003 二月十四日
学生の頃はバレンタインデーというものが、とてつもなく嫌だった事を思い出す。
その日は朝も早くから、浮かれ気分の生徒達が初々しくも甘酸っぱく、ほろ苦く甘い香りを校内に巻散らかしていた。
そんな連中を教室の端から弥勒観音菩薩の様に見守るのが僕の立ち位置だ。
もちろん、誰に頼まれたわけでもなければ、自ら名乗り出た分けでもない。
それは運命という奴であると僕は気が付いていた。
家に帰れば、冷蔵庫の中身は二つ年下の弟・辰男が貰って来たチョコレートで鮨詰め状態。
もしくはそこから溢れているというのは毎年の恒例行事である。
僕は小学生の頃から母親と、七つ年上の姉・良子からお情けで貰ったチョコレートが、バレンタインデーというものの全てだったのである。
もちろん、それを「バレンタインデーに貰ったチョコレート」としてカウントする気は毛頭無い。
そんな涙溢れるような思いはしたくないと言うプライドは僕にもある。
「はい、杉岡さん」
そう言って、田所さんがぞんざいに放り投げたのはチロルチョコだった。
ちょっと驚いて田所さんを見ると、彼女はとても面倒くさそうにバレンタインデーですよ、と言った。
どうやら彼女は袋詰めになったチロルチョコを買ってきて、男性社員に配って回っている様だった。
「義理と人情、図りにかけニャ?っていう奴です」
どうやら、いま思いついたことを満面の笑みで言う田所さんだった。
「神出鬼没な猫ひろしだね。それよりなりより、まず第一に言いたいことは、放り投げるなと言うことで、第二に言いたい事は何を企んでいるのかと言うことだったりするんだけど。それに出来れば僕はきなこ味じゃなくて、できれば普通のチョコレートと変えて欲しい。僕は甘党なんだ」
「なに贅沢な事を言っているんですか。もうきなこ味しか残って無いのでチェンジは困りますよ、お客さん。あと、ホワイトデーは焼肉で良いですからね」
「どんだけ肉食系なんだよ。わらしべ長者も真っ青だ。それに、きなこ味なんて邪道過ぎる」
「王道なんてそもそも知らない寂しい人生じゃないですか。いいですか、現実という奴を見て下さい。どこの世界に40を目前にしてバレンタインデーにやっと貰えたチョコレートへの不満ついて熱く語るおじさんがいますか?この、素人童貞さん」
「ここにいる。と言うか玄人を相手にしたのは一度しかないぜ!!」
私は胸を張ってそう言った。
「夢遊病ですか?杉岡さんは私の人生のほとんど倍を生きているんですよ?病院に行った方が良いレベルです。夢は寝ているときに見て下さい」
そう言われると身も蓋もなくて、M属性の僕としては嬉しくなって、涙を浮かべるくらいだった。
田所さんはまだ二十歳で、実際のところはまだ専門学校に通っている学生さんだったが、四ヶ月前に就職活動で私の勤め先に何を血迷ったのか面接に来て、翌日から働き始めていた。
高卒で現場上がりの僕とは全く別の生き物であると言って良く、パソコンを使った作業ではさすがに専門学校を出ているだけあって、ぜひ、土下座したいレベルである。
在学中にはいくつものコンテストに応募して、入選し、コンテスト荒しとして名を売っていたと言うのを知ったのは最近のことだ。
元々、女性社員がほぼいない職場であったので、職場に一輪の華が咲いたと言って良い。
まさに鬼百合のような人であったと言っておこう。
日頃の勤務態度の悪さから、つい先日に社長からお説教を食らって、解雇をちらつかされたが、他の社員が過労で倒れたとか、人間関係の悪化から退社していくというのが続き、人手不足になったので解雇になる事はなかったのだけれど、なぜか田所さんの下働き扱いである。
「今から私が先輩ですからね」
彼女はそう言って私を笑顔で迎えてくれて、それからは激しく絞られる日々を送っているのである。
「僕は義理チョコにお返しはしない主義なんだよ。義理チョコをいちいち返していたら、生命保険会社の勧誘のおばちゃんにまでお返しをしないといけないだろう?」
「何を言っているんですか。それが人間社会というものです。コミュカ」
田所さんはそう言い切った。
「こみゅりょくだろ?まぁ、僕はそんな柵なんか気にしないけどね。年賀状も出さないし」
「社長が杉岡さんから年賀状が来なかったって怒ってましたよ。正月休みに持ち金全部をパチンコに突っ込んじゃって、お金がなかったって言っておきましたけど」
「それが真実なんだけどね。甥っ子にまだお年玉もあげてないし」
「私も貰っていませんけど」
「僕が貰いたいくらいだよ!!」
「逆ギレされた!?……仕方ありませんねぇ」
田所さんはそう言うと僕の机の上にチロルチョコを追加で二個置いた。
「焼肉×2と言うことで手を打ちましょう」
置かれたチロルチョコはまた両方ともきなこ味だった。