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異世界恋愛短編集

婚約を捨てた日、私の役割は終わらなかった

作者: 百鬼清風

 王宮の大広間に足を踏み入れた瞬間、胸の奥に沈んでいた違和感が形を持って浮かび上がり、今日は祝賀でも形式的な報告でもなく、何かが終わるために呼ばれたのだと、理由を言葉にしなくても分かってしまった。


「エレオノーラ、こちらへ」


 名を呼ばれ、アレクサンダー殿下の正面に立つと、彼の隣には見覚えのない美しい少女が控えており、場違いなほど簡素な衣装と落ち着かない視線が、この場の緊張を余計に際立たせていた。


「本日は、公の場で伝えるべきことがある」


 その前置きだけで十分だった。

 胸が冷える感覚はあったが、取り乱すほどではなく、長い時間をかけて積み上げてきた覚悟が、こういう時のためにあったのだと理解していた。


「君との婚約を、ここで解消したい」


 周囲のざわめきが一段階強くなり、誰かが息を呑む音まで聞こえた気がしたが、視線は殿下から外さず、続きを待つという選択だけを取った。


「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


 短くそう告げると、殿下は一瞬だけ言葉に詰まり、隣の少女へと視線を滑らせてから、こちらを見据え直した。


「君は正しすぎる、王妃としては優秀だが、人としての柔らかさが足りない、真実の愛を知らないまま隣に立つ姿を想像できなくなった」


 用意してきた言葉なのだろう、その響きには迷いよりも正当化の色が濃く、周囲が頷く空気さえ生まれていた。


「そして、彼女と出会った」


 殿下がそう言って少女の肩に手を置くと、彼女は怯えたように身を縮めながらも、守られる位置にいる自分を疑っていない目をしていた。


「マリナと申します」


 小さな声で名乗られ、返すべき言葉を探すより先に、胸の内で何かが静かに区切られる感覚が走った。


「殿下にとって、その方を選ぶのが真実の愛の選択なのですね」


 問いというより確認だったが、その言葉に殿下は力強く頷いた。


「そうだ、責任も覚悟も引き受ける」


 その返答を聞いた瞬間、責任という言葉の意味が、この場で共有されていないことだけがはっきりと分かり、ここで感情をぶつける行為が、誰のためにもならないと理解した。


「承知しました。ただ、真実の愛を向ける相手にしては、みすぼらしい恰好をさせておりますわね。もっと大切にされてはどうかしら」


 場の空気が一瞬止まり、殿下の表情にわずかな戸惑いが浮かぶ。


「異論は、ないのか」


「公の場で決められたことに、私情を挟む理由がありません。ただ、相変わらず女性に気を使えないのですね」


 場違いな恰好の彼女に視線を移し、せめてもの抵抗に、そう答えた。

 周囲から驚きとも失望とも取れる視線が集まったが、それらを受け止めることも、婚約者としての最後の務めだと考えた。


「長きにわたり、お時間をいただきましたこと、感謝いたします」


 一礼をしてそう告げると、殿下は何か言いたげに口を開きかけたが、結局言葉にはならなかった。



 控室に戻る途中、侍女の一人が追いかけてきて、声を潜めきれないまま問いかけてくる。


「本当に、それでよろしいのですか」


「ええ、あの方が選んだ結果ですから」


「悔しくは、ありませんか」


 その問いに、即答は出来なかった。

 悔しさがないと言えば嘘になるが、それ以上に、役割を終えたという事実が、胸に重くのしかかっていた。


「悔しくないとでも?ええ、悔しいわ。しかし、殿下が選ばれたという事は、見た目の良さだけでなく、さぞ品位と能力のある方なのでしょう」


 そう告げると、侍女は何かを言いかけて、結局口を閉じた。



 馬車に乗り込み、王宮を離れる準備が整った頃、殿下が一人で姿を現した。


「エレオノーラ」


「ご用件は」


「……もっと、何か言うと思っていた」


 その言葉に、思わず問い返してしまう。


「何を、でしょうか」


「怒りや、悲しみや、引き留める言葉を」


 殿下の視線は揺れており、その不安定さが、選択の重さを今になって実感している証のように見えた。


「殿下、選ばなかったものに、慰めを求めるのは公平ではありません」


「そんなつもりは」


「でしたら、これ以上の言葉は不要です」


 きっぱりと告げると、殿下は何も返せなくなり、その沈痛な表情を見た瞬間、胸の奥で最後の糸が切れた。


「どうか、お幸せに」


 その一言に、皮肉も感情も込めなかった。

 それが出来るほど、婚約という役割に真剣だったからだ。



 馬車が動き出し、窓の外で王宮の輪郭が遠ざかる中、胸の内にあったのは解放感ではなく、ぽっかりと空いた空白だった。


 王太子妃として生きる未来は消えたが、エレオノーラという人間が消えたわけではない。


 この先、何者として立つのか。

 その問いだけが、はっきりと残っていた。



 ヴァルトベルク公爵家の門が見えた時、胸の内に湧いた感覚は懐かしさではなく、役割を失った人間として迎え入れられるという緊張だった。王宮を出る時とは違い、ここでは肩書きが何よりも雄弁に語る、それを嫌というほど知っているからこそ、馬車を降りるまでの時間が妙に長く感じられた。


「お帰りなさいませ、エレオノーラ様」


 使用人たちは一斉に頭を下げ、その声に乱れはなかったが、視線の奥にある戸惑いまでは隠しきれていないように見えた。


「ただいま戻りました」


 そう答えた瞬間、自分が何者として戻ってきたのかを、誰よりもまず自分自身に問い直していることに気づき、歩みを止めずに屋敷の中へ進んだ。



 応接室に通されると、父であるアルベルト公爵と母のヘルミーネがすでに席に着いており、二人とも感情を抑えた表情でこちらを迎えた。


「長旅だったな」


「ええ、問題ありません」


 形式的な言葉を交わしながら席に着くと、父はすぐに本題へ入らず、あえて茶を勧めるという選択をした。


「王宮での件は、すでに耳に入っている」


「そうでしょうね」


「感情的な対応は、なかったと聞いた」


 その一言に、評価と安堵が混ざっていることを感じ取り、思わず苦笑が漏れそうになる。


「最後まで婚約者の役目を務めるのが、我が家の誇り。多少の皮肉は申しましたが」


「……そうか」


 母がそこで口を開いた。


「辛くはなかったの」


 その問いに、即座に否定も肯定も出来ず、少しだけ視線を落とす。


「辛さよりも、役割が終わったという実感の方が大きいです。今は、少々ほっとしております」


 その答えに、母は深く頷いた。


「なら、これからの話をしましょう」



 食事の席でも、婚約破棄の詳細には触れられなかった。

 それは配慮ではなく、ここでは過去よりも先を見なければならないという、ヴァルトベルク家の流儀だった。


「明日から、特別な予定は入れていない」


 父のその言葉に、意味を探る前に返事をする。


「承知しました」


「頼みたい件が、いくつかある。我が家の者として、執務を頼みたい。皆、お前を頼りにしている」


 執務という言葉に、胸の奥が少しだけ引き締まる。


「全て、お前の判断で進めればよい」


 選択肢を与えられたこと自体が、すでに以前とは違う立場であることを示していた。


「ただ暇を弄ぶ気はありません。何なりと」


「それでこそ、我が家の娘だ」



 翌朝、屋敷の裏廊下を抜けようとしたところで、顔色を落とした倉庫係の男が進路を塞ぐように立ち止まり、周囲を気にしながらも逃げ場を失ったような声で話しかけてきた。


「エレオノーラ様、お時間をいただけませんか、備品の件でどうしても判断が出来ず……」


「備品とは、具体的に何が足りていないのですか」


「作業用の布と工具です、月の途中で必ず数が合わなくなり、管理不足だと叱責されるのですが、補充の許可は下りず、このままでは現場が止まります」


 困っている理由が「数が足りない」ではなく「責任を押し付けられる構造」にあると分かり、歩みを止めて男の話を最後まで聞くことにした。


「無くなる時期は、毎回同じですか」


「はい、決まって月の後半です」


「使われる部署も、限られていますね」


「……はい、整備班です」


 そこまで言われ、男はようやく視線を上げた。


「整備班は、追加使用を誰に伝えていますか」


「現場判断で使っています、以前は問題になりませんでした」


「以前は、間に確認する役目の人がいたのでしょう」


 その言葉に、男は黙り込み、やがて小さく頷いた。


「今は、その役目が空いたままです」


「では、責める相手を探しても解決しません」


 男の表情が、はっきりと変わった。


「今日中に、倉庫係と整備班の責任者を一度だけ集めてください」


「叱責の場、でしょうか」


「いいえ、使った量と時期を書き出すだけです、誰が悪いかではなく、何が足りていないかを並べる場にします」


「それで……補充の許可は」


「数字が揃えば、却下する理由がなくなります」


 その一言で、男は深く息を吐き、張りつめていた肩を落とした。


「分かりました、すぐに手配します」


 何度も礼を述べて駆けていく背中を見送りながら、胸の内に残ったのは達成感ではなく、ようやく話が届く位置に立てたという実感だった。


 王太子妃候補として扱われていた頃なら、この手の話は上に吸い上げられ、途中で形を変え、当事者の元へは戻らなかった。

 今は違う。

 名前を呼ばれ、困りごとをそのまま渡され、解ける形に戻して返す、その循環の中に自分がいる。



 昼過ぎ、母が廊下で声を掛けてきた。


「随分、頼られているようね」


「不思議なものですね」


「何が」


「王宮の話と違って、話が早くてよいですわ」


 母は小さく笑った。


「それは、対等に見られているということよ」


 その言葉が胸に残り、しばらく考え込んでしまう。



 夕方、父の執務室に呼ばれた。


「一日、どうだった」


「思っていたより、落ち着いていました」


「それは良かった」


 父は一拍置いてから続ける。


「戻ってきた以上、何もせずに過ごす必要はない」


「ええ」


「だが、急ぐこともない」


 その言葉に、胸の奥で何かがほどけた。


「……一つ、お願いがあります」


「聞こう」


「肩書きではなく、皆の役に立つ立場で、ここにいたい」


 父は驚いたように目を瞬かせ、それから静かに頷いた。


「それが、お前の望みか」


「はい」



 夜、自室で一人になると、王宮で過ごした日々が遠いもののように感じられた。

 失ったものは確かに大きい。

 だが、ここには、別の形で必要とされる場所がある。


 婚約者としての役割は終わった。

 けれど、この家の者としての役割は、ここから始まるのかもしれない。



 屋敷に戻って三日目の朝、回廊を抜けようとしたところで、帳簿を抱えた家宰補佐がこちらに気づき、足を止めたまま迷うように視線を泳がせた後、意を決した様子で声を掛けてきた。


「エレオノーラ様、少しだけお時間をいただけませんか、屋敷内の手配について判断がつかず……」


「屋敷内の手配とは、具体的に何が止まっていますか」


 逃げ道を作らず問い返すと、相手はほっとしたように肩を落とし、抱えていた帳簿を開いた。


「備品と人手の割り振りです、先月から修繕が重なり、いつも通りの配分では回らなくなっています」


「回らない、というのは」


「どこを優先すべきか決められず、すべてが中途半端になっています」


 問題が不足ではなく判断の欠如だと分かり、その場で足を止めた。


「これまでは、誰が決めていましたか」


「前任の家宰が、全体を見て調整していました」


「今は」


「空席です、引き継ぎは書面だけで、優先順位までは残っていません」


 相手の言葉が、ここ数日の混乱をそのまま説明していた。


「帳簿を見せてください」



「修繕が重なった場所は、生活に直結していますね」


「はい、後回しにすると不満が出ます」


「備品が不足しているのは、作業量が増えた部署だけです」


「……その通りです」


「では、全体を均等に分ける必要はありません」


 相手が戸惑ったように眉をひそめる。


「優先順位を、こちらで決めてよろしいのですか」


「前任者は、そうしていました」


「ですが、明文化されていません」


「だから今、止まっています」


 はっきりと言い切ると、相手は息を詰めた。


「修繕は生活に関わる場所を先に、人手と備品は使用量が増えた部署へ集中させましょう」


「それで、他から不満は出ませんか」


「理由を添えれば出ません、均等ではなく妥当だからです」


 帳簿の余白に簡単な指示を書き込み、相手へ返す。


「この形で一度回してみてください、問題が出たら、また呼んで構いません」


 相手は帳簿を受け取り、明らかに表情を変えた。


「……決めていただけるだけで、ここまで楽になるとは思いませんでした」


「決めなければ、誰も動けませんから」


 深く頭を下げて去っていく背中を見送りながら、胸に残ったのは手応えではなく、家の中で止まっていた歯車が、確かに噛み合った感覚だった。


 誰かが叱る役でも、慰める役でもない。

 必要だったのは、判断を置く場所だった。

 そして今、その場所に名前で呼ばれて立っている。


 昼前、廊下で母に声を掛けられる。


「ずいぶん話し込んでいたようね」


「はい、少し」


「以前なら、あなたが前に出ることはなかったでしょう」


 その指摘に、否定も肯定もせずに答える。


「今は、避ける理由がありません」


 母は少し考え込むような表情を浮かべ、それから穏やかに微笑んだ。


「それで、疲れてはいない?」


「不思議と、そうでもありません」


 その言葉が自分でも意外だった。

 気を張っているはずなのに、心が擦り切れる感覚がない。



 午後、庭で足を止めていると、若い使用人が遠慮がちに近づいてきた。


「失礼します、エレオノーラ様」


「どうしましたか」


「直接お聞きしても、よろしいでしょうか」


 許可を求めるその姿勢に、かつて見慣れた距離とは違うものを感じる。


「ええ、話してください」


「……王宮に戻るご予定は、ありますか」


 その問いは、好奇心よりも不安から来ているように見えた。


「そのような予定があるはずがないですわ」


「そう、なのですね」


 相手はそれ以上踏み込まず、ただ深く頭を下げた。


「ここにいてくださるなら、安心です」


 その一言が、胸に重く残った。



 夕刻、父の部屋に呼ばれる。


「今日は、よく名前が挙がっていた」


「そうですか」


「頼られることに、戸惑いはないか」


 少し考えてから答える。


「戸惑いよりも、距離が変わったと感じています」


「距離、か」


「殿下の婚約者だった頃は、常に一段上に置かれていました、近づきにくい存在として」


 父は黙って聞いている。


「今は、声を掛けてもいい相手として見られている気がします」


「それは、悪いことではない。頼りにされてきている」


「ええ、むしろ……心が軽いです」


 その言葉を口にした瞬間、ようやく自分が何を感じているのかを理解した。



 夜、自室で灯りを落とし、椅子に腰掛ける。

 王宮での日々は、常に見られる側であり、評価される側だった。

 ここでは、話を聞き、共に考える側に立っている。


 どちらが上かではない。

 どちらが正しいかでもない。


 必要とされる距離が、変わっただけだ。


 婚約を失ったことで、失ったものばかり数えていた。

 けれど、今日一日で気づいた。

 役割を失ったからこそ、初めて届く声がある。


 それを拾い上げることが、今の自分に出来ることなのだと、はっきりと感じていた。



 その日の朝、屋敷の空気はいつもより張りつめており、廊下ですれ違う使用人たちの足取りがわずかに早いことから、何かしら外からの話題が届いているのだと察せられたが、誰もそれを先に口に出そうとはしなかった。


「エレオノーラ様、こちらへ」


 名を呼ばれて応接室へ向かうと、母と年配の侍女が揃っており、二人とも言葉を選びかねている様子が表情に表れていた。


「王宮の方から、噂が届いています」


「そうですか」


 短く返すと、母は一瞬だけ視線を伏せ、それからこちらをまっすぐ見据えた。


「殿下の新しい婚約者の方が、社交の場で何度か失敗されたそうよ」


 その言い回しには、断定を避けながらも事実を伝えようとする配慮があり、母自身も感情を抑えているのが伝わってきた。


「失敗、ですか」


「場の空気を読めなかった、言うべきでないことを口にした、そういった類のものだと聞いているわ」


 侍女が補足するように続ける。


「殿下は、そのたびに庇っておられるそうですが。何分、元は身分が違う方ですので……」


 そこで言葉が途切れた理由は、続きを語らなくても想像がつくからであり、あまり褒めた表現でもないからだ。



 庭へ出ると、花の手入れをしていた使用人が、遠慮がちに声を掛けてくる。


「エレオノーラ様、王宮の件、お耳に入っていますか」


「少しだけ」


「……あちらは、大変そうです。新しい婚約者の方は、殿下の足を引っ張ってばかりのようで」


 その言葉には、明らかに殿下の新しい婚約者を批判したものだった。


「選ばれるというのは、楽なことではありませんから」


 そう答えると、使用人は驚いたように目を見開いた。

 もっと、はっきりとした同意を求めていたようだ。


「新しい婚約者の方を恨まれているのかと、思っていました」


「そんなことはありません」


 即座に否定できたことに、自分自身が少し驚いた。


「重さを知っているだけです。王太子殿下の婚約者とは、ただ立っているだけで務まるものではありません。ただ、陰口は褒められた事ではありませんよ」


 その一言で彼女は納得したのか、深く頭を下げてその場を離れた。



 午後、屋敷に客人が訪れた。

 旧知の伯爵夫人で、かつて王宮で何度も顔を合わせた相手だった。


「お久しぶりね」


「ご無沙汰しております」


 形式的な挨拶を交わした後、夫人は周囲を確認してから声を落とす。


「大変だったでしょう」


「いいえ」


「そう言うと思ったわ」


 苦笑交じりの言葉に、かつての距離感がよみがえる。


「正直に言うとね、あなたがいなくなってから、王宮の雰囲気が随分変わったの」


「変わった、というのは」


「落ち着かなくなったのよ、皆が」


 夫人は肩をすくめる。


「あなたが収めてくれる前提で、皆が甘えていたのだと、今になって気づいたわ」


 その言葉は、評価でも称賛でもなく、ただの実感だった。


「殿下は、まだお気づきではないのですね」


「ええ、今は新しい婚約者の方を守ることで精一杯みたい」


 夫人はそう言って、深く息を吐いた。



 客人を見送った後、しばらく一人で考え込んでしまった。

 かつて隣に立っていた場所の光景が、今は遠くから見える。


 選ばれなかった悔しさがないわけではない。

 だが、それ以上に、選ばれた側が背負わされる期待の重さを知っている。


 誰かの理想を受け止め続ける役割。

 感情を優先する人の隣で、場を保ち続ける役割。


 それを放棄した今、胸にあるのは解放感ではなく、奇妙な静けさだった。



 夕方、父に呼ばれて執務室へ向かう。


「外の話が、いくつか入ってきている」


「王宮のことでしょうか」


「そうだ」


 父は深く腰掛けたまま、こちらを見上げる。


「気になるか」


 問いかけに、少しだけ考える時間を取った。


「気にならないと言えば、嘘になります」


「だが」


「引き戻されたいとは、思いません。私の誇りが、それを許しませんね」


 その言葉を聞いた父は、何も言わずに頷いた。


「選ばれることは、祝福でもあるが、試練でもある」


「ええ」


「お前は、すでに一度、それを通り抜けた。見事にこなしていた自負があるだろう。お前は自慢の娘だ。誰が相手でも媚びる必要はない」


 その評価を、誇らしいと感じた。



 夜、自室で灯りをともしたまま、椅子に腰掛ける。

 王宮で耳にする笑い声やざわめきが、遠い記憶のように感じられる。


 選ばれた者は、常に見られ続ける。

 選ばれなくなった今、楽に息が出来る。


 どちらが幸せかなど、簡単に比べられるものではない。

 ただ、今の自分は、誰かの感情を支えるために存在しているわけではない。


 それだけで、十分だと思えた。


 そして、胸の奥で確かに理解していた。

 この先、誰かに選ばれる時が来るなら、それは必要ではなく、気持ちによってだということを。

 ただ、もはや殿下に応える気はない。



 屋敷に使者が訪れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。玄関に現れたその人物の服装を見ただけで、どこから来たのかは察しがつき、胸の奥で何かがゆっくりと形を変える感覚を覚えた。


「ヴァルトベルク公爵家のエレオノーラ様はいらっしゃいますか」


「おります」


 応対した執事の声を背に、こちらから一歩前に出ると、使者は一瞬だけ表情を引き締め、形式に則った挨拶を整えた。


「王宮より、お願いがございます」


 お願い、という言葉が選ばれたこと自体が、これまでとは違う立場で呼ばれている証だった。



 応接室に通され、父と並んで席に着くと、使者は視線を下げたまま用件を切り出す。


「現在、王宮内で判断に迷う事柄が増えており、かつて殿下を支えてこられたエレオノーラ様のお考えを伺いたいとのことです」


 支えてきた、という表現に、胸の奥がわずかに疼いたが、表には出さずに問い返す。


「それは、私個人への依頼ですか」


「はい」


 即答だった。


「王太子妃候補としてではなく、一個人として」


 その言葉に、父が一度だけこちらを見る。

 判断を委ねる、という意思表示だった。


「お答えする前に、確認したいことがあります」


 そう告げると、使者は深く頷いた。



「今回の件は、誰の選択によって生じた結果なのでしょうか」


 遠回しな問いだったが、使者は意図を理解したらしく、少し間を置いてから答える。


「殿下ご自身の選択です」


「それを、誰かの肩代わりする前提ではないのですね」


「実は、マリナ様には荷が重く……」


 言葉が詰まったことで、すでに多くを語っていた。


「選ばれたのは殿下、マリナ様の肩代わりであれば、お力になれません」


 その一言で、室内の空気が張り詰める。


「ただし」


 続けると、使者はわずかに顔を上げた。


「あくまで一個人への依頼ならば、話は別です」


 沈黙ではなく、重みのある待ちが生まれ、使者はその場で深く頭を下げた。


「そのお言葉を、そのままお伝えします」



 使者が去った後、父が静かに口を開く。


「戻るつもりはないのだな」


「ええ、あれでまた頼みに来るとは思えません」


「それでも、関わる可能性は残したか」


「役割が違います。あくまで個人的な相談ならば」


 そう答えると、父は小さく息を吐いた。


「お前らしい」



 その日の夕方、母が部屋を訪ねてきた。


「顔を見ておこうと思って」


「心配をかけましたか」


「少しだけ」


 母は椅子に腰掛け、こちらをまっすぐ見つめる。


「呼ばれたことで、心が揺れた?」


「揺れなかったと言えば、嘘になります」


「そう」


「けれど、戻りたいとは思いませんでした」


 その答えに、母は何も言わずに頷いた。


「選ばれなかったことより、選び直せることの方が、今は大切です」


「……強くなったわね」


「いいえ」


 首を横に振る。


「やっと、役割の重さを知っただけです」



 夜、机に向かい、灯りの下で一人考え込む。

 王宮からの呼び声は、過去を引き戻すものではなかった。

 必要とされたのは、かつて隣に立っていた肩書きではなく、積み重ねてきた判断そのものだった。


 それを差し出すかどうかを、決める権利は、今は自分の手にある。


 選ばれる側ではなく、選ぶ側に立っている。

 その事実が、胸の奥で確かな輪郭を持ち始めていた。


 明日、返事を出す。

 感情ではなく、条件によって。


 そう決めたことで、夜が少しだけ短く感じられた。



 王宮からの返答は、思っていたよりも早く届いた。

 使者は再びヴァルトベルク公爵家の門をくぐり、その足取りには前回とは違う緊張が混じっていた。


「エレオノーラ様」


「お話は、聞いています」


 そう告げると、使者は一瞬だけ驚いた表情を浮かべ、それから深く頭を下げた。


「殿下は、ご自身の選択について、すべてを受け止めると仰せです。婚約の事は関係なく、あくまで個人の御相談だと」


 その言葉に、胸の内でわずかな安堵が広がった。

 それは同情でも期待でもなく、最低限の前提が整ったという確認に近い感覚だった。



 王宮へ向かうことになったのは、その翌日だった。

 だが、迎えの馬車に乗り込む時、かつて感じていた重圧はなく、用意された席に腰を下ろした瞬間も、立場を取り戻すという錯覚は一切湧かなかった。


「本日は、お時間をいただきありがとうございます」


 通された部屋で、年配の重臣がそう切り出す。


「こちらこそ、必要があると聞いたので」


 感謝の言葉が続いたが、それらを受け止めるより先に、視線は殿下の方へ向いた。


 アレクサンダー殿下は、以前よりも疲れた表情をしていたが、逃げるような視線ではなかった。


「……迷惑をかけた」


「そうですね」


 率直に返すと、殿下はわずかに肩を落とした。


「取り繕う言葉は、必要ありません」


「それでも、聞いてほしい」


「聞くことと、引き受けることは別です」


 その線引きだけは、最初にはっきりさせておきたかった。



 話は長くは続かなかった。

 誰が間違えたのか、何が足りなかったのか、それらは声を荒げずとも、積み重なった事実として机の上に並べられていた。

 殿下の言葉は、新しい婚約者であるマリナ様への愚痴で溢れており、聞くに堪えないものだった。


「選んだのは、殿下ご自身です」


「……ああ」


「マリナ様を殿下が支えるのが筋というものでしょう」


 殿下は何も言えず、ただ頷いた。


「あの方の件について、私からお話しする事はありません」


 その言葉に、重臣たちは互いに視線を交わし、最終的に一人が口を開いた。


「結論は、すでに固まっています」



 決定が告げられた時、場に驚きはなかった。

 殿下は王太子の座を退き、国境の紛争地帯へ赴任する。

 選ばれた少女は王宮を離れて、殿下と同じ場所へ向かう。

 それは裁きというより、適していなかったという整理だった。

 マリナ様には、殿下を支える力は無かった。

 殿下には、彼女を支え、一人で立つ力は無かった。


 誰も叫ばない。

 誰も責めない。

 ただ、戻せない選択があったという事実だけが残った。



 すべてが終わり、控室で一人になった時、胸に去来したのは勝利感でも達成感でもなかった。


「……これで、よかったのか。私とお前なら、地位も名誉も思うがままだというのに」


 殿下の問いかけに、振り返らずに答える。


「選ばれなかった私が、選び直しただけです」


「戻る気は、ないのだな」


「ありません」


 即答だった。


「ここには、もう私の役割はありません」


 その言葉を聞いた殿下は、何も言えなくなった。



 王宮を後にし、再びヴァルトベルクの屋敷へ戻る。

 迎え入れる使用人たちの表情には、余計な憐れみも過剰な期待もなく、ただ自然な安堵があった。

 皆、私を頼りにしている。


「お帰りなさいませ」


「ええ、戻りました」


 それだけで、十分だった。



 夜、自室で灯りを落とし、椅子に腰掛ける。

 王太子妃になる未来は、もう存在しない。

 だが、その代わりに、役割を自分で選ぶ現在がある。


 感情に流されなかったからこそ、残った道。

 選ばれなかったからこそ、手に入れた距離。


 それを不幸だとは思わない。


 婚約を捨てた日、確かに一つの人生は終わった。

 だが、その終わりは、何も奪わなかった。


 選び直す力だけを、ここに残していった。



完。

よろしれば、何点でも構いせんので評価いただけると嬉しいです。


よろしければ、長編もご覧ください。

婚約破棄された令嬢、剣と魔法の冒険譚

https://ncode.syosetu.com/n3057lo/



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― 新着の感想 ―
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