殿下ったら。開いた口からは何の言葉も出なかった。触れたのは一瞬で、熱を感じるより早く唇が離れた。
びきぃ、とお兄さまのこめかみに青筋が走った様が視界の端に映る。しかしわたくしの顔を見て、お兄さまはすぐに目元を覆った。その隙に殿下が歩き去る。……指先一つ、動かせなかった。
「おいで、アイリーン。お茶にしよう」
溜め息の配分のほうが多い。呆れた、という心の声はだだ漏れだ。
わたくしはお兄さまに手を引かれ、幼子のように黙ってついて行く。今、自分がどんな顔をしているのか、考えるのも恥ずかしい。顔も首も指先までも、ただただ熱い。溶けてしまう。思考できたのはそれまでで、あとはもう熱に浮かされるようにふわふわしていた。




