文芸部 冬
特別教室が連なるB棟の1階の最果てにその部室はある。
僕が所属している文芸部。部員10名、そのうち8名は名前だけ所属している状態で実際に部活動に参加した記録はない。本来10人程度で活動することを見越して明け渡された部屋には閑静とした日々が流れ続ける。
12月20日(月) 曇り
本日の活動内容。特になし。
部室も冷え込み始めた。冬の足音が頭上まで迫っている。
明日は雪が降るらしい。
活動記録日誌を書き終わり、一息つこうと窓を見た。
じんわりと橙色が滲む空を黒い点が横切る。カラスだ。そろそろ帰り支度を始めるか。
辺鄙な場所にあることと、幽霊部員が校内最多ということで心霊スポットと揶揄されている部室。もちろん、こんな場所に用事がある者なんかいない。
誰にも邪魔されず放課後を悠々と過ごせる空間を手に入れらたのは僕からしたら幸運だった。
しかし序文に記した通り、この部室にはあともう1人部員がいる。
「……っくちゅん! あー」
そのくしゃみをした後に、声を漏らすのやめて欲しい。おじさんみたいだし。
少しだけ乱れた前髪を手ぐしで整える彼女こそ、この文芸部の部長であり僕の1つ上の先輩、名を東雲 さん。という。下の名前は聞いたことがない。名札を付けていないから知る由もない。
「東雲さん、僕はそろそろ帰りますよ」
再び読書に戻ろうとする東雲さんを横目に、僕は帰り支度を始める。
「…………」
1度読書に集中してしまうと、外界の情報を全て遮断してしまう。それは彼女の悪い癖だ。
そういえば、ここが心霊スポットと揶揄させるもう1つの理由。
血が通ってるとは思えないほど青白い肌。
光を吸い込んでしまうほど美しく長い黒髪。
まるで骸骨がセーラー服を羽織ってるように錯覚してしまうほどほっそりとした体。
この学校において東雲さんのあだ名は文字通り「幽霊さん」だった。
「……ぶへっしょん。あー」
幽霊もくしゃみはするらしい。
目に映る物、全てが文字に変換される。
物心が付き、文字を覚え始めた頃から僕の見える世界はそうなっていた。覚えた文字が増えれば増えるほど世界が広がっていく。他の人も同じ光景を見ながら生きていると思っていた。
それが普遍的ではないと認識に至ったのはわずか8ヶ月ほど前のことだった。
突如、文字だけで構成された世界にそれは現れた。
形を持ち色をまとい、匂いも音も体温も全て文字ではなく"実体"としてそこにいる。
この世界のバグ。僕が東雲さんに感じた第1印象がそれだった。
「……入部希望?」
閑散とした部屋に転がる言葉。
音にも質量が微かに存在していて、それが音の個体差となる。
しかし彼女の声にはそれらが感じられない。
さらに、いつもなら
「花が開いたような明るい声がひびく」
「眠気を誘うような落ち着いた声」
「脳を溶かすような甘い声が鼓膜をくすぐる」
などの形容詞が備え付けられるが。
しかし彼女の発する音は、文字に変換されることなく音のまま消失してしまう。
"形をなすもの"初めて見たそれに、僕は畏怖の視線を送ってしまった。
その視線に気が付いた彼女は、ため息混じりに僕を睨み返した。
「……ああ、貴方も幽霊さんってやつを見に来たの? 悪いけど私は特段面白いことができるわけじゃないから、用がないなら帰りなさい」
そう言うと窓際に置かれた椅子に腰掛け、本を読み始めた。
「に、入部希望です……1-B、式部 颯。よろしくお願いします」
しかし彼女は本から目を離さず黙々とページをめくる。紙が擦れる音と小さな呼吸音だけがしばらく部屋に響いた。
カラスの鳴き声が太陽を追い返す。
入部した日のことを思い出した。東雲さんはあの日もこの場所で本を読み、僕の言葉には耳を貸さなかった。
とはいえ、そこには悪意があるわけではなく、ただ集中すると周りが見えなくなるという癖があるだけだと、今はそれを分かっているから嫌悪しているわけではない。それに彼女が今読んでいる本は僕が書いた小説だ。
僕一人で帰ってしまっても構わないが、著作者が読者を置いて帰るのも忍びないと思い、帰り支度を済ませたカバンを机に置き、もうしばらく付き合うことにした。
カチッカチッカチッ。
歯車が回り針が回り、そして空は回る。
ぼんやりと外を眺めた。
見るもの全てが文字に見える、東雲さんに相談したことがあった。それは入部してからすぐだった気がする。
「病院行けば? 前頭葉らへんに異変があるんじゃないの?」
窓の外には五月晴れを遮るように木々が連なって植えられている。そのため部屋に入る光は微々たるもの。じめっとしていて心霊スポットの名に相応しい様相だ。
切りそろえられた前髪を気にしながら東雲さんは言った。今朝思い切ってハサミでやったらしい。僕は日本人形みたいで可愛いと褒めたが、それを聞いた東雲さんは睨みを利かし、なんか呪詛みたいな言葉をぶつぶつ吐きながら髪の毛をずっと撫でている。
「でも僕はこれでずっと生きてきたわけで、生活も別段困ることはないんです。……ただ、他の人と見ている景色がまったく違ったというのが気がかりで」
「というか、なんで今まで気が付かなかったの? 貴方のそれは、明らかな"異常"よ」
異常。確かにその通りだ。
「目に見えるものは違くても、感じたことは一緒だから。会話が噛み合わないことも無いし。何よりこれが普通だと思ってたので」
東雲さんは見た目も性格も冷たいが、しかし僕の悩みには親身に耳を傾けてくれる。
「例えばね、式部くん。コミュニケーションって、終わりのないマラソンをみんなで走るようなものだと思うのよね。一緒に走ろうと約束しても足並みを合わせられなかったら置いていかれて、そのうち自分と同じペースで走る人が現れる。けれどその人は自分とは違う道を走ろうとする。それについて行くのも行かないのも私の自由。また1人で走り続ける。今度は私よりペースが遅い人が現れる。最初はこの人に合わせて一緒に走ろうかと思ったが、そのゆっくりなペースでは逆に疲れてしまう。最終的にはその人を置いて自分のペースに戻る。コミュニケーション能力が高い人ってどんな人のペースにも合わせられて寄り道も休憩も億さない人だと思うの。貴方のそれは、そのマラソンのスタートラインにすら立てていない。なのに言葉尻だけ受け取って体良くコミュニケーションという体裁を保っているだけ。今はよくても、いずれ孤独になってようやく走り出したころにはもう既に手遅れ。それを才能だと言う人もいるかもしれないけど、私は孤独を知っているから貴方にはそうなって欲しくないわ」
僕の中の深淵を見透かすように、彼女の大きな瞳が揺れる。
どんなに冷たい言葉を吐いたとしても、彼女の言葉の根底には必ず温もりがある。
文字だけの世界に現れた東雲という実体。その存在にもようやく慣れ始めた。
「僕も見てみたかったな。東雲さんと同じ景色を」
もしそれができるのなら、僕も自分で前髪を切ってお揃いになれたかもしれない。
A棟の窓から溢れる灯りが減り、とうとう職員室だけにしか灯りが付かない時間になった。
夜になるといっそう寒くなる。ストーブを置いて欲しいがそんな申請が通るわけもなく。ひざ掛けだけが自分の体を温める唯一の道具だった。
暇だったので星を見て物語を考えていた。
夜空に咲くように飛び散った光たちが互いに手を取り合い、未知の世界から迫ってくる生物と戦う。そんな物語を夜空を銀幕に見立てて上映する。
ゴンッ。
額にひんやりと冷たい感触が伝わる。いつの間にか寝ていたようだ。外気で冷やされた窓は眠気を飛ばすのにちょうど良かった。
「あら、ようやく起きたの」
ひざ掛けをブランケットのように羽織る東雲さんが、僕と同じように窓の外を眺めながら言った。
「今ね。面白いお話を考えていたの。夜空に散らばった星を辿って旅をする男の人の話。でも残念ね。最後は夜空の向こうから飛来した未知の生物に飲み込まれてしまったわ」
「奇遇ですね。僕はそれの続編を考えていましたよ」
「……は?」
何を言っているんだこいつはという冷ややかな視線を向けられる。
僕は窓に打ち付けた額を擦りながら、鞄からカイロを取り出した。
「それじゃあ、そろそろ帰りましょうか」
「ええ。ありがとう、相変わらず気が利くわね。気持ち悪いぐらいに」
僕が差し出したカイロを受け取りながら皮肉交じりに礼を言う。
「どうでしたかその小説。一応自信作なんですけど」
僕から受けとったカイロをシャカシャカと振りながら険しい顔をする。なんて言えばいいのか迷ってるようだ。
「面白くなかった」
しかし、ついた言葉はシンプルだった。その飾らなさが東雲さんらしいといえばそうだけど。
「なんていうか作者の思想をキャラクターに無理矢理言わせてる感じがする。小難しいこと言って悦に浸ってる作者の顔が想像出来てうざい」
その作者、目の前にいるんですけど。
「というか小説なのに物語が全く進んでいない。ずっと足踏みしてる感じ。登場人物達の会話も微妙に噛み合ってないし、まるで貴方の歩んできた人生そのものみたい。これを自伝として発表するのならまだ許容できるけど」
散々な言われようだ。まさか小説を超えて作者の人格否定まで始めるとは。
「僕の小説、そんなにダメでしたか」
さすがに言い過ぎたと思ったのか、申し訳なさそうに俯く。
「ダメというわけではない……。ごめんなさい言い過ぎたわ。そもそも、これは私が貴方にお願いしたことだったわけだし。うん、ごめんなさい」
何故僕が小説を書いてるのかと言うと。文芸部の活動が著しく少ないため、顧問からこのままだと文芸部は解体、あるいは他の部と合同になると脅され、しかたなく年始に行われる地域のイベント「冬の文芸同人会」に作品を出展する運びになったのだ。
しかし、「私は読むことは出来るけど書くことは出来ない。作品は式部くんが作りなさい。今こそ貴方が培ってきた才能を開花する時よ」と東雲さんは唯一の部員である僕に責任を押し付けた。
「安心して。添削は私がするから」
こうして素人による執筆活動が開始された。
それが確か11月の始めだった。
12月21日(火) 雨 時々 雪
本日の活動内容。文芸同人会に出展するための作品の添削。推敲。
自分が書いた小説を批評されるのは、自分の中にある何かをくすぐられているようでいたたまれない。僕にとって自作の小説とは飛び出した内蔵のような物なのかもしれない。
「あなたの作品には恋愛が足りない」
「……はぁ。恋愛……ですか……?」
僕の書いた小説を持ち帰り、また一通り読んで添削を済ませてきたらしい。こういうところはマメだなと思う。
それにしても恋愛とは無縁――というより興味すらなさそうな東雲さんの口からまさか「恋愛」なんて言葉が出てくるとは。
東雲さんのことを知らない人だったら、その恋愛とは対極にいそうな彼女の言葉を疑うことだろう。
僕も最初はそうだった。殺人的な暑さのあの日。
7月。
開け放たれた窓から吹き抜ける風が木や土の香りを運ぶ。それにしても暑い。扇風機ぐらい常備してくれないだろうか。
姿は見えないのにけたたましく鳴く虫の声。
ようやく地上から出てきたのに、そこが灼熱の地獄だったら確かに泣きたくもなるだろう。
対して東雲さんは涼しそうな顔をして読書を続ける。しかし輪郭をなぞるように一滴の汗が流れ落ちる。暑いものは暑いらしい。
彼女は読書に集中すると、どこまで外部の情報を遮断するのか気になった。
うちわを手に持ち、読書を続ける東雲さんの正面からそれを扇ぐ。
最初は微動だにしなかったが、だんだんと苛立ちの様相が出始めた。眉がぴくぴくと動き始め、唇が少し歪み、時より舌打ちをしていた。完全に気付いてる。
しかし止めにかからなかったのは、純粋に暑いからだろう。
これ以上の反応もなく退屈だったので扇ぐのを止めた。
「ちょっとなに止めてるのよ。もっと扇ぎなさい。あと前髪に風がかからないようにして。気が散る」
「気付いてたなら反応してくださいよ。というか、こんな暑い日によく読書できますね」
蒸し返すような暑さの中、僕は言われた通りうちわを扇ぎ続けた。
「それはもちろん。私にとって読書とはコミュニケーションみたいなものだから。これを止めるということは友人を失うようなものなの」
僕と東雲さんの価値観はかなり相違している。
見るもの全てが文字に変換される僕にとって読書とは日常の延長線でしかなく。友人と呼べる存在が居ない東雲さんにとって読書は他者の考えを共有出来る唯一のコミュニケーションのツールとなり得る。
作ればいいのに友人。
そう思ったことは何度かあるが。これは彼女の問題であり人生である。僕が何か言うと機嫌を損ねそうだから何も言わない。
「それにしてもいつも何読んでるんですか?」
東雲さんは常に文庫本を持ち歩いており毎回決まったブックカバーをしているため、本の表紙を見たことがない。
やはり難しそうな哲学書を読んでいるのか。あるいはサスペンスやミステリーなんかも好きそうだな。
彼女の冷たい印象が僕の中の東雲さんという人間の趣味嗜好を勝手に構築していく。
「…………笑わない?」
少し間が開き彼女が問う。長いまつ毛の中にある瞳が品定めするように僕を睨む。
自分の中にある大きな秘密を打ち明けるのに、この人は本当に信用できるのだろうか。そんな懐疑的な視線にも感じられた。
それでも東雲さんは僕のことを少なからず信用してくれている。……気がする。
僕は、重々しく首を縦に下ろした。
果たしてどんな回答が返ってくるのだろう。
黒い背景に白文字で「killer」と書かれたブックカバーをゆっくりと剥がす。なんつうブックカバー使ってるんだよ。
「これ」
そういうと彼女が見せてきた本のタイトルは、
「文学少女が恋に落ちたので1句詠んでみた」
なんですかこれは。
そう言いそうになった口を無理矢理つむぎ。
「なんですかこれは」
無理だった。気がついたら半笑いで声に出てしまっていた。
本のタイトルを見せてきた彼女は不安そうな瞳を一変して睨みを利かせ、
「…………殺してやる 」
さすがkillerと書かれたブックカバーを使っているだけあって殺意は本物だ。
ゆらりと立ち上がり、僕の首元に手を伸ばそうとした。
だがしかし、次の瞬間にはぐったりと椅子に座って。
「暑い。扇ぎなさい式部くん。笑った罰よ」
はいはいっと。
羞恥のためか先程よりも流れ出る汗が多くなっている東雲さんにうちわを扇ぎ風を送る。
流石の東雲さんもこの暑さには敵わないらしい。
「バカにしてるわけではないですよ。ただ、意外だなって思っただけで」
東雲さんはハンカチで汗を拭きながら流し目で僕を睨む。
「私は……ただ、気になるだけ。普通の女の子がどんな感性をもっていて、どんな風に恋をするのか」
幽霊さんと呼ばれている彼女も、やはり普通の女子なのだ。色恋に興味があってもおかしくはない。
「ちなみに恋愛小説は100冊は読んだわ」
やっぱりおかしいかもしれない。
「それでもね分からないの。人を好きになる心理も、誰かと一緒にいたいと思う気持ちも。体を重ねる理由も。けれどね、これだけは分かった。好きって気持ちは全ての原動力に繋がっているのかもしれないって」
汗を拭き終わり、ハンカチを胸ポケットにしまった東雲さんは僕を見つめた。
「式部くんは、好きな人いる?」
「……僕の場合、見えるものが文字であり続ける限り、文字を好きになることはない気がします。東雲さんと同じですよ。僕も恋とか分からないです」
唯一文字ではなくここに実体として存在している人物は東雲さんだけ。可能性があるとしたら彼女を好きになるということだか。今のところそんな気はないと願いたい。
「ふーん。貸そうか、私の恋愛小説」
「いや、別にいいです」
「あ、そう」
その日以来、東雲さんが難しそうな顔をしながら本を読んでいたとしても、あれ恋愛小説なんだよなぁっと思って少しにやついてしまいそうになる。
「恋愛……なんて言われても、僕には書けないですよ。そもそも提出の期限も迫ってるし今から書き直すなんて」
「安心しなさい。私が序章というやつを考えてきたから、今からでも間に合わせるわよ」
確かに彼女の青白い肌が寝不足で一段と白くなっているような。というかよく見たら目のクマが普段より濃くなっている。徹夜で書いてきたのか。
もしかして僕が小説を書いたということに触発されて、自分でも書いてみたくなったとか?
だとしたらかなり迷惑だが、それでも無下にするのは可哀想に思えてくる。
「とりあえず読んでみなさい。文学史の歴史に刻む最高の物語の1片を」
徹夜テンションなのか発言の一つ一つにいつもより熱意がこもっている。
熱い鼻息をふんふんと吐きながら、僕にその文学史の、なんだって、なんか刻む1片ってやつを押し付けてくる。
そのペラ1枚の紙をしかたなく受け取り、読んでいく。東雲部長が考えた作品。果たしてどんな物語が紡がれているのか。
「きゃーちこくちこくー」
私、西雲花子、ぴちぴちの高校生! 今は遅刻しそうになって急いで学校に向かっているわ。
「くそ! 遅刻だ!! このままだと遅刻のしすぎて留年してしまう!」
俺、清少 楓、留年の高校生! このままでは1年連続遅刻という大記録を打ち立ててしまう!
「きゃっ!」
「うわっ!!」
曲がり角で誰かとぶつかってしまった!!
――っん!!!
唇に何か柔らかい感触が伝わる。
「……っ!!!」
目を開けたらびっくり! 私、知らない男の人とキスをしていたの!!
「……ん!!!」
な、なんだこの女。なんで俺とキスしてるんだ!
なんて綺麗な顔をした女なんだ。くっ、これは罠か。俺を遅刻させるための。
なんて変な顔をした男なの。でも、何だか好きになってしまいそう。私、遅刻してもいいかも。
そのまま2人はどエロいキスを続け、お互いの好きを確かめ合いましたとさ。
終わり。
手に持っていた紙が、いつの間にか「駄作」という文字に変わっていた。
「どう。私が考えた最高の恋愛小説」
何から言えばいいのだろう。
「とりあえず、このどエロいキスって、なんですか?」
「そ、それは……その……粘膜と粘膜を擦り合うような……?」
頬を赤く染めながら左右の人差し指をくるくると回したり押し付けあったりしている。あれがどうやら舌の動きを表してるようだ。
こんな作品を作る人に僕の小説が否定されたということが今更ながら腹ただしく思えてきた。
がしかし、ここでダメだしするのも良くないか。これは東雲さんが徹夜で考えてきてくれた物語だから。寝ろよ。こんなもん書いてる暇があるなら。
「まずはありがとう」
「……? ええ、礼には及ばないわ。それで、どう完成させられそう?」
「無茶言わないでください。僕たちみたいな恋愛経験皆無の人が残り少ない時間で書けるものでは無いですよ」
それを聞き、残念そうにため息をつく東雲さん。
「まぁそうよね。これは私が後で続きを書くわ」
そういうと奪い取るように僕の手元から紙を引っこ抜いた。
彼女の初めての作品が完成する事を祈ってます。
雪が降り始めた。
しんとした冷たい空気が頬を撫でる。
部屋の中だと言うのに吐く息が微かに白く染まる。
東雲さんも両手で口を覆い、自分の吐く息で手を温めている。
ほっそりとしていて骨ばっているが、女性らしいしなやかさと綺麗な肌の上品な手だと思う。
「それで僕の小説の推敲はどうなりましたか?」
「赤ペンで直した方がいい所にマーク付けておいたから直しておきなさい」
そういい、紙の束を僕に突き出した。確かにそこには赤ペンでこと細く色々書いてあった。
先程の小説で一抹の不安が過りぺらぺらと中身を確認すると、意外とちゃんとした指摘が書かれていた。どうやら東雲さんは自分で小説を書くのは苦手だけど人が書いた物にならどんどんダメ出し出来るらしい。読書を続けてきたからこそ手に入れられた能力なのだろうか。
「それにしても……寒いわね……あと何だか眠いわ。ふぁ〜……ん」
「徹夜でやってくれたんですよね。今日はもう帰って寝てください」
「それでもいいけど……いいわ。ここで寝る」
そういうと空いてる席に座り、うつ伏せになりながら目を閉じた。長いまつ毛が夕焼けの光を反射して赤く光らせる。
「ねぇ、私のカバンからブランケットとってちょうだい」
目を閉じたまま彼女は僕に催促する。
わがままだなと思いつつ、何やかんやずっと一緒にいるのでこの扱われ方にも慣れた。
カバンからしっぽのようにはみ出たブランケットを引っ張り出し、彼女の肩を覆うようにかぶせる。
白い肌に映える朱色の唇が小さく開き、小さな寝息を立てていた。
たった少しの間で眠ってしまったようだ。
間抜けな顔だなと思いつつ、ブランケット1枚だけじゃ心もとないので自分のひざ掛けもその上から重ねるようにかぶせる。これで多少は暖を取れるだろう。
いつも気にしている前髪が寝相のせいで崩れている。
なぜ東雲さんは前髪をつねに気にしているのか僕には分からない。
前髪を気にする人は他人からどう見られてるか気になるタイプが多いというが、やはり東雲さんのその例に当てはまるのだろうか。幽霊さんと揶揄されて誰とも仲良くなれなかった反動がこうして普段の仕草に現れるのか。
彼女はコミュニケーションはマラソンのようなものだと言った。
きっと彼女も誰ともペースを合わせられずずっと1人で走っていたのだろう。自分からにじり寄ろうとしても誰もペースを合わせてくれない。孤独とは誰かと一緒にいたいと思う時、初めて生まれる感情なのだ。
東雲さんが添削してくれた自作の小説に目を通す。
丸みを帯びた可愛らしい文字でご丁寧にワンポイントアドバイスまで書いている。
一つ一つが的確な指示で、けれどその中には彼女の思いのうちも含まれているような気がした。
話が進まない小説に、早く走り出せと促すように。
最後のページに差し掛かる時、紙の束に挟まっていた何かがはらりと落ちた。メモ帳のような小さな紙が1枚。拾い上げた。
「……不器用だよな、この人」
その紙には、色々な形の謝罪文が試行錯誤されるように書かれていた。昨日の批評で言い過ぎたことを家に帰ってからも反省していたようだ。
そして僕の書いた小説の最後のページ。
東雲さんが記した言葉。
「少しだけ貴方のことが理解できた気がするわ。だから何だって話だけど。一般的に見たらこの小説は面白くない。でも、私は好きよ。だってようやく貴方と同じ景色を見れた気がするから」
僕と東雲さんはこの世界の特異点なのかもしれない。そしてたまたまここで出会って価値観も性格も何もかもでこぼこな僕たちは、起伏なく流れる時間を経てようやく丸くなり始めたのかもしれない。
目に見えるもの全てを文字に変換してしまう僕の瞳が、脳が、なぜ東雲さんだけは文字に変換出来なかったのか。今なら何となくわかる。
僕の中には文字に処理できない感情が一つだけあった。
しかしそれ知ってしまったら、きっと東雲さんもこの文字だけの世界の1部になってしまうのだろう。