08
結局、すっかり熱に浮かされてしまって、お兄さまのところへは行けなかった。気づけば日が沈み、あっという間に夜だ。――予告のなかった殿下の来訪を、驚く余裕すら残らず消耗するほど朝の殿下は衝撃だった。
「驚かせるつもりだったんだがな」
「驚かせて、またわたくしを泣かせにいらしたの?」
「あなたには嫌われたくないのでな、今夜は優しくしにきたんだ」
甘やかして、優しくして、慰めて。泣きながら迫るなんて脅しと大して変わらない。それなのに殿下は叶えようと努めてくださる。くすぐったくて、とても嬉しい。
「酒は嗜むか?」
殿下が何やらガチャガチャ音のする大袋を持ち上げて笑む。……中身はお酒だとして、何本持っていらしたのでしょう。ものすごく重そうだ。
「あまり強くありません……っですが、ご一緒させていただきたいですわ」
徐々に下がっていく眉に思わず言葉を継ぎ足すと、殿下はパッと表情を輝かせた。テーブルの上にずらりと酒が並ぶ。これ全部、今晩で飲み切ってしまうのかしら。
「手持ちの安酒で悪いが、まずは反省会だ」
どっかりわたくしの向かいに腰を下ろした殿下は、侍女に用意させたグラスにじゃぶじゃぶワインを注いだ。一つをなみなみ満たして、それからちらりとわたくしを見る。大袈裟なほど首を横に振ると、残念そうに肩をすくめはしたけれど、結局もう一つには浅く注いでくださった。
「あんの古狸共、書類を分散して隠しやがった」
乾杯、と乱暴にグラスを持ち上げたかと思えば、きゅう、と一息で飲み干してしまう。一滴もこぼさなかったのはさすがというか、なんというか。
「一枚はぶんどったが、おかげで明日から猛勉強する羽目になった」
お父さまを召喚しないまま、一つの婚約が白紙へ戻され、一つの婚約が成立した件への疑問が再び脳裏をかすめる。けれど、殿下の様子を眺めているとなんだかどうでも良くなってしまった。殿下ですもの、きっとどうにかしてしまったのでしょう。疑問はそのまま外へ追い出して、おしゃべりに集中する。
「お勉強、ですか……?」
「俺は兄上が成人した瞬間に継承権を放棄して、その足で王宮を出た。教育もそこで途絶えたからな。王の器はスカスカだ。それを明日から埋める、ということらしい」
二杯目が干された。
「知恵をつけたのはあなたの兄だぞ。あの野郎、教育係を買って出やがった」
じろり、と恨みがましい視線が刺さる。
お兄さまが狸側についたとなると、殿下は相当な苦労を強いられる。先程の発言で十分に伝わった。殿下とお兄さまは、仲が悪い。お兄さまは、嫌いな相手にしかける嫌がらせを思いつく天才だ。しかも王太子だからと容赦する性格ではない。むしろやる気になる。
「応援しておりますわ、殿下。頑張ってくださいませ」
「は……?」
さすがにフォローが入ると思われたのでしょう、殿下が間の抜けた声をあげた。
「兄は、自分が嫌っている相手をわたくしが好きでいることが一番気に食わないのです。ご一緒したい気持ちはありますが、火に油ですわ。帝王学どころか、どこかの無人島に自生する植物の知識まで詰め込まれますわよ」
そうやって時間を稼いで、終わる頃には宮廷中の人間を味方につけて嫌がらせを始めたりするのだ。それも、キレるほどではないけれど泣き寝入りもし難い、絶妙に腹の立つやつを。嘘や誇張でなく、お兄さまはそういうことを平気でする。お父さまと喧嘩した時は、署名が必要な書類すべての上下を一枚ずつ入れ替えた。元々そう気の長いほうではないお父さまは、乱雑に扱うわけにもいかない書類を相手に絶叫しながら奮闘する羽目になったのだ。我が兄ながら実にみみっちい。
三杯目はゆっくり飲みながら聞いていた殿下が、ぽかんと口を開けて目をぱちくりさせた。
「呆れたものだ、ガキか……」
「地位も権力もあるガキですわ、殿下」
だからわたくしには、さっきの言葉が精一杯のフォローだ。
「ふむ……あなたに好かれていると知れただけでも儲けだ。メレディスは自分で撃退する」
「……はい」
余さず過たず気づかれてしまう。こうもバレバレだと、自己アピールが激しい人みたいでものすごく恥ずかしい! 早急に戦法の練り直しをしなくては。
わたくしもグラスを呷る。すかさず次が注がれた。
「まあいいさ。結婚まであなたを引き離せば、あれも少しは考えを改めるだろう」
「え……?」
当然のように告げられた言葉に変な声が出た。
「口説き落とすと言っただろ。心はあなたの許可を待つが、時間は俺が独占するぞ」
「……殿下もお兄さまとそう違いませんわね」
子どもみたい。
伝わってしまったのでしょう、殿下はムッとしてグラスを干した。今、何杯目でしょうか。気づけば二本目を開けている。
「まだ気づかれたくなかったことだ」
ムッとはしても、否定はしなかった。妙なところで潔い。その様子に思わず笑むと、殿下はますますムッとした。
「強くないのだったな。飲んで忘れてしまえ」
伸ばした手は間に合わずグラスをひったくられた。じゃぶじゃぶ注がれ堪らず声をあげると、手が止まる。グラスが返ってきた。
「……今日は優しくしてくださるとおっしゃったのに」
「優しいだろう、グラス半分だ」
胡乱な目を向け抗議するも、殿下はグラスを呷って気づかないふりをしてしまった。次はウイスキーに手を伸ばしている。色のついた水だと言われたら信じてしまいそうな飲みっぷりだ。
手元のグラスに視線を落とし、揺れる水面をしばし睨め据える。ぐい、と呷ると、やはり水ではなくワインの味がした。ふわふわと浮くような感覚も、頭の中がバラバラと落ち着かないのも、お酒を飲んだ時に現れる症状だ。
「空のグラスをいくら睨んでも酒は増えんぞ」
思いの外、近くで聞こえた声に顔を上げる。
「反省会は終いにしよう。優しくしてやる」
おいで、と差し出された手を取ると、殿下はソファーのほうへ移動した。隣り合って座る。
「お酒はもうよろしいのですか?」
「うん? 飲み足りなかったか?」
返事の代わりにぶんぶんと首を横に振る。なんだか口を開くのが億劫だ。眠いわけでもないのに、眠りたい時と同じ感じがする。
「なら酒も終いだ」
ふわりと微笑む殿下の顔はとても綺麗で、わたくしもつられて破顔した。
なんだか変な気分だった。レオンさまとさよならしたのは昨日のことなのに、わたくしはもう殿下の婚約者だ。十年付き合ったレオンさまの前では一度も泣かなかったのに、殿下の前では会ったその日に泣いてしまった。隣に立つ相手が変わっただけで、こうも変わるものでしょうか。国の為に使い果たそうと思っていた愛も、それではもったいないかもしれないと思い直すまでに至っている。でもこれはまだ内緒だ。
ふふ、とこぼれたのは笑みだったのに、なぜだか泣きたいような気分になって目を伏せる。
「どうした?」
「殿下はダメダメですね」
「……手厳しいな」
「わたくし知ってますわ。本当はレオンさまのように振る舞えるけれど、わたくしの為に違う風を装ってくださっていること」
返事はなかった。
粗野な仕草の中にも、時折垣間見える優雅さがある。それはわたくしもよく知る貴族の空気。幼い殿下が王宮を出て身を寄せたのは、先王陛下の妹君が嫁いだ北方の小国だ。そこで妹君が後見人となり、殿下を支えていたと聞く。彼女もまた歴代の王族の例に漏れず、刀剣のような厳しさでいくつもの伝説を残している女傑だ。そんな方が、殿下に教育を施さなかったはずがない。きちんと叩き込まれたと知っているから、陛下は今の殿下の振る舞いをお許しになっている。でなければ、古参の臣下が拗ねるほどの強引さで今回の一件を終わらせて、その後の説教が王妃さまからだけなんてありえない。振る舞いに差が出るとすればそれは、殿下がそう見せているのだ。
王としての器がスカスカだなんてそんなこと、あるはずがない。
「でも、ありのまま過ごしてほしいなんて絶対に言いません。今のままの殿下がいい。……わたくしの為に、ずっと嘘を吐き続けてくださいまし」
わたくしの心が欲しい、とおっしゃった殿下の気持ちを利用する。なんてひどい女でしょう。
「わたくしは今の殿下だから泣いたのです。それに、レオンさまの傷はもうずっと痛いまま放置してしまったから、殿下があの方のように振る舞われた時ちゃんと笑えるかわかりません。もし殿下をレオンさまに重ねて見てしまったら……わたくしはそれが恐ろしい」
レオンさまに未練があるかもしれないと、戻れるならレオンさまを選ぶと、殿下に思われるのが恐ろしい。だって殿下と過ごした時間は短いから。十年一緒にいた相手ともわかり合えなかったわたくしは、知り合って間もない殿下と通じ合えているなんて言えないから。すれ違いが起こった時、どれほど殿下を傷つけてしまうのかわたくしにはわからない。それがとても恐ろしい。
だってわたくしはもう知っている。愛を理由につけられた傷がどれほど痛むのか。同じ傷を今度はわたくしが、よりにもよって痛みを消してくださった殿下に負わせるかもしれない。そんなことは耐えられない。
殿下がわたくしを好いてくださっていることも。大事にしたいと思ってくださっていることも。わたくしがそれをちゃんと知っていることも伝えられないまま、今が壊れるのが恐ろしい。
「あなた、それどこまで口に出しているか気づいてないだろう」
殿下の手が頬を撫でる。
「全部言ったら悪女になれないだろうに。バカだなぁ、あなたは」
泣き笑いのような声だった。瞼が下がってしまったわたくしには、どんな顔をしているのかわからない。
見たいけれど、ものすごく見たいけれど、瞼が重たくて目が開けられない。むぅ、どうして開かないのかしら、忌々しい。
「本当に弱いのだな。謙遜で言っているのかと思ったが」
「普段はもっと飲めるのです。きっと……そうよ、殿下がまた意地悪したのでしょう? わたくしのグラスにだけ強いお酒を注いだのでしょう? お兄さまと飲んだ時だってこんなにふわふわしたことありませんのに……どうして意地悪なさるの?」
なんだかまた泣きたくなってきた。せっかく楽しくおしゃべりしていたのに。もうちょっとお酒を飲んだら、わたくし酔ってしまったからもう何にもわかりません。きっと明日には全部忘れてしまいますって言ってしまおうかと思っていたのに。そうしたらお酒のせいにして、ちょっとだけ心を差し上げてもよろしいですわよって言えるかなと思っていたのに。
泣きたくなかったから両の手で目を塞ぐ。涙は出てこない。……よかった。
数度、瞼を揉んでみると、とろとろと目が開いた。
手をどけて急いで殿下のほうを見る。……どうしてそんなに目を丸くしていらっしゃるのかしら。なんだかびっくりさせてしまったみたい。ぱちくり瞬きをする様子が可笑しくて、ふふ、と声が漏れてしまった。
「殿下ったら、子どもみたいなお顔」
ふふ、とこぼれる声の止め方がわからなくて、今度は口を両手で塞ぐ。
ぱらり、とゆっくり瞬きをした殿下の顔に、かぁっと赤が駆け巡った。次の瞬間、殿下はぱぁんと音がするほど強く、片手で目元を覆ってしまった。
「殿下、どうされましたの?」
「だから全部声に出ていると……気づいてないんだろうな、あなたは」
「何のお話ですの?」
「……あなたが可愛くて困ってるんだよ」
首を傾げる。なぜ困るのでしょう。可愛いと思われるのは嬉しい。
「わたくしが可愛いと困ってしまわれるの?」
可愛くないってどうすればよろしいのかしら。今だって別に可愛い子ぶってるわけではないから、どうすれば可愛くないことになるのかわからない。……可愛い、可愛い?
「困ってしまいましたわ……わたくし金髪でもなければ癖っ毛でもありませ――」
強く、強く名前を呼ばれた。顔を覆っていた手をどけた殿下の顔は厳しくて、とても厳しくて、涙が出た。
「あ……アイリーン、」
どうしましょう、どうして殿下を怒らせてしまったのかわからない。殿下が困っているのに、可愛いと言われて喜んでしまったから? でもそれはだって嬉しかったんだからしかたないじゃない。怒らせてしまったことを申し訳ないと思うのに、褒められたことはやっぱり嬉しくて。わたくしは謝罪も忘れてしくしく泣いた。
「うん、だから全部声に出ているんだよ。本音聞き放題じゃないか。俺に悪いことを教えないでくれ」
アイリーン、と。今度はうんと優しい声で呼ばれた。幼子をあやすような声音はどこかお兄さまに似ていて、思わず腕を伸ばすと、膝の上に抱き上げられた。そのまま、ぎゅう、と抱きしめられる。触れる体温が心地良くて、撫でられる背中が気持ち良くて、わたくしはうとうと目を閉じた。
「そこで眠ってくれるなよ」
「起きてますわ」
「声が半分寝てんだよ。まったく……メレディスに殺されるな」
お兄さまの名前が聞こえて、とろとろと目を開ける。
「お兄さまに殺されるようなことをしましたの? 大丈夫ですわ、お兄さまはわたくしのことが大好きですもの。一緒にごめんなさいしてさしあげます」
「……何の地獄だ、それは。いいよ。あなたが心をくれるそうだから、魔王だってぶっ殺すさ」
「むぅ、差し上げるなんて言ってません。勝手に決めないでくださいまし」
「さっきはくれると言っただろう?」
「言ってません!」
言おうかな、と思っただけだ。それをさも口に出したような言い方をされて、わたくしはぷんすか怒った。それにしても、どうしてわたくしが思ったことを殿下が知っているのでしょう。さっぱりわからない。勝手に知らないでいただきたいですわ。
「言って……ないんだったな。思ってることめちゃくちゃだぞ」
「また勝手に! もう! ちっとも優しくありませんわ!」
「優しいだろ。惚れた女が酔ってふにゃふにゃになってるんだぞ。それを膝にのせて、ただ背を撫でてくれるだけの男なんてそうはいないぞ」
むぅ、そう言われても殿方のことはわからない。わからないけれど、あったかくて気持ちがいいからどうでもいい。ふぁ、と小さく欠伸をして、目を閉じる。
「あ、おい寝るな!」
「ダメです……殿下、」
おやすみなさいませ。
◇
寝返ろうと身じろいで、失敗した。体が動かない。それから妙にぬくい。ぽかぽかする。とろとろと目を開けて、視界いっぱいに殿下の顔を認めたわたくしはとっさに大きく息を吸って――ぱしんっ! と殿下に口を塞がれた。
「その反応で察しはついた。吐け、どこまで覚えてる」
地の底から這い上がってくるような、怒りに満ちた声が鼓膜を震わせた。
わたくしは吸った息を、悲鳴ではなく言葉に組み替えて吐き出す。
「ソファーに移動して、お酒はお終い……?」
殿下の顔がみるみる絶望に染まっていく。
「うっっっっっそだろ……」
本当です、とは言えない空気。でも嘘です、と言ったらそれはそれで大変なことになりそうな雰囲気。わたくしは口を噤んだ。
「あなたほど残酷な女を俺は知らない。一晩耐え抜いた俺にこの仕打ちはあんまりだ」
ぐっと眉間を揉んだ殿下の顔から表情が抜け落ちた。感情を削ぎ落し過ぎて、声からは抑揚すら消えている。
どうしましょう。今、謝罪したら何かが終わってしまう気がする。解放されたばかりの口を、両の手でそっと塞ぎ直す。
「賢明な判断だがそれすら腹立つ。言っておくが、あなたは純潔のままだぞ。俺が! 必死で! 我慢! したからな!」
「……ひゃい」
殿下は目元を手で覆って、まるでわたくしの存在など忘れてしまったようにぶつぶつと恨み言を吐き出していく。
「俺がどれだけ……あぁ、めぇめぇ泣かれても振り切って部屋に戻ればよかった。どうせ眠くてぐずってただけなんだから放っといてもその内コテンと寝たんだ。酔っ払いの癖に気配に敏感で抜け出そうとするたびに服を引っ張って……いやでもあれは可愛いと思った俺が悪い……あぁ、つまみ食いくらいすればよかった」
わたくしは一体、何をしでかしてしまったの――!?
もう声も出ない。自分がしでかしたことを反省しようにも何一つ覚えていない。断片的な記憶すらない。殿下の言葉から想起される何かもない。
ここまで綺麗さっぱり忘れることなんてありえるのかしら。我ながら信じがたい。
「アイリーン」
「ひゃいっ」
「次はない。今後もし同じ状況になったら、俺は迷わず理性を捨てる」
「は、はい……申し訳、あ、りません……」
殺意すら感じさせる双眸に貫かれ、わたくしは何度も首を縦に振る。
殿下は力なくベッドを下り、幽鬼のような気配を漂わせながら退室された。
昨夜のことを思い出せる自信はない。けれど、部屋のどこかで控えていたでしょう侍女に話を聞く勇気は、もっとなかった。




