第5話 幼き日々の記憶
潮の匂いが、ふいに鼻腔をくすぐった。
その瞬間、遼の足取りは自然と緩み、気づけば深く息を吸い込んでいた。東京のオフィスでは、どれほど窓を開けても感じられなかった匂い――潮風に混じる藻の湿った香り、古びた木造家屋の軒下から漂う漆喰の粉っぽさ。白波町にしかない空気が、肺の奥まで沁みこんでくる。
正午を少し過ぎた町並みは、穏やかな静けさに包まれていた。商店街のアーケードを抜けると、陽射しは一層強く、石畳の道は白く光を返している。ぽつぽつと並ぶ店先では、古い暖簾が海風に揺れていた。干物を焼く香ばしい匂いが漂い、氷旗を掲げた小さな氷屋の前では、小学生らしき子どもたちが赤いシロップをつけた舌を見せ合って笑っている。
――変わっていない。
その事実が、遼の胸を少しきしませた。
東京本社での喧騒を思い出す。数字と資料に追われ、秒単位で動く日々。効率と成果、それだけを尺度に動くのが当たり前だった。ここには、その速度感はない。だが、かつて自分が走り回ったこの町では、時間の流れがむしろ豊かで、確かな重みを持っていたのだと思い知らされる。
小学校へ続く坂道の入口に立つと、遼は自然と足を止めた。
金属の手すりは錆びて茶色に染まり、足元の石段には草が生え始めている。昔と同じ傾斜なのに、今登ろうとするとどこか急に見えるのは、体の衰えか、それとも心の重さか。
――ここを毎日駆け上がったな。
思わず口元に苦い笑みが浮かぶ。ランドセルを揺らしながら、誰よりも先に坂を登りきろうと息を切らしていた少年の自分。その隣にはいつも、大和の大きな背中があった。遼より少し背が高く、走るのも速い大和に、何度追いつこうと足を必死に動かしたことか。
「……大和」
名前を口にした途端、胸の奥がちくりと痛む。
坂を上る勇気はまだ出ず、遼は視線を海へと向けた。坂の上からは町並みの向こうに蒼い水平線が広がっている。漁船が数隻、白波を切って沖に向かっていた。船体にぶつかる波音が、遠くに小さく響く。その響きに、幼い日の一場面が甦る。
――放課後、ランドセルを投げ出して二人で港へ走った。
古い防波堤の端に腰を下ろし、石を海へ投げ込みながら夢を語り合った。漁に出る父親の背中を誇らしげに語る大和に、遼は「俺は東京に出て、大きな仕事をする」と胸を張った。どちらも真剣で、どちらも未来が輝いて見えていた。
あの時の潮風と波のきらめきが、今も変わらずそこにあるのに。
大人になった自分たちだけが、どうしようもなく変わってしまった。
遼はポケットに手を入れた。中には折りたたんだメモがある。会議で使う予定だった資料の草稿だ。数字の羅列とグラフ。効率、利益、収支予測。会社に戻れば、またその言葉で自分を武装しなければならない。だが今は、その重みを持つ紙切れが、この町の風景の前では異物のように感じられる。
「……俺は、何をしに戻ってきたんだろうな」
思わず口からこぼれた言葉を、潮風がさらっていく。
そのとき、背後から駆け足の音が近づいた。振り向くと、麦わら帽子をかぶった小学生の二人組が、笑いながら追い抜いていった。帽子の影から覗いた無邪気な笑顔に、遼は思わず立ち尽くす。――あの日、大和が自分をかばってくれた時も、こんな夏の午後だった。転校したばかりで、方言も分からず浮いていた自分に、唯一手を差し伸べてくれたのが大和だった。
町の空気が、記憶を次々と呼び起こしていく。
防波堤の秘密基地。祭りの太鼓練習。波瑠香の笑顔。母の期待。
過去が断片のように胸に降り積もり、歩くたびに重みを増していく。
遼は深く息をつき、坂を見上げた。
――過去に向き合わなければ、この町でも、大和とも、本当の意味で話せない。
そう覚悟しながらも、足はまだ動かない。
心の奥底で、「もし登ってしまったら、あの日の自分と正面から向き合ってしまう」という恐れが、彼を縛っていた。
潮騒が、遠くで静かに響き続けていた。
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夏の午後の校庭は、蝉の声に包まれていた。
砂の上に立つだけで、靴底がじりじりと熱を持つ。白い校舎の壁が陽光を反射し、目を細めなければまともに正面を見られなかった。
――その日、遼は教室の後ろに立たされていた。
「今日からこの学校に通うことになった、高瀬遼くんです」
担任の女性教師が紹介すると、教室の空気は一瞬、ざわついた。
転校生。
その言葉が、子どもたちの好奇心と警戒心を同時に呼び覚ます。
遼はうつむき加減で、「よろしくお願いします」と小さな声を出した。
声は、扇風機の風と子どもたちのくすくす笑いにかき消された。
方言を使わない言葉は、この町では余計に浮いて聞こえる。
その日から数日間、遼は孤立した。
休み時間も机に突っ伏して過ごし、給食では誰に話しかけていいのか分からなかった。よそから来たというだけで「気取っている」と言われ、わざとボール遊びから外された。
――そして、あの日が来た。
昼休みの校庭。
砂ぼこりの舞う一角で、遼は数人の男子に取り囲まれていた。
「おい、よそもん。イントネーション変なんだよ」
「こっちの言葉でしゃべれよ」
「カッコつけてんじゃねえぞ」
誰かが遼の背中を押す。よろめいた拍子に、胸の奥が冷たくなった。
やめろ、と言えない。言ったらさらに笑われる。
ただ耐えるしかない、と唇を噛んだ瞬間――。
「やめろ!」
鋭い声が割って入った。
遼の視線の先に、ひとりの少年が立っていた。
日焼けした肌に、汗で額の髪が張りついている。
体格は周りより頭ひとつ大きく、腕も太い。
彼の目は真っすぐで、迷いがなかった。
「そんなのダセえぞ。いじめなんかするやつ、男じゃねえ」
数人の男子は顔を見合わせ、戸惑ったように笑った。
「何だよ、大和。転校生の味方かよ」
「余計なお世話だろ」
大和――それが彼の名前だった。
彼は一歩も退かず、腕を広げて遼の前に立った。
「俺の友達をいじめんな」
その一言に、遼の胸が熱くなる。
まだ友達になったわけじゃない。けれど、大和は迷わずそう言った。
敵に回した相手の数も考えず、ただ正しいと思ったから。
押し問答の末、いじめっ子たちは不満そうに散っていった。
砂の舞う校庭に、二人だけが残された。
「大丈夫か?」
大和が振り返る。その瞳は真剣で、どこか不器用な優しさがあった。
遼は声が出せなかった。喉の奥が詰まり、ただうなずくしかない。
胸の奥が熱く、目頭がじわりと滲む。
「俺、岬大和。お前は……遼だっけ」
「……うん」
「よし、じゃあ今日から友達な」
あまりにあっけらかんとした言い方に、遼は思わず吹き出した。
けれど、その笑いが涙で震えていることに、大和は気づかなかったかもしれない。
蝉の声が、二人を包んで鳴り響いていた。
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それからの日々は、一変した。
遼の隣にはいつも大和がいた。給食の時間も、帰り道も、放課後の遊びも。
大和が一緒にいるだけで、他の子たちの態度も変わった。
転校生というレッテルは薄れ、遼は少しずつ町に溶け込んでいった。
校庭の鉄棒で逆上がりを競った午後。
川沿いで虫取り網を振り回した夕暮れ。
駄菓子屋で五十円玉を握りしめ、くじ引きの紙を一緒にめくった休日。
どの記憶にも、必ず大和の笑い声があった。
――友情の原点。
遼にとって、その瞬間は校庭の砂の上に刻まれていた。
太陽に焼かれた熱い大地、汗に濡れた笑顔、そして「友達な」という一言。
あの日から、遼と大和の物語が始まったのだ。
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潮が引いた午後の防波堤。
波の音が岩場の隙間でざわめき、小さな泡を残しては弾けていく。
その下に、彼ら三人だけの秘密の場所があった。
流木を組み合わせ、ブルーシートをかぶせただけの粗末な小屋。
けれど、遼にとっても大和にとっても、それは世界で一番の要塞だった。
「見ろよ、今日はちゃんと屋根が飛んでねえぞ」
胸を張る大和の声に、遼は笑った。
前の週、強い風でシートが外れ、二人で必死に押さえて直したばかりだ。
「でも隙間から潮風が入ってきてるよ」
遼が指をさすと、横でしゃがんでいた少女が小さく頷いた。
「ほんとだ。ここ、濡れてる」
波瑠香。大和の妹で、遼にとってはもう一人の仲間だった。
彼女は小さな手で濡れた石を拭きながら、嬉しそうに笑った。
「でも、秘密基地って感じするよね。大人に内緒で集まるの」
三人の声が岩場に反響し、波音と混ざり合う。
小屋の中には、駄菓子屋で買ったジュースの瓶や、使いかけのノート、拾った貝殻が並んでいた。
「ここからだったら、町のみんなには見つからねえ。俺たちだけの場所だ」
大和は得意げに言い放つ。
遼は頷きながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
――孤独だった自分に、初めて居場所をくれたのはこの二人だった。
「ねえ、将来の夢って何?」
ふいに波瑠香が尋ねた。
夕陽が小屋の入口から差し込み、彼女の髪を赤く染めていた。
「俺は決まってる。潮音館を継ぐ」
大和は迷いなく言った。
「父さんみたいに立派になって、町の人たちを支えるんだ」
遼は目を丸くした。
同じ年なのに、大和はすでに未来を見据えている。
「すごいな……。俺は……」
言葉が詰まった。
母の声が頭をよぎる――「遼はこの町を出て、立派になるのよ」。
けれどそのときは、胸の奥で何かが引っかかり、言い出せなかった。
「遼は?」と波瑠香が首をかしげる。
「……まだ分からない。でも、何か大きいことをしてみたい」
それが精一杯の答えだった。
「いいじゃん。じゃあ俺が潮音館を守って、遼がなにか違うことで大活躍して、波瑠香は……」
「わたし?」
「二人をつなぐ役。だって妹だもんな」
からかうような大和の声に、波瑠香はむっと頬を膨らませた。
「わたしだって大きな夢見るんだから!」
その真剣な瞳に、遼は思わず笑ってしまった。
外では、潮が再び満ち始めていた。
岩場に打ち寄せる波が強くなり、小屋の壁を震わせる。
「なあ、約束しようぜ」
大和が真剣な顔で両手を差し出した。
「どんな夢を追っても、俺たちはずっと仲間だって」
遼も、波瑠香も、その手に自分の手を重ねた。
三人の掌が重なり合い、夕陽に照らされて温かく光った。
「絶対に忘れない」
波瑠香が小さくつぶやいた。
――あの時の約束が、すべての始まりだった。
子どもの声と潮騒が混ざり合い、未来への希望だけが胸を満たしていた。
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夏の陽射しは容赦がなかった。
神社の境内に立つ古いクスノキが、唯一の木陰をつくっている。そこから少し離れた広場に、大小さまざまな太鼓が並べられていた。
「ほら遼、もっと手首で叩け!」
掛け声をかけたのは大和だった。
まだ小学生の二人は、法被の裾を汗で張り付かせながら、必死にバチを振るっている。
「わ、分かってるけど……っ」
遼の叩くリズムが少しずれる。
どん、どん、どどん――。
音の流れが乱れると、大和は眉をしかめ、すぐさまリズムを立て直すように力強く叩いた。
「ほら、揃わねえとカッコ悪いだろ!」
「そんな簡単にいかないんだよ!」
口では言い合いながらも、遼の心はどこか弾んでいた。
この瞬間、大和と並んで太鼓を叩くことが、何より誇らしかったからだ。
少し離れた場所で、波瑠香が扇子であおぎながら二人を見守っていた。
「二人とも、汗だく。水飲んだら?」
心配そうに声をかける妹に、大和は振り向きざまに笑った。
「まだ大丈夫だ! 俺たちが町を盛り上げるんだ。もっと練習しねえと」
その言葉に、遼は胸が熱くなる。
――そうだ。自分はこの町の一員なんだ。
普段は「よそもん」とひそひそされることもあったが、大和と並んで太鼓を叩けば、そんな声はどうでもよくなった。
「よし、もう一回いくぞ!」
大和が声を上げる。
遼は深く息を吸い込み、肩に力を込めた。
どん、どん、どどん――。
最初はぎこちなかったが、やがて二人のリズムがぴたりと揃う。
バチが同じ高さで振り下ろされ、太鼓の面が同時に鳴り響いた。
空気が震え、境内に集まっていた大人たちが「おお」とどよめく。
「……できた!」
遼が思わず声をあげると、大和はにやりと笑って肩を叩いた。
「だろ? やっぱり俺たちならできるんだよ」
その瞬間、二人の間に言葉にならない確かな絆が芽生えた。
波瑠香も拍手しながら跳ねるように喜ぶ。
「すごい! お兄ちゃんと遼くん、息ぴったりだよ!」
境内には蝉の声が降り注ぎ、太鼓の音がそれに重なって響き渡った。
額から滴る汗、熱い息遣い、打ち鳴らす衝撃で痺れる腕。
それでも二人は笑っていた。
――あの夏の空気を胸いっぱいに吸い込みながら。
やがて日が傾き、夕暮れの赤が空を染める。
練習を終えて三人で石段に腰を下ろし、ジュースを分け合った。
缶を傾けながら、大和が言った。
「なあ遼、祭りの本番も絶対に成功させような」
「うん。俺たちなら、できる」
缶の中の炭酸がしゅわしゅわと弾け、夕風に溶けていく。
三人の笑顔は、明日も変わらないと信じて疑わなかった。
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夏の午後の光が、縁側から畳の上に細い筋を描いていた。
あの頃の実家は、海に近い古い木造の平屋だった。窓を開け放てば潮の匂いが流れ込み、遠くの波の音がゆるやかに壁を震わせる。小学生の遼は、まだ宿題の残りを広げたまま、鉛筆を握る手を止めていた。
その向こうで、母の声がした。
「遼。あなたは、もっと広い世界を見なくちゃいけないのよ」
穏やかさを装った声色に、しかしどこか切迫した響きがあった。母・高瀬美佐子は、もともとこの町の出身ではない。短大を卒業して観光客向けの旅館に就職し、そこで父と出会って結婚したと聞かされていた。
けれど、母はこの町に骨を埋めるつもりは、初めからなかったのかもしれない。
「この町にいるとね、どうしても小さくまとまっちゃうの。知ってる人ばかりで安心できるけど、それ以上に広がっていかない。……遼はそうじゃない。もっと大きなことができる子よ」
母はよくそう言って、遼の頭を撫でた。潮風にさらされた母の指は少し荒れていたけれど、撫でる仕草はやさしく、しかし強い願いを帯びていた。
父は違った。父は海に生き、漁師たちの世話役のような存在で、町の人々に慕われていた。仕事から帰ると黙って酒をあおり、けれど翌朝には舟の準備をして浜に出る。そんな父を、母はときに苦々しげに見ていた。
「あなたのお父さんはね、いい人だけど……夢を見ない人なの。今のままで。何も変わろうとしない」
母がそう口にするたびに、遼は胸の奥でざらついたものを感じた。父を悪く言われるのは嫌だった。けれど同時に、母が自分に託す期待の重さが、まだ幼い心に妙な誇らしさを芽生えさせてもいた。
――この町を出ていく。
それが当然の未来だと、母の言葉が刷り込んでいった。
遼はその夜、布団にくるまりながら、自分が大人になった姿を思い描いた。スーツを着て、都会の高層ビルに囲まれたオフィスに立つ自分。町の友だちは想像の中に現れなかった。ただ「大きな舞台に立つ自分」だけが、母の言葉に後押しされるようにくっきりと浮かび上がっていた。
それでも、翌朝になれば大和と防波堤へ走った。波瑠香も一緒に、三人で海を背に笑い合った。秘密基地の青いビニールシートの匂い。砂混じりの麦茶の味。
けれど、母の声はいつも頭の隅に残っていた。
「遼、あなたは町を出なさい。大きな人になりなさい」
その言葉は、優しい子守唄のようでいて、逃れられない呪文のようでもあった。
――大和と一緒にこの町を守るのか。
――それとも、母の願う未来へ進むのか。
選択を迫られるのは、もっとずっと後のことだ。だが、芽は確かにこのとき植えられていた。潮の香りと蝉の声に混じって、少年の心に「外への憧れ」と「内なる罪悪感」が同時に沈殿していったのである。
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波瑠香が覚えている最も古い夏の記憶は、兄の大和と、その隣に並ぶ遼の姿だった。
砂浜に打ち寄せる波は小さく、午後の光を反射して白くきらめいていた。三人で裸足になって波打ち際を駆け回った。まだ幼稚園にも上がらないほどの年頃で、ただ笑いながら、足にかかる水の冷たさに声を上げていた。
その時すでに、波瑠香の幼い心は直感していた。
――この二人は特別だ。
兄と遼は、まるで互いの片割れのように、動きも声も自然と揃っていた。
兄の大和は生まれつき人を引きつけるものを持っていた。負けん気が強く、どこか不器用で、けれど真っ直ぐだった。遼はその逆で、慎重で観察深く、兄の足りない部分を埋めるように寄り添った。
波瑠香が幼い目で見ても、二人が並んでいる時の空気は、他の誰とも違う輝きを帯びていた。
夏祭りの夜。
境内の石段に座り込み、波瑠香は二人が太鼓を練習する様子を眺めていた。額に汗を光らせて叩き続ける兄。その横で遼はリズムを数え、時に笑い飛ばし、時に真剣な顔で合図を送る。
音がずれると二人は顔を見合わせ、同時に笑った。すぐにまた叩き直し、次はぴたりと合う。その瞬間の二人の顔が、まるで勝利を分かち合う戦友のように輝いていた。
――自分はその輪には入れない。そう思いながらも、波瑠香は胸の奥で不思議な誇らしさを感じていた。
兄と遼が秘密基地を作った時もそうだ。
「ここは俺たちの場所だ!」と兄が叫び、遼が笑って頷く。その横で、波瑠香は「私も入れて」と言いたくてたまらなかったけれど、口にすれば壊れてしまう気がして言えなかった。
それでも結局、二人は「仕方ねぇな」と笑いながら小さな手を引いてくれた。濡れた岩場で足を滑らせそうになった時も、必ずどちらかが支えてくれた。
――二人が一緒にいれば、大丈夫。
幼い彼女にとってそれは、世界を守るおまじないのようなものだった。
だが、小学生の頃のある日のこと。
母屋の縁側に腰掛けていた波瑠香は、遼と母・美佐子の会話を聞いてしまった。
「遼はこの町を出て、大きな人になるのよ」
母の声は穏やかだったが、どこか冷たい響きを帯びていた。
波瑠香は胸がざわついた。
――もし遼が町を出て行ってしまったら? 兄と二人きりになったら?
想像しただけで、不安が胸を締めつけた。
あの日から、彼女は二人を見守る目が少しずつ変わっていった。
ただ憧れるのではなく、いつか壊れてしまうかもしれない絆を守ろうと、無意識に祈るようになったのだ。
ある夕暮れ、防波堤に腰掛けた兄と遼が、真剣な顔で「大人になっても一緒だ」と語り合っていた時のこと。
波瑠香は、ただ横で聞いているだけだった。けれど心の中では叫んでいた。
――本当に? 本当にずっと一緒でいてくれる?
潮風が強く吹きつける中で、兄と遼が握手を交わす。
その瞬間、波瑠香は泣きそうになるのを必死でこらえて笑った。
「私も約束する!」
そう言って二人の手に小さな手を重ねた。
あの時の感触は、いまも消えない。
――三人なら、未来を変えられる。
そう信じていた。
だが、大人になった今振り返れば、あの夏の笑顔の裏にすでに影が忍び寄っていたのだ。
母の言葉。兄の責任感。遼の夢。
それらはまだ幼い心には理解できなかったけれど、すでに三人の道を別々に引き裂く力を持っていた。
それでも、あの頃の自分は知らなかった。
――兄と遼の友情が、永遠ではないことを。
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夕暮れの海は、昼間の喧騒を洗い流すように静まり返っていた。
防波堤の上に座り込んだ三人――遼と大和、そして少し遅れて駆けつけた波瑠香――は、潮風に吹かれながら茜色に染まる水平線を見つめていた。
「なあ、遼」
隣で膝を抱えていた大和が、不意に声を発した。
「俺たち、大人になっても、ずっと一緒でいような」
その言葉は、子ども特有の無邪気さで放たれたものだった。けれど遼の胸には、ずしんと重みを持って響いた。
――一緒にいる、か。
都会に住む母が繰り返し口にする言葉を、遼は思い出した。
「遼、あなたはこんな小さな町で終わっちゃいけない。もっと大きな世界に出て、立派になるのよ」
まだ幼い彼には、その意味が分かりきってはいなかったが、どこか心を引っ張られる感覚だけは確かにあった。
遼は、あえて軽く笑って返した。
「もちろんだよ。俺と大和が組めば、怖いもんなんかない」
大和は嬉しそうに頷き、夕陽を浴びた顔をこちらに向ける。
「そうだろ? 俺たちで町を盛り上げるんだ。祭りだって、もっとすごいものにしてやる。旅館も、海も、ぜんぶ守っていくんだ」
子どもながらに口にするその夢は、あまりに大きく、そして真っ直ぐだった。
遼は、そんな大和の姿に少し眩しさを感じた。自分にはまだ見えない未来を、彼は当然のように見据えている。その強さに憧れながらも、同時に小さな違和感が胸に灯る。
――俺の未来は、本当にこの町にあるのか?
そんな遼の逡巡を知る由もなく、波瑠香が元気よく両手を伸ばして叫んだ。
「三人でずっと一緒にいようよ!」
大和は「お前は勝手に来るなよ」と笑いながらも、妹の小さな手を引っ張り、自分と遼の間に座らせた。
波瑠香は真剣な顔で二人を見上げる。
「大人になっても、忘れちゃダメだよ。絶対だよ」
その表情に押されるように、遼と大和は顔を見合わせ、そして同時に笑った。
大和が手を差し出し、遼もそれに重ねる。
「よし、約束だ」
波瑠香も小さな手を重ね、三人の手が夕陽の光の中でひとつになった。
その瞬間、潮風が強く吹き抜け、防波堤の先に寄せる波が白く砕け散った。まるで彼らの誓いを祝福するように。
――三人なら、どんな未来でも乗り越えられる。
幼い心に刻み込まれたその確信は、後の裏切りや誤解を予想することなどなく、ただ純粋な輝きだけを放っていた。
遼は、心の奥に微かな不安を抱えながらも、その手を離さなかった。
大和は、妹と親友を守り抜くと固く心に誓った。
波瑠香は、二人の笑顔を見つめながら、自分もまたこの輪の一部なのだと胸を熱くした。
暮れゆく空の下で交わされたその約束は、やがて三人の運命を縛りつける鎖ともなるのだが――その時の彼らには、まだ知る由もなかった。
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旅館「潮音館」へと続く坂道の途中で、遼はふと足を止めた。
西の空はすでに群青に沈みかけ、街灯がひとつ、またひとつと灯りはじめている。潮風は夕刻よりも冷たさを増し、シャツの裾を揺らしていった。
――あの頃の俺たちが、今の俺を見たらどう思うだろうか。
遼は立ち止まったまま、目の前に広がる町を見下ろした。かつて毎日のように駆け抜けた路地、夏祭りの太鼓の音に胸を躍らせた神社の境内、そして大和や波瑠香と語り合った防波堤の影――。どれもが懐かしく、しかし今は遠い記憶の中に閉じ込められている。
その町を背にして生きることを選んだのは、他ならぬ自分だ。
「大人になっても一緒にいよう」
そう誓い合った幼い日の言葉を、都会での生活の中で意識的に押し殺し、心の奥底に封じ込めてきた。
だが今、この土地に立てば、無理やり忘れようとした記憶が次々に顔を出す。
――俺は、本当に正しかったのか?
心の奥に、鋭い針のような疑問が突き刺さる。
東京で掴んだ地位や数字の成果は、誰が見ても「成功」と呼べるものかもしれない。だがその成功の影で、失ったものの大きさに、気づかぬふりをしてきただけなのではないか。
坂道の向こうから、旅館の大きな建物が見えた。白壁に掲げられた「潮音館」の文字。幼いころから何度も出入りした場所であり、大和が守り抜いてきた居場所。
あの頃の自分が夢中で語り合った「町を盛り上げる」という理想は、結局、大和一人の肩に預けられてしまったのだ。
遼は深く息を吐き、胸ポケットに手を差し入れる。そこには古びた写真が一枚。三人で防波堤に並んで撮った、色あせた夏の日の写真だった。
夕陽を背に、笑顔を見せる大和。無邪気に手を振る波瑠香。そしてぎこちなくも笑おうとしている少年の自分。
その姿を眺めながら、遼は唇を噛んだ。
――あの時の自分に、今の俺を見せることができるだろうか。
都会での成功を誇るのか、それとも町を背にした背中を悔いるのか。
答えは、潮風にさらされても見つからない。
旅館の灯りがぽつぽつと点りはじめ、夕闇の中に温かな光を落とす。
遼は写真をそっと仕舞い込み、もう一度坂を上りはじめた。
彼の胸の奥で、幼い日の約束が再び疼き出す。
それは痛みと同時に、かすかな温もりを伴っていた。




