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睡蓮ー初日の出編ー

新年あけましておめでとうございます。

日頃より拙作をお読みいただき、心より御礼申し上げます。

本年も皆さまにお楽しみいただけるよう努めてまいりますので、

変わらぬご愛読を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

夜の厳しい寒さの山を越え、少しでも早く雪子に会う為にコツコツ貯めたお小遣いを使ってタクシーで病院へ向かい、漸く目的地へ辿り着いた。

沢山あったお金の重さは軽くなっていたが、義徳は後悔していなかった。


病院の自動ドアは思っていたよりも軽い音で開いた。

機械的な開閉音が、深夜の静寂に溶け込むようにして消えていく。


外の冷たい空気とは違う、どこか湿り気を含んだ独特の室内の匂い。

消毒薬と、夜勤の時間帯特有の、張りつめた無人感。


廊下は白く、均一な光で照らされている。

蛍光灯の明かりが床に反射し、一歩踏み出すたびに、足音だけがやけに大きく響く。


そこに看護師が現れ、義徳にお父さんから電話があった事を告げ、雪子が居る個室へ案内された。

勇武は住職の為、大晦日は外せない用事があり、義徳の相手をする余裕はなかった。

義徳が山を下りたのを知ったのは除夜の鐘を終えた後で、急遽連絡したのだという。

祖父母・悠希・全ての親戚に連絡をしたが、誰も電話に出ず、車で義徳を捜しまわっていた。


そして、扉が開いた。

義徳は深呼吸して中へ入った。

広々とした空間に雪子が一人、ベッドの上で義徳を待っていた。

看護師は義徳を雪子の部屋に案内した後、慌ただしく勇武に義徳が無事に病院に到着した事を電話で知らせた。


義徳が手洗い・うがいを済ませたあと、雪子のそばへ寄ると、ホッとした表情で雪子が『よう一人でここまで来たなぁ』と頭を撫でてからぎゅっと抱きしめた。

お母さんの温もりに包まれて義徳は、ほんの少しだけ幸せな時間を感じていた。

先輩に猛反対され、最終的に見送られ、やっとここまで来れた事を心の底からみんなに感謝した。


義徳はふと、手に下げていた風呂敷の存在を思い出した。


あの夜、和尚から渡された風呂敷。

義徳は風呂敷を広げて雪子と一緒に中身を見た。


丁寧に畳まれた布の中から現れたのは、飲み物や清潔なタオル、着替え、小さなポーチ、テニスボール、小さな扇風機などが入っていた。

今この瞬間に必要なものばかりだった。


義徳は、しばらく言葉を失ったまま、それを見つめていた。


忙しい大晦日の最中に除夜の鐘の準備に追われながら、和尚が一つ一つ考えながら、静かに詰めた光景が、はっきりと脳裏に浮かぶ。

誰に見せるでもなく、感謝される事も期待せず、ただ、来るかもしれない夜のために。

胸の奥が、じんわりと熱を帯びた。


『これ、和尚さんが私に持っていってって渡されたんやに』


『あの人らしいなぁ。後でお礼言わんとね』


その時だった。

雪子の呼吸は浅く、短くなっていた。

だが、乱れてはいない。

何度も、何度も、自分の身体を押し黙らせてきた人の静かな耐え方。

それは痛みを恐れる呼吸ではなく、痛みと共にある事を知っている人間の呼吸だった。


義徳は冷静に声を掛けながらテニスボールを手に取り、雪子の腰の下側をマッサージした。

雪子が、ベッドの縁を強く握り、波のように押し寄せる痛みに必死に耐えている。


暫くすると、痛みが引くが、また、来る。

義徳は呼吸に合わせながら声をかけ、積極的に動いた。

様子が一気に変わり、義徳はナースコールを押した。

その後、助産師が部屋に入ってきた。


雪子の呼吸は荒くなっていた。

そして、声を上げた。

身体の奥から必死に外へ向かおうとする命の通過音だった。


義徳は、その一つ一つを逃がさないように見つめながら、雪子の汗を拭き、震える手を握り、寄り添った。


こんなふうに、こんな時間をかけて自分は生まれてきたんだ。

誰にも見せない痛みを、誰にも代われない瞬間を、お母さんは、かつて越えてきた。


それが、今、目の前で、もう一度繰り返されている。

義徳の中で、何かが、静かにほどけていく。


怒りも、悲しみも、愛に変わろうとしている。


どれくらい時間が経ったのか、分からない。


静かな夜の空に光が見え始めた頃。

部屋の空気が、はっきりと変わった。


張りつめていたものが、一点に集まるような感覚。


『もうすぐですよー』


その言葉に、義徳の喉が、きゅっと鳴った。

外は朝日が見え始めている。

雪子は、荒い呼吸を整え、義徳を見た。

不思議なほど、澄んだ目だった。

恐れも、迷いも、その奥には無い強い母の目。


『義徳、もうすぐやに…。もうすぐで……、義徳はお兄ちゃんになるに………』


義徳は、強くうなずいた。


そして。


大きな朝日と共に小さな泣き声が、聞こえてきた。


その瞬間、義徳の視界は滲んだ。

ただ、涙が静かに落ちた。

義徳は、雪子の手を握りしめたまま、震える声で言った。


『ありがとう…。本当にありがとう』


雪子は笑顔で義徳の手を握り返した。


『義徳もこうやって私に会いにきたんやに。こちらこそ生きてくれてありがとう』


義徳の胸の奥に、深く沈んだ。

この世界に存在していいという、静かな肯定だった。


そして、助産師が赤子をひとしきり確認したあと、雪子が赤子を抱いた。

白い布に包まれた名もなき小さな命。

雪子は、そっと赤子をゆっくりと義徳の腕へ移した。


『首、まだ弱いから、こうやって、しっかり支えてな』


『はい』


義徳は、言われた通り、左腕を差し出し、右手でそっと首の後ろを受けた。


その瞬間。

思っていたより、ずっと重い。

存在の重さだった。


腕に確かな温もりが伝わってくる。

小さな身体。

まだ不安定な呼吸。

胸の奥で微かに震える鼓動。

自分の腕の中で動いている。


赤子は徐々に泣き止み、顔をくしゃりと歪めた。

その表情は、世界に出てきたばかりの困惑だった。


義徳は弟の顔を近くで見た瞬間、兄の顔になっていた。


雪子は義徳は赤子を抱く手を見た。


冬のお勤めで荒れた指。

木魚や数珠に触れてきた手。

人を慰めるためではなく、自分を律するために使ってきた手。


雪子の胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

赤子の身体が義徳の腕に馴染んでいる。

義徳は赤子の顔を、真正面から見た。


目は、まだ完全には開いていない。

何かを探すように動いている。

一緒に、生きるリズムを探すように。


雪子が、かすれた声で言った。


『どや?あったかい?』


『あったかい』


それは、体温の話ではなかった。

胸の奥に、確かに灯ったものの話だった。

義徳は、赤子をそっと雪子の腕へ戻した。


離すとき、腕の中が一気に軽くなった。

だが、胸の奥は逆に重くなった。


すると赤子は雪子の指を、ぎゅっと握った。


『私がお母さんやに。会いにきてくれて、ありがとう』


赤子は、その声に反応するように、母の指を掴んだ。

雪子は義徳も抱きしめていた。


赤子は再び、かすかな産声を上げた。

世界に向けた最初の返事だった。


義徳は、その声を胸に刻むように、母の温かいぬくもりと共に噛みしめていた。


兄の覚悟を、このぬくもりを、そしていつかこれが破壊される日が来る事を忘れないために。


赤子は雪子の腕の中で、ようやく泣き止んでいた。

小さな胸が浅く上下している。


義徳は、その呼吸を数えるように見つめながら、ふと、言葉を探している自分に氣づいた。


名前だった。


まだ、誰にも呼ばれていない。

この子が、この世界で初めて受け取る輪郭。


義徳は赤子の額に、ほんの一瞬だけ視線を落とした。


『…………心』


雪子の目が、ゆっくりと開いた。


『心かぁ。ええ名前やんなぁ』


義徳は少しだけ微笑んだ。


『いつか、心と一緒にお寺に来てな』


義徳は雪子の顔を見て静かに言った。

雪子は驚いたように義徳を見た。


『ええの?』


『はい』


『名前、心で、ええの?』


『あぁっ、そっちかぁ。今は、お寺の話で……仏さんの前に、一度立たしたい。生まれてきた命として。名前はその…自分たちで決めてもろて…』


雪子は少し考えるように視線を天井へ向け、うなずいた。


『分かった』


義徳は、静かに立ち上がり、僧衣を整えた。

そして、赤子をもう一度だけ見た。


小さな手。

まだ不器用な指。

それでも、確かに掴もうとする力。


ただ、心の中で強く生きろと言った。


窓の外は、濃い群青が広がっていた。


カーテンの隙間から太陽が差し込んだ瞬間、部屋の白い壁が、わずかに色を変えた。


『そろそろ行かな』


そう言って、義徳は雪子と赤子に手を振って部屋を後にした。

その光の中で心は産声を上げた。

年を越え、日を迎え、最初の光と一緒に世界へ出てきた命だった。


義徳は、その光景を、言葉を挟まずに見ていた。

時間は、ゆっくりと進んだ。

慌ただしさはなかった。


新年の病院は不思議なほど静かだった。

人の声も、足音も、どこか抑えられているようだ。


義徳が病院を出たのは、空が完全に明るくなってからだった。


太陽は、もう高く、冬の冷たさの中に確かな光を落としている。


昼までには、戻らなければ……。

山が戻る時間を黙って示している氣がした。


義徳は、病院の自動ドアを抜け、一度だけ足を止めた。


振り返らない。

病室の方向は、もう見なかった。


心は、雪子の腕の中にいる。

だが、胸の奥には確かに残っている。


それで、十分だ。


山は夜とは違う表情をしていた。

夜の緊張は消え、元日の昼特有の澄んだ静けさがある。

参拝客の声も、町の音も、ここまでは届かない。

雪は、夜よりも少し緩み、踏みしめる音が、やわらかくなっている。


義徳は、一定の歩幅で黙々と登った。


考えないようにしていたわけではない。

考える必要が、もうなかった。


心。


その名を、胸の中で一度だけ呼んだ。


呼びかけではない。

確認だった。


僧衣には、まだ、かすかに病室の匂いが残っていた。

新しい命の匂い。

義徳は弟にめぐりあえた事を実感した。


山門が見えたのは、太陽が真上に近づいた頃だった。

鐘の音が遠くで、ひとつ鳴る。


新年の務めは、すでに始まっていた。


義徳は門の前で足を止めた。

深く、一礼する。


許しを乞うためではない。

弁解のためでもない。


戻ってきた。


ただ、それだけを、身体で示した。


そして、門をくぐった。

昼の光が、境内をまっすぐ照らしている。


新しい風が鼻の穴の奥を通過し、義徳は心を抱いたまま背を向けずに両手を広げた。

それはまるで、白いなんとかなんとのなんとかのようである。


義徳は凛とした表情で、元日の昼、新しい命を胸に宿し、再び修行僧としての一歩を踏み出した。


元日の昼下がり。

金剛龍寺の空気は、朝の喧騒を抜け、ひと段落した緊張の中にあった。


参拝者の波は一度引き、境内には雪を踏む音と僧侶たちの低い声だけが残っている。


お寺に戻ってきた義徳は、さっそく和尚に呼ばれた。


本堂の奥、普段は法要以外で全員が揃うことのない場所。

そこに、このお寺に籍を置く僧侶全員が集まっていた。


誰一人、雑談をしていない。

誰一人、義徳を見ていない。


それが、この場の性質を何よりも雄弁に物語っていた。


義徳は、畳の縁で立ち止まり、深く、深く頭を下げた。

顔を上げる許可は無し。


和尚が、中央に座している。

その左右には、年嵩の僧、若い僧、立場も年数も違う者たちが並んでいた。

海玄も、そこにいた。


目は伏せられ、表情は読めない。

ここでは、先輩でも味方でもない。

ただの一僧侶だ。

長い沈黙のあと、和尚が、低く口を開いた。


『義徳…』


呼ばれただけで、胸の奥が軋んだ。


『お前は昨日の夜から今朝にかけて、この山を下り、寺の務めを離れた』


事実確認の冷たい声。

だが、責めているわけでもない。


『許可は、正式には下りとらん。それでも、お前は下りた』


和尚は、少しだけ視線を動かした。


そこにいる全員を一度、見渡すように。


『この件について、お寺としての処遇を決める』


その言葉で、場の空気が一段冷えた。


『まず確認する。義徳、お前は自分の行いが規律を破るものやと理解しとるか』


『はい、理解しております』


『言いたい事はあるか』


義徳は、一瞬だけ息を吸い、はっきりと答えた。


『いいえ』


和尚は、うなずいた。


次に、別の僧侶が口を開いた。


『もし、義徳さんを許したら、今後、同じ理由で山を下りる者が出た時、我々は何基準に止めるんですか』


また別の声が続く。


『一人を許せば全体が緩む』


『情を理由にすれば修行は修行でなくなる』


どれも、正論だった。

義徳は、反論しなかった。

反論できる立場ではない。


和尚は全ての不平不満を無言で聞いた後、再び口を開いた。


『義徳、お前は戻ってきた。戻ってきた以上、僧として、ここに立っとる。やったら、僧として、罰を受ける覚悟はあるか』


義徳は、一拍も置かずに答えた。


『はい』


その言葉に、空気がわずかに動いた。

逃げない。

それだけは、全員に伝わった。


和尚は、静かに息を吐いた。


『処遇を告げる。義徳は、一定期間、雑務から外れる』


一瞬、意味が分からなかった。


『修行の場から外れるのとちゃう。せやけど、人の前に立つ務めからは下ろす。法要、対外の務め、

すべて免除』


ざわめきは、起きなかった。

全員が、その重さを分かっている。

免除とは、楽になるという意味ではないのだ。


『山内の最も厳しい作務を命じる。雪の日も、風の日も、嵐の中でも全て一人でやれ。ここにおる修行僧も助けてはならん。例え、義徳に不満があっても暴言・暴力も絶対あってはならん。そんな事をした愚か者には容赦なく処分する。話しかけるのも禁止や。これは罰であり、同時に戻ってきた者に与える、最後の機会でもある』


義徳は、深く頭を下げた。


『ありがとうございます』


その言葉に誰も返事をしなかった。


義徳は、ゆっくりと立ち上がり、一礼し、何も言わずに下がった。


背中に、強烈な視線を感じる。

同情でも怒りでもない。

ただ、じっと見られている。

それだけだった。


外に出ると、昼の光が境内を照らしていた。


義徳は、息を整え、最初の地獄のような作務へ向かって歩き出した。


胸の奥には、まだ、あの朝の匂いが残っている。

だが、ここからは、背負って生きるだけ。


義徳は、修行僧として、再び歩き始めたのであった。


それから三年後、金剛龍寺に雪子が子供と一緒にやってきた。

義徳は、あの日にめぐりあえた子と再会し、心、という名前に正式に決まった事を知った。

三歳の心は、もう話す事ができるようになり、義徳の事をお兄ちゃんと呼んで離れなかった。

あれだけ鬼のような顔をしていた海玄も心の前では笑顔になり、心に『海ちゃーん!』と呼ばれるほど懐かれていた。

また、義徳と心が並んでおやつを食べる場所には天志も一緒になって食べおり、周りから心を大切にされる事を義徳にとって幸せな反面、いつか壊れる日がくる事を恐れるようになった。


更に二年後、心は五歳になり、天志は『天ちゃーん!』と呼ばれるようになり、天志は変わらずおやつを一緒になって食べていた。

心は、おせんべいが大好物!義徳は心が来る日は必ず三角のおせんべいを用意していた。

義徳と天志は小学4年生になっており、少しずつ世の中の仕組みを学んでいた。


更に二年後、心は小学1年生になり、義徳から勉強を教わっていた。

天志は変わらず、おやつを一緒になって食べていた。

時に心の分まで食べそうになり、義徳に叱られる事もあったとか。


そして、心が中学生になると、義徳に『私に隠し事しとらんか?』と質問されるようになり、幸せな時間が少しずつ壊れる前兆に近付いてきていた。

義徳は、この時点で本当の事を言ったら進路に響くと恐れとの同時に、雪子から口止めをされていた為、隠していた。


だが、心が高校生卒業した後、雪子が異父兄弟であると打ち明けた時、心は金剛龍寺へ行き、義徳に平手打ちして『大ウソつき』と言葉を残し、縁切りを言い渡されてしまった。

金剛龍寺から去ってしまった後、義徳は追いかけたが、心の両親は勝手に出て行った者は追わないと言い張って、心を捜しないという事態に。

これが義徳を怒らせる要因となり、現在に至る。

実の父親から『母に会ってやれ』と言われても『行かない』と言うのは当然の事であった。

イラスト、ごめんなさい。

急遽、母と北海道へ行く事になり、イラスト描けませんでした。

本当にごめん!

心の中で絵を想像していただけると…嬉しいです(小声)

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