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【電子書籍化】愛の為ならしかたない  作者: かたつむり3号
第一章 愛の為ならしかたない
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プロローグ


 始まりはささやかな変化だった。


 名を呼ぶまでに、わずかな間が生じる。まるで別の名でも思い浮かべてしまったように。

 互いの視線が交錯しない。向けられる視線の位置がわずかに低くて。まるで交わす視線の慣れた位置が下がってしまったように。

 贈り物の花束に、これまでにない色が交じる。まるで好みの違うどなたかを知ったように。

 女の勘とは残酷だ。殿方の心が離れていく瞬間を、女は決して見逃さない。知らぬは殿方のほうばかり。

 ほんの些細な綻びから、女は過たず真実にたどり着く。殿方が気づいた頃にはもう、女は覚悟を決めている。さようなら、を告げる時、涙ではなく一番綺麗に笑って見せる為に。


「アイリーン、ようやく返事がきた」


 眉間に刻まれたしわを深め、国王陛下が口火を切った。手には一通の手紙がある。

 王宮内にあるサロンには現在、わたくしと陛下の二人しかいない。用意されたお茶にもお菓子にも手をつけず、わたくし達はサロンに似つかわしくない険しい表情で向かい合っている。

 冷めたお茶を淹れ直してくれる侍従も、護衛さえ外に追いやってのティータイムは、今月に入ってもう四回目だ。王妃さまは先月から参加されていない。すべて任せる、との仰せだった。


「ガーデンパーティには間に合わせるそうだ」


 待ちに待った知らせに、しかしわたくしの胸はちくりと痛んだ。


「さようでございますか」

「結果がどうあれ、その日にすべて終わらせるぞ」

「はい、承知しております」


 言いつつ眉間にしわが寄るのを止められない。最近はずっとこんな感じだ。制する前に感情が顔に出てしまう。そのせいで、胸の内が浮き彫りだ。陛下の御前だというのに、まったく情けない。得意であるはずの澄まし顔すら保つことが難しい。


「結論が出たら、そなたは予定通り兄の元へ戻れ。部屋はこちらで手配する」

「かしこまりました」


 王妃さまが参加されなくなったのは、痛めた心のせいばかりではない。うまく感情を御せないわたくしを見ていられない、という気持ちも少なからず関係している。

 このままではいけない。わかっているのだ、わたくしだって。


「アイリーン」


 とん、と陛下の指がテーブルを叩いた。


「パーティまで日がある。一度、領地へ戻り体を休めても良いのだぞ」


 蜜のような優しい声がじんわりと体に染みて、とっさに目を伏せる。泣いてしまうかと思った。けれど涙は一粒もこぼれず、わたくしはすぐに顔を上げた。


「今、戻ったところで、……きっと父に叩き出されますわ」


 笑おうとして、失敗した。泣き笑いのようになったでしょう顔を見られたくなくて、上を向く。そんな白々しい真似をしなくても、泣けないことは今しがた確認したばかりだというのに、わたくしも往生際が悪い。


「そうか。そなたの父は相も変わらず、苛烈な男だな」


 笑みの形をした陛下の口元はしかし、どこかぎこちない。不出来なわたくしの粗末な態度のせいで、陛下に心配をおかけしている。

 いつまで陛下に甘えるつもりなのか。胸中で自分を叱りつけ、笑みを貼り直し努めて明るい声を出す。


「頑固でもありますわ。領地へ留めるのに、兄が随分と骨を折ったようです」

「……そ、そうか」


 文字通り骨を折って腕を吊ったお兄さまをご覧になったのでしょう。陛下の視線が泳ぎ、そしてそのままわたくしのほうへは戻らず逸れたまま固定された。気まずさを感じさせる陛下の態度に、わたくしは内心で首を傾げる。

 腕一本でお父さまを説得したのだから、我が家の基準で言えば文句なしだ。


 怒るとまさしく烈火のように燃え上がるお父さまは、氷のように凍えるお兄さまとはとにもかくにも相性が悪い。圧し潰すように言葉で殴りつけるお父さまの態度はお兄さまの怒りに油を注ぎ、斬りつけるように理を詰めるお兄さまの態度はお父さまの怒りに冷水をぶっかける。投げる言葉が尽きても喧嘩は終わらず、ガチンコの殴り合いにまで発展するのがお決まりの流れだ。巨躯から巌のような拳を振り下ろすお父さまは、経験でも体格でも勝っている自覚がある為に止まらない。こればかりは劣勢を強いられるお兄さまも、不屈の闘志で奮闘する為に止まらない。体力が底を尽くまで続く長い喧嘩が終わる頃には、二人とも満身創痍でボロ布のようになる。

 それが今回は、お兄さまの腕一本で済んだ。間違いなく激昂したでしょうお父さまを、お兄さまは腕を差し出すことで静めたに違いない。舌戦となればお兄さまの独壇場だ。燃え上がる熱も無しにお兄さまと覇を競うなどできっこない。


 さすがはわたくしのお兄さま。


 わたくしのちょっと得意げな雰囲気から何か察するものがあったのか、陛下がものすごく渋顔になった。

 張り詰めていた空気がわずかに弛緩する。ホッと胸の内で息を吐き、意識して口角を持ち上げた。


「わたくしは大丈夫ですわ、陛下」


 ここぞとばかりに平静を装う。

 胡乱な目が確かめるようにわたくしの顔を射抜き、しかしすぐ逸らされた。


「……ならば良い」


 深々と吐き出された溜め息には、諦めにも似た気配があった。


「ところで、王妃はしばらく離宮へこもらせる。パーティには参加させるがそれまでだ。あれがおっては終わるものも終わらぬ」


 王妃さまの涙脆さは有名だ。その優しさと情の深さは、王妃として切り捨てるべき場面ですら涙となってあふれてしまう。

 今回の件でもそうだ。上限のない優しさと際限のない情は、王妃さまの目が赤く腫れても止まらなかった。ここでの話し合いも、最後のほうはもう泣いている時間のほうが長かったくらいだ。わたくしが笑っても困っても泣いてしまわれるので表情を消せば、今度はその顔が恐ろしいとまた泣かれた。目が合っても微笑みかけても背を向けてもダメだった。

 国母として、決して褒められたものではないでしょう。しかし制御すべきと苦言を呈する臣下は一人もいない。王妃さまの涙を拭う為とあれば、みな喜んで自らのハンカチを差し出すでしょう。

 なにせ陛下の抜身の刃のような鋭い眼光と、すぐ燃え尽きる短い導火線を見事に中和してくださるのだから。陛下の本質を知る古参の臣下達にとって、王妃さまは天の恵みと言っても過言ではない。


「アイリーン、そなたは少し倣え」


 瞬きの間に目を伏せる。

 これまでに幾度となく言われたことだ。

 嘘でもいい。ほんの一筋、涙を流すだけでいいから。

 一時は王命だと脅しまでかけられた。それでも泣かなかった。反逆罪でも不敬罪でも、陛下の好みの罪状でこの首を刎ね飛ばしてくださいませ。笑んだままそう言ったわたくしを見て、初めて陛下が泣いた。あれ以来、陛下は二度と王命だとは言わなくなった。


「陛下ったら……」


 時折こうして、戯れのようにわたくしを唆す。己の命より矜持を重んじるわたくしに、その愚かさを問うように。


「少しだぞ、少し。ほんの少しだけだ」


 陛下が指を近づけ、少しの程度を示す。ともすれば触れてしまいそうな人差し指と親指を見て、思わず瞑目した。

 そんなに制限されてしまっては、一度に二粒ほどの涙しか流せないのではないでしょうか。そんなのは泣いていると言えないでしょう。欠伸ついでに目端からこぼれるそれと、どれほどの違いがあるのか。言わないけれど、眉は自然と下がった。


「まったく……そなたも大概だがな。王妃の奴、ちっとも締まらんままこの歳まできおった。とんだ頑固者だな、お前達は」


 王妃さまに関して言えば、むしろ初めてお会いした頃より涙脆くなっていらっしゃる気がするのだけれど、……さすがに声に出すのは控えた。代わりに別のことを言う。


「枯れることのない慈愛の御心は、国の良心として民の心を癒し包んでくださっていますわ」


 王妃さま無しでは、この平和な治世は成せなかったでしょう。誇張ではなく、古参の臣下であればみなが口をそろえる事実だ。

 邪魔な者を排除するのに、陛下は手順を踏むことを厭われる。首を落とせば早かろう、と。国の腐蝕はより身分の低い者を、より貧しい者を優先して食い散らかす。民の安寧に思いを馳せ、心を砕ける陛下だからこそ、手順を踏むなどという行為はもどかしいのでしょう。時間の浪費だとさえ言い切ってしまわれるかもしれない。けれど王妃さまは落ちる首の主を選ばない。等しく降り注ぐ慈雨。王妃さまの涙を見たくない、という一点のみが、陛下を覇道から遠ざけたのだ。

 刀剣王の鞘。王妃さまは、刃のような陛下の心を包み笑顔にする鞘。リアスコット王国は、お二人がそろって初めて平和を得られるのだ。


「そうか……ふむ、そうだな。しかしアイリーンよ、」


 不意に、陛下の目に物騒な色が浮かんだ。


「余はやはり、そなたの矜持を曲げることを悪手とは思わぬ」


 どこか咎めるような声だった。

 ――ああ、そうか。

 陛下はこの段になってなお、わたくしに泣いてほしいのだ。

 涙一つで解決できる。その意見にはわたくしも賛成した。けれどそれはきっとその場しのぎにしかならない。わたくしの涙に怯み、自分のしたことを省みる。後悔するでしょう、猛省するでしょう。一度であれば、一度で済めばそれでいい。けれどもし、二度があったら?

 効果は半減するかもしれない。同じ手は通じないかもしれない。

 根本を絶てないのであれば、そんな手はそもそも打つべきではないのだ。


「わたくしの意見は変わりません。あればかりは、国の在り方を損なう悪手です、陛下」


 そこだけは譲れない。

 鋭さを増す陛下の双眸を真っ向から見据える。こうと決めたら貫き通す。鋼の意志はお兄さまの舌鋒をもへし折り、そして頑固さはお父さまをも凌ぐ。

 交錯した視線を先に逸らしたのは陛下だった。先程よりも長く吐かれた溜め息から、深い諦念を感じる。


「根比べではそなたに敵わぬ。良い」

「恐れ入ります」


 良い、と言いつつ陛下は苦々しそうにこちらを睨めつけた。

 ……陛下ったら。喉の奥で震えた言葉を呑み下し、パッと咲かせた笑みで感情ごと腹の底に押し込める。

 貴族らしからぬ喧嘩っ早さをたびたび叱られる我が家をとやかく言えないほどに、陛下は大変な負けず嫌いでいらっしゃる。


「さあ陛下、一杯くらいは干しませんと」


 わざとらしい笑顔のまま強引に話題を変える。ずい、とティーカップを差し出すと渋々と言いたげではあったけれど、今度こそ視線が逸らされた。

 すっかり熱を失い、カップまでひんやりしてきたお茶を一息で飲み干す。

 用意された時のまま残していたのは前回までだ。

 内密な話だからと、準備を任せたのは陛下の侍従だったのだけれど、手つかずのお茶やお菓子を見るや眉根を寄せてカンカンに怒りだしたのである。


『一口も召し上がっていただけていない!?』


 金切り声をあげる彼を見て、マジギレとはこういう状態を指すのね、と思わず思考が飛んだのを覚えている。


『長丁場になるだろうからと、冷めても美味しい飲み物を調べてこの時間の為だけに取り寄せたのに!』『超美味しくできたんですよこのスコーン!?』『見てくださいこのクッキーの素晴らしい焼き加減!』


 吐き出される言葉はまるで濁流のようだった。

 これまでは王妃さまが飲食されていたので、腹は立ったけれど黙っていたらしい。しばらくは懇々と怒られていたのだけれど、あなた方には人の心がないのか、と言われた辺りで陛下はティーカップを、わたくしはクッキーをひっつかんだ。嚥下までしっかり確認して、途端に表情を綻ばせた彼に聞こえない声量で陛下にこっそり、すまん、と謝罪されたわたくしは冷や汗が止まらなかった。

 以来、席を立つ前に一杯だけは飲む、というルールがひっそりと敷かれたのである。


 ――さて、


 準備は整った。あとはもう、舞台の幕を引き下ろすだけ。

 こぼれそうになった溜め息をお茶と一緒に飲み下す。

 陛下には公務がある。それに王妃さまへの報告も陛下にお任せしている。そろそろ戻ったほうがいいでしょう。


「ところで、」


 しかし陛下の口から紡がれた言葉は、わたくしの予想していたものとは違っていた。干してしまったカップに視線を落とす。……おかわりをいただきましょう。


「あの娘、ただの色ボケではないのであろう」


 かちゃり、とポットを持った手が震え、底がわずかにテーブルを擦った。

 色ボケ、とはさすがに直球過ぎではないでしょうか。もう少し言葉に化粧をさせていただきたかった。言葉を飾らない程度の気安さをわたくしに抱いてくださっている、と言えば聞こえはいいけれど、この場合は言葉選びに割く労を惜しんだ、と解釈するほうが正しいでしょう。口端を引きつらせるわたくしに、陛下が言葉を重ねる。


「候補には満たぬ家柄だが、多少の能はあるのだろう?」

「……実家は宝石商ですから、商人としての資質は鍛えられているようです」


 教養や美的センス、金銭に関する感覚や考え方、周辺諸国への理解もある。行儀見習いとしては優秀なほうに分類して構わないでしょう。

 陛下の双眸が、わかりやすく揺れた。――何かを迷っていらっしゃる。


「……使えんのか」


 わずかな間に、陛下の未練がうかがえたような気がした。


「無理ですわ」


 即答でばっさり切り捨てる。


「商人としての目利きで役に立つことはあっても、政では無能でしょう」


 損得で物事を捉える視点は必要だ。けれどそればかりでは人を動かせない。理屈でない部分に配慮できなければ、机上の空論の域を出ない。


「陛下、覚悟はお決めになったはずでは?」


 家柄の不足などもはや些事、彼女は使えない。


「……そうだな」


 自身に言い聞かせるようなゆっくりとした返事が、余計に陛下の未練を訴えてくる。……こればかりは諦めていただくしかない。

 深く息を吐いた陛下が一度、軽く頭を振った。その目にもう迷いはない。


「戯言だ、忘れよ」

「仰せのままに」


 今度こそ話は終わりでしょう。

 立ち上がった陛下に合わせわたくしも腰を上げ、礼をとる。


「話は終いだ」


 下げた頭に拗ねた子どものような声と、まさかの舌打ちが降ってきた。どうやら感情の制御すら完全に放棄してしまわれたらしい。

 わたくしの進言で始まった今回の件。陛下にも王妃さまにも、酷なことばかりお願いしている。わたくしのせいで乱された感情を取り繕う間もない二人を前に、平然として見えるわたくしはさぞや憎いことでしょう。舌打ちくらい、黙って受ける。

 身じろぎもしないわたくしをどう思ったのか、陛下の声が沈んだ。


「やはりそなた、少しは王妃に倣え」


 返事はしなかった。聞こえなかったふりですらない。聞こえたうえで、返事を拒否した。

 いつか不敬罪で首が落とされる。どこか他人事のように思った。

 顔を上げ、退室される陛下に言い訳の一つでも述べようと口を開き、


「良いのだな」


 ――息を呑んだ。

 確かめるような言葉は不意打ちで、取り繕うのが遅れた。動揺はわかりやすく双眸を揺らし、喉の奥が震える。

 考え直すよう言われたことは多けれど、覚悟を問われたことはなかった。


「……愛する祖国の為とあれば、喜んで」


 隠すには遅いと知りつつ、顔を伏せて誤魔化す。


「そうか……」


 陛下の声は静かだった。顔を伏せたわたくしでは、その心を推し測ることはできない。

 それ以上の言葉はなく、陛下はわたくしが顔を上げるのを待たず退室されてしまった。横たわった沈黙を重いと感じるのは、わたくしに問題があるのでしょう。

 胸に手をやる。痛い。針で指を刺した時のような小さな痛みが、もうずっと止まずにいる。


「大丈夫、大丈夫よアイリーン」


 小さく、口の中で呟き言い聞かせる。自分で決めたことだ。覚悟は決めたはずでしょう。

 きつく目を閉じる。大丈夫、わたくしは大丈夫。


「よし、やろう」


 ちくりと痛んだ胸に、わたくしは気づかないふりをした。

 

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