エレベーターに弄ばれた女性
年末を迎えて、私の勤める会社も急激に忙しくなった。
十二月に入って、朝早くから出社し、夜九時を回る残業が続き、私の心と体は疲れ切っていた。そして、今日も夜九時を回る仕事をした上に、会社のメンバーの中で最も遅い退社となった。
この後、彼氏とは食事の約束があるのに、こんな時間に上がるようでは、店も閉まっていて食事もできないかもしれない。
二十三歳で、会社に入ってまだ一年も経たない新社会人でありながら、かなり過酷な労働を強いられているようにも感じる。
これも仕方ないと思いつつ、私はパソコンを閉じて、忘れ物が無いかを確認して、タイムカードを切って、そのまま会社を出た。
そして、同じフロアのエレベーターまで歩き、そこに着くや否や、私は下行きのボタンを押した。
暫くすると、エレベーターの扉は開いた。その中に私は乗って、このビルの最上階である五階から一階を目指すべくボタンを押した。
エレベーターの扉は閉まり、下に向かって動き出した。そして、数秒が経った後、私は想像を絶する事態に直面した。
突然、エレベーターが停止した。
まだ一階に下りていないのに、急にエレベーターは止まり、そのまま扉は開かない。エレベーターは動かなくなった。
――ちょ、ちょっと待って! これって……
私は咄嗟に非常ボタンを押した。しかし、スピーカーからは何も聞こえない。何度押しても、返答は無い。非常ボタンの先に繋がるエレベーターの管理者との連絡が取れない。
このビルのメンテは何をやっているのだろうか。居眠りしているのか、仕事を怠けているのか……その様子は分からないが、非常ボタンの効果は発揮されず、エレベーターも不動のまま、時間は流れ出した。
私は、エレベーターの中に閉じ込められた。
私の心臓の心拍数は上がり出した。そして、ボタンを何度も連打した。
「閉じ込められてます! 早く助けに来てください!」
スピーカーに口を近付けて大声で叫んだ。しかし、私の声は全く届いていないのか、スピーカーからは何も聞こえない。救助しようという意気すら感じられない。
何とかここから脱出しなければ――そう考えて、一先ず落ち着いて対策を練ることにした。疲れているので、その場に座り込み、背中を後ろの壁に寄り掛からせた。
状況を整理しよう。色々考えが巡るが、大まかに疑問をまとめると、こうなる。
① なぜ、エレベーターは停止したのか。
② なぜ、管理者との連絡が取れないのか。
③ 自力で脱出しなければいけないか。また、そのためにはどうするか。
危機的状況に直面したら、落ち着いて状況を整理することが重要だと、私は子供の頃から教わって来た。なぜ、こうなったのか。今、どうなっているのか。そして、この状況を打開するにはどうするべきか。災害でもそうではないだろうか。人間なら人間らしく、物事をしっかり考えてから行動するべきだと私は思う。
しかし、①については、その答えを出すことが非常に困難だ。そもそも地震が起こったわけではない。外部に止まる要因があるとは考えにくい。そうなると、エレベーターのシステムか何かがトラブルを起こしたのか……。もう古いし、そういうこともあり得るだろう。あ、もしかして停電?
そう考えて、私は咄嗟にスマートフォンを鞄から取り出して、この地域の停電情報を調べた。だが、特に停電の情報は無いようだ。地震や停電なら納得できるが、そういう外部の要因が無ければ、エレベーター自体の問題だと推測せざるを得ない。あくまでも推測であって、その原因は分からない。でも、自分の中ではそう納得せざるを得ない。よって①は解決した。
続いて②、管理者――このビルのメンテナンスとの連絡が取れない理由。この非常ボタンを押すと、このビルの管理者と連絡が取れるようになっている。通常なら、すぐ繋がって救助に来るはずだが、今日に限って、なぜかそのようなことにはならない。
もしかしたら、管理室の中で何かあるのではないかと私は考えた。考えられる管理室内の状況としては、次の三つ。
・管理者が居眠りをしている。あるいは仕事を怠けている。
・管理者の仕事が忙しすぎて、応答に手が回らない。
・そもそも、管理室内には誰もいない。
どれが正解なのか。実際にその様子を見ることはできないがゆえに、その詳細は分からない。あくまでも推測しかない。だが、この三つのうちのどれかに該当するだろう。どんな事情であろうと、助けに来ないことに変わりはないが……。
最後に③「自力で脱出するべきか。また、そのためにはどうするか」という二つワンセットの問いだが、片方ずつ解決していこう。無論、これほど肝要な問いは(現状況では)無い。
自力で脱出するべきかと言えば、そうだと思う。そもそも管理者とは連絡が取れない。また、誰かが助けに来る気配も無い。ならば、この状況を自ら打開するしかないのでは? そうしなければ、いつまで経ってもここに閉じ込められたままになってしまう。というわけで、前者の問いは容易に解決した。
だが、問題は後者である。そのためにはどうするか……これほど至難な問いは無い。
そもそも、私はエレベーターが急停止した時(それも非常ボタンが役に立たない場合)の適切な対処法を知らない。まさに盲点である。子供の頃からもっと色々なことを知っておけば良かったという自責の念に苛まれるが、それ以前に、この場所において、そもそも別の感情が私を支配していた。
怖い――このエレベーターに閉じ込められていることに恐怖と不安が募る。
退屈だ――この狭い室内で、することも無く、むしろどうすればいいのか分からない環境にいることが退屈で仕方が無い。
右往左往という言葉があるが、今の私もまさにそういう状況なのか否か、客観的に分析できない(何しろこの一室に、私一人でいるため、主観しかなく、その主観性は極めて自己中心的、自己帰結的であるがゆえに、他者に理解してもらえるレベルとは程遠い)。
とにかく、現在私はエレベーターの中に閉じ込められており、助けが来ず、有効な打開策も思い浮かばないまま、時間だけが過ぎて行った。
気が付けば、スマートフォンの時計は夜十時を回っていた。閉じ込められてから、もう一時間近く経ったのか。
その時、不意にスマートフォンに着信が掛かった。
彼氏からの電話だ。手に持っていたので、そのまま電話に出た。
「もしもし」
そう応答すると、
「『もしもし』じゃねーよ。何やってんだよ。九時半には来るんじゃなかったのかよ」
電話先からは、彼の怒りに満ちた声が聞こえた。
「ごめん。今、手間取ってて……」
「何に手間取ってんだよ?」
彼は怒りをキープしながらも、私に質問した。事情を知ろうとする意欲があるだけでも、私は彼を「良い彼氏」だと思う。私は臆せず、ありのままに事情を話した。
「エレベーターに閉じ込められてて……」
「は? エレベーターに? 何でだよ? どこのエレベーターに閉じ込められてんだよ?」
「か、会社のビルの……」
「何だよ? それならビルのメンテに助けてもらえばいいじゃねーかよ。そんな知恵も働かないのかよ」
彼は怒りつつ、私を侮辱した。
「だからその、管理者に繋がらないのよ。よく分からないけど、誰も助けに来てくれなくて……」
「とにかく、ビルメンテに助けてもらったら、すぐ待ち合わせの場所に来い。早くしないと、店が閉まっちまうんだよ。それじゃ」
最後、会話が嚙み合わないまま一方的に話を終えられ、通話を切られた。
私の話が信じられないのか。よく分からないけど、話をしっかり聞いてくれないのはどういうことだろうか。私も、彼に怒りを「お返し」の形でぶつけたくなった。
しかし、それから何度も彼に電話を掛け直したが、彼は電話に出てくれず……。忙しいのかも知れないが、それでも理解されないことには立腹を抑えられない。
とにかく、今後どうしようか。するべきことも思い浮かばず、私は途方に暮れた。その場で座り込んだまま、動かず、状況そのものが変わるまで待っていた。その時だった。
突如、空腹が襲った。一時間以上も閉所に閉じ込められていると、その不安から腹は減る。そもそも、今夜はまだ何も食べていない(どちらかと言うと、後者の影響力の方が強いか……)。
スマートフォンをいじりつつ、インターネットでエレベーターから脱出する方法を調べていると、「119番や外部の救助機関に連絡すること」という有力な情報が出てきた。
それを連絡しようと119番に通報しようとしたところ、まさか、こんなことになるなんて……。
突然、スマートフォンの電源が落ちた。
そして、画面が真っ黒になった。それから画面をどんなにいじっても、スマートフォンは何の反応も見せない。電源を入れ直そうと試みるが、電源は一向に入る気配も無い。
モバイルバッテリーがあったので、それにスマートフォンをつなげて充電しようとした。しかし、どういうわけだか、電気はスマートフォンの中に一向に供給されない。充電中を示すランプが全く点灯しない。これは、全く充電されていない証拠だ。
スマートフォンか、モバイルバッテリーか、どちらかが壊れているのか、本当に意味不明な事態になった。まさに今は、不運に不運が重なっている状態なのだろうか。これまでアンラッキーな日が何度も過ぎ去っていったが、今日は特に、アンラッキー度が強い日なのかも知れない。
そういえば、昨日両親からクリスマスプレゼントとして高級腕時計を貰った。今日は、その返り討ちなのかも知れない。
そうは言っても、普段の仕事や残業よりも過酷な状況とも言える、このような事態に陥れるなんて、「人々の運を操る神様」も少しやりすぎではないだろうか……。
閉じ込められたまま空腹も続き、気が付けば二時間以上が経過した。時刻はもう十一時を回っているだろう。予約していた店も、そろそろ閉まるだろう。そんな時、更なる事態が私を苦しめた。
「ブチン!」という音が立ち、エレベーターの電気が消えた。そして、目の前が真っ暗になった。
何これ? 何も見えない!
更なる恐怖が私を襲った。不安も一層大きくなった。
この環境は、ただでさえ「閉所」だというのに、それに加えて「暗所」にもなった。この二つの様相がダブルになって、私の精神に打撃を与える。
怖い、暗い、狭い、何もできない……。
私の精神は、負の要素だけで埋め尽くされた。
そのまま時間が過ぎ去っていった。もう既に寝静まっているであろう世間――外界とは、きっぱりと隔離された、この小さな世界において、私は、私にしかない時間が流れるのを、ただ感じるのみだった。
でも、私は諦め切れない。
閉じ込められて、尚且つ暗闇の中で三時間が経つのを体内時計で感じた時、私は行動に出た。
その場から立ち上がり、即座に非常ボタンを押し始めた。何度も連打し、スピーカーからの返答の有無は無視して、私はスピーカーに口元を近付けた。
「誰か! 助けに来てよっ!」
声が枯れそうな勢いで、私は叫んだ。
「おかしいでしょっ! 誰にも聞こえないなんて!」
続けて叫んだ。
「メンテの人は何やってんの! ちゃんと仕事やってんのかよっ! 早く助けに来いよっ!」
最後に叫び切った時、私の身体は力を失い、自分の意思に反して、壁側に倒れ込んだ。そのまま暫く立ち上がれず、更に時間は過ぎて行った。
眠気も襲って、ウトウトと寝落ちしそうになった時、状況は一変した。
突如、エレベーター内の電気が点いた。
さっきまで長く続いた「暗所」も、その体を失い、室内は明るさを取り戻した。それにつられて、私は目を覚ました。そして、恐怖が半減したのを感じた。
続いて、更に予想外なことが起こった。
「もしもし、レナ? 聞こえるか?」
スピーカーから、声が聞こえた。管理者が今頃になって気付いたのか? いや、これはいつもの管理者の声ではなさそうだ。
「レナ、聞こえるなら返事しろ」
この声――若々しい男性の声、そして、どこかで聞いたことのある――むしろ、私の身近で耳にする声だと感じた。
「誰ですか?」
私は立ち上がって、スピーカーに向かって訊き返した。
「レイジだよ」
その名前を聞いて、即座に分かった。スピーカーの先に繋がっているのは、管理者ではなく、私の彼氏――レイジである。
しかし、まさかレイジは、このスピーカーに繋がっている、このビルの管理室にいるのだろうか。
「レイジ、もしかして管理室の中?」
「そうだよ。管理室の中を見てみたら、誰もいなくてさ。でも、エレベーターの非常ボタンが何度も押されてたみたいだから、レナはそこに閉じ込められてるのかなって」
「まさか、助けに来てくれたの?」
私は、思わず上げ調子の声を出した。
「エレベーターが止まったのは、一時的なシステムトラブルらしい。エレベーターのシステム管理状況を管理室のパソコンで見たんだけど、そうみたいだ。でも、今は完全に復旧してるらしいから大丈夫。ただ、管理者が不在だったから、なかなか救助が来なかったんだな」
「そうなんだよね。何でいないのか分からない」
「とにかく、今エレベーターを下ろすから待ってろ。一階に下りたら、エレベーターホールにいろ」
「分かった」
まさか彼がエレベーターを操作できるなんて……。その能力の頼もしさと、助けに来てくれたことの嬉しさを感じつつ、私は事の成り行きに身を委ねた。
エレベーターが動き出した。そのまま下に向かって、ゆっくりと、いつもの速度で下り続ける。そして、一階まで下り、ゆっくりと停止すると、ドアが開いた。
私の恐怖と不安は完全に消え去った。むしろ、外界に解放されたことが嬉しくてたまらない。
思わず有頂天になったまま、エレベーターを降りた。その先には、あのレイジが立っていた。
「何、ニヤニヤしてんだよ?」
レイジは無邪気な笑顔で私をからかった。
「遅いよ、バカっ」
私は嬉し涙が零れ落ちるのを抑えながらも、小さく彼に抗議した。
「もう遅いし、店も全部閉まってるからさ、取りあえず俺の家に泊まれ」
腕時計を見ると、時刻は既に〇時を回っていた。終電にも間に合わない時間だ。
「うん!」
私は大きく頷き、レイジと一緒にビルを去り、寝静まった街を歩き始めた。