睡蓮ー大バキュラ編ー
公開前に読もうとするとは、お主もブラックホールに吸い込まれたいようだな^三^
※一部閲覧注意
輝:『……………』
亨:『輝、どうしたの?顔が汗だらけだよ』
輝:『…おっ…おトイレ……』
亨の父:『本当に便所か?』
輝:『恥ずかしい事に……………ずっと便意が……』
亨の父:『……………分かった。私も行く。亨も来い』
亨:『えぇ、面倒くさい。俺、何も出ないから行きたくない』
亨の父:『いいから来い』
亨:『出ないのに行く意味ないじゃん。二人で行ってきてよ。俺、ここで待ってるからさ』
亨の父:『だめだ、三人で一緒に行くんだ』
亨・輝:『女子か!』
輝は冷や汗をかいた。
これは魔力を使った演技である。
呼吸の乱れ、額の汗、下腹部を無意識に押さえる仕草。
こういう細部は演技では出にくいだろうと輝は計算していたが、それも甘い考えだった。
不自然に不自然を重ねる輝の様子を亨の父は見逃すわけでもなく、全く信用していなかった。
見ていたのは身体ではなく、因果関係の破綻だ。
無表情で因果を隠す輝に亨の父は危険人物として目を光らせていた。
トイレを口実に脱出計画をしている意図は見抜いている。
警察官としての分析と、父としての直感は魔王の力を手に入れた輝でも突破できない壁であった。
外では、バキュラが第2ターミナル方面へ進路を変え、ニンゲンが逃げ回っていた。
一歩ごとに地盤にかかる荷重分布が変化している。
ガラスが微細に振動し、看板のフレームが共鳴している。
アスファルトの上に立っていると内耳が狂う程の威力がある。
三半規管が誤作動を起こし、身体が傾いていないのに傾いていると感じる者も居た。
今、バキュラから最も近くに居るのはミニラテ姫だった。
避難誘導の声は遠くで響いている。
『慌てないでくださーい、走らないでくださーい、中は大変混雑しているので押さないでくださーい、戻らないでくださーい』
だが、殆どの人が自分だけは安全な場所に避難するのだと走っていた。
とはいえ、全員が同じ方向に走るわけではない。
本能的に出口へ向かう者、車へ戻ろうとする者、家族を探す者、その場で立ち止まってバキュラにカメラを向ける者で分かれている。
その中でミニラテ姫は横になってバキュラを見つめていた。
バキュラもミニラテ姫をじっと見つめている。
ミニラテ姫はバキュラの瞳を見て、にっと笑った。
すると、バキュラの瞳が五色に変化し、鳴いた。
『ギュラアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!ギュラァァァァァァァァァァ!!!ギュラギュラギュラギュラァァァァァァァァァァァ!!!!!!!』
地面が揺れている。
バキュラの盛大な鳴き声にミニラテ姫は驚き、完全に動けなくなってしまった。
それを人はカメラを向けて撮影していた。
バキュラはミニラテ姫には何もせず、ドカポンドカポンと音を立てながらニンゲンに猛スピードで接近してきた。
『やばい、猫がこっち来た!』
『逃げろ!逃げろ!』
『うわぁ!うわぁぁぁぁぁぁ!』
ニンゲンが逃げ回っている。
街路灯のボルトが軋み、固定されていない金属片が浮きながら傾いた。
ミニラテ姫の髪が横に流れている。
重力勾配で視界が歪んで見えた。
眼球が微妙に圧迫されているようだ。
内臓が重く、呼吸が苦しい。
動きたくても立てない。
奥ではカメラのフラッシュとシャッター音が鳴り続けている。
連写に動画に配信。
やりたい放題だ。
バキュラが近付いては逃げ、安全地帯に入れば懲りずに撮影している。
バキュラはカメラを向けるニンゲンを見て一時停止したかのようにピタッと動きか止まった。
その刹那、人の表情が歪んでいくのが見えた。
『ギャーッ!!!!猫の背中から触手がこっちに向かってきた!!!!!』
『あれって触ったら一瞬で身体がバラバラになるんじゃなかったっけ?』
『やばい!やばい!やばい!猫がこっち来る!』
『うわっ!うわーっ!猫来た!逃げろーっ!』
『絶対死にたくない!絶対死にたくない!』
さっきまでカメラを持って撮影していたニンゲンが一斉にカメラをしまって逃げ出した。
撮影している者は誰も居なかったが、バキュラの前で電話しているニンゲンで溢れている。
『もしもし、今、大きな猫が空港で暴れてて大変なの。それで飛行機が全便欠航してロスに行けなくなっちゃった。もうお母さん生きて帰れるか分からない……。もう、目の前に居るの………黒い猫が…………』
その刹那、触手が母らしきニンゲンの首に直撃し、ニンゲン達の前に頭部が飛んできた。
『ギャァーーーーッ!』
ニンゲン達は恐怖に怯え、悲鳴をあげながら空港の中に逃げ込んだが、バキュラは容赦なく建物を破壊し、引き摺り出した。
そして、バキュラは触手を急速に伸ばし、次々とニンゲンを襲った。
ニンゲンが一瞬でバラバラに砕け散り、血の海と化した。
女の頭部、子供の頭部、男の頭部が飛んでくる中、一人のおじいさんが涙目でバキュラにむかって合掌していた。
『……はぁぁ…なんて……でっかい猫なんじゃ………なむなむ……』
バキュラは、そのおじいさんを見て盛大な鳴き声をあげながら、触手を伸ばして一瞬で殺した。
それを見たミニラテ姫は何故自分は殺されなかったのか考えていた。
襲われたニンゲンの殆どが撮影していた者だが、ミニラテ姫も配信でバキュラの許可なくバキュラを映していた。
何がバキュラを怒らせているのか分からなかった。
考えている間にも人間が死んでいく。
バキュラの六本の触手が血で汚れていく。
空気が震えている。
高い金属音のような振動が走る。
建物が崩れていく。
ニンゲンが地面へ叩きつけられる。
臓器が裂ける鈍い衝撃音が耳に響き渡ってくる。
無数のスニャートフオンやカメラや銃が宙を舞い、アスファルトに落ちてきた。
画面を見ると、まだ録画中だ。
地面に血と肉と骨が広がっている。
さっきまで叫んでいたニンゲンの声が徐々に消えていく。
外の様子を見にきたニンゲンが悲鳴を上げている。
逃げる者。
立ち尽くす者。
それでもなお、震える手で撮影を続ける者。
その殆どが一瞬で死んでいった。
バキュラは止まらなかった。
ミニラテ姫は動けないまま、理解が追いつかなかった。
なぜ自分は生きているのか。
なぜ狙われなかったのか。
何度考えても答えはどこにもなかった。
その時、ミニラテ姫の前に気配を感じた。
誰かが、すぐそばに居る。
ゆっくりと前を見ると巨大なハリセンを持った仮面の男が立っていた。
無機質な月の仮面を付けている。
表情は一切分からないが、こちらを見ているのが分かる。
ミニラテ姫は声を出そうとしたが、うまく喋れなかった。
仮面男は巨大なハリセンを手品のように袖にしまって、ゆっくりとしゃがみ込み、ミニラテ姫の身体を抱き上げた。
動作には、一切の無駄がない。
周囲では、置き去りにされた赤ちゃんの泣き声と救急のサイレンが遠くで鳴り始めている。
だが、その中でこの二人だけが、まるで別の場所にいるようだ。
ミニラテ姫:『大好き、大好き。私の王子さまになって』
ミニラテ姫は初めてのお姫様抱っこに赤面し、とんでもない事を口走ってしまった。
すると仮面の男は、静かにこう言った。
『静かに合掌せえ。人の魂が天に昇っている』
その一言で全てが現実に引き戻された。
ミニラテ姫の呼吸が詰まった。
夢だと思いたい現実の音が戻ってきた。
遠くの悲鳴、サイレン、瓦礫の崩れる音。
そして、血の匂い。
ああ、そうだ。
これは、夢じゃない。
自分だけが、特別な場所に居るわけではない。
ミニラテ姫は、ぎゅっと唇を結んだ。
恥ずかしくてたまらなかった。
そして、ほんの少しだけ安心できる何かがあった。
仮面男の腕は、変わらず安定している。
揺れもなければ迷いもない。
ただ前へ進んでいる。
その背中には、優しさよりも先に責任があった。
瓦礫の上を歩く音がしない。
血の跡を避けるでもなく、踏むでもなく、その足取りはただ静かで全く音がしない。
ミニラテ姫の視界が揺れた。
空が見える。月が見える。
壊れた建物が流れていき、ゆっくりと遠ざかる。
『今、月神の巫女を呼んだから、ここで待ってるといい』
ミニラテ姫:『ありがとう』
『どういたしまして。では』
ミニラテ姫:『ちょっと待って』
『安心したまえ。笛の音が聴こえる。あなたを家まで送迎する月神の巫女がもうすぐここに来る』
ミニラテ姫:『どうして、私に優しくするの?もしかして、私が芸能人だってこと知ってたの?』
『理由はない』
ミニラテ姫は何も言えなかった。
芸能人だからでもない。
特別だからでもない。
価値があるからでもない。
仮面男のたった一言が、胸の奥に油のように流れ、光を照らすように火がついた。
仮面男はそれ以上何も言わず、背を向けた。
ミニラテ姫:『……待って。名前を教えて』
振り返らないまま、仮面男は答えた。
『黒田らいと』
それだけ言い、歩き出した。
その瞬間、上空から笛の音がすぐそこまで聞こえてきた。
ミニラテ姫は顔を上げた。
すると、月と雲を模した装飾の空船が、ゆっくりと降下してきていた。
その光が、仮面男の背中を淡く照らし、ミニラテ姫が瞬きをすると、もうそこに姿はなかった。
まるで最初から居なかったかのように、仮面男は空港の闇の中へと消えていった。
空船がミニラテ姫の足元まで接近し、巫女と目が合い、挨拶を交わした。
風に揺れる袖を押さえながら、地上を見下ろした。
巫女:『あなたがミニラテ姫ね。乗って』
ミニラテ姫:『はい』
ミニラテ姫は一瞬だけ戸惑い、ゆっくりと足を上げた。
足元がまだ少しおぼつかない。
差し出された手には触れず、自分の足で乗った。
意外なほど静かだ。
外の惨状が嘘みたいに音がない。
足を置いた瞬間、ふわりと重力が変わった。
空船は、何の揺れもなく浮かび上がった。
ミニラテ姫は外を見た。
壊れた空港が、ゆっくりと遠ざかっていく。
ミニラテ姫:『仮面をつけた人が私をここまで運んでくれたの』
巫女:『ええ、見えてた』
ミニラテ姫:『名前を聴いたら黒田らいと、って言ってたよ』
巫女:『……そう』
巫女の視線が、ゆっくりとこちらに向いた。
逃げ場のない、静かな目。
それから、ふっと息を吐いた。
巫女:『幼稚園の頃の幼馴染ですの。といっても、一方的に終わらされたけど。私は、ご縁を大事にしたいけど、あの人は自分の事はどうでもいいの。相手のためなら自分を消せるタイプだから、自分が悪者になるのもOKな人よ。人の気持ちを読めていない勝手な人ですの。久しぶりに連絡が来たと思ったら、人助けに使われるなんてね。……相変わらずよ』
ミニラテ姫は、これは価値観の違いが出やすいタイプの衝突だと感じていた。
仮面男の優しさは、理屈や言葉で計れないものだ。
その裏には、自分を押し殺す覚悟がある。
誰かを守るために、自ら悪者になり、誰にも理解されず去っていく。
それでも行動する人。
ミニラテ姫は、そう感じ、小さく息を吐いた。
胸の奥が熱くなる何かを感じた。
あの人は、ただ優しいだけじゃない。
誰よりも強く、誰よりも孤独で、人のために立つ人だ。
そう思った瞬間、ミニラテ姫は巫女の横顔を再び見た。
踏み込まぬ優しさ。
感情を出さず、距離を守りながらも相手を見つめる澄んだ目。
その強さも、理解できる。
ミニラテ姫:『二人は付き合ってたの?』
巫女:『恋人とか、そういう言葉で測れる相手ではないわよ。あの人も私も、まだ愛や恋がどういうものか分かりませんの』
ミニラテ姫は仮面男に惚れこんでしまった。
どんなに危険でも、その全てを含めて惚れずにはいられなかった。
これは理屈ではない。
ただ、全てを理解した上で湧き上がった純粋な恋である。
空船は雲の間を静かに滑るように進んでいた。
風の音もなく、船内は二人の呼吸だけが柔らかく響く。
ミニラテ姫は少し躊躇いながら巫女の横顔を見た。
指先で膝をぎゅっと握りしめて、声を絞り出した。
ミニラテ姫:『私……あの人に、恋に落ちちゃったみたいです』
巫女はその言葉に一瞬だけ微かに目を細めた。
驚きというより、昔の記憶が胸をかすめたような静かな受容の眼差しだった。
巫女:『……自然な事ですの』
巫女の声に、どこか痛みを知るものがあった。
巫女:『あの人は、優しい人よ。でも、優しさは、甘くも、痛くもなり得ますの。誰かを守るために、自分を押し殺して、時には悪者になっても構わない、そんな人ですの』
ミニラテ姫は息を呑んだ。
巫女が言う事も、仮面男の行動も、すべて理解できる。
なのに、胸の奥が熱くなる。
その危うさごと、惹かれてしまう自分を否定できなかった。
ミニラテ姫:『……それでも、私は……あの人のそばにいたい』
巫女は一瞬、空を見上げた。
そして、くすりと笑って少しからかうようにこう言った。
巫女:『……あの人の優しさは、時に厳しくもなるわよ。でも、あなた、連絡手段がないから告白どころか会う事すらできなくてよ、おほほほほほほほ』
ミニラテ姫:『笑わないで!』
ミニラテ姫は思わず顔を赤らめ、両頬をぷくっと膨らませた。
胸の中で静かに誓った。
どんな危うさでも、理解して、受け止める。
空船は静かに夜空を滑り続ける。
雲の隙間から差す月光が、二人を柔らかく照らしていた。
空船は静かに高度を下げ、街の灯りが徐々に見え始めた。
家々の窓から漏れる暖かな光が、夜の闇に小さく瞬いている。
巫女:『着きましたわ。どうぞ気をつけて降りてくださいの』
ミニラテ姫が地上に足をつけると巫女が手を差し出した。
柔らかな手のぬくもりに心を支えられながら、ミニラテ姫は新たな一歩を踏み出した。
心の中には、まだ届かぬ人への想いを抱えながら。
巫女はミニラテ姫に微笑みながら、さようならと言いい、空船に乗って空へ飛び立った。
柔らかな光に包まれた巫女の姿は夜空の青に溶け込み、まるで月そのものが微笑んでいるかのようだ。
巫女は振り返りもせず、静かに宙を舞った。
羽のように広がった空船の帆が風を受け、光を反射して小さく輝いている。
その動きは力強くもあり、優雅でもあり、見る者の胸に静かな余韻を残した。
ミニラテ姫はその背中を見上げ、胸の奥で温かい感情が膨らむのを感じた。
空船は次第に小さくなり、星々の光の中に吸い込まれるように消えていった。
夜の空は再び静かになり、街の灯りだけが優しく揺れている。
ミニラテ姫は肩の力を抜き、静かに家の扉を開けた。
心の中には、巫女の言葉も、仮面男への想いも、すべて柔らかに残っている。
夜空を見上げれば、まだどこかに巫女の光があるように感じた。
バキュラは何故、自分を殺さなかったのか巫女に訊いたら何て答えていたのか氣になりすぎて、その日は寝れそうにないミニラテ姫であった。
その頃、亨は便所で怒っていた。
空気が重く沈んだ便所の中で亨の声が低く、冷たく響いている。
亨:『輝、遅いよ……』
輝は目を伏せ、額に冷たい汗を滲ませながら答えた。
輝:『……すまない。うんこのキレが悪くてな』
亨:『二十分も待ったよ……』
絶望に近い声である。
便所の静寂が重くのしかかっている。
亨の父の目が鋭く輝いた。
亨の父:『輝くん、君は一体、どこに行ってたんだ?』
輝:『この通り、便所だ』
亨の父:『嘘つくな、どこに行ってたのか答えろ』
輝:『便所だ』
空気が凍てついている。
時間さえも止まったかのように。
亨の父は、暫く輝を見つめた。
その瞳には、信じるしかないという覚悟が滲んだ。
しかし、額の汗や呼吸の乱れ、何か言いようのない違和感が、頭の片隅に残った。
亨の父は深く息を吸い、輝の肩を両手で抑え、目をまっすぐ見つめながら、こう言った。
亨の父:『……驚かずに聞いてくれ。これから便所から出るが、これより先、人が死んでいる。バキュラにやられた。生き残っている者も居るが、状況は非常に危険だ。私から離れたら平手打ちも覚悟しろ』
亨は目を大きく開いて驚き、息を呑んだ。
しかし輝は微動だにしなかった。
輝:『承知した』
恐怖に揺れる気配はなかった。
すでに思考は次の局面へ移っている。
この状況をどう抜けるか、その一点だけが輝の中で静かに研ぎ澄まされていた。
その落ち着きは、場違いなほどだった。
だが同時に、どこか確信めいた強さを帯びていた。
亨の父はドアノブに手をかけ、一度だけ振り返った。
亨の父:『行くぞ。私から絶対に離れるな』
そして、ゆっくりと扉が開いた。
血の匂いが、流れ込んできた。
床には赤黒い液体が広がり、足跡が無数に刻まれている。
壁には何かが叩きつけられた痕と無数の引っ搔き跡と爪がめり込んでいた。
遠くからは、強烈な悲鳴と何かが崩れる鈍い音がした。
亨:『っ……!』
亨は思わず口元を押さえた。
亨の父は即座に前に出た。
視線を左右に走らせ、死角を潰す。
亨の父:『足元を見るな。前だけ見ろ』
輝はその言葉に従う事なく、視線を落とした。
血の流れ方、倒れている位置、散乱した物。
進路は塞がれていない。
バキュラの移動方向は外側。
瞬時に状況を組み立てた。
輝:『……右だ』
亨の父の足が一瞬だけ止まった。
亨の父:『何か見えたか?』
輝は前を見たまま答えた。
輝:『左は人が集中している。詰まる。右は流れが薄い』
亨の父:『了解、右へ行く』
その声に迷いはなかった。
亨の父は即座に判断し、進路を変える。
亨は慌てて二人の後を追った。
遠くで、再びあの咆哮が響く。
空気が震え、天井の照明が揺れた。
亨:『何か来る……!』
だが、輝は足を止めなかった。
すでに頭の中では、次の分岐、その先の出口まで描かれている。
選択と最適解。
その背中は、まるで戦場を進む指揮官のようだった。
三人は外へ出た。
夜の空気は冷たく、いつもと違って重い。
さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っている。
いや、これは違う。
静かすぎる。
亨の父:『ここから先は絶対に音を立てるな』
遠くで、何かが軋む音がしている。
金属がゆっくりと歪むような音がする。
輝は足を止めず、低い声で言った。
輝:『近い』
その一言で、空気が張り詰めた。
地面が、かすかに震えている。
あきらかに巨大な何かが歩いている。
亨:『な、なんだよ……これ……』
亨の父:『見るな。進め』
三人は建物の影を縫うように進んだ。
足音を殺し、呼吸を押し殺し、存在そのものを薄めるように。
その時だった。
振動が、ぴたっと止まった。
風も、音も、すべてが止まっている。
輝:『気付かれた』
背中に、何か巨大な視線が突き刺さった。
振り向かなくても分かる。
何かが居る。
亨の呼吸が一気に乱れた。
亨:『やだ……やだ……やだ……』
亨の父:『落ち着け。声を出すな』
遠くの闇の中で何かが蠢いた。
確実にこちらを向いた何かだ。
亨は限界で理性が弾けた。
亨:『ギャーーーーーーッ!!!!!!』
静寂が完全に壊れてしまった。
輝は亨の顔を胸に押し当てるように抱いた。
すぐそこにバキュラが居た。
『ギュラアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!』
空気が裂け、地面が跳ねた。
さっきまでとは比較にならない衝撃。
アスファルトが軋み、ガラスが震え、バキュラの盛大な鳴き声で鼓膜が痛む。
亨の父は走るぞと合図をし、三人同時に駆け出した。
背後で、さらに巨大な音が追いかけてくる。
ドカポン!ドカポン! ドカポン!
距離が縮まっている。
完全に追われている。
地面を踏む音だけが、やけに大きく響いている。
背後から迫る衝撃。
逃げているはずなのに、距離が縮まっているのが分かる。
その刹那、輝は平地で派手に転んでしまった。
亨:『輝!』
だが輝は、すでに起き上がろうとしていなかった。
一瞬で理解している。
間に合わない。
地面がバキュラの足音で跳ねた。
振動が背骨を叩く。
近い。
輝:『私はいい!先に行け!』
亨:『何言って…』
亨の父が亨と輝の腕を掴んだ。
しかし、輝は亨の手を払いのけて、亨だけを助けるように命じた。
亨の父は唾を飲んで亨を引きずるように走り出した。
亨:『輝が!』
亨は振りほどこうとしたが、その一瞬の遅れが命取りになると、本能が理解した。
亨の父は振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。
止まれば、終わる。
歯を食いしばりながら、前を見ることしかできなかった。
置いてきた。
その現実だけが、頭の中で何度も反響する。
一方、輝は、ゆっくりと起き上がった。
だが、どういうわけか逃げなかった。
ただ、バキュラが来る方向を見つめた。
地面が軋み、バキュラの影が覆いかぶさった。
圧が落ち、空気が重くなり、呼吸が浅くなった。
『ギュラァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!』
バキュラは輝の目の前まで来ていた。




