プロローグ
ギシリ・・・ギシリ・・・
人気のない町はずれのビルの階段は、踏みつけるたびに悲鳴をあげ、そのたびにカビのにおいを発散する。年季の入った不潔な壁には見たこともない黒い虫がはいずりまわり、壁のひび割れに溶けるように見えなくなる。
目的の場所まであと一階分というところで、一度足を止めて、深呼吸した。階段を使ったために疲れた体がクールダウンする。このビルにはエレベーターが付いていないのだ。不便で汚いからか、私の目指す場所以外はすべて空きフロアとなっていた。
もしバイト先がそこに決まったら、こんなことを通勤のたびにするのか…
昔は空手をやっていて、身体能力にはある程度自信がある、が、そのことを考えると辟易する。まだ面接もしていないのに、気が重くて足が動かない。
私には職がなかった。先週まではコンビニで働いていたのだが、そこで万引きをした客をつい殴り飛ばしてしまった。それだけならまだしも、殴った相手が泡を吹いて気絶してしまったことで、私も一緒に警察に連れていかれ、ようやく出てこれたと思ったら、暴力沙汰を起こしたということで、店をクビにされてしまうという最悪なコンボを決められ、その日から無職の仲間入りを果たしてしまった。
幼いころからの、良く言って勝気、悪く言って乱暴な性格のため、恋も仕事ももう一歩のところでの失敗を繰り返してきた。そのせいか、今まで彼氏もいたことがないし、友達も片手で数えきれてしまうだろう。もう仕事に贅沢を言える立場ではない。
意を決して階段を駆け上ると、目的の場所が見えてきた。そこは金属製の安っぽいドアに、チープなプラスチック製のネームプレートが下がっていた。壁が汚いのに反して、ドアは綺麗に磨かれており、下がるプレートには丁寧な字で、こう書かれていた。
『害虫駆除事務所 ゴールドマン』
ここが私の新しい職場となるかもしれない場所だった――――
コン…コン…コン…コン…
インターフォンがついていないため、ノックをするが応答がない。電話で今日来ることを伝え、向こうが指定する時間に来たのに…
ドアノブをひねってみる。と、鍵はあいているようだった。少し迷ったが、中に入ってみることにした。
「失礼します」
ドアを開けて中に入ると、プレートが立てるカタンという音が聞こえるほど、中は静かだった。
そこにはだれもいなかった。階段と同じく床材が傷んでいるのか、歩くたびに軋む。部屋の中央には上質な、しかしところどころ色が禿げているソファーと、それに挟まるように木製の簡素なテーブルがあり、その奥には、仕事用だろうか、パソコンや電話や大量の書類が置かれたデスクがあった。そのどちらにも、人は座っていなかった。
なんだというのか…
私は面接をすっぽかされた怒りと、また同時に不安と恐怖が襲ってきた。近所の民家の塀に張られていた{時給1,200円}の文句につられて来たのはさすがに早計だったか。嫌な妄想が頭をよぎる。身ぐるみを剥がされたり…下衆な男たちに純潔を散らされたり…
そんなことを考えていると、
パタン
後ろでドアのしまる音がした。驚きで心臓が口から出そうになる。後ろに誰かいるようだった。いつからそこにいたのか、全く音も気配もしなかった。緊張で体が強張る。その辺の男と戦って負けるつもりはないが、気配を殺して存在を感じ取らせない、背後に立つ誰かは間違いなく只者ではなかった。
しかし、背後の誰かは、そのまま、声も、床の軋む音もたてなかった。私が振り向くのを待っているのだろうか。
意を決して体ごと振り向く。と、そこには、整った眼鼻立ちの、背の高い、爽やかな男が立っていた。
半裸で。
全裸に、赤いエプロンのような前掛けをつけて、隙間から竿と玉がちらちらのぞく、男が、私を見てたっていた。
全く理解が追いつかない。男は口を開けて硬直する私を一瞥すると、何がそんなにうれしいのか、爽やかに微笑んだ。
「いらっしゃい。菅沼美佳さんだね。私が所長の足柄・ゴールドマンだ。さっそく面接を始めようか。」
と爽やかな笑顔で言いながらソファーに座り、私に座るように促す。秘所が完全に見えていたが、男は全く気にしていなかった。それどころか、私の視線を感じて前掛けの秘所の部分が少し盛り上がる。男は見られて悦んでいるようだった。
私はここに来たことを、心底後悔した。