睡蓮ー天志、僧侶の道へ編ー
金剛龍寺に清々しい朝がやってきた。
天志は剃りたての頭を少し寒そうにしながら、義徳と並んで仏教の手ほどきを受けていた。
天志の父は国立大学の教授で研究と講義に追われ、家では静かに本を読んでいる事が多い。
母は法務の仕事をしており、契約書や判例に囲まれ、冷静で無駄のない人である。
共働きの両親に代わって家事は、お手伝いさんが担っている。
父は仕事終わりに家族が好きなお菓子を買ったり休日に家族揃ってスキーリゾートや別荘などで満喫し、母は絵本の読み聞かせや、時にいいことわるいことを教え、遊びにも教育にも手を抜かなかった。
天志には7歳の兄の結心がおり、天志の大好きな盆汁をお手伝いさんと一緒に並んで作ったり、常に天志と同じ目線で話を聞き、ゲームセンターに行って一緒に対戦格闘ゲームで遊んだり、天志の親友の義徳の誕生日に手作りの怪獣のミニチュアをプレゼントしたり、天志の全てを大切にしてきたというエピソードがある。
不自由のない環境で育ち、親友の義徳の影響により、天志が一人で山を登った時に山頂から朝日とともに天照大神が降り立つ姿を見た日がきっかけで僧侶の道へ進んだ。
親戚中から反対された末の入寺だったが、今日からは名実ともに天志は修行僧として金剛龍寺で生活する事となった。
天志が出家する日、結心は涙をこらえて笑顔で自分で作った地元の夫婦岩のミニチュアを手渡し、何があっても負けんといてなと背中を押して見送っていた。
ここから10年も家族と会う事も連絡する事すら許されない為、結心にとって寂しくてたまらない瞬間だった。
初めての朝のお勤めでは般若心経を読経しながら、天志は色即是空という言葉を頭の中で転がしていた。
空とは何か。
本堂に低く揃った読経の声が満ちている。
整然とした呼吸、一定の調子、誰一人として乱れない姿勢。
その中で天志だけが、突如として僧衣を全部脱いだ。
そして畳の上にごろりと横になり、全裸で肘をついて読経を続けた。
誰かが息を呑む音がした。
だが、怒声は飛ばなかった。
読経が終わったあと、ただ一人、先輩僧侶が静かに天志の前に立った。
『ここは遊び場ではございません』
その声は低く、怒りも嘲りもなかった。
だが、天志はなぜか、その言葉が胸の奥に刺さった。
怒鳴られた方が楽だった。
静かな声ほど、自分の軽さを浮き彫りにするものはない。
それでも天志の破天荒っぷりは止まらなかった。
偉い人が来るから、頭の下げ方を覚えろ・立ち位置はここだ・言葉遣いはこうだ。
先輩僧侶たちは、何度も何度も根気よく教えた。
だが天志は思った。
なぜ、そんなに堅くなるのか。
権威とはなんぞや。
その夜、天志は徹夜で寺中をディスコ風にアレンジした。
金剛龍寺全体に折り紙で作った108個の大きな金ピカのミラーボールが元気よく回転しながら光をクルクルと照らしている。
灯りを虹色に変え、あちこちにスパンコールの布とカラフルに光る照明を垂らし、密かにラジカセを仕込み、隅々まで輝かせた。
そして当日、予定通り密教系の導師とテレビ関係者がぞろぞろと現れた。
金剛龍寺が爆音でバチバチのヂャカヂャカなダンスミュージックがフォー!フォー!フォフォフォフォー!ヒュィー!と謎の鳴き声と共に激しく流れている。
天志は全身ギザギザのチカチカの金属アクセサリーとレインボーのサングラスをつけてキラキラと輝かせながら全裸でアーユーレディー???と叫びながら義徳の思い出が詰まった三輪車に乗って登場した。
お寺の境内の全ての仏像の顔にありとあらゆる光が回転しながら反射している。
お寺中に飾られた108個のミラーボールがグルグル回転している中、場は完全に凍りついている。
ただ、導師と一緒に来た僧侶が全体的にチカチカ輝く境内を見て、必死に目をそらしながら笑いを止めていた。
終始、口が梅干しになっており、表情に違和感があった。
その後、天志は一人で片付けるよう命じられ、天志にとっては今までで一番最高な思い出だと全国テレビでダブルピースでご満悦。
義徳はミラーボールを一つだけ天志から貰い、自室の天井にぶら下げて不思議そうに眺めていた。
残りの107個の貴重なミラーボールは導師の関係者に天志木が手土産として一人につき一つ差し出し、全員持ち帰っていったが、報道陣にはミラーボールが一つも渡らなかった。
その晩、和尚から叱られ、天志は一人で本堂を3時間かけて掃除した。
次の日、雨が降る中、世間ではクリスマスで賑わっていた。
一休み中の義徳は部屋の端で流れるクリスマスケーキのCMを見ても表情が全く変わらなかった。
食べたいとも言わず、目を輝かせる事もなく、ただじっと見つめているだけである。
周りの僧侶たちも、誰ひとりその話題に触れず、静かに作業をしている。
天志は誰にも訊かなかった。
考え続ける。
それが修行の入口なのだと、どこかで感じた。
その日、一本の電話が鳴った。
先輩僧侶が受話器を取り、相手の話の内容を聞いている時だった。
電話に出た僧侶が一瞬、驚いた顔で天志を見た。
天志は僧侶の視線に気付き、メディアの件で親が電話してきたのかと思った。
しかし、天志の想像よりも重い内容であった。
僧侶は冷静になり、全て話を聞いた後、そっと受話器を置き、無言で部屋から出た。
この時は、天志は完全にメディアの件だと思っていた。
天志が本堂の宮殿を掃除している時の事である。
雑巾がけの途中、ふと正面の黄金に輝く前立仏の虚空蔵菩薩と目が合った。
その奥の厨子の中には秘仏とされている福威智満虚空蔵菩薩が誰の目にも触れる事なくお祀りされており、二十年に一度御開帳される。
まるで、自分の心の中が見透かされているような氣がした。
天志は小さく息を吸い、心の中でつぶやいた。
(虚空蔵さまとはいえ、霊山でこんなこと言うたらまた怒られる。くぅっ…、クリスマスケーキが食べたい…)
その瞬間だった。
虚空蔵菩薩の口元が、やけに白っぽく見えた。
『………なっ……生クリーム???』
天志は思わず雑巾を止め、一歩近づいた。
『まさか……、動く?こっそり誰にも見られやんようにケーキを……』
天志は周りをきょろきょろ見回した。
ケーキを食べたような形跡は、どこにも見当たらない。
もう一度、虚空蔵さまの顔を見上げた。
最初から姿勢をガッチリ固定されているので、どう考えても可動不可。
見ていない場所で、ギギギギギと音を立てながら動きまくっているのか、それとも自由自在にヌルヌルとスライムのように動けるのか。
お供え物も実は黄金に輝いた姿のままギギギギギと全身から音を立たせながら食べていて、宇宙から再現したものを持ち帰って置いたのか。
それともお供え物がニョキッ!ニョキッ!と足を生やして動き回っているのか。
もしかしたら、虚空蔵さまの口からビームのようなものを放出して、お供え物を一瞬で食べているのだろうか。
宇宙から持ってきたケーキを食べたが、拭き忘れたか間に合わず、開き直って頬に生クリームがついたままなのかもしれない。
天志の中で、あらゆるロマンが頭の中で繰り広げられていた。
天志は目をこすって、もう一度、じっと見つめた。
白く見えたのは、お堂の光が顔に反射したものだった。
『なんや、光が当たっとるだけやん。あははははは!』
思わず、ふっと笑いが漏れた。
その瞬間、背後から低い声が落ちてきた。
『何わろとるんや!』
天志は飛び上がるように振り向いた。
和尚が、いつの間にか立っていた。
『すみません。虚空蔵さまの頬に白い生クリームがついとったので、クリスマスケーキをこっそり食べとったのかぁ思って、それで……、よう見たら反射しとる光やったので、ついわろてしまいました』
和尚は天志の目の位置にまで腰を下ろして虚空蔵さまの顔を見た。
『心の動きを見たこと、それ自体が修行や。心が動くと仏さまも動いて見えるんやに。それでええ。せやけど、欲を仏に預けとったらあかん。それは修行やなくて、甘えになる。欲を知恵に変えよ。わろたのは悪ないけど、次は笑う前に氣付きなさい。自分の“こころ”をな。さぁ、掃除や、掃除』
和尚は天志の素直な欲を否定しなかった。
否定すると修行にならないからだ。
和尚が去った直後、天志は虚空蔵さまに手を合わせてから丁寧に床を磨いた。
そして、ピカピカに掃除が終った後、虚空蔵さまを見た。
もう、口元が白く見える事はなかった。
同時に自分の心が清まったのを感じた。
修行僧として欲を持ったまま、ここに立っている自分を許す瞬間でもあった。
しかし、和尚が天志を見る瞳の奥に緊迫とした何かを感じるようになったが、この時は気のせいだと思っていた。
その日の夜、天志は義徳に朝の掃除の出来事を話した。
虚空蔵さまの頬が白く見えたこと。
生クリームかと思ったこと。
勝手に動いてお賽銭箱からお金を吸い取って、こっそりクリスマスケーキを買って食べているんじゃないかと想像したこと。
最後に、和尚に言われた言葉。
義徳は暫く何も言わなかった。
灯明の火が、ゆらりと揺れている。
義徳は天志の剃りたての頭を見つめたまま、静かに答えた。
『この場に何を持ち込んどるんや。仏像は飾りとちゃうに。ただ置かれとるわけとちゃう。命と覚悟を削って生まれた人の欲を超えて在るもの。冗談やとしても、無自覚に軽く触れる事は、その覚悟ごと軽く扱う事になるんやに』
『………………!!!』
天志の肩が、ぴくりと揺れた。
義徳の表情は笑いも、呆れもない僧の目だった。
『お寺は遊びで建っとるんとちゃう。虚空蔵さまは天志の心を黙って見て心が割れとらん思うかもしれん。その心が、どこに向いて動いたかも見とる。両部神道の神、雨宝童子さまもおる。弘法大師空海さまが一刀三礼して彫刻した宝物やに。鬼門を守るお寺で別の流派の祝い事を持ち込んだら加護が届かんくなってしまうに。軽く扱わんといて』
天志は義徳の厳しい言葉を受けた後、便所の個室で一人泣いた。
義徳の言葉で天志は、こう氣付いた。
仏さまは動かないが、自分の心は動く。
その動きは無邪気でなければ悪意もない。
だが、守られてきた場所に対して自分は、あまりにも無防備だった。
その事実を、義徳は立場の違う角度から核心を突いた。
泣いて許される立場ではない。
無知で済まされるという話でもない。
もう、子どもではない。
その自覚が胸に落ちた瞬間、涙が出た。
軽く扱ってはいけないものがあると身体で理解したこの夜、天志が本当に僧侶の道へ進む瞬間であった。
この感覚は説明して分かるものではないかもしれない。
自分で踏み込んでしまった者だけが得る自覚だった。
その晩、天志は義徳と並んで静かに眠った。
あの時の義徳の真剣な目は一生忘れる事はない。
一方、義徳は同じ道を歩く者として僧として生きる重さと覚悟を誤魔化させなかった。
しかし、昨日ひとつ分かったと思ったら、次の日にはまた怒られる。
掃除の粗さ、食事の音、作法の雑さ。
それが今までより、はっきり見えるようになった。
怒られる度に全部見えるようになる。
天志は何度一人で泣いても、必ず時間を守り、学び、座り続けた。
これまで遅刻をした事も投げ出した事も、一度も無い。
毎日のように和尚からも先輩僧からも義徳からも三方向すべてから怒られ、天志は身体と心が修行の速度に追いつかず、毎日のように便所で泣き、食事も喉を通らなくなってしまうほど挫折した日もあった。
それでも、義徳は天志から離れなかった。
慰めるわけでもなく、一緒に背負う人として優しさを捨ててでも同列に置いた無言の支えだった。
天志は自分で決めた軸を手放さなかった。
泣いていたこと自体は弱さではなかったと知ったのは、僧侶になりたいという心の火が生きていた事に自分で氣づいた時だった。
怒られても、泣いても、その一点だけは曲げなかった。
それは執着ではなく、志である。
先輩僧侶たちは自分も通ってきた同じ道だから手加減すると、あとで壊れるのを知っている為、天志にも義徳にも徹底的に厳しくしている。
表面では無表情で厳しく指導しているが、叱られても逃げず、泣いても立ち直って戻ってきて、人を思いやる心を失っていない目を見て、もうここまで来たかと心の中では二人の成長を喜んでいた。
先輩の中でも最も鬼のように厳しい海玄も天志と義徳が挫折を繰り返す背中を見ていないようで見ていた。
本来なら子供は無邪気に笑っていい事を痛いほど分かっている。
だが、優しくされて残った者は重たい現実にぶつかった時、壊れる。
責任を引き受ける覚悟を持たなければ、痛みの原因をすべて自分に向ける。
そして、一気に崩れる。
先輩僧侶は、この子の人生を変えてしまうかもしれないという恐れを引き受けた上で、厳しさを選んだ。
厳しくされて、それでも残った者が後で静かに深く折れる事ができる。
厳しさは、覚悟がなければ暴力になる。
優しさも、覚悟がなければ無責任になる。
それが、天志と義徳の道を壊さないように、敢えて心を鬼にするという覚悟である。
海玄は自分が成長した時に初めて修行した場所に居た先輩に見えない優しさを持っていた事に分かる日があった。
天志と同じように何度も泣いた事がある。
時に逃げ出したいと思った事もある。
自分は仏道に向いていないのではないかと目の前が曇ってしまった事もある。
辞める理由を真剣に考えた夜もある。
海玄だけでなく、先輩僧侶は一度は経験している。
しかし、挫折を知らないまま残った人は厳しさを力に変えてしまい後輩を壊す側になりやすい。
見えない優しさに氣づいたのは、自分が同じ位置に立った瞬間であった。
修行の最中は冷たい場所だと思っていたが、何年も経って自分が叱る側に立ったときに、ようやく分かった。
色んな場所で先輩にも師匠にも家族にも友達や仲間・身近に居る人から自分が守られていた事に、守られている最中は氣づけなかった。
厳しさが必要な瞬間、優しさを見せてはいけない瞬間、何も言わずただ見守る瞬間。
先輩僧侶の優しさは甘さではなかった事、すべてが自分より先にそこに居た存在なのだと分かったとき、全身が泣いた。
助けたい衝動を抑え、抱きしめたい気持ちをぐっと飲み込み、それでもここに居続けるという自分への厳しさ。
挫折を越えた者だけが持つ静かな覚悟。
ただ挫折したからここに立っているわけではない。
挫折を逃げずに抱えたから、僧侶になれたのだ。
海玄は天志と義徳を見て、あの頃の自分を見つめるように越えろと心から思っていた。
また、金剛龍寺は、鬼門を守るお寺であり、両部神道・密教・禅が交差する場所である。
仏像も秘仏も、そして山そのものも信仰の対象である。
それを崩す行為が突出しないよう、作法や言葉遣いも厳しく指導された。
言葉が荒れれば心も荒れると、何度も叱られた。
だが、言葉を整えるうちに、心が先に静まることを知った。
声を低く、語尾を丁寧に相手より一歩、身を引く。
こうして、いつしかその所作と声は、僧侶の目に映る姿へと静かに近づいていったのであった。
金剛龍寺での厳しい指導の中、天志は義徳と共に言葉遣いや作法を一つひとつ身につけていった。
しかしその胸の奥には変わらない思いがあった。
困っている人をほっとけない、困った友を見過ごせない、
その優しさの軸は、どんな厳しい修行の中でも揺るがなかった。
天志の言葉と所作は磨かれ、僧侶の姿に近づいても、その心はいつも人のそばにあった。
年末の空気は、金剛龍寺では季節の名を持たなかった。
雪が降るでもなく、晴れるでもない。
ただ、山の気配が少し深くなるだけであった。
12月29日、和尚は、天志を奥の書院に呼び、無言で向かい合って座った。
外はまだ暗く、障子越しの光も弱かった。
夜と朝の境目のような時間である。
天志は呼ばれた理由が分からないまま、和尚の言葉を待った。
畳の目を正確になぞるように視線を落とし、背筋を伸ばした。
この姿勢をとるまでに、どれほど叱られ、直され、やり直させられたか。
身体が先に覚え、心はあとから追いつくようになっていた。
和尚は、天志の正面に座ったまま、すぐには口を開かなかった。
今まで見た事のない表情で天志を真っすぐ見つめている。
ただ、いつもとは違う重い空気だけが流れてきた。
その沈黙で、天志は悟ってしまった。
これは叱責ではない。
褒められる話でもない。
指導でもない。
そして、和尚が、静かに口を開いた。
『結心さんのことで話がある』
その名前が出た瞬間、天志の耳の奥で、何かがひとつ切れた。
音が遠くなった。
部屋の輪郭が、わずかに歪んだ。
それでも視線は落としたまま、姿勢は崩れなかった。
崩れるという選択肢が、もう身体に残っていなかった。
和尚は、更に重い口を開いた。
声に、揺れはなかった。
早口でも、遅くもなかった。
事実を置くように、言葉が畳に落ちた。
結心は、十二月二十四日の早朝、突然の心臓発作により、家族に見守られながら息を引き取った。
苦しむ時間は短く、医師の手当ても間に合わなかったという。
その事実を和尚は天志に静かに伝えた。
それは、五歳の天志に向けて、これ以上崩せない形で差し出された現実だった。
天志の中で、理解するまで少し時間がかかった。
結心は、いつも天志の目線までしゃがんで、話を聞いていた。
盆汁を作った瞳。
ゲームを一緒に楽しんだ声。
山へ行く朝、涙をこらえて笑った顔。
天志は結心が手渡した夫婦岩のミニチュアを思い出した。
小さな瓶の中で、青い海が揺れていた。
貝殻が沈み、白い砂が底にあった。
負けんといてなと言われた時、天志は何も言えずに頷いただけだった。
それが今も、はっきり心の中で生き続けている。
あの時、結心は自分の寂しさを見せないまま送り出したのだと、今になって分かった。
臨終という言葉だけが浮いて、受け止められそうにない。
天志は両手を震わせながら唇を噛みしめて泣くのを耐えた。
どの言葉も口に出る前に形を失った。
和尚は、天志を見つめていた。
視線は逸らさないが、踏み込まない。
そこにあるのは、見届けるという距離だった。
しばらくして、天志は、ようやく声を出した。
『最初から修行に入らせていただきたく、お願い申し上げます』
そう言って、和尚に頭を下げた。
最初から修行をするという事は結心の死に目にも会わず、修行するという事である。
結心が亡くなった事実を知った上で葬儀にも行かず、最期の顔も見ず、抱きしめる事も、お兄ちゃんと呼ぶ事も、ありがとうも、ごめんも、言わずに生き残った側として、その欠落を一生抱えて生きるという選択なのだ。
天志は、失う事の痛みを僧侶の覚悟として修行する道を選んだ。
和尚は、背負う覚悟の重さを引き受け、静かに言った。
『その志、しかと受け取らせていただく』
天志は、一礼して部屋を出た。
廊下を歩きながら、足の裏の感覚だけが、妙に鮮明に伝わった。
板の冷たさ。
一歩ごとの重さ。
その夜、天志は一人で本堂に座った。
灯りをつけず、闇の中で。
虚空蔵さまの姿は目には見えない。
だが、在る事だけは分かる。
ただ、胸の奥にひとつ、空いた場所があるのを感じた。
守られていた時間が静かに終わった音が無音の中で静かに流れてきた。
結心は、もういない。
だが、天志の背中から手を離してもいない。
天志は泣かなかった。
泣けなかったわけではない。
泣く前に歩き始めた男の覚悟だった。
この日を境に天志の優しさは守られた子どものものではなくなった。
失ったものを抱えたまま、人の前に立つ者のものになった。
天志を送り出した後、和尚は本堂に戻らず座り続けていた。
外から風が木々を揺らし、どこかで竹が軋む音が聞こえる。
年末の冷えた空気が僧衣の隙間から静かに入り込んでくる。
和尚は膝の上に両手を置いたまま、目を閉じた。
ただ、呼吸だけが、ゆっくりと続いている。
早すぎる。
その言葉が、胸の奥で形にならないまま沈んでいく。
五歳の子に告げる言葉として、どれほど整えても、どれほど選んでも、軽くなる事はないと分かっていた。
それでも告げた。
逃げなかった。
引き受けた。
和尚は、床に視線を落としたまま、ほんの一瞬だけ肩を落とした。
誰にも見せない、誰にも預けない、その一瞬。
やがて、深く一度、息を吐いた。
そして立ち上がり、歩き出した。
このお寺に残るのは、子どもではない。
告げた者の覚悟だ。
その夜、天志は義徳と二人きりで話をした。
結心のこと。
十二月二十四日の朝のこと。
もう会えないこと。
また最初から修行をすること。
全て話した。
義徳は静かに聞いていた。
『会いに行かんの?』
天志は少しだけ首を振った。
『行かん』
義徳は思わず天志を見た。
『…なんで?』
『ほんまはな、お兄ちゃんの顔、思い出したら息できん。でも、修行に行く前にお兄ちゃんに何があっても負けんといてなって言われたから、それがお兄ちゃんの最後の言葉だから、ここでその約束を破ったら、お兄ちゃんに会えやんくなってしまう』
その一言で、義徳は理解した。
天志は二度と戻れない場所を自分で選んだのだと。
『天志……』
義徳は泣きそうになっていた。
天志は、ほんの少しだけ笑った。
『そんな顔したらミニチュアの怪獣が火ふいてしまう。泣かんといて、義徳……。お坊さんは泣いたらだめなんやに』
そう言って、初めて涙が落ちた。
ぽろぽろと、音もなく。
義徳は、何も言わずに天志の隣に寄った。
肩が触れた。
抱きしめなかった。
慰めなかった。
ただ、一緒に背負う位置に座った。
義徳は泣いてはいけないと我慢をしていたが、ミニチュアを貰った時の結心の優しい笑顔とあたたかい手を思い出した瞬間、ぶわぁっと涙が出て止まらなくなっていた。
外では風が木を揺らしている。
冬の夜は、冷たく、長い。
それでも二人は、その場を動かなかった。
言葉よりも重いものが確かに二人の間にあった。




