睡蓮ー 一切皆苦編 ー
一部、実話です。
輝と剛仁が剛徳寺へ到着した。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
肺の奥にまとわりつくような湿った重さ。
あの日とは違う線香の煙。
息を吸っただけで身体の中に異物を入れられたような感覚。
石畳は不自然なほど整えられていて、雨を吸わない。
長年踏み固められた表面は、まるで磨かれた墓石のように鈍く光り、歪んだ寺の影が見える。
踏みしめるたび、ここに来た人間の数だけ、欲と嘘が染み込んでいる。
そんな気がして、足裏がむず痒い。
鐘の音が鳴った。
序列を思い出させる音。
本堂の軒先に吊るされた提灯が風もないのにわずかに揺れていた。
中の灯りは均一で、温もりがない。
人の心を真似た作り物の光のようだ。
輝は思わず歯を食いしばった。
ここは、生きている場所ではない。
輝は剛仁の手を離そうとしたが、剛仁は強く握ったまま離そうとしなかった。
剛仁は穏やかな顔で真っ直ぐ立っていた。
澄んだ瞳だが、その奥には輝だけが知っている濁りが沈んでいる。
この寺が与えた濁りだ。
輝の心の声は砂利に吸い込まれ、どこにも届かなかった。
輝は悟った。
ここは純粋な者ほど殺されるのだと。
門の向こうで風が吹いた。
だが境内の空気は微動だにしなかった。
輝は一歩、足を踏み出した。
まるで底なし沼に進んで足を入れるように。
輝はスーパースターの銅像の前に立ち止まり、剛仁に質問をした。
『剛仁は今、誰かに光を照らす存在になっているか?』
剛仁はスーパースターの銅像を見つめながら返事をした。
『自分が人に光を照らす存在になっているかは分からない。何も力になれない事が多くて、今は頭しか照らしてないよ。今日もあっちぃぜ初日の出~!』
『…………』
輝は笑えなかった。
家に帰ったら弟に白石に親の問題が待っている。
剛仁には弟とも仲良しだと嘘を吐き、笑える余裕が無かった。
剛仁が輝の目を見て何かを感じ取って笑わせようとしたのが輝にとって申し訳なかった。
その刹那、剛仁の背後から夕陽が流れ、輝の顔にあたたかい光が流れてきた。
この時、輝は光は自分で自覚するものではないのかもしれないと感じていた。
剛徳寺の関係者用駐車場に、一台の黒塗りの高級車が現れた。
艶のある車体が空を歪め、止まると同時に周囲の空気が一段、重くなった。
ドアが開き、僧衣の男が降りてきた。
浄光だ。
その横を、一人の僧侶が通り過ぎた。
これから帰宅する慧心だ。
慧心は浄光を睨みつけていたが、浄光は見向きもしなかった。
慧心は足を止めず、そのままスタスタと歩いた。
その先に、輝と剛仁が立っていた。
『こんにちは』
慧心が先に頭を下げて挨拶をした。
『こんにちは』
剛仁と輝が口を揃えて挨拶を交わした。
『下校の折、偶然に剛仁と相まみえ、その流れにて、ここへ参った』
『ようこそお越しくださいました』
『こんにちは』
輝は浄光にも大きな声で挨拶をしたが、浄光は無視して輝たちの目の前を通り過ぎて行った。
『挨拶は大切だぞ』
輝がそう言うと浄光は扉をトビラァァァーン!!!と音を立てて閉めた。
『扉を強く閉めないで下さい。楓芽さんのお父さまが送った大切な扉が壊れてしまいます』
剛仁は扉を開けて浄光に叱ったが、それも無視された。
大切な扉とは、急に剛徳寺の僧侶を辞めると言って出て行ってしまった楓芽の父が送ったものだった。
輝は浄光の乱暴な様子を見た後、慧心を見つめた。
『イカれている。関係者用駐車場に当然の顔で高級車を停めおって。僧衣を着たまま権力の象徴を纏って、見られても恥じぬデカい態度。けしからん』
慧心は一瞬、顔が震えたが、冷静に答えた。
『あの車は…、あれは本人が望んで乗っているわけではなくて…』
『最悪な弁明だな』
『あれは、お檀家さんから頂いたもので…』
『檀家さんに罪を着せるとはな。もらったから仕方ないでは済まない領域だぞ。受け取るかどうかは本人が決めた事であって、乗るかどうかも本人が決めている。つまり選択の主体は、あの生臭坊主なのだ。それを檀家さんの好意にすり替えるとは貴様も無責任な生臭坊主だな』
慧心は言葉を失ってしまった。
剛仁も沈黙したまま立っている。
輝はもう一度だけ、高級車を見た。
その目は、焼く前の火種のように静かであった。
輝は慧心を見て、こう言った。
『慧心。今日の言葉、忘れるなよ。殺される側に立った事のある魂の直感だがな、いずれ、首を刎ねる刃となる』
慧心は、その場で何も言えなくなっていた。
本来ならば純粋である六歳の少年が正確に寺の腐敗を見抜いてしまう残酷さに言葉を失ってしまった。
輝の後ろには夕日の光につつまれたスーパースターの銅像が笑っているように見えた。
何度見ても笑みが浮かんでいる。
夕日の中で浮かび上がった最澄の顔は慧心自身を見つめ返しているようである。
その視線の先にある未来を悟り、慧心は、それを笑みとして受け取っていたのだ。
言葉を失った。
慧心が恐れているのは輝ではないのだ。
自分が浄光のようになる未来であった。
その後、剛仁は輝を庫裏の一室へ通した。
『ここに来るのは剛仁と入れ替わってた頃振りだな…』
『入れ替わらなかったら義理の親子だったね』
『私達は顔が似ていたからな。なんかおかしいと思ったんだ』
『でもたまに前の両親が恋しいと思ってしまう事もあるよ。お父さんもお母さんも厳しすぎて……、なんか…、輝のお父さんがギター弾いているのを聴きながら絵を描いてる時に戻りたいって思う時もあるんだよね。寂しいというか、なんというか……』
『剛仁もそう思うか…』
『うん…』
『なんだろうな、この離れたら寂しくて、いざ一緒に居るとやっぱり実の親が良いと思うのは。贅沢というのは怖いな。私も剛仁のお父さまが私の目を見て厳しく叱っていた日に戻りたくなる時がある。米一粒に命がいくつあると思ってるんだーっ!物を頂いたら、ちゃんと礼を言いなさい!あんな風にちゃんと叱ってくれる人は今では大切な存在だ』
『おかしくなりそうだよ……。お前はこうだ・ああだ、だからこうしろって上から決めつけられるように言われるし…。そうじゃないのに……』
『決めつけられるのは嫌な気分になるが、更に言い方がきついとしんどくなるな……。だが、自分の意見を言うのも大切だぞ。相手が良かれと思って言ってる事が多いから、これもあれも悪意だと受け取らず相手の目を見て話を聞く姿勢も大事なのだ』
『お父さんもお母さんも私の事、嫌いじゃないのかな?』
『大好きだから叱るのだよ。だが、イエスマンにはならなくていい。その言い方、傷ついたというのは相手に伝えてもいいんだぞ』
『でも、お父さんの圧が怖くて意見なんて言えそうにない………』
『圧はパンツ。相手をパンツに置き換えて見るんだ。白いパンツにこだわらず、ゴールドパンティ~でもよい。圧なのど大した事ない。相手に悪意が無かったり、自分の駄目な所が見つめられる宝探し的な感じで、会話をするのも楽しいものだぞ』
『輝のお父さんは尊重するけど、私のお父さんは尊重のその文字もないよ』
『剛仁のその決めつけも相手をフグ化してるかもしれん。触ると膨らんでトゲだらけになるアレだよ』
『ハリセンボフグだよね?』
『それだ!ハリセンボフ!思い出せなかった!』
ハリセンボンとフグが混ざっている。
『でも…、どうやったら、そんな風に強くなれるの?』
『海の夕日を見ながら考え込む時もある。私はどれほど達観して見えても、大人にならざるを得なかった六歳の子どもだ』
輝は剛仁の愚痴を聞いて、親に愛されていると思っていた。
叱られたい。
束縛されたい。
手作りのご飯。
だが、羨ましいとは思わなかった。
自分は親に愛されているのか分からなかった。
一方、剛仁は家庭問題を一人で抱えている事を目で悟ってしまった。
輝の目は大人が守る責任を子どもが代わりに背負っている目であった。
傷つきすぎて感情を言語化する事でしか自分を保てなくなった冷え切った目。
感情を子どもとして発散できない代わりに思考だけが異常に大人になっていく。
剛仁は輝が嘘を吐く・空気を読む・怒りを抑える、これが日常化している事を心配していた。
『弟とは、うまくいってるの?』
『ああ、仲良しだぞ』
『本当?』
『ああ……』
『全く目も合わなかったし、会話も無かったよ?』
『そういう日もある。体調が悪かったのさ』
輝の目は、やはり冷え切っていた。
剛仁は、それ以上は聞かなかった。
『本題だが、剛仁、何故お坊さんになると決めたんだ?』
『ずっと人に光を照らす存在になれたらいいなって思ってるから』
『それ、よく言ってたな』
『ただ、そう思っていた時は僧侶になる夢は無くて、荒れた剛徳寺の環境を変えたいとかそういうわけでもなくて、伝教大師最澄さまが僧侶を育てるために書いた山家学生式を読んで、僧侶の道に進みたいと考えるようになったの。“照千一隅”。世界を変えようとするんじゃなくて、まず自分の周りに光を照らすということ。その言葉と出会った時に初めて自分の思いと道がつながった氣がして、それが自分で選んだ道なの』
『…………梅美にどう光を照らすのさ?』
『刀を握れる人を捜す。荒木田義徳さんという三重の僧侶が明日、ちょうど剛徳寺に来るの。人捜しをしてるとかで来るみたいだから、訊いてみる』
『タイムスリップは、どうするつもりだ?』
『私、行くよ?』
『行くんかーい!行かないのかと思ってたぞ。決めつけ、ごめん…』
『いいよ』
『ところで、僧侶が人捜しって何ぞや?』
『荒木田心という人を捜してるんだって。家出しちゃったんだって』
『早く見つかるといいな』
『輝も家出したら駄目だよ。皆、心配しちゃうから』
『…………しないぞ、家出なんて』
『家出するなら、ここを選ぶといいよ』
『安心しろ、家出したとしても見つからない自信しかない』
『輝、梅美さんの約束破るつもりなの?私を泣かせるのはいいけど、私以外の人を悲しませないでね』
『ああ、分かった……。今日は、もう帰るわ』
『ゆっくりしてって?これから焼き団子に味噌汁に比叡山御用達の湯葉丼をおもてなしするところなの』
『全部、熱いやつじゃないか…。あんまり、ゆっくりしすぎたくないぞ』
『僧侶たちも10組セットでついてくるの。よき思い出でしょ。ゆっくりしてって?』
『いや、帰る。10組って何人だよ?ヤクザの会合より堅苦しすぎて息できん』
輝はため息をつきながら扉に手をかけ、軽く肩で押して閉めた。
廊下には剛仁の小さな足音だけが残った。
剛仁は輝を見送った。
輝は剛仁に手を振ってから帰宅した。
弟とちゃんと話すんだとシミュレーションまでした。
やがて、家が見えてきた。
門が開き、白石が出て来た。
話さなければ、ちゃんと向き合って話すんだ。
そう自分に言い聞かせて扉を開けた。
その先には弟が居た。
『……』
目を合わせられなかった。
息ができない。空気が吸えない。身体が震えた。
あんなに話すと意気込みを入れたのに声が出ない。
弟は避けるように自室へ行ってしまった。
結局、その日、何も話せなかった…。




