『流れ星と血の薫り』4
『Never bend 聖女とケモノと夜の街』外伝(短編版)。
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4.
その夜、村は異様な熱気に包まれていた。
暗闇の中、眼も眩む数の松明が焚かれ、百人に上ろうかと言う村人が、眼を血走らせ、涎をまき散らしながら、口々に叫んでいた。
――化け物を殺せ!
――村を守れ!
――化け物を殺せ!
――村を守れ!
――殺せ!
――殺セ!
――コロセ……!
無限に続く大合唱は、村とヒトビトと夜を覆い尽くした。ヒトビトは我を忘れ、ただ一人の化け物を殺すために人形のように動き続けた。
――それはまるで、それだけを本能とする獣であるかの如く。
神の子のそれとは比べるのも烏滸がましい、急ごしらえの粗末な張り付け台に掲げられるのは、年端も行かぬ一人の少年。
足下には敷き詰められた藁と薪。
周囲を取り囲むように、村人たちの掲げる松明がごうごうと揺れる。
――少年は、狂気の炎に焼かれようとしていた。
† † † † †
少しばかり、風が出てきたようだった。
夜の森は相変わらず静かだったけれど、揺れる木々の葉擦れの音が、リリスたちの耳元をくすぐっていた。
涼やかな夜風を頬に感じながら、二人は村への帰途へとついていた。
「……あー、風が気持ちいいわ」
「そう言う台詞はもう少し爽やかな顔で言ったらどうだ?」
「無理」
キッパリと。リリスは迷いもなく言い放った。
仕方ないか、と言うようにファウストは嘆息する。
「まあ、分からんでもないがな。……何せ、獣の物ともヒトの物ともつかない血と肉片と臓物と白骨が、さながら「ごった煮スープ」の如く混じり合っていたからな。いやはや、その見た目もさることながら、あの腐肉と臓物と糞尿の混じり合った臭気は何とも……」
「きゃーきゃーきゃーっ! 言わないで言わないで言・わ・な・い・でっ!! ひとが折角忘れようとしてたのにっ! つか、あんたわざとでしょうっ!?」
ファウストの言葉に慌てて耳を塞ぎつつも、涙眼で抗議するリリス。
ファウストは愉快そうに口の端を釣り上げながら、
「はて、何のことかな」
そう言ってくっくと笑う。
――二人が進んだ洞穴の奥は、『屍食鬼』の巣穴となっていた。つまりそこには、引きずり込んだ行方不明の村人「だったモノ」が、散乱していたわけである。
「……まあ何にしろ、あの惨状を見せてやれば、さしもの村人たちもイザークの仕業とは言うまいよ。今宵は早々に村の教会へ戻り、休むとしよう。……頑張ったな、セインティア」
言いざま、そっと目尻の雫を指で拭い取ったファウストに、リリスは瞬間、虚を突かれて眼を丸くしたが、
「……うん、そーねっ!」
そう言って、すぐに太陽のような笑みを広げた。
――だが、ファウストから笑みが返ってくることはなかった。
「……? アル? どうかしたの?」
怪訝に思い問うも、返る言葉はない。ファウストはきつく眉を寄せ、木々の向こうに見える村の情景を、仇でも見るかのように睨め付けていた。
「……殺せ、だと? ――馬鹿な、何故ほんの一夜が待てなかったのだ……!」
口惜しげに漏らすや、リリスが制止する間もなく、村へと駆け出すファウスト。
理由は分からなかったが、何事かを彼の持つ超感覚が捉えたのだと言うことは明らかだった。疑問を持つのは後でも良いと、リリスもファウストの黒い背中を追った。
村の広場に近付くに連れ、リリスにもその異常は否が応でも理解出来た。無数に掲げられた松明、不穏な言葉を合唱する人々の群れ。
殺せ、殺せ、殺せ、と。
「――ミヒャエル殿、ファウスト殿……!」
広場に足を踏み入れたところで、二人はふいに声を掛けられた。
「神父様!」
咄嗟に答えたのはリリス。声を掛けてきた人物は、この村唯一の小さな教会を守る初老の神父。彼にもこの騒動は予想外だったのか、その声音と表情から焦燥の色がありありと見えた。
「これは一体どうしたのですか!?」
リリスが問うと、神父は困惑した素振りのまま何とか状況を説明した。
「そ、それが、村の男衆の一部が村人たちを先導して、イザーク・シモンを処刑せよと……!」
「しょっ……処刑!? 何だってそんな……! イザークは、彼は吸血鬼なんかじゃないって、人間だって、ちゃんと言っておいたじゃないっ!」
「申し訳在りません! 私も必死に止めようとはしたのですが、その、つい先頃、ある方の奥方が亡くなられて、それがイザークのせいだと激高する者が――あ、いや、その奥方は随分以前からご病気で、長くないと言われてはいたのですが……」
「なっ、何よそれっ!? そんなの単なる病死じゃない! そりゃ確かに奥さんが亡くなられたのは可哀想だけど、それで何でイザークが殺されなくちゃならないのよ!?」
「――集団ヒステリーだ」
広場に巻き起こる大合唱と、煌々と燃える松明の炎を見据えながら、ファウストはぽつりと呟いた。
ぴんと来なかったのか、リリスは眉を寄せる。
「ヒス……テリー?」
「ああ。強力な被害妄想と強迫観念が、集団の中で強力な暗示となることによって引き起こされる、一過性の精神障害だ。何らかのきっかけで増幅された恒常的な不安や恐怖が、集団内に於ける無意識の同調意識によって、正気で在れば有り得ない筈の妄想を真実として疑わなくなる――」
言いかけて、ファウストはふと言葉を止めた。
「!? あれって……!」
リリスがファウストの視線を追ってみれば、広場の外れに誰かが横たわっているのが見えた。
慌てて駆け寄り抱き起こしてみれば、それは、イザークの母の姿に他ならない。
だが。
「っ――」
「……すでに、絶命しているな」
衝撃に身を固くするリリスの肩越しに、ファウストは静かな声音で呟く。その声音は、今眼の前で起きていることが全て夢であるかのように現実感がなかった。
「アル! こんな時に何を落ち着いて――」
思わず激昂して肩越しに振り返るリリスだったが、
「――っ!?」
視界の端に映った黒い影に、ぞくりとして言葉を止めた。
そこには、先ほどまでの貴族然とした皮肉屋の姿はなかった。ただ、怒りと哀しみに塗り込められた暗黒の闇だけがそこにあった。
「……落ち着いてなど……いないさ」
ふと漏れた呟きに、リリスはハッと我を取り戻す。
だが、リリスが何事か声を掛けるよりも早く、
「セインティア――少し離れるが、この場で待て」
言うや、ファウストは無数の村人が取り囲む広場の中心へと独り駆け出した。その速度はけしてヒトのそれではなく、リリスには追い付こうにも不可能なことは明白だった。
彼女に出来るのはただ、
「ちょっ、アル!? 待ってっ、待ちなさいよっ! アル! っ――アルカード……!」
そう、彼の名を叫ぶことだけだった。
† † † † †
少年は既に諦めていた。自分を必死に護ろうとしてくれていた父は遙か以前に既になく、残った母も、つい先頃失ってしまった。
……いいや、考えてみれば、彼が諦めていたのは随分と以前からのことだった。ヒトであることを諦め、生きていることを諦めて、いつか誰かがその身を滅ぼしてくれることをただひたすらに待っていた。
だから何も怖くなかった。吸血鬼と恐れられようと、化け物と罵られようと。
……ならば何故、これほどまでに彼らが恐ろしいと思うのか。赤く血走った眼、揺れる松明、留まることのない合唱。狂気に染まった人々の姿。今はそれが、この上なく恐ろしい。
諦めていたはずだった。諦められていたはずだった。けど本当は、諦められてなどいなかった。本当はずっと恐ろしかったのだ。ヒトとは違う自分。それを罵る人々の群れ。自らを包む憎悪と悪意が悲しいほどに恐ろしかった。
そんな自分を思い出してしまったのは何故か。――問うまでもない。あの黒ずくめの男に出会ってしまったから。血の匂いのする男。数多の命を奪ってきたであろう存在。だが同時にそれは、初めて自分という人間を認めてくれたヒトだった。自分を人間だと、教えてくれた存在だった。
諦めている場合ではない。諦められることではない。否、諦めたくないのだ。
だから彼は、これまで誰にも口にしたことのない、封印していたその言葉を叫んだ。
「――けてっ……僕を助けてっ! ファウストせんせぇぇぇぇぇぇっ……!」
瞬間、眼の前が暗くなった。その闇は、死の恐怖に満ちている。だが死が訪れるにはまだ早い。炎はまだ足下にも届いてはいなかったはずだ。ならばこの闇は何なのか。狂気の炎と自分とを遮る、この暖かみに溢れた闇は何なのだ?
答えは論ずるまでもなかった。
「……遅れてすまなかったな、イザーク」
そんな言葉に、イザークは顔を上げた。目前には、あの作り物のように整った美しい目鼻があった。しかし、自分に向けられたその慈しむような笑顔は、けして作り物ではない。
「ふぁ……ファウスト……せんせ……?」
それはファウストの広げた外套が創り出す影に他ならなかった。仄かに薫る薔薇の香りと共に、産まれたばかりの赤子を護る産着の如く、それはイザークの身を優しく包んでいた。
イザークは無性に泣きじゃくりたい気持ちでいっぱいになっていたが、そんな彼を制するようにファウストは言った。
「――飛ぶぞ、舌を噛まぬように少しだけ黙っていなさい」
そうして、イザークを縛りつけた張り付け台ごと彼を抱え込むと、ファウストはそのまま勢い良く大地を蹴った。
地中深くに穿たれていたはずの張り付け台と共に、ふわりと浮き上がる体。それはそのまま、周囲をぐるりと取り囲んでいた無数の人々の壁すらも越えて、やがて金色の少女の元へと降り立った。
「アル! イザーク君も……良かった、無事だったのね」
ほっとしたように、リリスは呟く。
そんな彼女に答えるよりも早く、ファウストは立ち上がった。
「セインティア、済まないがイザークの縄を解いてやってくれ」
それだけ言って、今や完全に憎悪の矛先を変えた村人たちへと視線を向けた。
村人たちの中には、イザークを奪われたことよりも、人外の跳躍を見せたファウストへの畏怖が見て取れる。
「分かったぞッ! お前も化け物の仲間だなッ!」
やがて、村人の一人がそんな声を上げた。
「そうだ! そうに違いねぇ!」
「化け物を庇うやつぁ化け物だ!」
「やっちまえ! バケモンは皆殺しだ!」
次いで口々に叫ぶと、たがの外れた狂人たちは、各々武器代わりの農具を手に、ファウストへとその殺意を向けた。
彼らは一斉に駆け出そうとして――だが、その足を止めざるを得なかった。
――シャー……ン
……と。ガラスの砕ける音が、夜闇に木霊した。
狂人たちとファウストの間には、何かの小瓶が砕けた跡。
ファウストは、小瓶を放り投げた姿勢のまま、厳しい視線を狂人たちに向ける。
ほどなくして、小瓶から漏れた強い薔薇の臭気が、狂人とファウストたちの間を隔てるように闇の中へ広がった。
強い風が、ファウストの背後から吹く。灰色の長い髪と外套が、彼の姿を隠すように激しくはためいていた。
薔薇の臭気が狂人たちを余すことなく包んだ頃、ファウストはようやく重い口を開いた。
「……化け物、だと?」
日頃の穏やかなそれとは違う、重々しい声。ヒトの恐怖を呼び起こす、ぞくりとする音。
――無限の闇を内包した人外の本性がそこにはあった。
「狂気の闇に心囚われ、無抵抗の幼き命を狩りとらんとする貴様らと、誰かに助けを請わねば生きては行けぬ、このか弱き命……一体どちらが化け物だと言うのか」
村人たちの中に、明らかな動揺が見て取られるようになった。不思議な薔薇の臭気に当てられたのか、はたまたファウストの声音によるものか。どちらにせよ、彼らは奇妙なほどに静寂で、言葉を発さないようになっていた。
だが、よほど精神力が強いのか、一人の狂人が震える唇を開く。
「ふざ……けるなっ……俺は、俺はそいつに女房を殺されたんだっ……! この怒りっ……この憎しみっ……! 絶対に許せるものかっ……!!」
そんなことを叫ぶ狂人に、ファウストは冷徹な灰色の瞳を向ける。
「愚かしいなヒトの子よ……現実を受け入れる度量もなく、この無実の幼子が化け物であると夢想することしか出来ないか。……ならば――」
瞬間、ふいに風向きが変わった。これまでファウストの背後から吹き付け、彼の顔と姿を闇の中に溶かしていた外套と髪が、一斉に振り払われた。
「――ならば、本物の化け物と言うものを見せてやろうか」
その姿が闇の中に現れた瞬間、森の中で安らかな寝息を立てていた鳥獣たちが一斉に眼を覚ました。獣たちは怯え嘶き、鳥たちは空の彼方へ飛び去った。
後に残ったのは、ヒトビトと狂気の闇。
灰色の髪が払い除けられたその場所には、紅い星が瞬いていた。否、それは星ではない。紅色に輝く一つ眼だ。通常のヒトには有り得ない、少年が化け物と呼ばれた根拠の一つ。
けれど彼のそれは、少年のものとはまるで異質のモノだ。それはヒトでない者の証。怒りと憎悪と殺意の化身――『闇の魔獣』の証だった。
その紅い瞳に射抜かれた瞬間、それと対峙した狂人はふいにビクンと身を揺らして、それきり言葉を発することはなくなった。それどころか、人形のように瞬き一つせず、ただ直立不動のままその場に立ち尽くした。
他の村人もまた、同様だった。
そんな魂の抜けた人形たちを一通り見渡すと、ファウストは聞く者を威圧する凛とした声音で滔々と告げた。
「……良く聞け愚かなる肉人形共よ。お前たちはこれから速やかに己の住処へと帰り、冷たき寝台に身を横たえ、月がその身を隠すまで、けして目覚めることはない。そして目覚めたならば、今宵の月は忘却の彼方に失われ、取り戻すことは生涯叶わない。……我が言葉を解したならば、在るべき場所へと帰るが良い」
その言葉に導かれるように、村人たちは手にした農具と松明を次々に取り落とすと、三々五々自らの住処へと幽鬼のように歩み出した。
「これは……何をしたんですか……? それに、この不思議な香りはいったい……」
リリスの手によって解放されたイザークは、半ば無意識に、放心したような顔でファウストの黒い背中に問うた。
その問いに、ファウストは振り返る。少しだけビクリとしてしまうイザークだったが、彼の瞳は既に穏やかな色を取り戻していた。
「……我が侭な子らがあまりに聞き分けがないものでな、少々暗示を掛けさせてもらった。この香りは妖華『アルラ・ウネ』の『魔力』を帯びた香水でな、心神を喪失させ、暗示を掛かり易くする効果があるのだよ」
その言葉はイザークに対するものだったが、それに答えたのは予想外の人物だった。
「ファウスト殿……貴殿はいったい……」
ふとした横からの声。
ふむ、と呟いてから、ファウストは改めてその人物に向き直った。
「貴方のことを忘れていたな――神父、貴方もだ。……今宵のことは全て忘れ、早々に寝台へと帰りなさい」
紅い一つ眼に見据えられた神父は、抱いた疑問も何もかも忘れ、村人たちと同様に、幽鬼の如く夜の闇へと去ってゆく。
カソックの後ろ姿がようやく見えなくなった頃、ファウストはイザークに眼を向けた。
村人たちが取り落とした無数の松明が、長身の黒い影を下から照らす。闇に浮かぶ、外套に覆われた屈強な体躯と作り物のような顔が、少しだけ恐ろしかったかも知れない。
「……私はこの通り、ヒトではない。永い時の中で、数えきれぬほどの罪も犯してきた。……夥しい血の薫りが、全身を包んでいることだろう。……イザーク――私が、恐ろしいか」
夜の闇に良く響く、低い言葉。
松明に照らされた作り物のような顔は、確かに恐ろしかったかも知れない。
――けれど。
そこに浮かべられた全てを悔いるかのような寂しげな笑みは、少年の中に生まれようとする全ての恐怖心を、疾うに飲み込んでしまっていた。
イザークは、何処かあどけない微笑みを浮かべると、悔恨のヴァンパイアに告げた。
「……貴方は確かに、血の薫りのするヒトです。けれどそれは、ヒトがこの世に産まれ出ずる時に受ける、母の血の様なもの。いとおしいとは思いこそすれ……恐れることなどありません」
そんな言葉に、灰色の瞳のヴァンパイアはそっと微笑むと、少年に手を差し伸べた。
「……共に行こう、イザーク。夜の闇は深く、夜明けは遠い。だが、諦めず進み続ける限り、いつの日か必ず、光差す庭に辿り着く日はやって来るのだから――」
† † † † †
夜の闇は、ただひたすらに静かだった。草の間の虫たちはささやかなメロディを奏で、獣たちは眠り、飛び立った鳥たちも住処へと帰っていた。
……それはまるで、寂れた山村で起きた悲劇が、全て夢であったかのように。
だが、けしてあれは夢などではない。山村に訪れた時とは違い――ファウストの隣りを歩む影が、二つになっていたから。
「……本当に良かったのか、イザーク」
簡単な旅装束に身を包んだ傍らを歩くイザークに、ファウストは尋ねた。
ふいな問いに、イザークはきょとんと小首を傾げる。
「何がですか?」
「お前の母のことだ。お前が望むならば、母の亡骸を私の城に連れ帰っても良いのだぞ。村に残しては、墓参りもろくに出来なくなってしまうだろう」
そんな言葉に、イザークは笑った。
「いいんです。母の冥福は離れていたって祈ることは出来ます。けど、父さんはこの村にしかいません。母さんと父さんには……一緒にいて貰いたいから」
その言葉と笑顔に、嘘偽りはなかっただろう。けれど、未だ幼さの残る少年が、母を失ってすぐに笑えるわけはない。その笑顔に隠れた涙を、悔恨のヴァンパイアが知らないわけはなかった。
だから、ファウストも最早それ以上は問うことを止めた。
「……では、少し急ぐとしようか。麓の街まで行けば馬車がある。夜明けまでに辿り着かねばな」
そんな言葉に屈託なく頷くと、イザークは少しばかり歩を早めた。
そうして、少しだけ故郷を遠ざかった頃、木々の合間に見える夜空を見上げながら、イザークはふと漏らした。
「こうして三人で歩いていると……父さんが生きていた頃を思い出します」
「あら……どうして?」
と、リリス。
イザークは夜空を見上げたまま、懐かしむように答えた。
「以前は、夜の散歩も僕一人ではなかったんです。良く晴れた夜に、こうして親子三人で星を見ました。今よりも小さかった僕は、星空が余りにも遠く感じられて……時々、何だか悲しくなったりしました。でもそんな時、父さんがよく肩車をしてくれたんです。それだけで、随分と空が、星が、近くなったような気がして――」
と、言いかけて。イザークはふいに言葉を止めた。自分が過去の想い出に陶酔していたことに気が付いて、無性に気恥ずかしくなってしまったのだ。
けれど、そんなことを誰も咎めたりはしない。
「……気がして?」
にこやかに、春の陽光のように優しい笑みを広げて、リリスはイザークの言葉を待った。
そんなリリスに、あどけない微笑みを返しながら、イザークは言った。
「……すごく、嬉しかった」
「……そう」
リリスもそう、嬉しそうに頷いて――けれどすぐに、
「あ、そうだ」
なんて、まるで極上の悪戯を思いついた子供のように笑った。
「アルアル、ちょっと耳かして♪」
そんなことを言うリリスに、ファウストは逆らわない。
何事か耳打ちをするリリスと、それを涼しい顔で聞くファウスト。
イザークはきょとんと眼を丸くする。
間もなくして、リリスたちは身を離した。
「……なるほど。セインティアにしては悪くない提案だな」
「でしょ♪」
口々に呟く二人。
そうして、ふいにファウストはイザークに向き直った。
「イザーク、少しそのままでいなさい」
言うや「え? え?」と狼狽する本人を余所に、ファウストはさっとイザークの背後に回り込んだ。
と、次の瞬間――
「うわっ……!?」
思わず、イザークは声を上げた。
体が浮き上がるような感覚と共に、目線が急に高くなった。
他でもない――イザークは、ファウストに肩車をされていたのだ。
「ふぁ……ファウストせんせー……?」
「さて、どうかなイザーク。私の肩の乗り心地は。父のそれには敵わぬかも知れぬが、そう悪くもあるまい?」
戸惑いながら眼下の灰髪に尋ねると、戯ける様な声音が返ってきた。
イザークは、黒衣の貴人の肩の乗り心地を改めて確かめてみる。……それは、遙かな記憶の父のものに良く似ていた。
「――……」
ほんの少しだけ、噛み締めるように眼を閉じてから、イザークは夜空を見上げた。果たしてそこには、無数に煌めく満天の星空が、彼の赤い瞳を迎えてくれていた。
「……すごい、です」
ぽつりと、少年は呟く。
「こんなにも空が近くて……星が眩しいなんて」
それは、遙かな過去の記憶よりも確かに。
「こんなにも……空がいとおしくて……手が、届きそうに思えるなんて」
それは、遙かな絵空事などではなくて。叶わない夢などではなくて。
「あの光を……僕は掴むことが出来るの……?」
無意識に呟いた問いに、ファウストは頷いた。
「ああ。諦めなければ……必ずな」
暖かな闇色の肩に揺られながら、イザークはいつまでも煌めく星空を眺めた。
その頬には、きらりと輝く一筋の涙。
それは、いつの日か少年の願いを叶えるための――小さな小さな、流れ星。




