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白波に誓う  作者:


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第10話 友情の残響

 夏の朝は、海からの湿った風とともに訪れる。

 岬大和は旅館「潮音館」の裏口から外に出ると、まだ薄青い空の下に波の音が響き渡っていた。港の方角からは、早朝の漁を終えた船のエンジン音や、網を引き上げる掛け声が微かに届いてくる。その音を背に受けながら、彼は木桶にたっぷりと水を汲み、玄関先の打ち水を始めた。


 石畳に水がはね、しっとりと濡れた匂いが立ちのぼる。潮の香りと混じって、町全体が一気に目を覚ますようだった。

 玄関横の花壇に植えた朝顔は、まだ夜露を抱えたまま、紫や白の花を静かに広げている。大和はしゃがみ込み、その花に一瞥を送りながら「今年もよく咲いてくれたな」と呟いた。


 旅館の中からは、女将である母・岬佳代子の声が聞こえてくる。

「大和、朝の仕込みはもう終わったの?」

「今やってるよ。朝顔も水を欲しがってる」

「ふふ、朝顔はお客さんより律儀に季節を知らせてくれるね」


 佳代子は笑いながら、大広間へと戻っていった。彼女はもう六十を過ぎているが、旅館の女将としての気丈さを決して失わない。その背中に父の不在を埋める年月の重みを思い、大和は胸の奥に小さな痛みを覚えた。


 厨房では、板前の田辺が包丁を研ぐ音が響いている。大和はそこに顔を出し、魚の下ごしらえを手伝った。今朝仕入れた鯵の銀色の鱗が、光を反射して眩しく揺れる。田辺が淡々と骨を抜き、塩を振る動作の横で、大和は味噌汁の出汁をとるために昆布を水に浸した。


 旅館の一日は、こうした小さな営みの連続で出来ている。何も特別なことはない。ただ、町の人々の暮らしと同じように、朝の支度が次の日の命をつなぐ。それが大和にとって、この町を守るということの意味そのものだった。


 ――だが、胸の奥ではざわめきが消えなかった。


 昨日、港を歩く高瀬遼の姿を遠目に見た。背筋を伸ばし、町の人々に話しかけ、時に笑顔を交わすその姿。

 「あいつ……変わったのか?」

 喉元まで出かかった言葉を、大和は飲み込んだ。


 遼が都会でどんな暮らしをし、どんな理屈を積み上げてきたか、大和には想像もつかない。ただ確かなのは、彼が町を捨て、都会に去ったという事実。そして――その背中を追いかけることなく、残された自分が町を背負い続けたという事実だった。


 「おはようございます、大和さん」

 若い仲居の美咲が、廊下の向こうから声をかけてきた。彼女は盆に朝食用の小鉢を並べながら、にこやかに会釈する。

「おはよう。準備、順調か?」

「はい。今日はお客さまが多いので、早めに整えています」


 美咲の笑顔を見て、大和はわずかに頬を緩めた。旅館を支えてくれる人々がいる限り、自分は踏ん張らねばならない――そう思う。だがその裏で、遼が町で存在感を増していく様子を思い浮かべ、胸の奥で小さな不安が灯った。


 朝の食堂に並ぶ座卓の上に、次々と料理が運ばれていく。湯気の立つ味噌汁、焼き立ての鯵の干物、地元の農家が作った胡瓜と茄子の漬物。宿泊客が一人、二人と現れ、旅館は一気に朝の賑わいを取り戻した。

 「いただきます」「美味しいね」――そんな声が響き、場の空気が温まっていく。


 その光景を眺めながら、大和は心の奥で思った。

 (この町を、絶対に守らなければならない。けれど……あいつが本気で町を変えようとしているなら、俺はどう向き合うべきなんだ?)


 答えはまだ出ない。ただ、潮音館の一日がまた始まった。

 海の鼓動と町の暮らしが溶け合う中で、大和の心は静かに揺れ続けていた。



---



 潮音館の大広間に、町内会の面々が集まっていた。

 木の梁がむき出しになった天井の下、畳に長机を並べただけの質素な会合の場。外からは波の音が途切れなく響き、夏の湿気を帯びた空気が障子越しに流れ込んでくる。扇風機が唸りをあげるものの、参加者たちの額にはすでに汗が滲んでいた。


 大和は座布団の端に腰を下ろし、周囲をぐるりと見渡した。

 老舗の八百屋・野口、魚屋の坂井、駄菓子屋の佐知子婆さん、漁師の三浦重蔵……。皆、この町で生き、この町に未来を託す人々だ。大和にとっては、家族のような存在でもある。


 だが、今日の空気は少し違っていた。

 「最近、遼くんを見かけたよ。港で漁師の手伝いをしてたそうじゃないか」

 最初に口火を切ったのは魚屋の坂井だった。日焼けした頬を擦りながら、半ば感心したように言う。

 「数字ばかりの都会の人かと思ったら、案外腰が低いじゃないか」

 その言葉に、数人が頷き、小さな笑い声がもれた。


 大和の胸がわずかにざわつく。

 「……見た目に騙されちゃいけません」

 意識せず口をついて出た声は、思った以上に硬かった。

 場が静まり、数人が彼の方を振り返る。

 「彼が来たのは、あくまで会社の仕事のためです。町の人に寄り添うのも、結局は計画を通すための布石でしょう」


 畳の上で手を組んだ三浦重蔵が、ゆっくりと口を開いた。

 「大和……わしらもわかっとるよ。都会の理屈が簡単に町を救うわけじゃないってな」

 彼の声は低く、しかしどこか温かみを帯びていた。

 「けどな、あの若造が港で汗をかいとったのは本当だ。お前も見ただろう」

 ――ああ、見た。大和の心にあの光景がよみがえる。遼が網を引く漁師たちの中に混じり、不器用に手を貸していた姿。ぎこちなく笑いながらも、必死に動いていた姿。


 「……だからといって、信じられるとは限りません」

 大和は視線を畳に落とした。

 「俺はあいつをよく知っている。昔のことも。信じた結果、何を背負うことになったかも」

 言葉の端に、過去の痛みがにじむ。


 場に沈黙が流れた。障子の外では蝉がけたたましく鳴き、扇風機の回転音だけが虚しく響く。

 やがて、駄菓子屋の佐知子婆さんがぽつりと呟いた。

 「大和、お前さんは遼くんをまだ恨んでるのかい?」

 「……恨んでなんかいません。ただ――もう二度と裏切られたくないんです」


 大和の声は低く震え、拳が膝の上で強く握り締められた。

 その様子を見て、誰も軽々しく言葉を続けられなかった。


 町内会の空気は、揺れていた。

 遼の誠実そうな振る舞いに心を傾ける者。警戒を解かない者。

 そして、その狭間で揺れ動く自分――岬大和。


 (信じたいのか? 拒みたいのか? どちらなんだ、俺は……)

 心の声が、海の鼓動に混じって遠く響いていた。



---



 町内会の会合が終わったあと、大和は潮音館の裏口から外に出た。

 夜の風が、火照った額をひやりと撫でる。港の方角からは波の響きと、かすかな漁火の明かりが届いていた。


 (……あいつの話を聞くと、どうしても昔を思い出す)


 大和は足を止め、防波堤の方を見やった。視界の先に広がるのは、子どものころと変わらぬ海だった。


 ――遡ること二十数年前。

 まだ小学生だった大和は、毎日のように遼とここで遊んでいた。


 夏の夕暮れ、二人で作った秘密基地。

 「ねえ、将来の夢って何?」

 無邪気に問いかけた波瑠香の声が耳に蘇る。

 大和は迷わず、「潮音館を継ぐ」と答えた。だが、遼は言葉に詰まりながら、「大きなことをしたい」と答えた。

 大和の胸の内には「きっと遼なら叶える」という信頼があった。


 またある日は、海に沈む夕日を前に、二人で誓い合った。

 「大人になっても、絶対にこの町を忘れない」

 その時の遼の横顔は、橙色の光に照らされて真剣そのもので、大和は思わず頷いた。


 ――だが、時間は残酷だ。

 高校を卒業すると、遼は町を離れた。

 大和は地元に残り、旅館を手伝いながら町の未来を考え続けた。

 やがて二人は疎遠になり、再会したときには、すでに立場も価値観も違っていた。


 「信じた友に裏切られる痛み」――あの感覚は、胸の奥でいまだに消えていない。

 遼が都会の論理を掲げて町を語るとき、どうしてもその痛みが蘇るのだ。


 大和は防波堤に立ち、夜風を吸い込んだ。

 潮の匂いの奥に、かすかに幼少期の記憶が混じる。笑い声、夕日の色、冷たいアイスの味――。

 「……忘れられるものか」

 小さく呟き、拳を握る。


 信じたい。だが、もう二度と裏切られたくはない。

 その相反する感情が、心の中で何度もぶつかり合っていた。



---



 夕暮れの港町には、独特の色合いがあった。

 海面には橙と紫が混じり合い、漁から戻った小舟の白い船体がゆっくりと波に揺れる。カモメの鳴き声が遠くに聞こえ、潮の匂いが町全体をやわらかく包んでいた。


 大和は、旅館「潮音館」の勝手口から外に出て、木箱を片づけていた。手のひらに感じる木肌のざらつき、指の節に残る潮気が、今日一日の労働の証のように思えた。ふと、背後から軽い足音が近づいてくる。


「お兄ちゃん、ちょっといい?」


 振り返ると、妹の波瑠香が立っていた。薄藍色のカーディガンを羽織り、額の髪を風に揺らしている。その表情は、ただの雑談を持ちかけるような気軽さではなく、なにかを心に抱えているのがすぐに分かった。


「どうした?」

「……あの人のこと」


 その言葉に、大和は無意識に眉をひそめた。あの人──遼のことだとすぐに分かる。


 波瑠香は勝手口の縁に腰かけ、空を見上げるようにしながら言葉を探していた。

「お兄ちゃん、知ってる? 遼さん、この前、漁港で三浦のおじいちゃんと話してたんだって。数字じゃ測れないこともあるって、叱られて……それでも、真剣に聞いてたって」


 大和は無言で木箱を積み上げ続けた。波瑠香の声が、夕暮れのざわめきの中に溶け込んでいく。


「それだけじゃないよ。商店街の人の仕込みを手伝ったり、子どもたちに声をかけたり……。昔の遼さんと同じように、町の人に混ざろうとしてる。お兄ちゃん、気づいてる?」


 木箱を置く手が止まった。気づいていないはずはない。路地の向こうや港で、何度も遼の姿を目にしてきた。だが、それを素直に認めることができない。


「……仕事でやってるだけだろ。会社のために町を利用してるんだ」

「そうかな?」


 波瑠香の声は静かだが、芯があった。彼女は幼い頃から兄に従順だったが、大事なことになると、意外な強さを見せる。


「私ね、遼くんがこの町を好きになろうとしてるのを感じるよ。数字とか効率じゃなくて、人の顔を見て、話を聞こうとしてる。お兄ちゃんはどう思う?」


 大和は答えに詰まった。心の奥底では、同じように感じていた。だが、認めてしまえば、自分が守ってきた警戒心や誇りが崩れてしまいそうで、言葉にできない。


「……あいつは昔、俺を裏切った。信じてたのに、東京に行って、背中を向けたんだ。今さら町に顔を出したって、簡単に許せるか」


 声が少し荒くなったのを自覚し、大和は唇をかみしめた。

波瑠香は兄を責めるでもなく、ただ穏やかに見つめ返した。


「お兄ちゃん、裏切られたって言うけど……遼さんも、自分の夢を追っただけじゃないの? あの頃は私たちも子どもで、何が正しいかなんて分からなかった」


 大和は視線をそらし、港に目を向けた。漁火がちらちらと灯り始め、海の黒に点々と輝いている。


「私はね、お兄ちゃんに笑っててほしいの」

「笑ってるだろ、こうして」

「違うの。心から、安心して笑ってほしいの」


 波瑠香の声にはわずかな震えがあった。幼い頃、三人で波止場を走ったときの記憶がよみがえる。潮風に髪をなびかせて笑う遼、隣で必死に追いかける兄、そしてその背中を見ながら笑っていた自分。あの光景を、波瑠香は今も鮮明に覚えている。


「お兄ちゃん、遼くんは変わったよ。都会の人の顔じゃなく、この町の人の顔を見てる。信じるかどうかはお兄ちゃん次第だけど……私は信じたい」


 言い切った波瑠香の目は、夕闇の中でも確かな光を宿していた。


 大和は深く息を吐いた。胸の奥に積もった重い石のような感情が、少しだけ揺らぐのを感じた。

だが、完全に手放すには、まだ勇気が足りない。


「……波瑠香、お前は優しすぎるんだ」

「お兄ちゃんが頑固すぎるの」


 二人の声は、潮風に乗って港のざわめきへと溶けていった。



---



 夕暮れの町は、一日の疲れを静かに受け止めていた。

 港から戻る漁師たちの笑い声が、潮風に乗って旅館の裏庭にまで届く。大和は、木桶の水をひっくり返し、板の間に残った泡立つ洗剤を流していた。手のひらには、荒れた木肌のささくれが刺さるように感じられた。だが、その痛みさえ、心の中に渦巻く重たい感情に比べれば、取るに足らない。


 桶を片づけ、裏口から路地に出たときだった。

 人影が視界の端をよぎった。背筋がわずかに伸びる。

 ──遼だ。


 夕闇に沈みゆく町並みを背に、遼が歩いていた。

 ジャケットの袖を軽くまくり上げ、手には紙袋を下げている。商店街で買い物を済ませたのだろうか。表情は見えない。それでも、その歩調の確かさが、不思議と目を引いた。


 大和は一瞬、声をかけかけて立ち止まった。

 胸の奥がざわめく。心のどこかが「声を出せ」と叫んでいる。だが同時に、「余計な情を見せるな」と冷たい声が押しとどめる。


 遼はまだ気づいていない。路地を抜け、海の方へ向かっている。

 その背中を見つめるだけで、胸の奥に熱いものがこみ上げた。


 ──あいつは、何を考えてるんだ。

 町の人と笑顔で話し、子どもたちと遊び、漁師に叱られても耳を傾ける。そんな姿を、この数日で何度も見かけた。数字と効率ばかりを振りかざしていた都会の男が、なぜ。

 本気でこの町に寄り添おうとしているのか。それとも、仕事を円滑に進めるための計算に過ぎないのか。


 大和の胸に、二つの思いが同時にぶつかり合う。

 一方では「信じてみたい」という微かな光。もう一方では「裏切られるくらいなら最初から拒め」という暗い影。


 路地の角で、遼がふと振り返った。

 視線が、交わった。


 互いに言葉はなかった。

 ただ一瞬、目と目が触れ合っただけだ。だが、その刹那の重みは、大和の心を深く揺らした。

 遼の瞳の奥には、あの頃と同じ色があった気がする。少年の頃、防波堤を駆け、波しぶきに笑い転げたあの日のままの色。


 だが、大和はその記憶を振り払うように、目を逸らした。

 心臓が早鐘を打ち、胸が痛むほどに熱を帯びる。


 ──駄目だ。信じちゃいけない。

 そう自分に言い聞かせる。だが、本当にそれが正しいのか、自信が持てない。


 遼は何も言わず、再び歩き出した。

 紙袋が小さく揺れ、夕闇に溶け込む背中が遠ざかっていく。


 大和は拳を握りしめた。

 声をかけることも、追いかけることもできない。

 その背中を見送りながら、心の奥底で叫びが渦巻いていた。


 ──俺は、お前を信じたい。だが、また裏切られるのが怖い。


 潮の香りが強く漂い、遠くで太鼓の練習の音が響いていた。

 町は確かに息づき、季節は変わろうとしている。

 だが、大和の心だけが、十数年前の痛みをいまだに手放せずにいた。


 すれ違いは、ほんの数秒の出来事だった。

 しかし、その短い瞬間が、大和にとっては一夜を貫くほどの重みを持っていた。



---



 潮音館の夜は、昼間のざわめきとは別の顔を見せる。

 客室の灯りが一つ、また一つと落ち、廊下には足音がまばらになっていく。帳場に座っていた女将が「もう上がっていいよ」と笑顔を向けたとき、大和は少しだけ迷ったが、素直に頭を下げ、旅館を出た。


 夜風が頬を撫でる。潮の香りに混じって、かすかな磯の湿気と遠くの焼き魚の匂いが漂っていた。町を流れる空気は昼よりもずっと柔らかく、けれど心を解きほぐすには至らない。大和の胸には、昼間から引きずっている重たい塊が残っていた。


 ──あいつのことだ。

 遼の姿が、どうしても頭から離れない。


 路地を抜けると、夜の商店街が広がった。昼間は威勢のいい声で賑わっていた八百屋も魚屋も、今はシャッターを半分ほど下ろし、残った蛍光灯が薄く照らしているだけだ。軒先に吊るされた提灯が、海からの風に揺れ、ぼんやりと赤い影を地面に落とす。

 すれ違う人も少なく、時折、犬を連れた老人が歩くくらい。


 その静けさが、大和には心地よかった。

 だが、どこかで太鼓の音が響き始めた。


 ドン、ドン、と腹に響く低い音。

 夏祭りに向けて、若者たちが倉庫で練習をしているのだ。昼間の稽古に比べて人数は少ないのだろうが、夜に響く太鼓の音は妙に力強く、大和の胸を打った。


 「……変わらないな」

 思わず口から漏れた声は、潮風にすぐ掻き消された。


 あの太鼓の音は、子どものころからずっと耳にしてきた。祭り前になると、町の空気そのものが熱を帯び、若者たちは遅くまで練習に励んだ。自分もかつてはその輪の中にいた。汗を流し、声を張り上げ、太鼓を打ち鳴らした。隣には、遼の姿もあった。

 背丈を競い合い、誰が一番力強く叩けるかで口げんかになったこともある。結局は笑い合い、祭りの日には肩を並べて町を練り歩いた。


 記憶が鮮やかすぎて、胸がきしむ。

 あの頃は、裏切られるなんて思ってもみなかった。


 足が自然と海岸へ向かっていた。

 砂浜に出ると、波が闇の中で白い縁を描きながら寄せては返していた。遠くに漁火が浮かび、空には細い月がかかっている。夜の海は、昼間よりもずっと深く、静かで、そして冷たい。


 大和は砂に足を取られながら歩き出した。

 夜の浜辺を散歩するのは、子どものころからの癖だ。悩みを抱えたとき、海の前に立つと、不思議と心の奥が静かになる気がした。


 波の音に耳を澄ませながら、大和は心の中で自分に問いかけた。

 ──俺は、何を怖がっているんだ。


 遼が町に戻ってきてから、心の奥底で動揺しっぱなしだ。

 彼の言葉、彼の仕草、町の人々に向ける眼差し……どれも昔の遼とは違う気がする。少なくとも、ただ数字を振りかざす冷たい男ではない。

 けれど、だからこそ怖いのだ。もしも信じてしまって、また裏切られたら。あのときと同じ痛みを繰り返すことになる。


 「……守らなきゃならねえんだ」

 大和は小さく呟いた。

 この町を、暮らしを、ここで生きる人たちを。都会から来た誰かに振り回されるわけにはいかない。自分が立ちはだかるしかない。

 その決意が、彼を支えてきた。


 しかし──。


 子どもたちの笑い声が、背後から聞こえてきた。

 砂浜の端で、数人の少年少女が鬼ごっこをしている。祭りの太鼓の練習を終えて寄り道をしているのだろう。彼らの声は高く澄み、波音に負けないほどに響いている。

 その姿を見て、大和の心がわずかに緩んだ。


 未来は、彼らの中にある。

 その未来を守るためなら、どんな苦労も厭わない。


 けれど同時に思う。

 遼もまた、同じように子どもたちを見ていた。港で立ち止まり、無邪気に遊ぶ姿を眺めていた。その視線は決して計算だけではなく、温かいものだった。


 大和は胸を押さえた。

 鼓動が、波のように打ち寄せてくる。

 ──本当に、信じられる日が来るのだろうか。


 答えは出ない。

 出ないまま、大和は波打ち際にしゃがみ込み、湿った砂をすくい上げた。指の隙間から砂がさらさらと零れ落ち、潮風にさらわれていく。その儚さが、今の自分の心そのもののように思えた。


 やがて子どもたちの声が遠ざかり、波音だけが残った。

 大和は深く息を吸い込み、夜空を見上げた。

 星は少なかったが、月明かりが浜辺を柔らかく照らしている。その光の下で、彼は改めて誓うように心に刻んだ。


 ──俺が、この町を守る。

 たとえ誰に裏切られても。


 その決意が、本当に自分を守るのか、それとも逆に孤独へ追い込むのかは、まだわからなかった。



---



 潮の匂いを含んだ風が、開け放たれた窓から会議室に流れ込んでいた。町の商工会館二階。壁には色褪せた漁師町の写真や古い祭りのポスターが掛けられ、木製の長机がいくつも並べられている。畳に腰を下ろした十数人の男たちと女将たちが、ざわめきながら資料を手にしていた。

 その資料の束は、もちろん遼が差し出したものだ。グラフや数字がびっしりと並び、観光収入の見込みや雇用の創出効果が、誰にでもわかるように丁寧に整えられている。


 大和はその紙の端を乱暴に折り曲げ、視線を落とした。

「……また数字か」

 思わず呟いた声は、隣に座る魚屋の佐伯に聞こえたらしく、苦笑混じりに肩をすくめられる。


「だがな、大和。あの若造、ただの机上の計算じゃねえぞ。先週は朝っぱらから漁港に来て、重蔵じいさんと一緒に網を引き上げたって話だ。うちの客も、あの話を聞いて『見直した』なんて言ってたぜ」


 大和はむっとして顔を上げた。

「数字だけじゃ足りないから、そういう芝居をしてるだけだ」

「芝居かどうかは知らん。だが、動き回ってるのは確かだ。商店街の八百屋の婆さんだって『手伝ってくれた』って喜んでたぞ」


 会議室の空気がざわめいた。数人が同調するように頷き、誰かが「前に来た企業マンとは違う」と漏らす。

 その言葉が、大和の胸をざらつかせた。違う? 本当にそうだろうか。遼はただ会社に雇われ、この町を数字で切り売りする役を負わされているだけではないのか。


 大和は机を強く叩いた。

「お前ら、何を浮かれてるんだ! 外から来た奴にちょっと優しくされたくらいで心を許すのか? 俺たちが守ってきたものを忘れたのか!」


 室内の空気が一瞬凍りついた。だが、その沈黙を破ったのは旅館の女将だった。年配で温和な笑みを絶やさない彼女は、静かに口を開いた。

「大和さん。私もあなたの気持ちはわかりますよ。町を守りたい、壊されたくない、その思いは皆同じです。でもね、遼さんは……本気で町を理解しようとしているように見えるんです」


 その言葉に、胸の奥が鋭く突かれた。

 信じた友に裏切られた痛みが、鮮やかに甦る。あの夜、都会に行った遼が何も告げずに背を向けた記憶。

 だが同時に、祭りの太鼓練習場で汗を流す遼の姿が脳裏に浮かぶ。数字ばかりを掲げる冷たい男ではなく、町の音に耳を傾ける、かつての友の横顔。


 大和は頭を振った。

「……惑わされるな。あいつは会社の人間だ。最後には、数字を優先するに決まってる」


 しかし返す言葉は、以前のような強い確信を伴ってはいなかった。声がかすれ、自分でも弱々しく聞こえる。

 会員たちの表情は複雑だ。反発する者、迷う者、少しずつ心を開きかけている者。ひとつにまとまっていたはずの反対の輪が、少しずつ綻びを見せている。


 会議は決着を見ぬまま解散となった。畳の上に散らばった資料の束が、残された余熱のように光を反射している。

 人々が三々五々立ち去る中、大和は一人その場に残り、握りしめた紙を見つめた。

 活字が滲み、視界がかすむ。怒りか、悔しさか、それとも……。


 廊下から聞こえてくる足音に顔を上げると、妹の波瑠香が立っていた。

「お兄ちゃん……」

 その声は、叱咤でも慰めでもない。ただ、揺れる心を映すように静かだった。


 大和は答えられず、拳を握りしめたまま視線を落とした。

 胸の奥で、警戒と友情の残響がせめぎ合い、苦い余韻だけが残っていた。



---



 夜の港は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 漁具を洗う音も止み、街灯の下でかすかに揺れる網だけが、海風を受けてざわついている。月明かりは雲に隠れたり現れたりを繰り返し、その度に波のきらめきも消えたり灯ったりする。


 大和は、その光と闇の移ろいを眺めながら、波止場に腰を下ろしていた。掌に残る魚の生臭さが、昼間の会議を生々しく思い起こさせる。

 商工会の会合――あの場で、自分は声を荒げすぎたかもしれない。けれど、そうでもしなければ皆の心は遼に傾いてしまうと思った。

 遼が町を歩き回り、住民と話し、笑い合っている姿を、誰もが見ている。あの真面目さに、あの必死さに、心を動かされている。


「……本当に、変わったのか?」


 声に出してみても、答えは返ってこない。ただ波が寄せては返す音だけが、胸の奥にこだまする。


 十数年前、まだ中学生の頃。遼と並んで自転車を漕ぎ、浜辺で缶蹴りをした。汗まみれで笑い転げ、未来のことなど何も考えず、ただ「ずっと一緒だ」と思っていた。

 だが、都会へ行くと決めた遼は、何も言わず背を向けた。あの日の背中が今も焼きついている。自分だけが置き去りにされたという苦い記憶は、消えやしない。


 それでも――。

 会合で女将が言った言葉が耳を離れない。「遼さんは本気で町を理解しようとしている」。その響きが、大和の胸の奥で小さな棘のように刺さり続けていた。


「信じたいのか、俺は」


 吐き捨てるように呟いた。

 信じたい。だがまた裏切られたら、もう立ち直れない。町を守るどころか、自分自身が壊れてしまう。


 ――妹の波瑠香は、遼を信じている。子どもの頃から三人で遊んだ思い出を知っているからこそ、彼女は「変わってない」と言うのだろう。

 だが、変わらなければここにいる意味はない。会社の人間として来た遼が、数字を捨てられるはずがない。


 拳を膝に押しつける。骨がきしむほど力を込めても、心の揺らぎは止まらなかった。

 港に停泊している漁船の灯りが、風に揺れるように、大和の胸の奥の炎も揺れていた。


 信じるか、疑うか。

 友情か、町を守る責任か。


 その二つが、互いを飲み込もうと螺旋を描きながら渦を巻く。

 どちらに傾いても、必ず後悔が待っているような気がした。


「……ほんと、どうしようもねえ」


 呟いた声は夜に溶け、誰にも届かない。

 ただ一人きりの港で、大和は自分自身と向き合うしかなかった。


 波音が寄せては返す。その繰り返しが、まるで大和の胸の動揺を映しているようだった。

 警戒と友情の残像がせめぎ合う中で、彼はただ、冷たい夜風を受け続けていた。



---



 夕暮れの港町には、太鼓の音が響いていた。

 空は茜色に染まり、波止場に並んだ漁船の影を長く伸ばしている。潮風に混じる磯の匂いと、どこか甘ったるい焼き菓子の香りが商店街から漂ってきた。町全体が、祭りを迎える熱気に包まれ始めていた。


 岬大和は、道の端に立ち、太鼓練習の様子を遠くから眺めていた。青年たちが輪になり、腹に響く重低音を打ち鳴らしている。打ち手の額には汗が滲み、声を合わせるたびに、音は港の静けさを揺るがした。

 太鼓のリズムは、町の血流のようだった。日々の労働に疲れた大人たちをも奮い立たせ、子どもたちを胸躍らせる。祭りはただの行事ではない。町の誇りであり、結束の象徴だった。


 ――その音を、俺と遼も一緒に聴いていたはずだ。


 ふと胸の奥に、幼い日の記憶がよみがえる。

 中学の夏、大和と遼は肩を並べ、太鼓の練習を眺めていた。互いに競うように「俺たちも打ち手に加わりたい」と騒ぎ、結局、町の大人に押される形で太鼓を叩かせてもらった。あのときの笑顔――無邪気に響き合った音の重なり。今も耳の奥に残っている。


 だが現実は、どうだ。

 その同じ遼は今、都会の企業人として町に立ち、数字と効率で未来を測ろうとしている。仲間を守るために声を張り上げる自分の前に立ちはだかり、言葉をぶつけてくる。

 あの笑顔と、この冷たい視線と――どちらが本当の遼なのか。


 大和は腕を組み、強く唇を噛んだ。

 打ち手の掛け声が響くたび、胸が揺さぶられる。太鼓の音が、過去と現在を行き来させる。


 「……俺は、あいつを信じたいのか。拒みたいのか」


 思わず小さく呟いた言葉は、潮風にさらわれた。


 近くの路地では、子どもたちが竹の棒を振り回して遊んでいる。太鼓の真似をして打ち鳴らす仕草に、大人たちが笑い声をあげる。

 その光景に大和は胸を締めつけられた。――この子どもたちの未来を守ることが、自分の使命だ。だからこそ、外から来た遼に町をかき回されてはならない。

 しかし同時に、あの子どもたちの笑い声が、遼と並んで無邪気に走り回った自分自身の姿と重なって見えてしまう。


 拳を握りしめた。

 太鼓の音が高まり、空気が震える。夕陽に照らされる若者たちの背中は頼もしく、この町の未来そのものだった。

 ――だが、その未来に遼の影が入り込んでくる。

 その事実を拒絶すべきなのか、受け入れるべきなのか。大和の胸は答えを出せずに揺れていた。


 「大和兄ちゃん!」

 声をかけられて振り向くと、練習を終えた青年の一人が駆け寄ってきた。汗に濡れた顔で、どこか誇らしげに笑っている。

 「どうだ、音、揃ってたろ? 今年は負けねぇぞ」

 「……ああ。力強くて、いい音だった」

 短く答えると、青年は満足そうに笑い、仲間の元へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、大和は深く息を吐いた。

 町の未来を担う若者たちの姿に、心は確かに勇気づけられる。けれど、その未来に遼がどう関わっていくのかを思うと、再び心はざわつく。


 祭りの太鼓は鳴り続けていた。

 その音は、かつての友情を呼び覚ます響きであり、今の対立を突きつける響きでもあった。

 大和の胸に宿るのは、消えない痛みと、捨てきれない希望。

 その二つが、夕暮れの港に打ち鳴らされる太鼓と共に、複雑に絡み合っていた。



---



 潮音館の廊下には、夜の静けさが漂っていた。

 昼間は客の笑い声や従業員の呼びかけで賑わう館内も、深夜ともなれば、波の音と木の軋む音だけが支配する。海に面した窓からは月光が射し込み、畳の縁を淡く照らしていた。


 岬大和は、自室に戻っても眠気を感じなかった。布団に横たわることはできても、目を閉じれば、今日一日の出来事が脳裏を押し寄せてくる。港で働く漁師たちの姿、商店街を歩く遼の背中、祭りの太鼓を叩く若者たち――そして、そのすべての影に重なる遼の存在。


 「……なんでだ」


 小さく呟き、布団から上体を起こす。

 頭の中がざわついていた。信じた友に裏切られたあの夜から、どれほどの時間が経っただろう。都会へと去り、冷たい目をして再び現れた遼。そのはずなのに、今の遼は町の人々と肩を並べ、汗をかき、笑みすら見せている。

 それを目にするたび、大和の心は軋む。憎しみのはずが、苛立ちと懐かしさが入り混じり、感情が形を失ってしまう。


 立ち上がり、障子を開けて縁側に出た。

 潮風が頬を撫で、波の音が胸に沁みる。月光が海面を銀色に染め、その上を漁火が点々と浮かんでいる。まるで町全体が眠りながらも呼吸をしているように感じられた。


 「この町を守る。それだけでいいはずだ」


 そう呟いたが、言葉に力はなかった。

 本当に町を守ることと、遼を拒絶することは同じなのか。もし遼の真意が町を救うことにあったのなら、自分は間違えるのではないか。そんな思いが、冷たい風と共に忍び込んでくる。


 廊下の先で、妹の波瑠香が動く気配がした。台所で何かを片付けているのだろう。声をかけようと思ったが、やめた。心の迷いを彼女に見抜かれるのが怖かった。

 ――いや、もう見抜かれているのかもしれない。


 ふと胸の奥に、遼と笑い合った日々が蘇る。祭りの太鼓を打ちながら「お前となら最強だ」と言った遼の声。堤防を駆け抜け、海に飛び込んだ夏の日。

 思い出すたびに、心臓が締めつけられる。失ったはずのものが、まだ自分の中に生きている。


 「信じたい……けど」


 声が震えた。

 もし再び裏切られたらどうする。今度は町ごと崩れるかもしれない。子どもたちの笑顔を守れなくなるかもしれない。信じることは、あまりに危うい賭けだった。


 縁側に腰を下ろし、顔を両手で覆った。

 太鼓の残響がまだ耳に残っている。あの音は町の鼓動であり、同時に友情の記憶だった。逃げたいのに、離れられない。

 波の音と重なり、大和の胸は乱れたまま、夜の深みに沈んでいった。


 眠れぬ夜が、再び訪れようとしていた。




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