『流れ星と血の薫り』1
『Never bend 聖女とケモノと夜の街』外伝(短編版)。
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1.
……遠くから、血の薫りがする。
また何処かで戦争があったのか……或いは事故でも起きたのか。
腐臭の混じった血の薫りは、これまでに感じたことのないほどの嫌悪を掻き立てる。
普通ではない何かがあったのかもしれない。
普通ではない「死」があったのだと思う。
いずれにしろ、そう遠くはない何処かで人死にがあったのだ。
……とても大勢の。それだけは、確かだった。
† † † † †
――十八世紀半ば。
東欧の寂れた山村に、一人の少年が母親と二人で暮らしていた。
彼ら、特に少年は、とても幸福と呼べる身の上ではなかった。
彼は、この世に生を受けてからの十数年と言うもの、その掘っ建て小屋のように粗末な家から、外へ出たことがほとんどなかったのだ。
何故なら彼にとって、陽の下に身を晒すと言うことは、即ち――自ら死の危険を冒す、と言うことだったから。
生まれ付き日光を受け付けない体。色素の抜けた白い髪と肌。常人よりも犬歯は発達し、瞳はルビーのような赤い色をしていた。
『吸血鬼』――ヴァンパイア。
……果たして誰が言い出したものか。物心が付いた頃には、それが少年の呼び名だった。
そんなことを言われずとも、その容貌の異常さは少年自身がよく分かっていたと言うのに。
少年は分かっていたのだ。自らがヒトならざる者であることを。諦めていたのだ。……ヒトであることを。
だから、その二人連れがその寂れた山村の、さらに寂れた掘っ建て小屋にやって来た時も、さして驚きはしなかった。いつかきっとこんな日がやってくると、彼自身も分かっていたのだから。
――キィ……
軋むドアの音と共に、閉め切られた暗い部屋に外気が流れ込んでくる。差し込む陽差しにビクリと身が竦むが、元より少年が身を埋める寝台までは届かない。
それに、来客があろうことは、数瞬前にはもう分かっていたのだ。
やがて、応対した母親に導かれ、その人物は現れる。
彼らが名乗るよりも先に、少年はぺこりと礼儀正しく頭を下げた。
「……初めまして。イザーク・シモンと言います」
突然の来訪者に戸惑う素振りも見せない彼に、来客の方が戸惑ったような表情を見せる。
……美しい少女。太陽の如く輝く黄金色の髪と、気の強そうな柳眉の下に覗く、漆黒の闇を射貫く閃光のような黄金色が、とても印象的だった。
純白のカソックに、同じく純白の、けれどどこか勇ましい襟を立てたケープと言う出で立ち。清楚なカソックにそのケープは不似合いではあったけれど、凛とした雰囲気のする彼女には良く似合っているようだった。
胸元に、聖職者の証たる十字はない。だが代わりに、芸術的な十字が浮き彫られた、金色の懐中時計が下げられていた。
「あっ……えと」
少年の落ち着いた素振りに、しばし惚けたような顔をしていた少女だったが、その背後に立つ長身の男性に促され、慌ててにこりと微笑んだ。
「……こんにちは、イザーク君。私は、リリス・ミヒャエル・セインティアと言います。村の御領主と神父様の要請により、お話を聞きに伺いました。『闇の狩人』……俗に言う――」
そうして彼女は、残酷な笑顔でその言葉を口にした。
「――吸血鬼ハンターです」
† † † † †
その長身の若い男性は、ファウストと言う名前だった。肩から足先までを黒一色の装束に包んでいて、中でも、その長身をすっぽりと包み込む古めかしい外套が印象的だった。
仄かに薫る薔薇の香りと、どことなく気品を感じさせる立ち居振る舞いや穏やかな表情は、見る者の気持ちを快くしてくれるようだった。
だがその反面、作り物のように整った目鼻と、世の全てを見透かすような深みを持った灰色の瞳が、彼がただ者ではないことを告げていた。
「……彼はドクター・ファウスト。何分私は若輩者なので、度々ご助力を頂いています。幅広い知識をお持ちのお医者様なので、どうぞご安心を」
リリスと言う少女はそう言ったが、イザークは、彼のその長い灰色の髪に隠された、残りの半顔にいったい何が隠されているのか――そんなことばかりを考えていた。
「……なるほどな」
一通りイザークの眼や肌、犬歯を診察すると、ファウスト医師は乗り出していた体を粗末な椅子へと深く沈めた。
ふむ……と呟きながら、考え込むように己の端正な顎を撫でる。
それをしばし眺めていたイザークだったが、我慢出来ず、尋ねた。
「……セインティアさんが――僕を殺してくれるの?」
その言葉は、既に死を受け入れている者のそれだった。
……けれど、不安に揺れるその未だ幼い瞳だけは嘘をつけない。何より、自ら問うてしまったのは、彼自身が誰よりも死を恐れていたから。
少年の言葉に、『狩人』の少女と医師は瞬間驚いたようだったが、すぐに居住まいを正した。
先に言葉を紡いだのは医師ファウストだった。
「……何故、そう思うのかな?」
どこか感情の読み取れない顔で、問う。
それが何だが恐ろしくて、イザークは眼を逸らした。
「っ……だって……だって、村の神父様に聞いたんだ。『闇の狩人』――『聖徒』って言うのは、僕みたいな化け物を殺すのがお仕事なんでしょう……? その為に、こんな辺鄙な村にまで来られたんでしょう……?」
年齢を考えれば過ぎるくらい、言葉ははっきりとしていた。しかしそれでも、薄汚れたシーツを握る小さな手は、微かに震えているようだった。
「それはっ……」
見咎めて、『狩人』の少女リリスは何かを告げようと身を乗り出しかけた。
が、それをファウスト医師は制した。余程信頼しているのか、彼女も大人しく引き下がる。
「ところで」
ファウスト医師はイザークに向き直ると、まるで何事もなかったかのように問うた。
「おかしなことを聞くようだが――君は、紫がかった色の尿が出ることはないかな?」
唐突な問いに、イザークは眼を丸くする。が、それは、身に覚えのないことではなかった。
「……そうか。ならば何も問題はない」
頷くイザークに、満足げに息をついて、医師は席を立った。
その突然の行動に、その場の誰もが唖然とした。イザーク本人は元より、沈鬱な表情で俯いていた母親も、パートナーであるはずのリリスもだ。
「ち、ちょっと待って下さい、一体どう言うことですかっ……!?」
まるで、今ここで殺されないことが不満であるかのように、イザークは医師の外套を掴んで追いすがる。
そんな少年を、医師は全てを見透かす灰色の瞳で見下ろしながら、低い声音で問うた。
「……君の持つ『能力』のことは聞いている。身体的な病的症状もたった今確認した。確かに君は「普通」ではない。……しかし、その容姿が命を捨てなければならないほどの悪なのか。その『能力』が原因で、誰かを傷つけたのか。誰かを殺めたのか。何故――自らのことを「化け物だ」などと卑下するのか」
反論を許さず、矢継ぎ早に繰り出される問いに、イザーク少年は言葉を失う。ただ、医師の灰色の瞳を見つめ続けた。
やがて医師は、自らの外套を掴む少年の小さな手をそっと下ろさせると、その足で戸口の前へと歩みを進めた。
そうして、今一度室内を振り返ると、淀みのない声で告げた。
「……イザーク。それに御母上にも告げておこう。我々が、彼……イザーク・シモンを手に掛けることはない。彼は――紛れもない、ヒトの子だ」