一片のけいき
一片のけいき
コンビニ
深夜のアルバイトと言うのは、何て素晴らしいのだろう、と僕は思った。客はほとんど来ないし、気の合わない同僚と話す必要もない。これで昼間より時給がいいのだから、本当に、願ったり叶ったりだった。
僕がなぜアルバイトをしているのかと言うと、本業では家賃を払いきれないからだった。僕の本業は、皆さんが想像するよりも過酷な職業だろう。とにかく、割に合わない。いくら努力しても、売れなくては儲からない。
しかも、現代は不景気。大御所の同業者ですら苦労しているのに、ましてや駆け出しの僕では、売れるのは至難だった。
「あ〜売れて〜!」
僕が呟くと同時に、店の自動ドアが開き、聞き飽きた入店音が鳴る。てれれれれれん、という何とも能天気な入店音だ。
「いらっしゃいませ〜」
内心で舌打ちをしながら、店内に入る体格の良い男に対し、惰性の塊を発声した。ここ数日、日付が変わったこの辺りの時間帯になると、この男は必ずやって来た。トレーニングをしているのだろうか。機動性の高そうな黒いトレーニングウェアを上下に着衣し、首から白いタオルを垂らしている。毎日同じ格好だった。
男は、タオルで汗を拭うと、迷うことなくドリンクコーナーへ向かった。足の長い彼が大きな歩幅で歩くと、入り口から数秒でドリンクコーナーに着いた。ドリンクコーナーでスポーツドリンクを選択した男は、これまた大きな歩幅でレジへ向かうと、「これください!」と、はきはきとした口調で言った。辟易した僕は、バーコードリーダーでスポーツドリンクに触れる。
「お会計162円です」
僕が言うと、男は四角い財布を開けた。財布には、某スポーツメーカーのロゴがプリントされている。
男は、20代前半くらいに見えた。太い眉と角ばった顔の輪郭には迫力があったが、まだ生えきっていない顎髭や素朴な垂れ目は、幼気な印象を与える。と、言いつつ、僕もこの男と同い年くらいで、まだまだ未熟な青年なのだが、とにかく、この男は20代前半くらいに見える。
「10062円でお願いします!」
僕は内心で舌打ちをした。福沢諭吉がふてぶてしい表情でこちらを見る。
「9900円のお返しです」
レジを開く。
一葉、英世、英世、英世、英世。桐、桜桜、桜、桜。
その順番で硬貨と紙幣を取り出し、男の大きな手に渡していった。渡し終えると、スポーツドリンクをレジ袋に入れ、男の太い腕に掛けた。
「ありがとう!」
男は、そう言うと、店の出口兼入口へ向かった。相も変わらず大きな歩幅で、だ。
「毎度ありがとうございます」
僕はまた、惰性の塊を発声した。
ありがとうございます、とは思っていないが、毎度来てるな、とは思った。明日も、明後日も、きっとここへ来るのだろう。
てれれれれれん。
聞き飽きた退店音が音が鳴ると、男は店内から消えた。
そうして、僕はまた一人になる。
アパート
「やべぇってこれ!俺たちもやろうぜ!」
隣で、同業者の哲夫が声を上げた。
とある作家の小説を読み、それが佳境に差し掛かった時のことだった。
「やばいって言う言葉には、いろんな意味がある。お前が今言った"やばい"は、どういう意味での"やばい"なんだ?」
「細かいことは気にすんなよ!とにかく、やばいんだって!やばすぎなんだよ!」
哲夫はそう言って、小説を寄越してきた。俺はそれを渋々受け取り、題名と作者を見たが、いずれも聞いたことのない名前だった。
「これ、俺たちがいつもやってるやつより、楽そうじゃないか?」
そう言った哲夫が、鼻の穴を膨らませている。
俺は、そんな哲夫をよそに、小説を読み始めた。その小説の文体は、表現が柔らかく、読みやすいものだった。しかし反面、悪く言えば、表現に重感がない。入って来やすい文体だが、抜けやすい文体でもある。俺は、そう感じた。
「どうよ、これ」
「柔らかい文体だな。読みやすい」
「そんなこと聞いてねぇんだよ!俺が聞いてんのは、内容!その小説の内容!それ、俺たちがいつもやってるやつより、楽そうだろ?」
哲夫に言われ、その"内容"に注目した。もう一度読み直す。
「どうよ?」
確かに、俺たちが普段やっているものより、楽そうで、且つ、リスクも少なそうだった。悪くはないかもしれない。
「成功すれば、文句ないな」
「成功するさ、だってこの小説も、結局デウスエクスマキナで解決してんじゃん。この世に、機械仕掛けの神なんて存在しないんだよ」
哲夫の口から、デウスエクスマキナなる単語が出てくるとはちょっと予想外だったが、確かに、小説内では、救世主的な人物が入ることによって解決している。
この世に、こんなヒーローじみた救世主がいるとも思えない。哲夫の言うことも一理ある。
「やってみる価値はあるかもな」
「だろ?やっぱ俺天才!」
「いや、賢いのはこの作家だろ」
俺は、顔も名前も知らないその作家を褒めた。
「それを言うなよ。俺は天才なんだよ」
哲夫がむくれる。
「あのな、お前が天才なら、この世界の6割は天才なんだよ」
そう言い、俺は哲夫を人差し指で指した。俺が考え付く、精一杯の揶揄いだ。6割、というそれっぽい数字がミソだ。
「なるほど、全世界の4割は俺以下ということか。俺、すごくね?全世界のトップ4割だぜ?」
哲夫が機嫌を良くする。
「哲夫、お前」
「なんだよ」
「お前、馬鹿だろう」
コンビニ
今日も来た。黒いトレーニングウェア上下、白いタオルを垂らしたあの男が、今日もやって来た。これで、5日連続だ。
「いらっしゃいませ」
僕が惰性の塊を発声すると、男はやはりドリンクコーナーへ向かい、そして、スポーツドリンクを選択した。大きい歩幅でレジへ行くと、「これください!」とはきはきとした声で言い、燦然とした白い歯を覗かせる。
これはもはやデジャブだった。既視感しかない。
「162円です」
僕は、ペットボトルにバーコードリーダーを当てながら、一体こいつは何者なんだ、と思案した。この辺りに住んでいるのだろうか。さすがに、これほど連続して入店されれば、気にもなってきた。
僕は、勇気を振り絞る。
「そういえば、あなた、毎日来てますよね?この辺りに住んでる方なんですか?」
「え?」
それを聞いた男は、さすがに狼狽した。いくら毎日通っているコンビニの店員とは言え、いきなり話しかけられれば、困惑するのは当然だろう。僕は後悔した。
自分が男の立場でも、同じ反応を見せただろう。
「あ、実家はこの辺じゃないんですけど、大学の寮がこの辺にあるんです」
男は、僕の後悔をよそに、白い歯を見せ、笑った。
「え?大学の寮ですか?」
僕は、この周辺にある名門大学を思い浮かべた。
「はい。自分、早瀬台大学に通ってるんですよ」
「早瀬台!?」
早瀬台大学は、慶葉大学と共に、私立大学の双璧と言われている、名門大学だ。まさか、この男が早瀬台大学の学生だったとは、人は見かけで判断できないな、とはつくづく思う。
「すごいですね。早瀬台大学だなんて。名門大学じゃないですか」
「いえいえ。それほどじゃないっすよ」
男は、そう言うと、むず痒そうに頭を摩った。
高卒の僕の前で早瀬台大学を謙遜するのはどうかと思うが、この男に悪気はないのは、なんとなく察しがついたので、特別怒りは覚えなかった。
「毎日、トレーニングを?」
僕は、男の黒いトレーニングウェアを見た。
「はい。特別意味はないんですけど、いつか役に立つかな、と思いまして」
男はそう言い、力こぶを膨らませて見せた。学生時代、サッカー部を途中退部した経験を持つ僕は、尊敬の念でそれを見た。
「明日も明後日も、ここに来ると思うので、よろしくお願いします!」
男が、大きな手を差し出す。僕はその手を握った。
「よろしくお願いします」
男の手は、硬く、大木や岩に近いような質感だった。マメがつぶれているのだとわかる。テニスや野球、その類いのスポーツを経験しているのかもしれない。
「自分、伊藤晋三と言います」
男は、僕の手を握ったまま、はきはきと名乗った。
え、名乗るの、と僕は戸惑った。たかが、毎日通っているコンビニの店員に、わざわざ名を名乗るのか。そして、僕も名乗るべきなのか。
「わ、私は、龍進一郎と言います」
僕もまた、手を握ったまま名乗った。やはり、相手に名乗らせておいて、自分だけ名乗らないのは気が引けた。
「龍さんですか。珍しい名前ですね」
「ま、まあそうですね。よく言われます」
男が手を緩めた。握手が解ける。
「ではまた、明日も来ます」
そう言って、伊藤は手を振った。
てれれれれれん。と退店音が鳴る。
それで、僕は一人になったというわけだ。
寮
スポーツドリンクを飲み終え、専攻の政治学の勉強をしようと思い立つ。
私には、目標があった。それは大それた目標なのだが、人間努力すれば何にでもなれる。そのことを、私は知っていた。
「おい、伊藤。寮長が呼んでる」
私にそう言ったのは、同室の先輩、安倍さんだった。安倍さんは、舌ったらずで、時々何と言っているのかわからない時があるが、今回は聞き取れた。寮長が呼んでいるらしい。
「わかりました。安倍さん、ありがとうございます!」
私はそう言ってから、寮長室へ向かった。
寮長室までは、そうかからない。歩幅を広げて歩けば、数秒で着くだろう。
私は、歩幅を広げ、廊下を歩いた。
数秒で寮長室へ着く。他の部屋とは異彩を放つ扉を3回叩き、「失礼します」と一言発すると、「入れ」と声がした。寮長の、低く、聡明そうな声だ。
扉を開け、中へ入る。
「失礼します」
中へ入ると、寮長が社長椅子にかけていた。短めの白髪と精悍な丸顔が特徴的な寮長は、年齢を感じさせない聡明さと威厳を持っていた。曲者揃いの寮を一人でまとめ上げるだけの器が、寮長には確実に備わっている。
「伊藤君。君は、夜にトレーニングをしているらしいね」
切れ長の目を細め、寮長は言った。柄が悪いわけではないが、寮長の目つきは、こちらを牽制してくるような迫力があった。
「はい。体を鍛えることで、健康を維持できると思いますし、何より、気持ちがいいので、自分はトレーニングをさせていただいております」
「まあ、それは結構なのだが」
寮長は、人差し指をこちらに向けた。
「この寮には、門限が存在するのだよ。わかるね?」
「門限、ですか?」
「そうとも。我が寮の門限は、午前0時。つまり、日を跨ぐまでなのだ」
「え?」
私は、自らの軽率さを憎んだ。毎日門限を破っていたというのか。自主性がないにもほどがある。
「た、大変申し訳ありませんでした!」
私は頭を下げる。寮長には、本当に申し訳ない。毎日門限を破るような、大馬鹿者を、どうか叱ってください、とそんな気持ちで、私は深々と頭を下げた。
「まあまあ、落ち着きたまえ。私だって鬼ではない。明日以降、しっかりと門限を守れば、とやかく言うつもりもない。明日以降、門限を守ることだな」
「あ、ありがとうございます」
私は、再度頭を下げた。寮長の寛大な心には、敬意と感謝を示さねばならない。
「トレーニングをするのは、無論良いことだ。門限を破らぬように続けると良い」
「はい!ありがとうございます!」
私は、直立を保ちながら声を張り上げた。
「伊藤君」
「はい!」
「私は、耳が悪いんだ。大声は控えてくれるか?」
寮長が耳を抑える。
「申し訳ありませんでした!!」
私は、謝意を示すため、大きく喉を震わせた。
「いや、だから伊藤君。私は耳がだな...」
「す、すみません!!」
コンビニ
入り口に背を向け、弁当、おにぎりを陳列する。飲み物の陳列は先程終えた。これで、いつあの男が来ても大丈夫だ。
バットから商品を取り出し、気を遣いながら置いていく。この工程を、小一時間繰り返していた。
腰が痛い。最近、首や腰に疲労を感じる。僕は、まだ20代前半だぞ、と戦慄しているのだが、深夜アルバイトの品出しのせいかもしれない。屈んで商品を取り出すゆえ、腰や首に負担がかかっていてもおかしくない。深夜アルバイトも楽ではないな、と僕はため息を吐いた。
アパート
「おい、哲夫早くしろ!遅れちまうだろうが!」
同業者の哲夫に、俺は叱責した。
「待てよ、光男。あと少しで、ウォーリーが見つかりそうなんだ」
哲夫が間延びした声を出した。先程から哲夫は、最近流行の本にかぶりついている。まったく、何が面白いやら。
現代は、100年に一度とも言われている不景気の時代だ。そんな時代に、こんな単純な本が売れるとは、日本人は何をしているのだ。
現実を見ず、こんな単純な本で現実逃避をしているようでは、景気回復の契機は訪れない。本当なら、経済学の本やら、この間俺たちが読んだ小説のような、実利的な本が売れるべきなのだ。しかし実際は、哲夫が見ているような享楽的な本が売れている。
「あ!いた!やったぜ!このページ全制覇だ!」
哲夫が、小さくガッツポーズを取る。
哲夫が指指す先には、赤白縞模様の服を着た、無表情の青年がいた。
「終わったのか?じゃあ早く行くぞ!」
俺は半分呆れながら、哲夫を催促した。
「オッケー。今日はウォーリーを見つけられたからな。きっと成功する」
「どうでもいいが、早く行くぞ。時間は限られてるんだ」
「わかってるよ。言われなくても、行くさ」
哲夫が覆面マスクを被り、リュックを背負った。俺もそれ続く。準備完了だ。
「よし!行くぞ!」
掛け声を上げると、俺たちはアパートを出た。
コンビニ
深夜のコンビニは、虚無の象徴だな、と思う。外からは、街路灯の人工的な灯りが覗いていた。あまり人が見受けられない。
世の中の雰囲気とは対照的に、街路灯は明るくなっていった。つい最近まで建っていたマンション、高層ビルの類いも、人々の購買意欲と共にどんどん潰れていった。父が経営していた会社はと言うと、少し前に倒産した。学生時代、誇らしげに札束を眺めていた父も、今や債務者の仲間入りだった。
夜11時を回った。あと少しで、品出しが終わる。十数個おにぎりを残すのみだ。品出しを終えれば、と考えた。品出しを終えれば、あとは適当に客をあしらいながら、朝方に帰るだけ。もう一踏ん張り。頑張ろう...
あんなことが起きるとは思っていなかった僕は、呑気にそんなことを考えていた。
バブル景気に湧いていた人々も、こんな風に現実を楽観視していたのだろう。現実というのは、自分が思ったように進まない。それをわかっていなかったのだろう。
てれれれれれん、と入店音が鳴る。
こんな時間に客がやって来るのは、珍しいことだ。強ち、エロ本等のいかがわしい物品を買っていくのだろう。
「いらっしゃいませ」
と僕は言う。エロ本でもなんでも、買っていけばいい。そんな気持ちで、毎度の如く惰性の塊を発声した。
しかし、僕の予想とは裏腹に、入店した客の目的は、エロ本などではなかった。あと数十個を切り、十数個程度になっていたおにぎりを掴んだその時、僕は深夜アルバイトを始めたことを激しく後悔した。こんなことになるなら、昼間、むかつく同僚に諂えた方がましだった。しかし、後悔は先に立たない。現実は血相を変えて僕に襲いかかる。
「哲夫!そいつを抑えろ!」
その声と共に 、僕は黒い覆面の男に腕を掴まれた。反射的に抵抗し、足をバタバタと動かす。随分と野生から遠ざかった生活をしている人間だが、本能は衰えていないらしい。
抵抗した僕の足がぶつかり、バットが倒れた。床におにぎりが散乱する。本能的に抵抗したものの、実際、僕は何が起きたのか理解できていなかった。一体何が起きているのだ。なぜ僕は羽交い締めされなくてはならない。しかし、状況を把握した時には、時既に遅しだった。僕は、中肉中背の男に首を抑えられ、あっという間にマウントポジションを取られていた。
「光男!金を奪え!こっちはオッケーだ!」
僕を抑えている男は、レジ付近にいるもう一人の覆面男に声を掛けた。光男と呼ばれた男は、親指を立てると、レジをこじ開けた。無論、レジの中には金がある。
「バイト君!君は運が悪いなぁ」
哲夫と呼ばれた、僕を抑えつけている男は、呑気にこう言った。「今日は天気が良くないね」とか、「赤信号になっちゃったね」とか、日常のどうでも良いことを言うようなトーンで、僕が被った、史上最高峰の不運を表現した。
「でも、君に危害を加えるつもりはないから、大人しくしててね」
覆面を被り、万国共通で怪しいの代名詞となりえるこの男は、リュックから黒い拳銃を取り出した。それを僕の額に当てる。ひんやりと、鉄の冷たさが広がった。
「大人しく、しててね」
もう一度男が言うと、僕は、肩の力がスーッと抜けた。あまりの恐怖に、抵抗する気迫を失ったのだ。レジでは、光男氏が、金を袋に詰めていた。もう、金なんてくれてやる。僕は半分自棄になっていた。
「もう、終わりだ」
それだけは理解していた。この男たちの犯行が終われば、僕は、口止めのために殺されるに違いない。
「やったぜ光男!成功だ!ウォーリー万歳!!」
僕を抑えている、哲夫氏が叫んだ。
レジ付近にいる光男氏が、金の入った袋を高く掲げている。僕は、その光景をぼんやりと見た。
その光景を見た時「あれ?」と閃くものがあった。この光景、覚えがあるぞ。
「おい、光男!」
てれれれれれん、と入店音が鳴る。僕を抑えていた哲夫氏が、大げさに唾を飛ばした。口調からは焦りが覗いている。
「お前誰だ!」
光男氏が後ずさりながら言うと、入店した体格の良い男が、首にかけた白いタオルを床に投げ捨てた。形相は、さながら鬼のようだ。間違いない。白いタオル、上下の黒ジャージ。この男は、間違いなくあの伊藤だ。
「おい!哲夫!何をしている!あの男を撃て!」
光男氏の必死の訴えを聞くと、哲夫氏は伊藤へ銃口を向けた。表情はこそわからないものの、挙動や手汗の量から、焦っているのは明白だった。今だ。今しかない。哲夫氏の僕に対する注意が薄れている今が、この状況を打破するチャンスだ。大丈夫。何たってこの場には、あの伊藤がいるのだ。彼がいれば、きっとうまくいく。光男氏を睨みつけている、ドーベルマンじみた勇ましさの伊藤を見て、僕は根拠のない自信を覚えた。
「死ね!黒ジャージ!」
そう言った哲夫氏の腕が、一瞬緩んだ。それを見計らって、僕は全力で上体を捻り、持てる全ての力で哲夫氏の背中に肘打ちを食らわした。
「ぐは!」
と哲夫氏が喚くと、僕は瞬時に立ち上がり、今度は、哲夫氏の腹を全力で蹴った。学生時代、数回程度ゴールネットを揺らした僕の右足が、哲夫氏の腹部を捉えた。哲夫氏の持っていた拳銃はその衝撃で手から離れ、落ちていたおにぎりの群れに突っ込んだ。
「うぅぅぅ...」
哲夫氏が、腹部を抑えて蹲る。学生時代は何の役にも立たなかったサッカーだったが、ここへ来てやっと役に立ったようだ。サッカーをやっていて、よかった。
「うぉお!」
光男氏が喚く。
伊藤に袈裟固めを喰らい、身動きを取れずにいるのだ。伊藤も伊藤で、光男氏を圧倒していた。さすが伊藤だ。毎日のトレーニングはダテではない。
「龍さん!早く、警察に連絡を!」
伊藤が、床で喚く光男氏を抑えながら言った。表情には、溢れんばかりの勇ましさが滲んでいる。
「はい!」
僕は、返事をし、レジへ走った。レジには、緊急時に押すためのボタンがあり、そのボタンで警察を呼ぶことができる。
警察を呼べれば、こちらの者だ。逃げられても、防犯カメラに証拠が残っている。
「放せよ!ちくしょうめ!」
足元で騒ぐ光男氏をよそに、僕はレジのボタンを押した。
「こちら、ヘブンヘルブン早瀬台店。強盗が入りました。至急駆けつけてください」
「龍さん。見事な対応でしたね」
伊藤が僕を褒めた。二人組の男が現行犯逮捕され、事情徴収が終わった後のことだった。
「いえ。これも、全部伊藤さんのお陰です。伊藤さんが来てくれて、僕は平静を取り戻せたわけですから」
僕は、哲夫氏、本名加藤哲夫を蹴り飛ばした時のことを思い出して言った。
「いえ。自分は何もしていません。今回は龍さんの手柄ですよ」
伊藤が、謙遜混じりに言った。
そうは言っても、実際、伊藤がいなければ恐怖で動けなかっただろう。
伊藤が入店したことで、僕は孤独感を払拭でき、それで落ち着いた行動ができたのだ。今回は、間違いなく、伊藤の手柄だった。
「伊藤さん」
「何ですか?」
伊藤が、穏やかな表情で眉を下げた。
「いろいろ、ありがとうございました」
僕が、本心を言う。
日付を変わった夜の街に、上弦の月が上がった。
「楽勝、ですよ」
伊藤がニコッと笑う。その笑顔は、幼気で、あどけなさが漂っている。
「楽勝、ですか?」
人は見かけで判断できないな、とはつくづく思う。このあどけない大学生が、犯人逮捕の立役者なのだから。
30年後
「ねぇ、知ってる?この本に出てくるコンビニの強盗事件って、実際に起きてるんだよ」
自慢気に言うのは、わたしと同じ高校に通う、真理亜ちゃんだった。
2時間目が終わり、教室で音楽を聴いている時、真理亜ちゃんは唐突に話しかけてきた。ヘッドホンを外し、ムッとしながらそれに応じる。真理亜ちゃんが示したのは、最近話題の小説だった。
「知ってるよ。だって有名じゃん。これ」
「え?有名なの?」
「うん。残念ながら」
「マジ〜がっくしだわ」
真理亜ちゃんが、残念そうに肩を落す。この本が有名なのも仕方がない。何たってこの本は、景気回復の立役者、伊藤晋三総理一押しの本なのだ。
「伊藤晋三総理一押しだから、話題作だよ。だいぶ古い小説だけどね」
「それで、お父さんが勧めてきたのか」
そう言った真理亜ちゃんは、合致がいった様子だ。真理亜ちゃんのお父さんは、伊藤晋三総理の熱烈な支持者なのだ。
「でも、伊藤晋三総理ってすごいよね。若くして総理になって、就任1年目で景気を立て直しちゃうんだから」
「そうだね」
相槌を打ったわたしは、伊藤晋三総理の童顔を思い浮かべた。彼は、50歳を迎えた昨年に、与党の党首として内閣総理大臣に就任し、就任1年目から景気回復に着手した。
「景気回復?楽勝、でしたよ」
伊藤総理は去年の年末、記者の質問にこう答えた。その飄々とした言い草とクリーンな政治理念は、国民の心をがっちり掴み、驚異的な支持率を維持している。ここ最近で、最も好感の持てる政治家だな、と高校生ながらに感じていた。
「そういえばさ」
わたしは、ふと気になった。
「何?」
「その小説の作者って何て言う人だっけ?」
わたしは、その小説の作者が気になった。話題作とは言っても、作者の名前はあまりピックアップされておらず、わたしは忘れてしまっていたのだ。
「えーっとねぇー」
真理亜ちゃんが思案の表情を浮かべる。
そういえば、真理亜ちゃんのお父さんは、伊藤総理と知り合いとも言っていた。確か、伊藤総理と一つ屋根の下だったとか、言っいてたような。言っていなかったような。
「あ!思い出した!」
真理亜ちゃん、本名は安倍真理亜なのだが、彼女が思案の表情を解いた。嬉しそうに人差し指を立てる。
「作者の名前、龍進一郎だ!」