睡蓮ー憎編ー
家族と一言も交わさないまま、朝が来てしまった。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、昨日と何も変わっていない。
家でしか見せない強張った表情に生きていないような光の無い瞳。
水で顔を洗うと冷たくて、一瞬だけ現実を引き戻すが、すぐにまた胸の奥がざわつき始める。
今日こそ、ちゃんと話す。
朝食の席で、白石と、弟と、ちゃんと話す。
そう何度も自分に言い聞かせた。
言いたい事が言える氣がした。
今日は、いける気がする。
心の中でそう呟いた瞬間だけ、ほんの少しだけ未来が明るく見えた。
だが、廊下を進み、食堂の扉の前に立った途端、その感覚は嘘のように消えた。
手が震えた。
呼吸が浅くなり、海の底が見え始めた。
胸の奥が縮んで空気がうまく肺に入らない。
扉一枚隔てた向こうにいるのは家族だ。
誰にも汚されたくないくらい、一番大切な家族。
それなのに、足が床に縫い付けられたように動かない。
このまま家を出たら、もっと問題が大きくなる。
分かってる。
分かってるのに。
この家は息苦しい。
音がないのに、常に何かに見張られている気がする。
何も言われていないのに、責められているような気がする。
弟と話がしたい。
向き合いたい。
輝は覚悟を決めるようにして扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
弟と目が合った。
ほんの一瞬だった。
それだけで心臓が跳ね上がる。
輝は息を吸った。
喉の奥がひりつくが、心を落ち着かせて弟の横に座った。
『おはよう』
あいさつができた。
それだけで胸がいっぱいになった。
たった四文字なのに、まるで長い階段を登り切ったような感覚だった。
『………………』
返事はなかった。
弟は座布団に座ったまま、視線をこちらに向けずに立ち上がった。
まるで輝がそこに存在しないかのように、白石が用意した朝食を黙々とおぼんに置き、それを持って自室へ行ってしまった。
喉の奥がきゅっと締まった。
一番辛いのは自分ではない。
弟だ。
なんとかしなくては……。
輝は部屋の障子を開けて庭を見た。
その先には白石が庭の手入れをしていた。
輝は、そっと障子を閉めた。
数日前迄は家族が全員揃って食事をしていた場所が今では誰も居ない空間だ。
湯気の立つ味噌汁。丁寧に焼かれた魚。小鉢に盛られたおかず。
今は、それが全て無い。
ふと、机を見ると豪華な朝食が置かれていた。
さっき、弟は自分の食事を確かに持って行っていた。
白石は輝の分も毎朝作っていたのだろうか。
今まで、自分が口にしてこなかったごはんだ。
定食屋で一人、食べてた朝に白石は二人分作ってきていた。
胸の奥がちくりと痛む。
申し訳なさが、遅れて押し寄せてくる。
自分が食べなかった朝食を白石は、どんな気持ちで片付けていたのだろうか。
また、今日も手をつけなかったと思ったのだろうか。
それとも何も考えず、仕事として淡々としていたのだろうか。
栄養を考えて作っていると言った白石の顔が優しかったのを思い出した。
無添加の野菜や調味料を選ぶ時も、きっと同じ顔をしていたのだろう。
相手の身体を考えて手に取っていたのだろう。
高価な食材を上品と言ってこだわり、庶民的な食事を避ける白石ばかりに目を向けていた事に慈悲が無いのは自分だったと、輝は猛省した。
『白石に悪い事言ってしまったな……。いつも、ありがとうと言いに行こう…。……………。たまにでもいいから、お母さまの料理を再現したやつにしてくれ……。これは言えんな……。一生懸命作っている白石からしたら悲しい思いをさせるかもしれん…。先にありがとうを言ってからだな………。今日は、ありがとうだけ言う、これにしよう………。弟の好物、カレーライスを作ってくれ……。くれ、はだめだ。命令口調に聞こえてしまう…。私は、うどんが好きだから、いつかうどんを……。冬は粕汁を…。粕汁が食べたいは我儘かな……。だめだ……、言いたい事が沢山ありすぎて、言葉がまとまらん……。会話は大事だと言ったのは私なのに何故できんのだ…。はぁ……』
輝は目の前の食事を見つめた。
亨に言った“諦めるのが早すぎだ”
剛仁に言った“相手の目を見て、話を聞く姿勢も大事だ”
自分がこれまで人に向けて言ってきた言葉が次々と頭に浮かぶ。
どれも、何一つできてない。
弟と向き合えていない。
白石にご飯をもう少し庶民的にしてほしいと言えない。
礼すら言ってない。
母上に使用人の料理じゃなくて、お母さまの料理が食べたいと言えない。
母上は看護師だ。
命が関わる仕事だ。
忙しいのは分かっている。
そうやって自分を納得させてきた。
寂しいなんて、言えなかった。
大阪に別居している父上にも甘えられない。
東京に戻ってきてほしいと言えない。
父上にも事情があると分かっているからだ。
家族揃って過ごしたい、なんて子どもみたいな願いを口にできなかった。
この時は誰かに頼るという発想すら思いつかなかった。
自分よりも幼い弟にとって、この家は耐えられない環境だ。
輝は相手が自分の存在で負担にならないようにと、感情を削ぎ落として生きる選択をしてきた。
何も求めなければ、何も壊れないと思っていた。
だが、その結果がこれだ。
氣付いたら家族はバラバラになっていた。
どれだけ会話から逃げてきたのか。
そのツケが今、胸の内側を何度も刺してくる。
痛い。
氣付かないふりをしてきた傷が、一斉に疼く。
目の前には、いくつもの壁が立ちはだかっている。
弟、母上、父上、白石。
どれも高くて、分厚くて、簡単には越えられそうにない。
全部、いっきにやろうとしなくていい。
頭では分かっていても、現実は身体が動かない。
箸を取る事すらできず、輝はただそこに立っていた。
朝の光だけが何も知らない顔で部屋を満たしている。
その場で瞼を閉じた。
すると、暗い闇の中でひとつの赤い火が見えた。
朝食を終えた後、弟と話をする覚悟をきめた。
輝は合掌し、白石が作った朝食をひとつひとつ食べた。
種類が多く、食材が全て均等に切られており、盛り付けも丁寧である。
噛めば噛むほど、白石の隠し味を感じた。
その隠し味とは愛だった。
弟と輝が同じ屋根の下で同じ食事を別室で食べているこの時間が、家族でありながら最も遠くに感じた瞬間だった。
完食した輝は合掌してから、食器を一つずつおぼんに置き、静かに立ち上がった。
足音を立てないように気をつけながら台所へ運ぶ。
台所に入り、流し台の前に立って蛇口をひねる。
水が落ちる音が、思ったよりも大きく響いた。
スポンジに洗剤をつけると、白い泡が膨らんだ。
お皿に残った油に触れた瞬間、指先がぬるりと滑る。
力を入れすぎると泡が飛び散り、弱すぎると汚れが落ちない。
その加減を探りながら、無言で手を動かした。
お皿一枚、お椀一つ。
お箸、お茶碗、小鉢。
丁寧に磨いた。
水の音と、お皿が触れ合うかすかな音。
それだけが流れる時間の中で、輝は初めて知った事があった。
白石は、これを毎日やっていること。
朝、誰よりも早く起きて、食事を作り、誰よりも遅く、誰にも見られず、こうして片付けていた。
感謝の言葉もなく、当たり前のように食器を洗い、次の準備に向かう。
スポンジを握る指に、少し力がこもる。
泡の奥で、お皿の冷たさがじわりと伝わってくる。
輝は、胸の奥が静かに重くなるのを感じた。
それは、ありがとうという言葉よりも先にくる、白石が背負ってきた時間の重みだった。
すると、台所の先から足音がした。
輝は反射的に肩を強張らせ、蛇口を閉めて、音のする方を見た。
水滴がお皿の縁から落ち、流しに当たって乾いた音を立てている。
台所に弟が立っていた。
おぼんを胸の高さで抱えたまま、立ち止まっている。
『……………』
言葉は、どちらからも出なかった。
視線が、ぶつかる。
避ける事もできず、逸らす事もできない。
ほんの数秒が、異様に長い。
弟の目は、ただ、輝をいないものとして見ているような視線だった。
空気が張りつく。
息を吸えば音が出てしまいそうで、輝は呼吸を止めた。
『……………』
弟は何も言わないまま、ゆっくりと視線を下に向けた。
その仕草が、拒絶だとはっきり分かってしまうほど、無駄のない動きだった。
そして、一歩、後ろに下がった。
ピカピカに磨かれた大理石の床に弟のスリッパの音が小さく聞こえた。
弟は、おぼんを持ったまま自室へ行ってしまった。
台所に残されたのは、洗いかけの食器と動けなくなった輝だけだった。
足に力が入らない。
指先が冷えて、スポンジを落としそうになる。
いつから、こうなったのだろう。
半年前迄は庭でキャッチボールをしたり、居間で滑り台やブランコで一緒に遊んでいたのに。
一番仲が良かったのに。
今は弟が輝を見た目が不要な物を見るような目で見られる。
その瞬間、何を言えばいいのかも、何を謝ればいいのかも分からなくなってしまってた。
喧嘩なら、まだ良かった。
嫌われているなら理由を探せた。
これは違う。
感情を向けられてすらいない。
輝は流し台の前で、ただ立ち尽くしていた。
嫌な気持ち、という言葉では足りない。
胸の奥に名前のつかない塊が生まれて、それがじわじわと膨らんでいく。
怒りなのか、恐怖なのか、情けなさなのか、自分でも分からない。
分からないまま、息苦しさだけが増していく。
台所が急に狭く感じた。
天井が低くなったような圧迫感。
壁が少しずつ迫ってくる錯覚。
この家にいると、何かを言わなければならない氣がする。
何かを直さなければならない氣がする。
それなのに、何一つできない。
ここにいたら、壊れてしまう。
そんな考えが理由もなく頭に浮かんだ。
考えたというより、そう感じてしまった。
次の瞬間、輝の身体は勝手に動いていた。
無の感情で全ての食器を洗い、乾燥機に入れた後、廊下を早足で進んだ。
誰かに見られている氣がした。
振り返る余裕がなかった。
玄関に着き、靴を履いた。
かかとをきちんと入れる余裕もない。
扉を開けた瞬間、外の空気が一気に肺に流れ込んだ。
息が、少しだけ楽になった。
氣付いたら、自分の空飛びまくるキッズを首にぶら下げて財布を持って家の外にいた。
なぜ出てきたのか、どこへ行くつもりなのか、そんな事は考えていなかった。
『大解放~~~~~~~~!!!家出した瞬間の風、気持ちええ!』
ただ、家に居たくなかった。
家から出て暫く歩いた所で前から声を掛けられた。
『おはよう』
優しい顔。
落ち着く声。
見上げると、そこに居たのは伯父だった。
輝の母上の兄、和彦だ。
『おはよう、お兄ちゃん。偶然だな』
母上がお兄ちゃんと呼んでいた為、輝も伯父の事をお兄ちゃんと呼んでいた。
『今日は、どこか行くのかい?』
『ああ、彼女ができたので、これからデートに行くのさ』
勿論、大嘘だ。
『今度、うちに連れてきてね。クッキー焼いて楽しみにして待ってるよ』
『……エッ?!』
詰んだ。
もう、一生家出するしかない。
お家に帰ったら恥ずかしすぎる大嘘が家族にバレて、どんな顔で家族と過ごしたとしても地獄でしかないから死ぬ以外の選択肢が無い。
家出をしても嘘がバレるが、直接“やっぱり居なかったね”と笑顔で言われるわけではないから死ぬ手間がかからないから、ちょうどいい。
だが、世間に恥ずかしすぎる大嘘が広まる事まで考える脳みそは無かった。
輝は真っ青になって、苦笑いで手を振って逃げてしまった。
伯父は満面の笑みで両手を振っていた。
架空彼女どころか、架空彼女すら居ないのだ。
恥ずかしすぎて早い話、こんな黒歴史は忘れたかった。
乃木坂駅に到着した。
朝5時に集合と自分で言ったものの、着いたのは朝7時だ。
流石に居ないだろうと思った。
が、しかし、亨が居た。
『おはよう』
『おはよう、まさか5時から、そこに居たのか?』
『うん、居たよ。輝は絶対に来ると思ってたから待ってた』
亨の表情は異常なほど笑顔だった。
あきらかに家で何かあった顔だ。
輝は何も追求しなかった。
『亨、めっちゃ遠いとこ行こ…』
急に2分前に生まれた黒歴史を思い出してしまった輝。
『どこ行く?』
『沖縄だ』
『良かった、空飛びまくるキッズ持ってきて』
『しまった!それ忘れた!家に引き返すのダサすぎるマジで!どうしよう!!!』
『輝、持ってきてるじゃん。首にぶら下げてるよ』
『あ、首にかけてた。財布!財布!財布も持ってきてた。バッチリ!沖縄に行けるぞ!』
『わーい!沖縄だぁ!』
ところが、3秒後、剛徳寺の僧侶と遭遇してしまった。
浄光だ。
僧衣を着た浄光がツインテールの美少女と手を繋いでいた。
『こうちゃん、好き好き』
『私も好き』
『来週もプリンと果物の詰め合わせ箱と、あと千円用意してね☆ばいばーい』
そう言って女子高生は改札の中に入って行った。
お坊さんをデザートパシリに使って謎に千円も頂く欲張り女子高生に亨は吹き出し、寺ではデカい態度でプライベートでは女子高生に都合良く使われる浄光を輝は一番見たくない顔を見たと視線を逸らした。
しかし、亨の笑い声で浄光と目が合ってしまった。
浄光が慌てて輝と亨にマッハ5の速さで近づいてきた。
亨は笑った事を叱りに来たんだと怯えて輝と共に逃げよとしたが、すぐに捕まった。
『お金あげるから今の誰にも言わないでください』
『どうやったら、あんな可愛い女の子にデザートパシリ関係にされたの?今後の参考にしたいから教えて。俺さ、金食い虫だけは避けたいんだよねー』
『騙されてる?そんな、まさか……』
『毎週、パシリって、それ騙されてるよ?好き好きとか言いつつ、毎週金よこせは酷いって。あ、そうそう、因みに俺のお父さん、警察官』
『言わないでください……』
『は?見ちゃったから言うに決まってんじゃん。口止め料とかさ、一回捕まっときなよ。好きにしたらいい』
輝は無言で浄光を睨んでいた。
『“深淵を覗く時深淵もまたこちらを覗いているのだ”というドイツの哲学者の言葉がある。見ているつもりで見られてる』
輝は、それ以上何も言わなかった。
言葉を重ねれば重ねるほど、この場にある歪みを自分も引き受けるからだ。
浄光は口を開きかけて、何も言えずに閉じた。
さっきまで浮かべていた笑顔が、ゆっくりと形を失っていく。
ただ、その目に映る輝の姿は、先ほどよりもずっと遠くなっていた。
改札の向こうで電車が走り抜ける音がした。
朝の駅は相変わらず騒がしく、人の流れは止まらない。
この三人の間だけ、時間が一拍遅れて流れているようだった。
輝は視線を逸らした。
それ以上覗き込めば、自分もまた同じものに引きずり込まれる。
浄光の問題ではない。
これは、自分自身の問題だと、はっきり分かっていた。
亨は何も言わず、輝を見つめた。
輝は一歩、後ろに下がった。
駅の冷たい床の感触が、靴底越しに伝わってくる。
これ以上、深いところへ行くと……。
そう心の中で線を引き、輝は亨の腕を掴んで改札の方へ歩き出した。
『亨、さっきのお坊さんは見なかった事にしろ』
『なんで?』
『一度は目を瞑ろう。だが、次は無い。私たちも今、道を踏み外している。引き返せるうちは許す』
『もう忘れてるよ。名前も知らないし、興味ない。早く沖縄行こ』
『レッツゴー』
『ゴー!』
こうしてふたりは、何の躊躇もなく家出してしまった。




