010 四月一日
「杉岡さん、わたし結婚する事になりました」
そんな報告をされたのは、ちょうど仕事が立て込んでいる夕方の事だった。
僕は一瞬、田所さんが何を言っているのか理解できなかった。
漫画にするのであるならば、きっと見事なクエスチョンマークが頭の上に浮かんでいた事であろう。
それは人間強度を下げてしまう事であるし、そもそも自分に全く縁のないものだと、ずいぶん前に僕の心の辞書から消し去った言葉だった。
その為に「結婚」と言う言葉に私の反応が遅れたのは無理もない事だ。
結婚を口にした田所さんと初めて会ってからもう四年になる。
専門学校の卒業を目前に控え、ちょうど新入社員の募集をしていた私が勤める会社へ、何を血迷ったのか面接に来た田所さんは、不幸な事に数多のライバル達を蹴散らして入社してしまったのである。
知らなかったとは言えど、入場限定一名様限りの地獄の門を、自ら進んで通った傾奇者である。
あっぱれであったと言っておこう。
その頃の僕は「キツイ、キタナイ、キケン」が三拍子揃った工場勤務から晴れて解放され、人手不足に陥っていた「キツイ、キツイ、キツイ」が三拍子揃ったパソコンを使う部署に異動したばかりであり、何もできなかったぼくと田所さんは、まさしくある意味で同期の桜と言えるだろう。
歳の差が20歳の同期の桜である。
まかり間違えば父娘と言えなくもない年齢差ではあるが、時同じくして一緒に働く事になった我々に年齢差などは関係などなかった。
専門的な知識を学んできた田所さんと、市内で下から二番目という公立高校を卒業し、そのまま工場勤務で四半世紀近く働いてきた僕の能力は比べる必要もなく、三ヶ月後には僕が教えを請うと言う主従関係に発展していたのである。
田所さんに叱られるのはむしろ私僕の職務であると言っても過言ではない。
向上心と未来への希望、高い意識。
僕がどこかに振るい落としてきたようなものばかり持ち合わせており、彼女なりの考えを仕事中に昏々と僕に諭し、僕がネガティブな事で笑いを取ろうとすれば、惜しげもない舌打ちで答えてくれたものである。
もし自分に娘がいたら、こんな子に育って欲しい。
独身ではあるけれど、そう思わずにはいられない器量の良さであった。
2ちゃんねるのまとめサイトを仕事中に閲覧し、自分の笑いのツボに入ると隣にいる僕にわざわざ報告してくれる姿を見て、父と娘と言うものは、こんな感じであろうかなどと、ありえなかった世界に想像を廻らせるのである。
女の子の日にはわざわざ、
「わたし生理なんですよ〜だから、わけわかんなかったりするかもしれませんけど、気にしないでください」
などと、いちいち断りを入れてくれる心の優しさと、気配りのできる礼儀の正しい人であった。
そんな同僚としての関係は、僕が人手不足になった工場勤務へのカンバックと言う事で終了したが、薄汚れた作業着の私と会社の中で擦れ違えば、指を指して笑ってくれる程度の関係性は残っていたので、そんな事もあっての結婚報告だったのだろう。
「まじで!? 仕事どうするの?出来ちゃった婚?相手の男はどこの馬の骨 !?」
正直、本気で狼狽えていた。
彼女はすでに社内では重鎮である。
彼女がいなければ成り立たない仕事というものがすでに確立されていて、にっちもさっちも行かなくなる状況を会社は放置していたのである。
だから、会社を結婚退職されることになると、田所さんのいる課は一発で仕事が溢れるのである。
地獄の蓋が開いてしまう様なものである。
魔女達の宴「ヴァルプルギスの夜」が延々と続くようなものだと理解してもらって構わない。
そして、「社内で一番低レベルなオールマイティー」、「背番号のないエース」と二つ名で呼ばれる僕が怒濤の嵐が吹き荒れる火中へ放り込まれる可能性が一気に高まるのである。
迷惑千万、御免被りたい。
もう僕は若くないのである。
言ってみれば敗戦処理に、火中のクリを拾うようなものであり、「戦の真骨頂と言えば、負け戦の殿よ!!」などと、花の慶次の主人公である前田慶次の様な事を言えるような気分にはなれないのであった。
そして正直言えば、唯一の紅一点、社内に一つのオンリーワンとも言える二十代前半の女性の田所さんがいなくなるのは、一抹の寂しさがあるのである。
四十代半ばの女性は二人いるけども。
「え〜マジで結婚するの? まぁ、お年頃だし仕方ないと言えば仕方ないのかぁ。それで、会社はどうする……?」
私がそんな事を一人で言っている間、彼女は何も言わず、私の狼狽える姿を見て吹き出しそうになるのを必死でこらえていたのである。
「……あっ!! そう言う事か!? マジかぁ!?」
僕は彼女の様子を見て、ある事に思い当たる。
そして、田所さんも僕の様子を見て、僕が気づいた事に気が付く。
「今日は四月一日ですよ」
田所さんはそう言って笑ったのだった。