07
愛は毒にしかならなかった。では、これからわたくしはどうしたらいいのでしょう。
まだ半分は夢の中にある頭でぼんやりと自問する。
『カサンドラ家の女の涙は、大好きな旦那さまの未練になるのよ』
もう夢と思い出の中でしか会えないお母さまの声が聞こえた。
『我が家の男達はいつだって、戦場へ挑むことをやめられない。それは私達、女が泣いて縋っても止められないわ』
記憶の中の祖父は、いつも戦いの話をしていた。戦場で打ち立てた己の武勲を、最高の誉だと快活に笑う人だった。磨いた武勇の腕を振るう為だけに軍を志した祖父。片足を失うその時まで、否、失ってなお、心を戦場へ残してしまうような人だと、祖母は隣で呆れていた。
お父さまもまた、領内で戦闘の匂いを嗅ぎつけると表情を嬉々として崩すような人だ。指揮官として後方に下がってくれと涙ながらに訴える兵を蹴散らして、我先にと最前線へ駆けていく。
カサンドラ家の男は、戦うことをやめられない。
『だからせめて、生きて帰ってくると約束させるの。その為だけに泣くの』
男達はその涙を思い出し、離れかけた魂すら肉体へ駆け戻るという。死地からだって引きずり戻す未練。
だからカサンドラ家の女は、男の未練となる為以外では決して泣かない。涙の記憶が少なければ少ないほど、男は何としても帰らねばと魂を燃やすから、と。
母や祖母の代よりずっとずっと昔から、カサンドラ家の女達はそう言い聞かされて育ってきた。わたくし達カサンドラの女はまず、涙の代わりに笑うことを学ぶのだ。
――わたくしの愛はすべて、この国の為に使ってしまおう。だって、そうでもしないとわたくしは、きっと泣いてしまう。
大好きな旦那さまはいなくなってしまったもの。――あぁ、そうだった。レオンさまとはさようならしたんだった。思い出して、目尻がちりちりと痛むのを感じた。
覚悟はちっとも足りていなかった。さようなら、もちゃんと言えなかった。綺麗に笑ってお別れすることもできなかった。あんなに準備したのに。あんなに我慢したのに。胸の痛みに気をとられて、あふれそうな涙を我慢するだけで精一杯だった。
……ふわふわとした頭の中にいくつか、火の粉のように漂う不純物がある。何でしょう、と首を傾げて気がついた。ずぅっと痛くて涙でいっぱいになっていた胸が軽い。どうしてでしょう。寂しくない。
『レオンさまが好きだったのです』
目の玉が飛び出るかと思った。脳裏に響いたのは間違いなくわたくしの声。それはいい。良くないのは、その声が涙に濡れていたこと。
一つ思い出したらあとは、濁流のように記憶が押し寄せた。
ガツン、と殴られたような衝撃が駆け抜け、一気に覚めた。文字通り上体を跳ね起こす。
「どうしましょう……」
王弟殿下の前でわんわん泣いて、散々泣き散らして、泣き疲れて眠ったことまで思い出した。痛む胸も千切れかけた心も感情の濁流に呑まれて正常な働きをせず、頭はもう涙でいっぱいで、理性なんて機能していなかった。
『殿下のお嫁さんになる為に、わたくしたくさん頑張りました。なのに、他の女の子を愛してるなんて、ひどいじゃありませんか』
『わたくしとはまるで雰囲気が違うじゃありませんか。乙女らしい、可愛らしい女の子が好きなら初めからそうおっしゃってくださればよろしいのに。大好きな殿下の為ならわたくし、いくらだって可愛い子ぶりましたわ』
『殿下とそろいの金の髪、……うぅ、なんて意地悪なのでしょう。王弟殿下も意地悪です。みんなしてわたくしをいじめて……』
『責任を取ってください。王弟殿下はレオン殿下より頑丈でいらっしゃるのでしょう? わたくしを受け止めてくださるのでしょう? 責任を取ってください。わたくしをいじめる意地悪代表として、わたくしを甘やかして優しくして慰めてください』
『努力はしますが、わたくしの心はまだ差し上げません。でも殿下の心はわたくしがいただきます。絶対に返しません。泣いたって返してあげません、今決めました!』
抱えていた嘆きは余さず吐露し、カンカンに怒って、最後のほうはいじけるわ八つ当たりするわくだを巻くわ好き放題だ。まるで子どもの駄々。ろくでもない。とんでもないことをしでかしてしまったと、今になって青ざめる。
「お、お兄さま、」
そうだ、お兄さまのところへ行きましょう。
昨日の様子は間違いなく怒髪天を衝いていた。あんなに怒り狂ったお兄さまはわたくしでもそうは見ない。陛下の手前、怒り任せに暴れることもできなかったでしょう。今頃、宮廷でわかりやすい八つ当たりを敢行しているかもしれない。どんな惨劇を巻き起こしていたとしても、まあお兄さまですものね、と受け止めてしまえるわたくしとは違って、宮廷は戦々恐々阿鼻叫喚になる。
八つ当たりでどなたかの首をもいでしまう前に、ちょっと様子を見に行きましょう。
……なんて、こんなのは所詮、言い訳に過ぎない。
王弟殿下を相手に数多の無礼を働いて、いっそ暴言と切り捨てても問題ないほどの言葉をぶつけて、極めつけに大泣きした。
正直言って、とにかく恥ずかしい。不敬罪でも何でもいいから首を刎ね飛ばしていただきたい。でも、公式な処刑となると罪状が公開される。そんな羞恥には耐えられない。読み上げの最中に自分で舌を噛み千切る自信がある。
だから、お兄さまのところに行きましょう。お兄さまならきっと、マジギレして正常ではない今のお兄さまならきっと、うっかりわたくしを殺してくれるかもしれないから。
正気でないのはむしろわたくしのほうで。自分で自分が何を考えているのか。思考がどういう経路を辿って結果を導き出しているのか。実はさっぱりわかっていなかったけれど、もうなんだか考えれば考えるだけ恥ずかしかったから、わたくしは『お兄さまのところに行く』という結果以外のことは何も決めないことに決めた。
◇
……ここまでくるともう、笑い事でしょう。
向かいの席でお茶を飲んでいるのはお兄さまではなく、王弟殿下である。
「飲まないのか?」
「い、いえ……いただきます」
部屋の前で待ち構えていらっしゃったのである。一瞬でパニックに陥った頭では、おはようと片手を上げる殿下に挨拶を返すことも、諸々話があるからサロンに行こうとわたくしの手を取って歩き出す殿下を振り払うこともできなかった。指先に伝わる熱から、血の気が引いているという自分の状態を理解するだけでも、ものすごく時間を要した。
土砂降りの空よりも泣いた翌日だというのにまた泣きそうになっていたら、いつの間にかサロンに着いていた。いつ座ったのかも覚えがない。
「よく眠れたか?」
「はい、おかげさまで」
言ってからハッとする。途端にお茶の味がわからなくなった。おかげさまで、なんて。昨日のことは全部覚えています、と白状したも同然だ。きっとくる。この隙を攻めない手はない。少なくともわたくしなら攻める。と、思ったら本当にきた。
「昨日といえば、すまなかった。夜更かしさせてしまったな」
え、そっち?
ぽかん、と目を丸くしてしまったのも無理からぬことでしょう。わたくしの謝罪を潰すくらいはされると覚悟していたけれど、まさか眠る時間が遅くなったことを謝罪されるなどとは思わない。
「い、いえ……わたくしのほうこそ、その……」
びっくりした拍子に口が滑って、けれどいざ口に出そうとするとものすごく切り出しにくい。
「わたくし、その……昨夜は殿下に大変な失礼を……」
申し訳ありません、と絞り出すのに随分かかった。おまけに声はかすれて、伝わったか怪しい音にしかなってくれなかった。
「あなたの本心が知れて嬉しかったよ」
殿下がまるで子どものように笑う。
嘘のない言葉に思えて、なんだかそわそわしてしまう。くすぐられた時のように、どことなくむず痒い。
「王位争いが面倒で逃げ出したが、失敗だったな」
大きな手が頬に触れ、指先が目元をなぞる。昨日も思ったことだけれど、わたくしは殿下の手をどうしてか避けられない。不思議な感覚だ。
「レオンとであれば、争ってでもあなたをもらったよ、俺は」
「……お戯れを」
避ければよかった。触れている手のせいで顔を背けられない。わずかに熱を増した顔を見られたくなくて、でも誤魔化すには遅過ぎて。わたくしは悪足掻きを承知で目を伏せた。
「さて、奥方が愛らしい顔を見せてくれたことだし、面倒な話を先に済ませてしまおうか」
顔には笑みを浮かべているのに、声だけが一瞬で研ぎ澄まされた。気を抜くと振り落されてしまいそうだ。頬からも手が離れ、わたくしの背筋も自然と伸びる。
びっくりして『奥方』と呼ばれたことを訂正し損ねた。
「義姉上に言わせると俺は悪ガキのまま大きくなったということらしい。朝議でもさっそく古狸共をいじめたと、懇々と説教されたよ」
やれやれ、と肩をすくめる様子からは全く反省の色がない。事実、反省などしていないのでしょう。古参の臣下を古狸呼ばわりだ。
「俺のおかげで面倒が短時間で済んだというのに……」
反省どころか、むしろ不満そうだ。
反省するまでは絶対に終わらない、王妃さまのお説教をこの態度でどうやって逃げ出したのでしょう。退路を断つのはあの陛下だ。愛しの妻を怒らせた不届き者を、陛下がそうそう逃がしてくださるとは思えない。
「まずはレオンの処遇だが、国外追放に決まったよ。身柄は、二人いる姉の内、北方に嫁いだ上の姉に預けることになった。次にポスカ伯爵家だが、領主には伯爵の弟を据える。伯爵と娘は国家反逆の罪に問う。王太子を潰したんだ、見逃せん。魔石などという未知の石をそれとわかったうえで購入する慧眼も、愛する娘の前では曇るらしいな。娘も娘だ。あなたを潰すのではなく、王太子に矛先を向けるとはな。呆れて言葉もない。さて、魔石の件に関しては俺と兄夫婦、あなたとメレディス以外には秘めるのでそのつもりでいてくれ。首を落とす二人と、監視のつくレオンから漏洩の心配はないが、あなたとメレディスに関しては信用するしかない。頼むぞ。あとは、兄上は西の離宮で療養だ。義姉上も付き添う。俺の復権も済ませたし、あなたとの婚約も成立させた。まあ、概ね片付けたことになるな」
「……へ?」
立て板にバケツの水をひっくり返したような情報量の多さに、思わず変な声が出た。
概ねどころではないでしょう。全部だ。全部終わっている。到底、朝議の時間で片付く量ではない。
いじめたどころではないでしょう。一体、何をどうやったのか。
「よし、面倒な話は終わった」
終わってない。もう少し、せめてもう少しだけ説明していただきたい。わたくしとの婚約が、わたくしが眠っている間に成立したという部分だけでも説明していただきたい。たった一晩で、というか朝議の時間だけで、どうやって既存の婚約を解消し、新たな婚約を結んだというのでしょう。
レオン殿下の件だけでも、朝議は大荒れになったでしょうに。そうでなくとも陛下の体のことや、ポスカ伯爵家のことなど、朝議に参加した宮廷貴族達が引っくり返るようなあれこれが盛りだくさんある。一体どうやって……。そもそも、カサンドラ家の当主であるお父さまがいない状態で、わたくしと王弟殿下の婚約を結ぶなんて不可能でしょう。
……お願いしようと開いた口に、チョコレートが放り込まれた。
「実はな、あなたを言い訳に利用したんだ。初顔合わせのやり直しを申し込んだと言ってある。部屋の前で待ち構えていたのは、口裏を合わせてもらう為だ」
軽い口調だけれど有無を言わせない声に、わたくしは溶けたチョコレートと一緒にお願いを飲み下した。代わりに別のことを口にする。
「わたくしを共犯者になさるおつもりですか?」
「夫婦は運命共同体だろ?」
「まだ夫婦ではありませんわ」
「古狸共が拗ねて今日は結婚させてくれなかったんだ。すぐにへし折ってくるから、俺の我儘をきいてくれ」
この王子さま、めちゃくちゃだわ。何だ、へし折るって。何をへし折るというのでしょう。
朝議でもこの調子だったというのなら、なるほど王妃さまもお説教したくなるはずだ。わたくしだって叱りたい。でも、駄目だ。笑ってしまった。
「困った王子さまですわね。王妃さまには、わたくしも一緒にごめんなさいしてさしあげますわ」
「心強いな」
お優しい殿下。レオンさまとの婚約解消にまつわる件は、きっと今後もわたくしが関わることはないのでしょう。もう痛まずに済むように、あんな風に泣かずに済むように。無茶を押し通してでも守ろうと、心を割いてくださっている。
それを嬉しい、と。そう思ってしまったら、我儘でも何でもきいてさしあげるしかないじゃない。
「さて、義姉上の許しを得る準備も整ったし、俺は古狸共ともう一戦だ」
「あら、本当に口裏合わせの打ち合わせの為だけにわたくしを連れ出されたんですのね」
「惜しんでくれるとは嬉しいね。だが婚姻関係の書類をもぎ取ってこないと結婚できない」
眉尻を下げて肩をすくめる様は、わかりやすく『困った』と訴えている。
「どの狸さまも、宮廷には欠かせぬ方ばかりですわ。お手柔らかに」
「いざとなればこちらも加勢してくれ。それと、」
ひょい、と。殿下の長い指が、胸元に垂らした髪をすくいあげた。流れるような仕草で、毛先に口付けが落とされる。
「結婚までには口説き落とす。俺は本気を出すから、あなたは油断していろ」
「な、……――っ!」
熱い。唇が触れた髪から伝わるように、瞬く間に熱が集中した。
「ふむ、俄然やる気になった」
声も出せず目を白黒させている隙に、殿下はニコニコしながら行ってしまった。
「な、なんて方なの……」
ようやく声が出せたのは、顔に集中した熱で頭がくらくらしてからだった。両の手で頬を包む。自分の手が冷たくて気持ちがいいと感じるほどの熱があった。
「わたくしには、刺激が強過ぎるわ……」
こんな熱は知らない。
目の前に並ぶチョコレートをがむしゃらに頬張る。せめて、胸を満たした甘さを誤魔化す、別の甘味が欲しかった。この熱さは嫌じゃない。けれど少しだけ、怖気づいた。




