婚約を捨てた日、私の役割は終わらなかった
王宮の大広間に足を踏み入れた瞬間、胸の奥に沈んでいた違和感が形を持って浮かび上がり、今日は祝賀でも形式的な報告でもなく、何かが終わるために呼ばれたのだと、理由を言葉にしなくても分かってしまった。
「エレオノーラ、こちらへ」
名を呼ばれ、アレクサンダー殿下の正面に立つと、彼の隣には見覚えのない美しい少女が控えており、場違いなほど簡素な衣装と落ち着かない視線が、この場の緊張を余計に際立たせていた。
「本日は、公の場で伝えるべきことがある」
その前置きだけで十分だった。
胸が冷える感覚はあったが、取り乱すほどではなく、長い時間をかけて積み上げてきた覚悟が、こういう時のためにあったのだと理解していた。
「君との婚約を、ここで解消したい」
周囲のざわめきが一段階強くなり、誰かが息を呑む音まで聞こえた気がしたが、視線は殿下から外さず、続きを待つという選択だけを取った。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
短くそう告げると、殿下は一瞬だけ言葉に詰まり、隣の少女へと視線を滑らせてから、こちらを見据え直した。
「君は正しすぎる、王妃としては優秀だが、人としての柔らかさが足りない、真実の愛を知らないまま隣に立つ姿を想像できなくなった」
用意してきた言葉なのだろう、その響きには迷いよりも正当化の色が濃く、周囲が頷く空気さえ生まれていた。
「そして、彼女と出会った」
殿下がそう言って少女の肩に手を置くと、彼女は怯えたように身を縮めながらも、守られる位置にいる自分を疑っていない目をしていた。
「マリナと申します」
小さな声で名乗られ、返すべき言葉を探すより先に、胸の内で何かが静かに区切られる感覚が走った。
「殿下にとって、その方を選ぶのが真実の愛の選択なのですね」
問いというより確認だったが、その言葉に殿下は力強く頷いた。
「そうだ、責任も覚悟も引き受ける」
その返答を聞いた瞬間、責任という言葉の意味が、この場で共有されていないことだけがはっきりと分かり、ここで感情をぶつける行為が、誰のためにもならないと理解した。
「承知しました。ただ、真実の愛を向ける相手にしては、みすぼらしい恰好をさせておりますわね。もっと大切にされてはどうかしら」
場の空気が一瞬止まり、殿下の表情にわずかな戸惑いが浮かぶ。
「異論は、ないのか」
「公の場で決められたことに、私情を挟む理由がありません。ただ、相変わらず女性に気を使えないのですね」
場違いな恰好の彼女に視線を移し、せめてもの抵抗に、そう答えた。
周囲から驚きとも失望とも取れる視線が集まったが、それらを受け止めることも、婚約者としての最後の務めだと考えた。
「長きにわたり、お時間をいただきましたこと、感謝いたします」
一礼をしてそう告げると、殿下は何か言いたげに口を開きかけたが、結局言葉にはならなかった。
◇
控室に戻る途中、侍女の一人が追いかけてきて、声を潜めきれないまま問いかけてくる。
「本当に、それでよろしいのですか」
「ええ、あの方が選んだ結果ですから」
「悔しくは、ありませんか」
その問いに、即答は出来なかった。
悔しさがないと言えば嘘になるが、それ以上に、役割を終えたという事実が、胸に重くのしかかっていた。
「悔しくないとでも?ええ、悔しいわ。しかし、殿下が選ばれたという事は、見た目の良さだけでなく、さぞ品位と能力のある方なのでしょう」
そう告げると、侍女は何かを言いかけて、結局口を閉じた。
◇
馬車に乗り込み、王宮を離れる準備が整った頃、殿下が一人で姿を現した。
「エレオノーラ」
「ご用件は」
「……もっと、何か言うと思っていた」
その言葉に、思わず問い返してしまう。
「何を、でしょうか」
「怒りや、悲しみや、引き留める言葉を」
殿下の視線は揺れており、その不安定さが、選択の重さを今になって実感している証のように見えた。
「殿下、選ばなかったものに、慰めを求めるのは公平ではありません」
「そんなつもりは」
「でしたら、これ以上の言葉は不要です」
きっぱりと告げると、殿下は何も返せなくなり、その沈痛な表情を見た瞬間、胸の奥で最後の糸が切れた。
「どうか、お幸せに」
その一言に、皮肉も感情も込めなかった。
それが出来るほど、婚約という役割に真剣だったからだ。
◇
馬車が動き出し、窓の外で王宮の輪郭が遠ざかる中、胸の内にあったのは解放感ではなく、ぽっかりと空いた空白だった。
王太子妃として生きる未来は消えたが、エレオノーラという人間が消えたわけではない。
この先、何者として立つのか。
その問いだけが、はっきりと残っていた。
◇
ヴァルトベルク公爵家の門が見えた時、胸の内に湧いた感覚は懐かしさではなく、役割を失った人間として迎え入れられるという緊張だった。王宮を出る時とは違い、ここでは肩書きが何よりも雄弁に語る、それを嫌というほど知っているからこそ、馬車を降りるまでの時間が妙に長く感じられた。
「お帰りなさいませ、エレオノーラ様」
使用人たちは一斉に頭を下げ、その声に乱れはなかったが、視線の奥にある戸惑いまでは隠しきれていないように見えた。
「ただいま戻りました」
そう答えた瞬間、自分が何者として戻ってきたのかを、誰よりもまず自分自身に問い直していることに気づき、歩みを止めずに屋敷の中へ進んだ。
◇
応接室に通されると、父であるアルベルト公爵と母のヘルミーネがすでに席に着いており、二人とも感情を抑えた表情でこちらを迎えた。
「長旅だったな」
「ええ、問題ありません」
形式的な言葉を交わしながら席に着くと、父はすぐに本題へ入らず、あえて茶を勧めるという選択をした。
「王宮での件は、すでに耳に入っている」
「そうでしょうね」
「感情的な対応は、なかったと聞いた」
その一言に、評価と安堵が混ざっていることを感じ取り、思わず苦笑が漏れそうになる。
「最後まで婚約者の役目を務めるのが、我が家の誇り。多少の皮肉は申しましたが」
「……そうか」
母がそこで口を開いた。
「辛くはなかったの」
その問いに、即座に否定も肯定も出来ず、少しだけ視線を落とす。
「辛さよりも、役割が終わったという実感の方が大きいです。今は、少々ほっとしております」
その答えに、母は深く頷いた。
「なら、これからの話をしましょう」
◇
食事の席でも、婚約破棄の詳細には触れられなかった。
それは配慮ではなく、ここでは過去よりも先を見なければならないという、ヴァルトベルク家の流儀だった。
「明日から、特別な予定は入れていない」
父のその言葉に、意味を探る前に返事をする。
「承知しました」
「頼みたい件が、いくつかある。我が家の者として、執務を頼みたい。皆、お前を頼りにしている」
執務という言葉に、胸の奥が少しだけ引き締まる。
「全て、お前の判断で進めればよい」
選択肢を与えられたこと自体が、すでに以前とは違う立場であることを示していた。
「ただ暇を弄ぶ気はありません。何なりと」
「それでこそ、我が家の娘だ」
◇
翌朝、屋敷の裏廊下を抜けようとしたところで、顔色を落とした倉庫係の男が進路を塞ぐように立ち止まり、周囲を気にしながらも逃げ場を失ったような声で話しかけてきた。
「エレオノーラ様、お時間をいただけませんか、備品の件でどうしても判断が出来ず……」
「備品とは、具体的に何が足りていないのですか」
「作業用の布と工具です、月の途中で必ず数が合わなくなり、管理不足だと叱責されるのですが、補充の許可は下りず、このままでは現場が止まります」
困っている理由が「数が足りない」ではなく「責任を押し付けられる構造」にあると分かり、歩みを止めて男の話を最後まで聞くことにした。
「無くなる時期は、毎回同じですか」
「はい、決まって月の後半です」
「使われる部署も、限られていますね」
「……はい、整備班です」
そこまで言われ、男はようやく視線を上げた。
「整備班は、追加使用を誰に伝えていますか」
「現場判断で使っています、以前は問題になりませんでした」
「以前は、間に確認する役目の人がいたのでしょう」
その言葉に、男は黙り込み、やがて小さく頷いた。
「今は、その役目が空いたままです」
「では、責める相手を探しても解決しません」
男の表情が、はっきりと変わった。
「今日中に、倉庫係と整備班の責任者を一度だけ集めてください」
「叱責の場、でしょうか」
「いいえ、使った量と時期を書き出すだけです、誰が悪いかではなく、何が足りていないかを並べる場にします」
「それで……補充の許可は」
「数字が揃えば、却下する理由がなくなります」
その一言で、男は深く息を吐き、張りつめていた肩を落とした。
「分かりました、すぐに手配します」
何度も礼を述べて駆けていく背中を見送りながら、胸の内に残ったのは達成感ではなく、ようやく話が届く位置に立てたという実感だった。
王太子妃候補として扱われていた頃なら、この手の話は上に吸い上げられ、途中で形を変え、当事者の元へは戻らなかった。
今は違う。
名前を呼ばれ、困りごとをそのまま渡され、解ける形に戻して返す、その循環の中に自分がいる。
◇
昼過ぎ、母が廊下で声を掛けてきた。
「随分、頼られているようね」
「不思議なものですね」
「何が」
「王宮の話と違って、話が早くてよいですわ」
母は小さく笑った。
「それは、対等に見られているということよ」
その言葉が胸に残り、しばらく考え込んでしまう。
◇
夕方、父の執務室に呼ばれた。
「一日、どうだった」
「思っていたより、落ち着いていました」
「それは良かった」
父は一拍置いてから続ける。
「戻ってきた以上、何もせずに過ごす必要はない」
「ええ」
「だが、急ぐこともない」
その言葉に、胸の奥で何かがほどけた。
「……一つ、お願いがあります」
「聞こう」
「肩書きではなく、皆の役に立つ立場で、ここにいたい」
父は驚いたように目を瞬かせ、それから静かに頷いた。
「それが、お前の望みか」
「はい」
◇
夜、自室で一人になると、王宮で過ごした日々が遠いもののように感じられた。
失ったものは確かに大きい。
だが、ここには、別の形で必要とされる場所がある。
婚約者としての役割は終わった。
けれど、この家の者としての役割は、ここから始まるのかもしれない。
◇
屋敷に戻って三日目の朝、回廊を抜けようとしたところで、帳簿を抱えた家宰補佐がこちらに気づき、足を止めたまま迷うように視線を泳がせた後、意を決した様子で声を掛けてきた。
「エレオノーラ様、少しだけお時間をいただけませんか、屋敷内の手配について判断がつかず……」
「屋敷内の手配とは、具体的に何が止まっていますか」
逃げ道を作らず問い返すと、相手はほっとしたように肩を落とし、抱えていた帳簿を開いた。
「備品と人手の割り振りです、先月から修繕が重なり、いつも通りの配分では回らなくなっています」
「回らない、というのは」
「どこを優先すべきか決められず、すべてが中途半端になっています」
問題が不足ではなく判断の欠如だと分かり、その場で足を止めた。
「これまでは、誰が決めていましたか」
「前任の家宰が、全体を見て調整していました」
「今は」
「空席です、引き継ぎは書面だけで、優先順位までは残っていません」
相手の言葉が、ここ数日の混乱をそのまま説明していた。
「帳簿を見せてください」
◇
「修繕が重なった場所は、生活に直結していますね」
「はい、後回しにすると不満が出ます」
「備品が不足しているのは、作業量が増えた部署だけです」
「……その通りです」
「では、全体を均等に分ける必要はありません」
相手が戸惑ったように眉をひそめる。
「優先順位を、こちらで決めてよろしいのですか」
「前任者は、そうしていました」
「ですが、明文化されていません」
「だから今、止まっています」
はっきりと言い切ると、相手は息を詰めた。
「修繕は生活に関わる場所を先に、人手と備品は使用量が増えた部署へ集中させましょう」
「それで、他から不満は出ませんか」
「理由を添えれば出ません、均等ではなく妥当だからです」
帳簿の余白に簡単な指示を書き込み、相手へ返す。
「この形で一度回してみてください、問題が出たら、また呼んで構いません」
相手は帳簿を受け取り、明らかに表情を変えた。
「……決めていただけるだけで、ここまで楽になるとは思いませんでした」
「決めなければ、誰も動けませんから」
深く頭を下げて去っていく背中を見送りながら、胸に残ったのは手応えではなく、家の中で止まっていた歯車が、確かに噛み合った感覚だった。
誰かが叱る役でも、慰める役でもない。
必要だったのは、判断を置く場所だった。
そして今、その場所に名前で呼ばれて立っている。
◇
昼前、廊下で母に声を掛けられる。
「ずいぶん話し込んでいたようね」
「はい、少し」
「以前なら、あなたが前に出ることはなかったでしょう」
その指摘に、否定も肯定もせずに答える。
「今は、避ける理由がありません」
母は少し考え込むような表情を浮かべ、それから穏やかに微笑んだ。
「それで、疲れてはいない?」
「不思議と、そうでもありません」
その言葉が自分でも意外だった。
気を張っているはずなのに、心が擦り切れる感覚がない。
◇
午後、庭で足を止めていると、若い使用人が遠慮がちに近づいてきた。
「失礼します、エレオノーラ様」
「どうしましたか」
「直接お聞きしても、よろしいでしょうか」
許可を求めるその姿勢に、かつて見慣れた距離とは違うものを感じる。
「ええ、話してください」
「……王宮に戻るご予定は、ありますか」
その問いは、好奇心よりも不安から来ているように見えた。
「そのような予定があるはずがないですわ」
「そう、なのですね」
相手はそれ以上踏み込まず、ただ深く頭を下げた。
「ここにいてくださるなら、安心です」
その一言が、胸に重く残った。
◇
夕刻、父の部屋に呼ばれる。
「今日は、よく名前が挙がっていた」
「そうですか」
「頼られることに、戸惑いはないか」
少し考えてから答える。
「戸惑いよりも、距離が変わったと感じています」
「距離、か」
「殿下の婚約者だった頃は、常に一段上に置かれていました、近づきにくい存在として」
父は黙って聞いている。
「今は、声を掛けてもいい相手として見られている気がします」
「それは、悪いことではない。頼りにされてきている」
「ええ、むしろ……心が軽いです」
その言葉を口にした瞬間、ようやく自分が何を感じているのかを理解した。
◇
夜、自室で灯りを落とし、椅子に腰掛ける。
王宮での日々は、常に見られる側であり、評価される側だった。
ここでは、話を聞き、共に考える側に立っている。
どちらが上かではない。
どちらが正しいかでもない。
必要とされる距離が、変わっただけだ。
婚約を失ったことで、失ったものばかり数えていた。
けれど、今日一日で気づいた。
役割を失ったからこそ、初めて届く声がある。
それを拾い上げることが、今の自分に出来ることなのだと、はっきりと感じていた。
◇
その日の朝、屋敷の空気はいつもより張りつめており、廊下ですれ違う使用人たちの足取りがわずかに早いことから、何かしら外からの話題が届いているのだと察せられたが、誰もそれを先に口に出そうとはしなかった。
「エレオノーラ様、こちらへ」
名を呼ばれて応接室へ向かうと、母と年配の侍女が揃っており、二人とも言葉を選びかねている様子が表情に表れていた。
「王宮の方から、噂が届いています」
「そうですか」
短く返すと、母は一瞬だけ視線を伏せ、それからこちらをまっすぐ見据えた。
「殿下の新しい婚約者の方が、社交の場で何度か失敗されたそうよ」
その言い回しには、断定を避けながらも事実を伝えようとする配慮があり、母自身も感情を抑えているのが伝わってきた。
「失敗、ですか」
「場の空気を読めなかった、言うべきでないことを口にした、そういった類のものだと聞いているわ」
侍女が補足するように続ける。
「殿下は、そのたびに庇っておられるそうですが。何分、元は身分が違う方ですので……」
そこで言葉が途切れた理由は、続きを語らなくても想像がつくからであり、あまり褒めた表現でもないからだ。
◇
庭へ出ると、花の手入れをしていた使用人が、遠慮がちに声を掛けてくる。
「エレオノーラ様、王宮の件、お耳に入っていますか」
「少しだけ」
「……あちらは、大変そうです。新しい婚約者の方は、殿下の足を引っ張ってばかりのようで」
その言葉には、明らかに殿下の新しい婚約者を批判したものだった。
「選ばれるというのは、楽なことではありませんから」
そう答えると、使用人は驚いたように目を見開いた。
もっと、はっきりとした同意を求めていたようだ。
「新しい婚約者の方を恨まれているのかと、思っていました」
「そんなことはありません」
即座に否定できたことに、自分自身が少し驚いた。
「重さを知っているだけです。王太子殿下の婚約者とは、ただ立っているだけで務まるものではありません。ただ、陰口は褒められた事ではありませんよ」
その一言で彼女は納得したのか、深く頭を下げてその場を離れた。
◇
午後、屋敷に客人が訪れた。
旧知の伯爵夫人で、かつて王宮で何度も顔を合わせた相手だった。
「お久しぶりね」
「ご無沙汰しております」
形式的な挨拶を交わした後、夫人は周囲を確認してから声を落とす。
「大変だったでしょう」
「いいえ」
「そう言うと思ったわ」
苦笑交じりの言葉に、かつての距離感がよみがえる。
「正直に言うとね、あなたがいなくなってから、王宮の雰囲気が随分変わったの」
「変わった、というのは」
「落ち着かなくなったのよ、皆が」
夫人は肩をすくめる。
「あなたが収めてくれる前提で、皆が甘えていたのだと、今になって気づいたわ」
その言葉は、評価でも称賛でもなく、ただの実感だった。
「殿下は、まだお気づきではないのですね」
「ええ、今は新しい婚約者の方を守ることで精一杯みたい」
夫人はそう言って、深く息を吐いた。
◇
客人を見送った後、しばらく一人で考え込んでしまった。
かつて隣に立っていた場所の光景が、今は遠くから見える。
選ばれなかった悔しさがないわけではない。
だが、それ以上に、選ばれた側が背負わされる期待の重さを知っている。
誰かの理想を受け止め続ける役割。
感情を優先する人の隣で、場を保ち続ける役割。
それを放棄した今、胸にあるのは解放感ではなく、奇妙な静けさだった。
◇
夕方、父に呼ばれて執務室へ向かう。
「外の話が、いくつか入ってきている」
「王宮のことでしょうか」
「そうだ」
父は深く腰掛けたまま、こちらを見上げる。
「気になるか」
問いかけに、少しだけ考える時間を取った。
「気にならないと言えば、嘘になります」
「だが」
「引き戻されたいとは、思いません。私の誇りが、それを許しませんね」
その言葉を聞いた父は、何も言わずに頷いた。
「選ばれることは、祝福でもあるが、試練でもある」
「ええ」
「お前は、すでに一度、それを通り抜けた。見事にこなしていた自負があるだろう。お前は自慢の娘だ。誰が相手でも媚びる必要はない」
その評価を、誇らしいと感じた。
◇
夜、自室で灯りをともしたまま、椅子に腰掛ける。
王宮で耳にする笑い声やざわめきが、遠い記憶のように感じられる。
選ばれた者は、常に見られ続ける。
選ばれなくなった今、楽に息が出来る。
どちらが幸せかなど、簡単に比べられるものではない。
ただ、今の自分は、誰かの感情を支えるために存在しているわけではない。
それだけで、十分だと思えた。
そして、胸の奥で確かに理解していた。
この先、誰かに選ばれる時が来るなら、それは必要ではなく、気持ちによってだということを。
ただ、もはや殿下に応える気はない。
◇
屋敷に使者が訪れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。玄関に現れたその人物の服装を見ただけで、どこから来たのかは察しがつき、胸の奥で何かがゆっくりと形を変える感覚を覚えた。
「ヴァルトベルク公爵家のエレオノーラ様はいらっしゃいますか」
「おります」
応対した執事の声を背に、こちらから一歩前に出ると、使者は一瞬だけ表情を引き締め、形式に則った挨拶を整えた。
「王宮より、お願いがございます」
お願い、という言葉が選ばれたこと自体が、これまでとは違う立場で呼ばれている証だった。
◇
応接室に通され、父と並んで席に着くと、使者は視線を下げたまま用件を切り出す。
「現在、王宮内で判断に迷う事柄が増えており、かつて殿下を支えてこられたエレオノーラ様のお考えを伺いたいとのことです」
支えてきた、という表現に、胸の奥がわずかに疼いたが、表には出さずに問い返す。
「それは、私個人への依頼ですか」
「はい」
即答だった。
「王太子妃候補としてではなく、一個人として」
その言葉に、父が一度だけこちらを見る。
判断を委ねる、という意思表示だった。
「お答えする前に、確認したいことがあります」
そう告げると、使者は深く頷いた。
◇
「今回の件は、誰の選択によって生じた結果なのでしょうか」
遠回しな問いだったが、使者は意図を理解したらしく、少し間を置いてから答える。
「殿下ご自身の選択です」
「それを、誰かの肩代わりする前提ではないのですね」
「実は、マリナ様には荷が重く……」
言葉が詰まったことで、すでに多くを語っていた。
「選ばれたのは殿下、マリナ様の肩代わりであれば、お力になれません」
その一言で、室内の空気が張り詰める。
「ただし」
続けると、使者はわずかに顔を上げた。
「あくまで一個人への依頼ならば、話は別です」
沈黙ではなく、重みのある待ちが生まれ、使者はその場で深く頭を下げた。
「そのお言葉を、そのままお伝えします」
◇
使者が去った後、父が静かに口を開く。
「戻るつもりはないのだな」
「ええ、あれでまた頼みに来るとは思えません」
「それでも、関わる可能性は残したか」
「役割が違います。あくまで個人的な相談ならば」
そう答えると、父は小さく息を吐いた。
「お前らしい」
◇
その日の夕方、母が部屋を訪ねてきた。
「顔を見ておこうと思って」
「心配をかけましたか」
「少しだけ」
母は椅子に腰掛け、こちらをまっすぐ見つめる。
「呼ばれたことで、心が揺れた?」
「揺れなかったと言えば、嘘になります」
「そう」
「けれど、戻りたいとは思いませんでした」
その答えに、母は何も言わずに頷いた。
「選ばれなかったことより、選び直せることの方が、今は大切です」
「……強くなったわね」
「いいえ」
首を横に振る。
「やっと、役割の重さを知っただけです」
◇
夜、机に向かい、灯りの下で一人考え込む。
王宮からの呼び声は、過去を引き戻すものではなかった。
必要とされたのは、かつて隣に立っていた肩書きではなく、積み重ねてきた判断そのものだった。
それを差し出すかどうかを、決める権利は、今は自分の手にある。
選ばれる側ではなく、選ぶ側に立っている。
その事実が、胸の奥で確かな輪郭を持ち始めていた。
明日、返事を出す。
感情ではなく、条件によって。
そう決めたことで、夜が少しだけ短く感じられた。
◇
王宮からの返答は、思っていたよりも早く届いた。
使者は再びヴァルトベルク公爵家の門をくぐり、その足取りには前回とは違う緊張が混じっていた。
「エレオノーラ様」
「お話は、聞いています」
そう告げると、使者は一瞬だけ驚いた表情を浮かべ、それから深く頭を下げた。
「殿下は、ご自身の選択について、すべてを受け止めると仰せです。婚約の事は関係なく、あくまで個人の御相談だと」
その言葉に、胸の内でわずかな安堵が広がった。
それは同情でも期待でもなく、最低限の前提が整ったという確認に近い感覚だった。
◇
王宮へ向かうことになったのは、その翌日だった。
だが、迎えの馬車に乗り込む時、かつて感じていた重圧はなく、用意された席に腰を下ろした瞬間も、立場を取り戻すという錯覚は一切湧かなかった。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
通された部屋で、年配の重臣がそう切り出す。
「こちらこそ、必要があると聞いたので」
感謝の言葉が続いたが、それらを受け止めるより先に、視線は殿下の方へ向いた。
アレクサンダー殿下は、以前よりも疲れた表情をしていたが、逃げるような視線ではなかった。
「……迷惑をかけた」
「そうですね」
率直に返すと、殿下はわずかに肩を落とした。
「取り繕う言葉は、必要ありません」
「それでも、聞いてほしい」
「聞くことと、引き受けることは別です」
その線引きだけは、最初にはっきりさせておきたかった。
◇
話は長くは続かなかった。
誰が間違えたのか、何が足りなかったのか、それらは声を荒げずとも、積み重なった事実として机の上に並べられていた。
殿下の言葉は、新しい婚約者であるマリナ様への愚痴で溢れており、聞くに堪えないものだった。
「選んだのは、殿下ご自身です」
「……ああ」
「マリナ様を殿下が支えるのが筋というものでしょう」
殿下は何も言えず、ただ頷いた。
「あの方の件について、私からお話しする事はありません」
その言葉に、重臣たちは互いに視線を交わし、最終的に一人が口を開いた。
「結論は、すでに固まっています」
◇
決定が告げられた時、場に驚きはなかった。
殿下は王太子の座を退き、国境の紛争地帯へ赴任する。
選ばれた少女は王宮を離れて、殿下と同じ場所へ向かう。
それは裁きというより、適していなかったという整理だった。
マリナ様には、殿下を支える力は無かった。
殿下には、彼女を支え、一人で立つ力は無かった。
誰も叫ばない。
誰も責めない。
ただ、戻せない選択があったという事実だけが残った。
◇
すべてが終わり、控室で一人になった時、胸に去来したのは勝利感でも達成感でもなかった。
「……これで、よかったのか。私とお前なら、地位も名誉も思うがままだというのに」
殿下の問いかけに、振り返らずに答える。
「選ばれなかった私が、選び直しただけです」
「戻る気は、ないのだな」
「ありません」
即答だった。
「ここには、もう私の役割はありません」
その言葉を聞いた殿下は、何も言えなくなった。
◇
王宮を後にし、再びヴァルトベルクの屋敷へ戻る。
迎え入れる使用人たちの表情には、余計な憐れみも過剰な期待もなく、ただ自然な安堵があった。
皆、私を頼りにしている。
「お帰りなさいませ」
「ええ、戻りました」
それだけで、十分だった。
◇
夜、自室で灯りを落とし、椅子に腰掛ける。
王太子妃になる未来は、もう存在しない。
だが、その代わりに、役割を自分で選ぶ現在がある。
感情に流されなかったからこそ、残った道。
選ばれなかったからこそ、手に入れた距離。
それを不幸だとは思わない。
婚約を捨てた日、確かに一つの人生は終わった。
だが、その終わりは、何も奪わなかった。
選び直す力だけを、ここに残していった。
完。
よろしれば、何点でも構いせんので評価いただけると嬉しいです。
よろしければ、長編もご覧ください。
婚約破棄された令嬢、剣と魔法の冒険譚
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