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白波に誓う  作者:
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第1話 呼び戻された故郷

 午後の陽は、ガラス張りの高層ビルに眩しく反射していた。東京湾の光を吸い込んだ窓面は鋭い鏡のようにきらめき、下から見上げる人々の目を一瞬遮る。港区の再開発エリアにそびえるそのオフィスタワーは、いまや会社の象徴とも呼ばれる存在だった。

 高瀬遼は、その最上階近くにある会議室に立っていた。視界の端には摩天楼の群れが広がり、さらにその向こうに湾岸のクレーン群が無数に立ち並ぶ。だが遼の目は窓の外には向かわず、正面のスクリーンに釘づけだった。


 カチリ、と手にしたレーザーポインターを押すたびに、鮮やかな円グラフや棒グラフが映し出される。色分けされたデータが整然と現れるたび、会議室に並んだ役員たちの表情がわずかに動いた。

 遼の声は落ち着き払っていた。

「次年度のリゾート事業部門収益は、この施策によって前年比一二%の成長が見込めます。初期投資は大きいですが、五年以内に回収可能なスパンを設定しております」


 机の前列に座る重役たちが、うむ、と低くうなずく。

 数字は嘘をつかない。そう信じることで、遼はここまでやってきた。感情ではなく論理、希望的観測ではなく実証された結果。上京してから十数年、評価と成果を積み重ね、やがて課長という立場にまで昇り詰めたのだ。


 スライドを最後までめくり、深く一礼してから席に戻る。ふと緊張の糸がほどけ、背広の下で背中に薄く汗を感じた。成功だった。そう思った矢先、会議室のドアが開いた。


 入ってきたのは黒のスーツを品よく着こなし、柔らかい笑みを浮かべる男。事業部長の橘浩一だった。

「いいプレゼンだったな、高瀬」

 低い声に、会議室の空気がふっと和らぐ。橘はカリスマ的な存在だった。声に説得力があり、仕草ひとつで場の緊張をほぐすことができる。

「やはり君に任せて正解だ」


 その一言に、遼の胸に小さな満足が広がる。部長からの評価は、すなわち社内の信頼の証でもある。だが橘の笑みはそこで終わらなかった。

「さて——」

 資料を閉じ、会議室をぐるりと見回したあと、橘はあえて一拍置いて遼を見据えた。

「次の案件だが、『白波町リゾート開発計画』。これを現地で進める交渉役に、高瀬、お前を任命する」


 その言葉は、突然胸に冷水を浴びせられたかのように響いた。

「……し、白波町ですか?」

 遼の声は自分でも驚くほど硬かった。


 橘は頷き、揺るがぬ口調で続ける。

「そうだ。地元住民の理解を得るのが最大の課題だ。だが君なら論理と数字で説得できるだろう。これまでの実績が物語っている」

 そして、さらに低く囁くように言い添えた。

「成功すれば部長昇進は間違いない」


 逃げ道はなかった。

 昇進という甘い餌をぶら下げられた形でありながら、それは半ば強制にも等しい辞令。

 遼は口を閉ざし、小さくうなずいた。だが心の奥では、ひとつの言葉がくり返し響いていた。


(よりによって、あの町か……)


 十数年前に捨てるように離れた町、白波町。その名は心の奥の傷を容赦なく突き起こす。



---


 夜。

 東京の夜景は、宝石を敷き詰めたようにきらめいていた。窓の外に広がる摩天楼は、昼間の無機質な灰色を脱ぎ捨て、光の装飾を纏っていた。グラスの中でカラカラと小気味よい音を鳴らす透き通るような氷が、鮮やかにそれを遼の目に映し出す。

 遼はマンションの窓辺に立ち、ウイスキーを傾けていた。

 この部屋は成功の象徴だった。高層階から眺める景色、余裕ある間取り、無垢材をふんだんに使った家具。すべては努力と成果の賜物のはずだった。だが今夜の景色は、なぜか胸をざらつかせる。


 仕事机の引き出しを開けると、古びたアルバムが出てきた。

 無意識のうちに取り出したその表紙をめくると、一枚の写真が指先から滑り落ち、床にひらりと舞った。

 夏の海辺。三人の少年少女が肩を組み、波打ち際で笑っている。

 高瀬遼。岬大和。そして岬波瑠香。

 陽に焼けた肌、濡れた髪、無邪気な笑顔。すべてが眩しく痛い。


「……過去は過去だ」

 呟いて、写真をアルバムに押し戻し、再びグラスを傾けた。喉を通る刺激に神経を集中させる。

 しかし胸の奥の重さは増すばかりだった。


 白波町。

 再び足を踏み入れることになるその場所で、再会するであろう人々。

 歓迎されるはずがないことは分かっている。それでも、行かねばならない。それが今の自分がやるべきことなのだから。


 窓を少し開けると、冷たい夜風がカーテンを揺らし、都会のざわめきを薄く運んできた。

 遼はグラスを置き、深く息を吸い込んだ。

 これは仕事だ。私情を挟む余地はない。

 そう言い聞かせるように、目を閉じた。



---



 午前十時過ぎの特急が、海沿いのローカル駅に滑り込んだ。

 高瀬遼がホームに降り立った瞬間、潮の匂いが鼻を突き刺した。都会の乾いた空気には存在しない、湿り気を帯びた磯の香り。肺いっぱいに吸い込むと、記憶の奥に沈んでいた景色が一気に甦ってくる。


 夏休みに海へ駆け出した少年の日々。祭囃子の音と焼きトウモロコシの匂い。深夜まで語り合った幼なじみとの夢。

 そのすべてを封印するように東京へ出てきたのに、十数年を経て、いま再び足を踏み入れてしまった。


 ホームの向こうには、見覚えのある山々の稜線が重なり合っている。緑の濃淡は少し色褪せたように見え、海風に削られた岩肌がところどころ覗いていた。

 だが、駅前の景色は変わってしまっていた。


 かつては観光客で賑わった商店街の看板は錆びつき、シャッターを下ろしたままの店が目立つ。バス停の横に立つ看板は色が剥げ、「観光地・白波町へようこそ」という文字は半ば消えかけている。

 遼は苦々しい思いでその文字を見やった。


 ふと目に入ったのは「潮音館」と書かれた看板。駅から少し離れた旅館の名で、かつての友、大和の家族が切り盛りしていた宿だった。

 今も続いているのか、それとも既に廃業したのか。胸の奥がざわめき、遼は視線を逸らした。


(俺には関係ない。ただの仕事だ……)


 スーツケースの取っ手を握り直し、駅前通りを歩き出した。



 駅前の通りは閑散としていた。平日の午前中とはいえ、地元住民の姿はまばらだ。観光客の影はなく、海風に揺れるのは色褪せたのぼり旗だけだった。

 遼がスマートフォンで地図を確認しながら歩いていると、不意に背後から声がした。


「……遼くん?」


 振り返ると、一人の女性が立っていた。落ち着いた紺色のスーツに身を包み、肩までの髪が海風に揺れている。

 岬波瑠香だった。


 幼い頃の面影を残しながらも、今は凛とした大人の表情をしている。瞳は澄んでいて、微笑みの奥に芯の強さが見え隠れしていた。

 十数年ぶりの再会。遼は一瞬、言葉を失った。


「……波瑠香。久しぶりだな」


 声を絞り出すと、彼女は柔らかく笑った。

「十年以上ぶりかな。私、教師になってからは町を出る機会も少なくて……」


 変わらない声だった。だが耳に届くその響きに、かつての無邪気さではなく、歳月をくぐり抜けてきた人間の深みが宿っているのを遼は感じた。


「お兄ちゃんとは、もう会った?」

 彼女の問いに、遼は首を横に振った。


 波瑠香は小さく息をつき、視線を遠くの海に向けた。

「町は……簡単には変わらないよ」


 それは歓迎でも拒絶でもなかった。ただ事実を告げるだけの言葉。

 だが遼の胸に重く沈み、再会の喜びをかき消した。


 彼女はやがて腕時計を見て、「職員会議があるから」と別れを告げた。

「また会えるといいね」

 そう言って去っていく背中を、遼はしばらく見送った。


 潮風が再び吹き抜ける。残された遼は、その場に立ち尽くしたまま、自分の居場所がどこにあるのか分からなくなっていた。



 商店街を抜け、役場へ向かう道を歩いていると、すれ違う人々の視線が冷たく突き刺さった。

 中には立ち止まり、露骨に顔をしかめる者もいる。耳に届くひそひそ声。


「……あれ、高瀬じゃないか」

「東京に行った裏切り者が、戻ってきたんだと」

「また町を売るつもりか」


 遼は唇を噛んだ。

 十数年前、突然町を去った自分への視線。それは当然の報いかもしれない。だが、胸の奥に広がる痛みを完全に抑えることはできなかった。


 商店街の端に差しかかったとき、小さな八百屋の前にいた老女が、じっと遼を見ていた。

 遼が会釈すると、老女は無言のまま背を向けて店内に入っていった。

 心臓の奥を冷たい手で掴まれたような感覚。


(……これは仕事だ。私情を挟む余地はない)


 何度もそうして、自分に言い聞かせるように歩を進めた。

 だが、心の奥では抗いがたいざわめきが渦巻いていた。



---



 その夜、遼は町外れのビジネスホテルにチェックインした。かつての観光地の面影はなく、客室は閑散としている。フロントの女性も愛想がなく、機械的に鍵を差し出すだけだった。


 部屋に入り、荷物を整理するまもなく窓を開けた。

 遠くから潮騒が押し寄せてくる。東京の喧騒に慣れきった耳には、あまりにも静かで、逆に心をかき乱す音だった。


 荷物からウイスキーボトルを取り出し、自宅から持ってきたグラスへ注ぎ、そのまま喉へ流し込む。胸の奥が燃えるように熱くなり、少しむせてしまった。

 いささか刺激が強すぎたのか。コンビニで購入した水を加え、アルコールを和らげた。


(俺は……本当に裏切ったのか?)


 問いは答えを持たず、波の音に溶けていく。

 時計の針が静かに進むなか、やるせなくなった遼はベッドに腰を下ろした。

 やがて、眠りにも似た諦めの中で、目を閉じる。


 明日にはきっと、大和と再会する。

 それが冷たいものになるか、赦しへ向かう一歩となるか。

 遼にはまだ分からなかった。



---


 町役場の集会室に足を踏み入れた瞬間、張り詰めた空気が肌を刺した。

 蛍光灯の白い光の下、折りたたみ椅子が隙間なく並べられ、そこに住民たちが肩を寄せ合って座っている。漁師の分厚い腕、農家の焼けた頬、商店街の店主の真剣な眼差し。年齢も職業も違う人々の視線が、一点に注がれていた。


 壇上に立つ男の姿。

 岬大和──遼のかつての親友。

 白い作業着姿に、腕まくりをした逞しい前腕。声は太く、会場を揺らすほどだった。

「俺たちの暮らしは数字じゃ計れない! 海も山も、この町の誇りも、俺たちの手で守らなきゃならないんだ!」


 その言葉に会場が沸き立つ。拍手と「そうだ!」の声が飛び交い、熱気が渦を巻く。

 大和は人々の不安を代弁し、その背中で町全体を支えているように見えた。


 遼は後方の席からその姿を見つめながら、唇を固く結んだ。

 ──変わっていない。いや、むしろ昔以上に強くなっている。

 東京で数字と計画に囲まれてきた自分とは、まるで別の世界を生きている。


 職員が集会の進行を務め、遼の番が回ってくる。壇上へと歩み出ると、会場のざわめきが変わった。冷ややかな視線が突き刺さる。

 彼は淡々とスライドを映し出し、計画の概要を説明した。

「開発による経済効果は年間三億円。新規雇用は百人規模。町の税収増加により、教育や福祉にも還元が可能です」


 言葉は論理的で、数字は揺るぎない。だが、会場の表情は固いままだ。

 漁師の一人が叫ぶ。「雇用って言ったって、俺たちの子や孫が働ける保証はあるのか!」

 農家の老婆が震える声で言う。「観光客が押し寄せたら、田畑はどうなるんだい」


 遼は冷静に答えを返す。「整備によってむしろ農産物の販路は広がります」

 だが、その冷静さは住民の心を打たなかった。

 彼らの眼差しはただ、壇上の後ろに立つ一人の男──大和の方へと戻っていく。


 大和が前に出ると、会場の空気は一変した。

「数字じゃなく、俺たちの生活を見ろ! 漁に出る朝の海、田畑を耕す汗、子どもたちの笑い声。それが壊されたら、どんな数字があっても意味はない!」


 その一言で、会場は拍手喝采に包まれた。

 遼は握りしめた拳の中に、冷たい汗が滲んでいるのを感じた。



 集会が終わり、住民たちが三々五々と会場を後にしていく。椅子の軋む音、ざわめき、怒りや不安を含んだ囁き声が残響のように漂っていた。

 遼は壇上から降り、用意してきた資料を鞄に収めようとしていた。表面上は冷静を装いながらも、心臓の鼓動がまだ収まらない。会場に投げつけられた住民の視線は、刃のように鋭かった。


 そのとき、背後から重い足音が近づいてきた。

 遼は気づかないふりをして資料をまとめる手を止めなかったが、声は容赦なく耳に突き刺さった。


「……どの面下げて戻ってきた」


 瞬間、胸の奥に冷たい鉄槌を打ち込まれたようだった。

 振り返ると、岬大和が立っていた。子どもの頃に見慣れた笑顔は消え、代わりに険しい皺が眉間に刻まれている。陽に焼けた頬、鋭い眼差し、その姿はまるで町を背負う戦士のようだった。


「大和……」

 名前を呼んだ声は、わずかに震えていた。


 だが大和は一歩近づき、吐き捨てるように言った。

「お前が町を出てったとき、何を置き去りにしたか覚えてるか? 夢も、仲間も、俺たちとの約束も。全部忘れたんだろう」


 遼の喉が渇いた。唇を舐め、どうにか声を絞り出す。

「俺は……ただ、仕事で来ただけだ」


 冷たい響きを意識したが、その響きが自分に跳ね返る。空虚な言葉。

 大和は笑いもせず、ただ静かに睨み据えた。

「仕事? 便利な言葉だな。『仕事だから』って言えば、どんな裏切りも正当化できるのか」


 遼の拳が震える。反論の言葉が喉に上るが、吐き出すことができない。

 頭の奥に蘇ったのは、十代の夏の夜、港で語り合った夢の断片だった。三人で未来を語り、笑い、手を重ねたあのとき──。


 その記憶を振り払うように、遼は唇を噛んだ。

「俺は……俺の選んだ道を歩いただけだ」


 だがその声は、自分でも聞き取れないほど弱かった。

 大和は短く鼻で笑い、背を向ける。

「なら、その道を歩き続けろよ。俺たちの町を壊す道をな」


 足音が遠ざかる。残された遼の胸には、刺すような痛みと、言葉にできない空洞が広がっていた。



---



 夜。宿の部屋は静まり返り、窓の外では波の音が途切れなく押し寄せていた。

 遼はスーツの上着を椅子に投げ出し、窓辺に立った。ガラス越しに見えるのは、真っ黒な海と、点々と揺れる漁火だった。潮風が隙間から忍び込み、微かな塩の匂いが胸に染みる。


 目を閉じると、昼間の光景が鮮明によみがえる。住民たちの怒りに満ちた声、大和の刺すような眼差し。

「どの面下げて戻ってきた」

 その一言が、何度も頭の中で反響した。


 遼は机に鞄を置き、そっと胸ポケットに手を伸ばした。そこにあったのは、古びた写真。東京を発つ前、無意識に持ち出してしまった一枚だった。

 写っているのは、十代の自分と、大和、そして波瑠香。海辺の堤防に並んで座り、笑っている。髪を潮風になぶられ、目を細めて未来を語っていた。

 将来への希望だけを胸に抱き、その手が離れることなど微塵も考えていない。だが、若かりしその頃の自分だけが、異質にも見えた。


 指先でその写真をなぞると、胸の奥に鈍い痛みが広がった。

 ──どうしてあの頃の笑顔を、失ってしまったんだろう。


 遼は写真を伏せ、深く息を吐いた。

 東京で築いたキャリア。冷静で合理的な判断。数字と効率の世界。

 それは確かに彼を成功へ導いた。しかし、今夜のように心を切り裂く記憶に出会うと、その成功がどこか遠いものに感じられた。


 窓の外で風が強まり、波が岩に砕ける音が響いた。その音は、過去の記憶を呼び覚ます合図のように聞こえた。

 遼はベッドに腰を下ろし、顔を両手で覆った。


 ──再会は敵同士として。

 友情は壊れたまま。

 そして町全体が自分を拒絶している。


 それでも、逃げることはできない。

 仕事として、あるいは──過去と向き合うために。


 遼はもう一度、写真を見つめた。そこに映る笑顔は、確かに存在した証だった。

 やがて彼の瞼は重くなり、波の音に溶けるように意識が遠のいていった。


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