第017話 赤い月の夜明け
「ノワール! アノニマス!」
凍えるような空気感を問答無用で断ち切ったのは、生まれてひと月も経っていない純真無垢なアノニマスだった。
殺気が漏れていたエリゴールもアノニマスの一言で平常運転に戻る。
火に油を注いだ艶孤も両手を横に広げて、部屋の中に戻って行った。
「ちょっと、大人げなかったわねぇ……。今、アノニマスに言葉を覚えさせていたところなのよぉ」
「なるほど……。それで、自分の名前が言えるようになったんだなぁ?」
「そうねぇ? それとぉ。こっちが言った言葉をある程度は返すことが出来るようになった。お兄さんは特別だから、名前を覚えたんじゃないかしらぁ」
アノニマスとの距離は扉から人一人分。別れてから、一週間も経っていないから当然か。
でも、此処の生活は慣れたようで艶孤もアノニマスの行動に干渉しない。
「アノニマス、せん……ノワール!」
「えっ? せん……って、この扉の下に引いてある赤い線か?」
「そうなのよぉ。私も当然、子供の世話なんてしたことないじゃなぁい? だからぁ、手っ取り早く。そこから出ちゃ駄目って教えたの」
言われてから扉の下に赤い印があることに気付く。
俺が立っている地面には青い線があった。
靴の先が少しだけはみ出していることに気付くと、アノニマスが下を指差し注意してくる。
自分の能力を把握しているわけじゃないだろうアノニマスに指摘されて笑いそうになる中、一歩引いた。
「アノニマスは偉いなぁ? 俺も見習わないと。実は暫く拠点を移動することになったんだ。次いつ会えるか分からないが……イブリースが来てくれるからさ」
「ノワール……アノニマス」
「仕方のないことですが、寂しそうですね。主が居ない間も能力を制限出来るよう頑張るんですよ」
アノニマスは小さい体を精一杯に大きく動かして、ブンブン頭を振っている。
元気そうで良かった。
艶孤も最初に会ったときと印象がだいぶ変わった気もする。
あのときも、利害の一致で助けてくれたと言っていたが、それだけじゃないはずだ。
あやかし達が楽園を通じて自由に場所を移動出来るのは文献にも書いてあったし。
艶孤とはまた会えるだろう。
俺達は無言のまま街の出口に向かって歩いていた。
「ハッ! いまのいままで脳の処理が追いついていなかった……。アノニマスちゃんと、会ったか?」
「ああ。って、大丈夫かぁ? 艶孤に操られていたときみたいに魂抜けてたぞぉ」
「それはあんな話聞いたら誰だって! なぁ? ヴィオレット……って、大丈夫かぁあ!?」
ヴィオレットは顔が青ざめたまま体を震わせて遠い目をしていた。
足取りはしっかりしていたから触れなかったが、シオンに肩を揺らされて顔色が戻っていく。
「はっ! す、すみません!! わたしのような若輩者……異次元過ぎて飛んでました」
「あー……なんか、悪い。ヴィオレットは協会に入って何年だ?」
「えっと……今年で二年目です! 十八歳で、試験を受けて合格したので!」
協会は万年人手不足だから、入りやすくて給金も良いことから若者が多い。人間は魔力を持って生まれるから、魔導士の才がある者はすんなり受かる。
ヴィオレットは魔力が低いと言っていたけど、片時も離さない玄能を使いこなす怪力が決め手だろうな。
さすがにあやかしであるイブリースの方が上だろうけど……。戦い方を見てみたくもある。
「用事が済んだなら、もう旅立つってことだよな!? お別れ会も出来なかった……。たまには手紙くれよなっ!」
「あっ、ああ……。家族にも言われたから、次の町についたら書くよ」
「わたしなんて、初めてお会いしたのに……ボーッとして終わっちゃいましたよ!?」
騒がしい二人と無言のエリゴールと共に、街の出口へたどり着いた。
この街は大きいから出入口が分かれている。とはいえ、ほぼ隣り合わせのように近いし、隔たりは門番がいる詰め所だけ。
怪しむ様子が一切ない門番を尻目に、二人と握手を交わす。
「また会えたときは二人がともに成長していることを楽しみにしているよ」
「おう! 任せとけ! 艶孤の魅了になんて負けないくらい強くなるからさっ」
「わたしも、魔力量は増やせませんが……自分が出来ることを増やします!」
笑顔が戻った二人に背を向けて一歩踏み出したときだった。
同時に空へ視線を向けるルッカとエリゴールに上を向く。
空は青く澄み渡り、なんの変哲も――。
「――来ます。ノワール様。警戒態勢を指示して下さい」
「主ぃ……。黒天宝が言っていた、赤い月の夜明けです!」
「なっ……嘘だろう――。二人共! 赤い月の夜明けが来るぞ!」
後ろに振り返った俺はまだ見送ってくれていた二人に危険を知らせる。
一瞬で表情が強張る姿へ次の声を掛けるよりも早く、空に異変が起きた。
急に天候が悪くなったように暗くなり、誰もが空を見上げたとき。
どこからともなく怪しげな輝きを放つ"赤い月"が姿を現す。
思わず唾を飲み込んで目を離せなくなる中、雲が晴れるように再び明るくなって目を疑った。
「――空の色が……あやかしの楽園みたいだ」
「――ノワール様、無礼極まりないあやかし達がこちらに攻めてきます」
あやかしの楽園と同じ、薄紅色に染まった不気味な空が広がっている。
しかも、エリゴール曰くあやかし共がこちらに向かっているとかやめてくれ。
「上空を飛んで見たわけでもないのにどうして分かるんだ?」
俺は疑問をぶつける。
すると、おもむろに俺達を見るエリゴールは無表情のまま意味深なことを口にした。
「此処には、あやかしにとって良い"匂い"と、"悪い匂い"がするからです」
「良い香りと……」
「悪い香り……ですか?」
表情を強張らせたままのヴィオレットが合いの手みたいに呟く。
良い匂いなら、どこかで聞いたような気がするが、直ぐには思い出せそうにない。
赤い月に空の色で、緊急事態を知らせる魔法が発動したのか、街中に警報が鳴り響く。
同時に貴族たちの悲鳴が飛び交い始めた。
中立協会のある場所とはいえ、あやかしに対する恐怖がないわけじゃない。
俺達も門番と共に急いで避難誘導を始めた。
「焦らないでください! 協会内が一番安全ですし、全員入れますので!」
「怪我したら痛いからなー! オレたちが絶対に守るからさっ!」
この街で一番安全な協会に避難誘導する役割を二人に任せた俺は、エリゴールに空から状況を確認してもらっている。
黒くて大きな双翼が音を立てて空に舞う姿は圧巻で、綺麗だった。
すぐに下りてきたエリゴールは無表情のまま、離れた森の方を指さして示す。
「あちらの方向だけのようです。あやかしは基本群れませんが、此度は統率している者がいるようです」
「統率者か……そのあやかしが誰かはさすがに分からないよなぁ」
「――吸魔の男でした」
視力良すぎだろう……。
森まで結構な距離があるぞ。
それよりも、聞き覚えのある個体名に呆れた。
「吸魔の男って……。上位のあやかしは個体名があるけど、世界で一体だけだったよな? また、あいつか……」
「あのような如何わしい者と、お知り合いですか……? まさか、魔力を吸われたり――」
「いや、大丈夫だ。ただ、"悪い意味"で知り合いではあるな。あんなことをしていたあやかしだから、敵対してもおかしくないか」
楽園の鬼ごっこというルールに則った行為ではあるが、艶孤の言うように餌として迷い込んだ人間を狩っていた側に違いはない。
魔力はあやかしにとって必要な食事に変わりはないが、人間が食べるために家畜を殺すのとは理由が違う。
殺さなくても人間から必要なだけ魔力を得ることは可能だ。
なんせ人間はもちろん魔力を持つ動物はあやかしの八割もいる。
「あと少ししたら戦える協会の人間も来るだろう。俺達は前線に向かうぞ」
「畏まりました。お供致します、我が君」
「主ぃ、お気を付けください!」
シオンに一言告げてから、俺達は森がある街の内壁に向かって走り出した。