無常無別
家出を決意した亨と輝は、陰鬱な空気の中で白い犬に会いに行った。
輝が白い犬と対面するのは初めてである。
その犬は、まるで護法神のように静かで、言葉では言い尽くせない威圧感があった。
輝:『この愛くるしい目、このもふもふ具合、ふっくらした耳、……………うーむ……、ふっくら犬だな』
亨:『違うよ、でっかい犬だよ』
輝:『ああ、でっかい犬か。そうだったな、でっかい犬だもんな』
犬:『ヴァァァァン!!!!(怒)』
亨:『うわっ?!びっくりした……』
犬:『ヴァン!!!!(怒)』
輝:『ははははははは。どっちも違うみたい。僕は秋田犬だ!!!と怒ってるぞ』
亨:『よく分かったね』
輝:『お母さまが子供の頃、大きい秋田犬と暮らしていた頃の写真をよく見ていたものでな。当時、お友達にからかわれた際に、その秋田犬が守ってくれたという話を聞いたことがある。とても賢い犬だったそうだ』
亨:『だから、輝のお母さんは、あんなに温かいお弁当が作れたんだね』
輝:『今はもう、冷たい母さ』
亨:『皆、お弁当持ってきてるのに俺たちだけなんか浮いてるよね。今日なんかさ、コンビニのパン出したら隣の席の女子に変な目で見られたんだよ。あの目いや!』
輝:『そんなのほっとけばいいのさ』
亨:『気になっちゃうよ』
輝:『ごはんに集中したら何も気にならなくなるぞ』
亨:『できないよ』
輝:『亨ならできるさ。人の目なんか気にしてたらパンが泣くぞ』
亨:『パンいや!お弁当がいい』
輝:『パンいやか…………。……………。実は私もパンは嫌いだ』
亨:『他の買いなよ。パンが泣くじゃん』
輝:『はははははは、嫌いなんて言ったらパンが爆発するかもしれんな。パーーン!!!!!っつって』
亨:『ごめん。全然、面白くない。なんでパン嫌いなのにパン買ってるの?しかもパンの気持ち理解してるのに』
輝:『あのお日さまみたいな丸いの見ると落ち着くんだ』
亨:『あ、なんか分かるかも』
輝:『しかし、お弁当の問題は深刻だ………。仕事だから作る余裕がないのは分かるのだが、冷凍食品を入れる作業をするだけでも色んな愛が伝わるのだがな……。こんな時に使用人の贅沢な飯を食べるのは耐えられん。あれほど愛を感じない料理を見たのは初めてだ』
この時、輝は織田家での暮らしに不満を感じていた。
明慶剛仁として生きていたお寺での暮らしや、明慶家の教えが既に当たり前になっていた事に気付いた輝は、将来お寺に戻る事も考え込むようになってしまった。
亨:『俺のお父さんも高級な料理が大好きだよ。お父さんと一緒ならどこでも嬉しいんだけどさ、俺はお子様ランチが食べたいのに会員制のふぐ料理屋に連れてかれたり、食事がお父さんの好みばかりでうんざりだよ。高級な靴屋に入った時の顔なんて見れたもんじゃない』
輝:『高級なものが悪いわけではないのだよ。欲張りな“人間”がいやなだけさ』
輝は高級料理そのものには否定的な見方をしているわけではない。
物質的な豊かさを追い求めるあまり、人間としての本質や精神的な価値を見失っている欲張りな人間たちの姿がいやと言っているのだ。
それを聞いた亨は輝を心の底から友と認めていた。
だが、言葉にはしなかった。
亨:『この犬の家族、帰ってくるかな?』
輝:『きっと帰ってくる』
その時、二人は秋田犬が捨てられていることに気付けなかった。
世の中には冷酷な現実があることを知らず、無常な希望的観測にすがっていたのだ。
亨:『輝』
輝:『ん?』
亨:『輝は気付いてないかもしれないけど、俺たち近所だよ』
輝:『ほーん』
亨:『俺のお父さんが大阪から東京へ引っ越す時、場所にこだわりがあって決めたんだって』
輝:『大阪のどこから来たんだ?』
亨:『岸和田だよ。大阪湾の夕日、いつか輝にも見せたいな』
偶然というものは恐ろしい。
輝の父上も岸和田に居るが、同じ場所で生まれ育ったことなど言えなかった。
輝:『亨のお父さまは、どんな人なんだ?』
亨:『勉学に厳しく平和を重んじていて真っ直ぐな警察官だよ。お父さんも小学生の頃に同じクラスにヤクザの子が居てさ、その人とは大親友だったんだって。まるで俺たちみたいだよね』
輝:『そのお友達とは今、どうしてる?』
亨:『どっちから絶縁したというのじゃないんだけど、最終的に絶縁になっちゃったみたい。その親友は、勉強ばかりしてるお父さんとは正反対の人だよ。神秘主義で実践とカリスマ性を持つ独創的なリーダー的存在だったって言ってた。お父さんが幼稚園の頃から仲良しだった友達も警察官を目指してたみたいだけど、自然と親友のところに行って、それっきり連絡がなくなったんだって』
輝:『離別無常』
亨:『…………?』
輝:『二人の道は次第に別れていったのだ。我が道を選ぶとき、共に歩んだ友と別れることもあるのさ』
輝は冷静な表情で答えたが、心の中で、まさか自分の父上と亨の父上が何らかの関係があるような気がしてならなかった。
しかし、因果応報の糸が絡まり合う中で、輝にはその糸を解きほぐす手段も無く、ただ無常の流れに身を任せるしかないのだ。
亨:『親友が警察官を目指すお父さんの友達と深く関わるようになった時、その友達はお父さんと親友の間で揺れ動いて、最終的には親友の元へ行っちゃったんだ。それからは、お父さんとその親友の間には深い溝が生まれて、絶縁状態になったんだ。お父さんは今もそれを乗り越えようとしてるけど、まだ心の中には深い傷が残っているみたいだよ』
輝:『無常の流れ。私たちもその一部に過ぎない』
亨:『輝は大切な友達と絶縁になっても悲しくないの?』
輝:『受け入れる』
この時、亨は自分の父上の親友とは輝の父上の事なのではないかと思い始めていた。
無限の輪廻の中で、ただ一つの小さな歯車に過ぎないことを悟り、冷たい風が心を引き裂くように吹き抜けるのであった。
輝:『亨、明日の家出の件だが、本当に家出をしたいのか、一晩よく考えるのだ。朝5時に乃木坂駅で待っているから、もし本当に家出をしたいのであれば来るといい』
亨:『話しても何も変わらない気がして、すごく悔しいんだよ………』
輝:『ただ話すのではなく、分かり合おうとするのでもなく、しっかりと向き合うのだ。対話は単なる言葉のやり取りではないのだ。私もお父さまとお母さまと弟と、使用人とも向き合う時間が必要なのだ。だが、私にも限界がある。私と向き合う姿勢を見せなければ、明日家出する。今日がその最後のチャンスなのだ』
亨:『でも、どうしたらいいか分からない』
輝:『苦悩すること。自らの心を見つめ、真の自己を知る。家出は一時の逃避ではなく、自己啓発の旅なのだよ』
亨:『そうかもしれない。でも、お父さんと話すの怖いよ』
輝:『恐れてはならん。全ての苦しみは成長の機会なのだ。心を清らかにし、共に光に導かれようではないか』
輝は家出することが解決策ではないと感じ、亨に一晩考える時間を与えた。
これにより、亨が感情的な決断ではなく、深く考えたうえで行動を選択するだろうと判断していた。
家出とは単なる逃避ではなく、最後の手段としての重い決断なのである。
亨:『分かった。今日、お父さんとちゃんと向き合ってみる』
輝: 『心を開き、真実を見つけるが良い』
亨は輝の言葉を静かに受け止めた。
そして心に決意を抱き、家族との対話に臨むことを決めた。
亨は輝の助言と共に家族との関係修復に向けて一歩を踏み出したのであった。
亨:『そろそろ帰ろうか。暗くなってきちゃったし』
輝:『ああ、そうだな。秋田犬にもバイバイしようか』
亨:『うん』
二人は静かにダンボールを後にし、秋田犬との別れを惜しむ気持ちを抱きながら、歩いていった。
亨:『じゃあ、俺はこっちだから。またね』
輝:『ああ、またな』
亨は輝に向かって手を振り、自分の方向に向かって歩き出した。
輝は暫くその姿を見送った後、静かに歩いた。
『やっと見つけた………』
突然、輝の真後ろから声が聞こえてきた。
よく聞いたことのある、あの声だ。
ゆっくりと振り返ると、やはりあの人であった。
『お久し振り』