睡蓮ー輝が剛仁を恨んだ日編ー
羽田空港の人工島は、まだ重力異常で揺れている。
亨と輝は、亨の父と共に地下室へ避難する為、移動していた。
地下へと歩いている途中、窓の外からバキュラが見えた。
バキュラの近くに居る人間の顔を見た時、輝は外に出たいと
輝:『地下に逃げろと言うが、生き埋めになるぞ。空が見えない故に何が起きてるかも分からん。上の様子を見に行ってくる』
亨の父:『上は危険区域だ』
輝:『行かせてくれ』
亨の父:『立入禁止だ』
輝:『地下にいても巻き込まれる。生き埋めになるぞ』
亨の父:『今は現場の指揮系統に従いなさい』
亨:『俺も地下いやだ。上に行きたい』
亨の父:『だめだ、勝手な行動は全体を危険にする』
輝は亨の父が目を離した隙に脱出しようと計画した。
なるべく気づかれないように、一瞬でも不自然な動きをみせないように、無の感情を貫いた。
だが、なかなかの手強い警察である。
一度、上の様子を見たいと言った輝から目を離す事は無かった。
家出をした行動履歴もあり、一度逃げた者は、また独断で動く可能性があると判断し、更に指揮系統に従わない輝の姿勢に現場では非常にマークされていた。
表情と視線と間の取り方を観察していた為、あれだけ大きな態度で全ての大人に反感を買っていた輝が不自然に平静すぎる態度が逆に違和感を感じていたのだ。
輝は気づかれないようにしているつもりでも、亨の父には氣づかれていた。
警察官としての勘と父としての保護本能を嘗めてはいけない。
輝は慎重に考えた。
すると、亨は輝にこう言った。
亨:『輝、もう諦めよう。うちのお父さんは勘が鋭いから、もうダメかも……』
輝:『ああ、そうだな』
真顔で、そう返しながら頭の中では、めっちゃ考えていた。
亨:『輝』
輝:『なんだい?亨』
亨:『実は、今日の朝、剛仁っていう俺と同い年の小坊主と会ったんだ』
輝:『私の幼馴染だ。そのクソ坊主がどうした?』
亨:『1時間くらい話したんだけど、なんか色々聞いたよ。輝を怒らせたこと、根に持っていたみたいだよ』
輝:『剛仁とは仲良かったのだがな、アイツは3月3日のひなまつりに私を怒らせた』
これは、輝が黒桜幼稚園に通っていた頃の話である。
その頃は輝と剛仁の入れ替わりが元に戻る前なので、輝は剛仁として、剛仁は輝として暮らしていた。
その頃の輝(現在は剛仁)は、幼稚園生活最後のひなまつりを楽しみにしていた。
女の子の姿で過ごし、長い髪を三つ編みのツインテールにし、有識文様の形をした髪飾りをつけているのが特徴だった。
一方、当時の剛仁(現在は輝)は剛徳寺の子として生活していた。
輝とは親の付き合いを通じて遊ぶ事が多く、顔がよく似ていた為、入れ替わりのいたずらをする事もあった。
しかも、どちらの親も氣づかなかった為、何度か入れ替わり生活を繰り返していた。
しかし、ある日を境に、剛仁は輝の入れ替わりたいという申し出を素直に受け入れられなくなる。
それが、ひなまつりの日だった。
当時、剛徳寺には文化財指定の話が持ち上がっていた。
だが住職は『ここは観光寺院ではなく、信仰の場である』としてそれを断っていた。
指定を受ければ修繕費の補助や観光客の増加が期待できたが、その代わりに拝観体制の整備や行政の関与が必要となり、静かな祈りの場が損なわれる事を懸念したのだ。
その結果、老朽化した本堂の修繕は進まず、檀家も減少し、お寺の財政は厳しくなっていった。
剛仁は、おやつを食べる習慣もなく、食事も最小限という生活を送っていたが、これを一度も不幸だと思った事は無く、普通だと思っていた。
それに対し、輝の家は裕福であった。
当時の使用人である工藤が作る手作りのお菓子や豪華な食事を毎日のように楽しんでいた。
そこで剛仁の生活に同情した輝は、3月3日のひなまつりだけでも贅沢をさせてあげたいと思い、入れ替わりを提案する。
剛仁は気が進まなかったが、輝の強引な誘いに押され、望まないまま応じる事になってしまう。
そして迎えた3月3日。
輝と入れ替わった剛仁は、黒桜幼稚園でおひな様の衣装を着せられ、みんなと一緒に豪華な和菓子やちらし寿司を食べる事になった。
輝には池田大和という真面目で優しく、映像記憶能力もあり、芸術的で知的で包容力のある素敵な彼氏が居り、こんな大切な日に輝は何をしているんだと剛仁は大変呆れていた。
また、輝には友達が多く、その内の1人の友達のあまつが『お前が本物の輝だ。アイツは輝として生きていても中身は剛仁だよ』と笑いながらも勘の鋭い発言を残していた。
本来なら楽しいはずの一日。
だが、剛仁にとっては日常生活と大きく異なる豪華で華やかな体験が心を締めつけ、辛い記憶になってしまった。。
輝は、剛仁がきっと喜ぶと信じて疑わなかった。
自分の善意が、かえって相手を傷つけている事に気づかないまま。
その上、輝は卒園式後の竜太と神社へ行った日に自ら完全に入れ替わったまま人生を終わらせたいと申し出ており、完全に嫌いになった。
と、いうのが今の輝が剛仁を恨んだ要因である。
それを亨に話すと、亨はこの事情を聞いて、善意がかえって傷つけた事の深さに氣づき、簡単に言葉にできない複雑さを感じた。
輝は過去の出来事を淡々と語りながらも、その恨みの感情の根源は非常に深い。
亨は、幼少期の善意の裏に隠れた相手の気持ちを無視してしまった痛みの重さに触れ、輝の感情を軽んじて安易に言葉にするのをためらった。




