石鹸工房の娘は、貴族の青年に“手の傷の理由”を問われる
朝の工房には、昨夜の釜の熱がわずかに残っていた。脂と灰汁の匂いが混じり合い、乾燥棚には半乾きの石鹸が並んでいる。レーナは棚の一つを手に取り、指で押して乾燥の進み具合を確かめた。中心がまだ少し柔らかい。もう一日置く必要がある。
その作業を終えたところで、戸口の外から靴音が響いた。普段の客よりも足取りが重く、石畳を踏む力が均一だ。常連ではない。
「フォルト工房はこちらで間違いないか」
レーナが振り返ると、朝の逆光の中に青年が立っていた。片手にだけ革手袋をはめ、もう片方は素手で下げられている。その素手には赤く割れた傷がいくつも走り、関節を曲げるだけで痛みが走るのが見て取れた。
「手を見てほしい。訓練場で支給の石鹸が替わってから、こうなった」
レーナは青年を工房の奥に案内し、椅子に座らせた。差し出された手を受け取り、指先から掌、手首へと皮膚の状態を観察した。乾燥が進みすぎて割れ、汗と砂が混じった跡が残っている。洗浄力が強い石鹸で油脂が奪われた典型の傷だった。
「これは石鹸が強すぎます。油脂を落としすぎて、皮膚がひび割れています」
「そうだと思った。部下も同じ傷だ。だが、量が多いから我慢しろと言われている」
青年は表情をしかめ、痛みを押さえるように手を握った。
レーナは棚から柔配合の試作品を取り出し、水を張った盥の前に置いた。泡立てた白い泡は柔らかく、刺激が少ない。
「これで洗ってください。こすらず、泡を転がすだけです」
「試していいのか?」
「そのための石鹸です」
青年は泡を手に触れさせた。レーナは肌の反応を見つめ、強ばる瞬間がないか注意を払った。泡が赤い皮膚に広がり、しばらくすると青年の表情がわずかに和らいだ。
「……痛みが減った。滑らないし、汚れも落ちる」
「汗と砂を扱う仕事には、このくらいの強さが適しています」
青年は驚いたように手を眺め、それから深く息を吐いた。
「助かった。俺はアレン・コルヌ。訓練場の管理をしている。部下の分も含めて、この石鹸を作れないか」
「作れます。でも乾燥に三日必要です。工程を飛ばすと危険です」
「三日なら待つ。必要なことだ」
アレンの声には焦りと責任の重さが混ざっていた。
レーナは頷き、作業台の前に戻った。
「三日後の夕方に来てください。仕上げます」
「ああ、必ず来る」
アレンが工房を出ると、レーナは深いため息をついた。訓練場で怪我が増えている理由が石鹸ならば、自分の仕事で支えられるかもしれない。工程を崩さずに数を作るには、今日の作業を根本的に組み替える必要があった。
レーナは作業板に工程を書き出し、油脂の量、攪拌の順序、乾燥棚の配置を調整した。焦りは工程を狂わせる。だからこそ、急ぐ日はいつも以上に“ゆっくり”進めなければならない。
釜に火を入れ、木べらで泡の状態を確認する。泡立ちの細かさと均一さがわずかに違うと、乾燥後の硬さも変わる。訓練場の隊員たちが使うものなら、誤差は許されなかった。
三日間、レーナは過密な作業を続け、工房に泊まり込む勢いで石鹸を作り続けた。乾燥棚が埋まりはじめると、外の光は夕方の色に変わっていた。
三日後、ちょうど約束の時間に工房の扉が開き、アレンが姿を見せた。手の赤みはやや引いている。
「仕上がっているか?」
「はい。二十個だけですが、必要分です」
アレンは石鹸を持ち上げ、親指で押して硬さを確かめた。
「軽いな。扱いやすい」
「汗と砂の人たちのために調整しています」
「訓練場に持ち帰って試したい」
「私も行きます。使う場所を見ないと調整できません」
「助かる」
こうして二人は工房を出て、訓練場へ向かった。
訓練場に近づくにつれ、汗と鉄の匂いが混じり合った空気が重くなった。木剣がぶつかる音や、砂を踏みしめる足音が響き、訓練に集中する隊員たちの声が所々で上がっていた。
レーナが足を踏み入れると、何人かの隊員がアレンに気づき、こちらへ歩いてきた。手には包帯が巻かれ、指の動きが硬い者もいる。痛みをこらえているのが表情に出ていた。
「アレンさん、その石鹸が例の……?」
「ああ。レーナが作ってくれた試作品だ。まずは使ってみてくれ」
アレンが隊員に石鹸を渡し、使い方を説明する。
レーナはその様子をそばで見守った。
隊員の一人が水桶の前で泡立て、慎重に手に触れさせた。赤くただれた皮膚に白い泡が広がり、彼は恐る恐る指を動かした。
「……痛くない。ひりつかない」
「汚れも落ちていますね。前の石鹸とは違います」
別の隊員が包帯をゆっくり外し、泡を手に転がした。
「力が入りやすい。握っても痛みが少ない」
レーナは一人ひとりの手を確認し、皮膚の赤みがどう変化するか観察した。自分の石鹸が、確かに“働いている”と感じられた。
アレンが小さく息を吐いた。
「これなら全員に使わせられる。三日間でここまで改善するとは思わなかった」
「汗と砂が多い仕事では、強すぎる洗浄は逆効果になります。皮膚の油脂が落ちすぎて、傷が広がるんです」
「訓練場の者たちにとって、これは命に関わる問題だ。お前の石鹸は必要だ」
隊員たちの安堵した顔を見て、レーナの胸に温かなものが広がった。自分の仕事が誰かの役に立つ瞬間を、これほど実感できる日は多くない。
そのとき、場の空気を切るような高い声が響いた。
「また勝手に石鹸を持ち込んでいるのね、レーナさん」
ミラ・サーンだった。
革の前掛けを付け、髪を布でまとめ、道具袋を手にして歩いてくる。
「ミラさん。隊員の傷が改善しているので、状況を見に来ました」
「あなたの石鹸は乾燥に時間がかかりすぎるのよ。それに比べて、うちの石鹸は量産できるわ。訓練場のような場所では、量が必要なの」
「時間を飛ばすと、皮膚を傷めます」
「でも、前の石鹸で全員が傷ついたわけじゃないでしょう?」
「ほとんどの隊員が同じ症状でした」
ミラは視線をそらしたが、すぐに顔を戻した。
「それでも、あなたが正しいとは限らないわ。証明してみせなさいよ。あなたの石鹸が本当に安全だって」
レーナが答えようとした瞬間、訓練場の奥から短い悲鳴が上がった。
「うっ……!」
隊員の一人が片手を押さえて膝をついていた。
アレンがすぐ駆け寄り、レーナも後を追った。
隊員の掌は赤く腫れ、皮膚が薄く剥がれ、汗と砂が混じっていた。
「どうした?」
「……昨日、倉庫に残っていた前の石鹸を使いました。滑って……」
アレンは苦々しい表情で息を飲み、拳を固く握った。
レーナはすぐに水桶を運ばせ、傷口の砂と汗を丁寧に洗い流した。刺激を避けるため、柔配合石鹸の泡を薄く広げて皮膚を保護した。
「ミラさん、これが工程を飛ばした石鹸の結果です」
ミラは腕を組んだまま、一度だけ目を伏せた。
「……でも、全部の原因が石鹸だとは限らないわ」
「では倉庫を確認しましょう。配合を見れば、どの程度乾燥しているか分かります」
アレンが短く頷き、三人で倉庫へ向かった。
倉庫の奥には、湿り気を帯びた石鹸が積まれていた。表面がまだ冷たく、指で押すと中央が沈む。
「乾燥が不十分です。これでは油脂が分離して、皮膚を傷めます」
「……急ぎすぎたのよ。納品の量が多くて」
「理由がどうであれ、結果として隊員が傷を負った」
アレンの声は静かだが強かった。
ミラは言葉を失い、視線を落とした。
「安全な石鹸を作るには、一週間必要です。工程を守れば、安定したものになります」
「一週間。分かった。レーナの言う通りにしよう」
アレンはミラを見た。
「訓練場の石鹸は、今日からレーナの配合に切り替える」
ミラは悔しさを隠せない表情を見せたが、反論はしなかった。
「……分かったわ」
その言葉には、職人としての敗北がにじんでいた。
レーナはアレンの横顔を見つめた。
迅速さではなく、安全と正確さを選んだその判断は、彼がどれほど隊員を大切にしているかを示していた。
胸の奥が熱くなる。
けれど、その感情を表に出さないように彼女は視線を落とした。
訓練場での現場確認を終えたあと、アレンはレーナと共に工房へ戻った。日が傾きはじめ、石畳に長い影が伸びていた。隊員たちの手に改善が見えたことは救いだったが、同時に大量生産が必要になった現実がのしかかっていた。
「レーナ、明日からの作業計画を教えてくれ。俺にも手伝えることがあるはずだ」
「原料の運搬や乾燥棚の整理ならお願いできます。配合と攪拌は、私がやります」
「分かった。全部任せろ」
アレンの迷いのない返事に、レーナの胸の奥が温かくなった。
石鹸作りは繊細な工程の連続で、急いだからといって効率が上がるものではない。アレンのように理解を示してくれる人は珍しかった。
工房に戻ると、レーナは釜の火を調整し、新しい仕込みの準備に取りかかった。油脂の量を量り、加熱の順序を確かめながら木べらを動かす。
アレンは原料の運搬を手伝い、乾燥棚を並べ直し、棚板を磨いて湿気を取った。黙々と動く背中には、訓練場で見せる鋭さとは別の、穏やかな集中があった。
「この棚、傾いているな。修理してもいいか?」
「お願いします。乾燥中に角度が変わると、硬さにムラが出ます」
「なるほど。石鹸一つでも、細かい条件が多いんだな」
「多いですよ。でも、それを守らないと人が傷つきます」
アレンは木槌と板を取り出し、棚を丁寧に直しはじめた。
その姿を見ながら、レーナは釜をかき混ぜる手の速度を一定に保った。
「お前はさ、どうして石鹸職人を続けてるんだ?」
アレンは作業の手を止めずに尋ねた。
「石鹸で誰かの手が守られるからです。昔、母が手荒れで苦しんでいて……それを少しでも楽にできたのが、最初のきっかけでした」
「母親のために始めたのか」
「はい。それから、工房に来る人たちの手を見ているうちに、もっと良い石鹸を作りたくなりました」
アレンは棚を修理しながら、小さく頷いた。
「……いい理由だな」
その言葉には、からかいや飾りが一切なかった。
レーナはなぜか喉の奥が熱くなり、慌てて視線を釜に戻した。
泡が均一な細かさになり、釜を下ろして型に流し込むと、アレンが手伝いに入った。型の移動、乾燥棚の配置、木箱の運搬。段取りを飲み込むのが早く、慎重な手つきだった。
「こういう作業、嫌じゃないのですか?」
「嫌なわけないだろ。今の訓練場の事故は、俺の責任でもある。手伝えるなら何でもする」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは俺のほうだ。お前が動いてくれたおかげで、隊員の手が治ってきてる」
レーナは息をひそめ、心臓がわずかに早く脈打つのを感じた。
しかし手を止めることなく、次の作業に集中した。
その夜、二人は工房に灯りを残しながら遅くまで作業を続けた。
工程を正確に守りながら、一週間で訓練場全員が使える数をつくらなければならない。
翌朝からも、作業は途切れることなく続いた。
油脂の加熱、攪拌、型への流し込み、乾燥棚への移動。
アレンは配慮の行き届いた動きを見せ、レーナの作業と衝突しないよう微調整を重ねた。
「これで今日の分が終わりだな」
「はい。でも、乾燥棚の場所が足りなくて……裏庭の棚も使います」
「運ぶのは俺がやる。重いだろう」
「助かります」
二人が並んで石鹸の入った木箱を運んでいると、訓練場の隊員が工房を訪れた。手の包帯は薄く、赤みがほとんど消えている。
「アレンさん、レーナさん。あの石鹸、すごいです。握力が戻りました」
「それはよかったです」
「訓練場のみんな、前より力が出ています」
レーナは胸が温かくなり、アレンはほっとした表情で隊員の手を確認した。
「これなら、一週間後には全員完全に戻れるな」
「はい。あなたのおかげです」
隊員は深く頭を下げて帰っていった。
工房に静けさが戻ると、アレンは空を見上げ、小さく息を吐いた。
「……レーナ。お前と働くのは、不思議と落ち着く」
「え?」
「訓練場ではずっと焦ってた。でも、お前と作っていると、自分の判断が間違っていないと思える」
突然の言葉に、レーナは返事に困った。
心が温かく満たされていくのが分かった。
「そんなふうに言ってもらえるとは……思いませんでした」
「本当のことだ。お前の作る石鹸は、人を守ってる」
アレンの視線がまっすぐ向けられた。
レーナは胸を押さえ、言葉を飲み込んだ。
彼の言葉は重くなく、軽くもなく、
ただ静かに心を揺らした。
一週間が過ぎ、工房の乾燥棚には整然と並んだ石鹸がぎっしりと詰まっていた。型から外れ、角を整え、均一な重さに削られたそれらは、すべて訓練場の隊員たちのために準備されたものだった。
レーナは仕上げの確認をしながら、ひとつずつ表面を指で触れた。乾燥は十分、硬さも均一。どれも使い心地の差が出ないよう、精度をそろえている。
「全部そろったな」
アレンが工房に入ってきた。朝日が背中に差し込み、影が棚に伸びる。
「はい。今日、訓練場に届けます」
「運搬は任せろ。重いだろう」
「ありがとうございます」
二人は石鹸を木箱に詰め、工房を出た。石畳を歩くたびに木箱が揺れ、アレンの足音とレーナの足音が小さく響いた。
訓練場に到着すると、隊員たちが集まってきた。
彼らの手には包帯がなく、皮膚の色も健康的に戻っている。
「レーナさん! 本当に助かりました!」
「訓練で滑らなくなったよ!」
隊員たちは嬉しそうに木箱を受け取り、ひとつひとつ大切に扱った。
レーナは胸が熱くなり、無意識に背筋を伸ばした。
そのとき、後ろから軽い足音が聞こえた。
「……あなた、本当に全部作ったのね」
ミラだった。
前に比べて、表情の険しさが和らいでいた。手には自作の石鹸がひとつだけ握られている。
「ミラさん」
「倉庫の石鹸、全部作り直してるのよ。一週間かかったけど、工程を守ってね」
「そうですか。それなら安心です」
「……謝るわ。あのとき、早さが正しいと思い込んでた。量が必要なら、少々の荒さは仕方ないって。でも、それで人を傷つけてしまった」
ミラは深く頭を下げた。
「あなたの石鹸を見て、やっと分かったわ。丁寧に作られたものほど、人を守るって」
「私も失敗ばかりでした。完璧じゃありません」
「あなたは強いわ、レーナさん」
ミラの目に悔しさと尊敬が混ざり、レーナは小さく頭を下げた。
その様子を見ていたアレンが、静かに口を開いた。
「二人とも、訓練場を守ってくれた。感謝する」
「守ったのはアレンさんです。判断してくださったから」
「いや、俺だけじゃない。お前がいたからだ」
アレンの言葉は短いが、芯のある響きだった。
その後、石鹸は隊員全員に配られ、訓練が再開された。
掛け声と土煙が上がり、木剣がぶつかる音が響き渡る。
隊員たちの手はしっかりと柄を握り、力強く動いていた。
レーナは訓練場の端からその様子を見つめていた。
アレンが近くに来て、並んで立った。
「レーナ。今日で全部片付いた。お前の仕事のおかげだ」
「私一人ではできませんでした。アレンさんの働きがあったから」
「いや……俺は、ただの管理役だ」
「そんなことありません。あなたの判断がなかったら、隊員のみなさんは――」
レーナが言い終える前に、アレンが静かに口を開いた。
「レーナ。俺は、ずっと言えなかったことがある」
「……え?」
「お前と工房で作業していると、自分が守りたいものがはっきりする。訓練場だけじゃない。お前もだ」
レーナは息を止めた。
鼓動が胸の内で大きく響き、視線をどこに置けばいいのか分からない。
「俺は職務に縛られて、何かを望むのが苦手でな。でも……お前が、俺の世界を明るくしてくれた」
「アレンさん……」
「だから、もし迷惑じゃなければ、これからも一緒に石鹸を作らせてほしい。俺は不器用だが、お前を支えたい」
レーナの喉が熱くなった。
自分が日々作り続けた石鹸が、誰かの手を守り、その先で心まで変えていたことに気づいた。
「迷惑なんかじゃありません。私も……あなたといると、安心します」
「本当に?」
「はい。あなたが来ると、工房が少し広く感じるんです。作業も、前より楽しくなりました」
アレンは照れたように視線を逸らし、しかしすぐにレーナの目を見る。
「なら……俺は、これからもお前の隣にいたい」
「私も、そう願っています」
二人の言葉は、訓練場の喧騒の中でも不思議と静かに心へ落ちていった。
風に砂が舞い、太陽が砂地を照らしていた。
レーナはアレンの横顔を見つめ、そっと息を吸った。
「アレンさん。工房に帰ったら、今日の石鹸の仕上がりを一緒に見ませんか?」
「もちろんだ。何百個でも見る」
「ふふ。では、帰りましょう」
二人は並んで歩きはじめた。
訓練場を出るとき、隊員たちが手を振り、笑顔を向けてくる。
レーナはその一人ひとりを見て、胸の奥に温かい火が灯るのを感じた。
工房へ続く石畳の道は、夕日に照らされて橙色に染まり始めていた。
石鹸を作り続ける日々が、今日から少しだけ違う色で見える。
その隣には、頼もしい誰かがいる。
レーナは静かに微笑んだ。
これから先、自分のつくる石鹸が、
人を守り、誰かを支え、
そして――自分自身の未来を形づくっていくのだと感じながら歩いた。
完。
よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




