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睡蓮ー前編ー

8月8日、早朝。


金剛龍寺の境内には、まだ柔らかい朝日が差し始め、池の水面には睡蓮の花が静かに揺れていた。

橋の欄干には夜露が残り、淡く光っている。

蝉の声も、どこか遠慮がちに響いていた。


義徳は、いつも通りだった。

黙って竹箒を動かし、境内の掃き掃除をしている。

隣では、父の和尚が同じように無言で箒を動かしていた。

だが、その空気は、いつもとは少し違う。


違っていたのは義徳の態度だった。

挿絵(By みてみん)

どこか、刺すような冷たさである。

口数は少ないというより、意図的に抑え込んでいるようだ。

吐き出す息が浅く、時折箒を持つ手がわずかに震えている。


徳密は、その変化にすぐ気づいた。

義徳の言葉の端々、和尚を見る目の奥に潜む苛立ちと緊張。

たった一人だけは、わかっていた。

今日は、義徳の誕生日である事を。


掃除を終え、朝のお勤めの前、寺の縁側でのこと。


『義徳、今日は雪子に顔見せに行ってきなさい』


和尚が義徳の顔を見て、そう言った。


『行きとうありません』


義徳の返事は、短くて、冷たかった。

まるでその言葉の先に鋭利な刃が仕込まれているように。


『何年会うとらん思とるんや』


『勘弁してください』


『私から連絡しとくから会いに行ったってや』


『あの人の顔など、見とうもありません』


和尚の眉がわずかに動いた。


『義徳の母親なんだから、わがまま言ってないで朝のおつとめが終わったら早う会いに行きなさい』


その言葉の瞬間だった。

義徳の手が、微かに震え始めた。

力の入った拳が僅かに白くなり、義徳は腕を組んで鋭く和尚を睨みつけていた。

挿絵(By みてみん)

沈黙が落ちている。


時間が止まったかのように、朝の蝉の声すらも遠のいていく。


普段はどこまでも穏やかで、どんな人に対しても丁寧に接する義徳。

その顔に、毎年、この日だけは氷のような陰が落ちる。


弟子たちは何も言えない。

ただ、黙って見ているしかない。

まるでそれが、このお寺における暗黙の掟であるかのように。


義徳の過去を知る者は、唯一人。

幼馴染の平賀天志(ひらがたかし)だけである。


これまで天志は義徳の過去を誰にも語った事はない。

誰に問われても、首を縦にも横にも振らず、ただ岩のように動かず、堅く口を閉ざしてきた。



それは、義徳が五歳の頃の話である。


当時の義徳は、よく笑う子供であった。

坐禅会に来る檀家の者たちにも自分から頭を下げて挨拶をし、参拝客には積極的に説明をするといった行動にも評判が良かった。

挿絵(By みてみん)

お寺の息子という環境の中で、義徳は神仏習合に自然と関心を持ち、座敷に並べられた経典を指でなぞりながら真言を口にしたり、天照大神を彫刻したり、時には相対性理論を学んだりもした。

父の和尚は、そんな義徳を静かに見守り、簡単な教えから少しずつ授けていた。


夏には肝試しがあった。

同じ町内の子どもたちがお寺に集まり、懐中電灯ひとつで暗い回廊を駆け回った。

義徳は泥だらけになっても、みんなで元気に走り回り、声をあげて笑っていた。

友達八人、親友一人。


『義徳、俺も金剛龍寺の僧侶になる。初めてここに来た時、虎の像かっこいいなとか、異世界に入ったみたいでドキドキしたんや。せやけどな、義徳からいっぱいお話を聞いたり、家に帰って仏教の事お勉強しとったら、空海が掘った御池と睡蓮なんかむっちゃ美しいな、尊いなって思て。俺も、お坊さんになってみたいって思うようになったんやに』


そう言ったのは親友の平賀天志だった。


『そんなふうに言うてくれるのは、うれしい。めっちゃうれしいわ』


義徳は、お日さまのような輝いた笑顔で天志の言葉に喜んだ。

それから、二人は歴史や仏教を学びつつ、友達とも泥だらけになるまで笑って遊んでいた。

こんな日がずっと続くものだと思っていた。


だが、ある日から、ひとつだけ心にぽっかりと穴が開いた。


母の事だ。


絵本や国民的アニメには親と子が当たり前のように一緒に居て、毎日言葉を交わす内容が多い。


だが、自分の家には、その声がない。


母は、月に一度しか来なかった。

その日が近づくと、義徳の髪は整えられ、服も新しいものを用意された。

しかし、母が来るのは、限られた短い時間で、何かを渡して帰っていく。

その姿に触れる事はできても、家族と呼ぶには、あまりにも距離があると義徳には感じていた。


ある日、義徳は、それまで口にする事がなかった疑問を、ついに父にぶつけた。


『お父さん。私のお母さんは、なんでずっとお家におらんの?』


その瞬間、父の動きが止まった。

庭に面した書院の縁側に腰掛け、茶を啜っていた父の表情が、わずかに凍ったように見えた。

蝉の声が遠のき、夏の午後の日差しが、障子越しにじっとりと落ちていた。


しばしの沈黙ののち、父は低く口を開いた。


『義徳。今から話すことを、よう聞きなさい』


『はい、お父さん』


『義徳を産んだ母、雪子は、私の妻とちゃう。結婚しとらんのや』


『……っえ?』


『雪子は、義徳が生まれる前から、私の弟と夫婦やに。そして今、弟との子を身ごもっとる。種は違えど義徳は、その子の兄になるんや』


空気が、変わった。

蝉の声が急に耳障りになり、部屋の温度が急に冷たくなったように感じた。


義徳は、言葉の意味がすぐには理解に追いつけなかった。

父の声、表情、目の奥の影。

父の弟とは義徳の母、雪子の現在の夫。

つまり、義徳にとっては叔父である。

雪子は当時既婚者(義徳の叔父の妻)でありながら、義徳の父との間に子供(義徳)を作った。

何もかも受け入れられたくなかった。


父は、続けた。


『……私の弟だから、繋がっとる。せやけど、これから生まれてくるその子には、絶対にこのこと言うたらあかん。兄弟とは知らずに育たなならん』


『……………………』


義徳は、何も言えなかった。

頭の中が真っ白になった。

聞こえてくるはずの言葉が音にすらならなかった。


そんな息子の動揺に気づいていながら、父は静かに強烈な言葉を発した。


『このお寺の後継者を残すためには、私が雪子に頼んで義徳を産んでもらうしかなかった。申し訳ない』


家系・宗教的な事情により、父との間に子供(義徳)を産む必要があった。

この事は世間的には秘密とされている。

だが、父からの厳しい口止めは義徳にとって二重の苦しみを背負わされる事になる。

心の逃げ場を奪う沈黙の檻だ。

存在を全否定されるような重荷、孤独の底に突き落とされてしまった事。

義徳は怒りと悲しみと拒絶と混乱のグチャグチャの感情が渦巻き、立っているのもやっとであった。


そして、弟が生まれても、その子には本当の事を言ってはいけない。

つまり、義徳は自分が血が繋がっている事を知っていながら、その理由を隠し、嘘をつき続けて生きていかなければならない。

それは5歳の子どもにとって、その重さはあまりにも過酷であった。


『もう聞きたない!!!気持ち悪い!!!』


義徳は、耳をふさいで叫んだ。

涙も出なかった。

声が裏返るほどの叫び声とともに、縁側を蹴って外へ飛び出した。


朝が近づく空の下、泥に足を取られながら、義徳は山を駆け抜けていった。


もう、どこへでもいい。

どこか、遠くへ。

誰の声も、届かない場所へ。


この日を境に義徳の中の何かが、確かに崩れ落ちていった。

山を駆け下りる義徳の足は、泥で重たかった。

心臓の鼓動がまだ耳に残っている。

額を流れる汗と、朝の湿った風が、肌をじっとりと覆う。

怒りも、悲しみも、恐怖も、全部が混ざり合って、自分がどこに向かっているのかすら分からなかった。


死にたいという次元ではない。

ただ、とにかく遠くへ行きたい。

それだけだった。


だが、山道の下り坂の途中、ふと、視界の先にひとつの人影が見えた。


朝日が昇る中、足音も立てずにゆっくりと登ってくるその姿。


天志だった。


それが誰かを認識した瞬間、義徳の足が自然と止まった。

息が荒いまま、肩を揺らしながら、義徳は目を凝らした。


いつもと違う。

天志の服装が違う。


白い襦袢。

頭は短く刈られ、まっすぐな目でこちらを見ている。


それだけで、義徳には全てがわかった。


出家するのだと。

この親友が、自分と同じ道に進む覚悟を決めたのだと。


全身を走っていた熱が突然引いていくのを感じた。

燃えさかっていた感情が、一気に冷水を浴びたように静まり返った。


義徳は、まるで現実に戻されたように、泥のついた草履のまま、そこに立ち尽くした。


天志は無言のまま、一歩一歩、山を登ってくる。

そのたびに足元の小石がざらりと音を立てる。


義徳の喉がかすかに鳴った。

心が言葉を探しているのに、声はどこにも見つからない。


天志が数歩の距離に近づいた時、ようやくその顔がはっきり見えた。

ほんの少し汗ばんだ額。

だが、目だけはまっすぐで、何もぶれずに、義徳を見ていた。


その目に映るのは昔と同じ、笑っていた頃の義徳だ。

怒っても、泣いても、泥だらけでも、必ず隣にいた自分だ。


義徳は、まばたきもせず、その顔をじっと見つめ返した。

崩れそうになる自分を何とか支えようと、目だけで必死に冷静を取り戻そうとする。


一言も発せず、ただ確かめるように、天志の顔を見つめた。

それが、義徳にとって唯一、取り戻せる場所だった。


天志が義徳の目前まで来た、その瞬間だった。

義徳の胸の奥で、何かが破裂するような音がした。

張り詰めていたものが、ぷつんと切れた。


『みんなには、お父さん・お母さんが居る。そして、私たちが居る。私のお母さんは、お母さんとちゃうんやって。私のお父さんの弟と結婚したんやって。私は、お寺を守るために産まれたんやって。今、お父さんの弟の子が生まれるんやって。私がお兄ちゃんだって…言うたらあかんのやって……』


義徳の体が、崩れ落ちるように地面にしゃがみこんだ。

その場に、泣き崩れた。

拳を泥の中に叩きつけるように顔を伏せて、言葉にならない嗚咽がこみ上げている。

堰を切ったようにあふれる言葉と涙。

それが抑え込んだ痛みの全てだった。


天志は自分だけは絶対にこの場で泣いてはいけないと必死に耐えながら義徳の言葉を静かに聞いた。


『睡蓮の花は、どんなに濁った泥の中でも、真っ直ぐ空を向いて咲くんやに。汚れとる場所やからって、花まで汚れるわけにはいかんやろう。泥の中に生まれたものにも咲は花く。くじけず、その花を咲かせ』


『私を道具のように扱った父。目の前に現れてはすぐ去っていった母。秘密を抱えさせて、嘘の中で生きろと命じた現実。私は、そんな人を許せそうにないのに花など咲くものか』


『許そうとしなくていい。選ぶんや』


天志は力強く言った。

義徳の心に積もり積もった何かを、ついに決壊させるには、それで十分だった。

それは、刃のように鋭く張りつめていた心の糸が、音を立ててぷつんと切れた瞬間だった。


義徳の口から堰を切ったように嗚咽が溢れ出した。


『……っあああああああああああああああああッッ……!!!』


声にならない叫び。

言葉にならない嘆き。

それは言語ではなく、魂の断末魔であった。


身体が地面に叩きつけられるように崩れ落ちた。

まるで骨ごと崩れたかのように、膝から力が抜け、草と泥の入り交じった冷たい大地へ、泣き叫びながらうずくまった。


『うっ……うぅっ……うぅぅぅっ…』


天志は義徳を見て、絶対に涙を流してはいけない、と空を見上げながら耐えた。

耐えられそうになかった。

目の前で、この状態でも義徳が天志に我慢している事が伝わっているからだ。

なんで産んだのかとか、なんで私だけ、と思っていても親友に八つ当たりできない性格なのだと天志がよく分かっていたからだ。

天志は、ぐっと堪えた。


義徳の声は、もはや人の声ではなかった。

崩れていく心のかけらが、喉を焼くように突き上げ、怒りとも絶望ともつかぬ、何重もの感情が折り重なり、身体の奥から噴き上がる。


『ああぁあぁあああああぁあぁぁあああああああああああぁああああッ!!!』


胸を叩いた。喉をかきむしった。

泥にまみれた手で自分の顔を覆いながら、全身を震わせて泣き叫ぶその姿は、天志の心を裂く。

それでも天志は、その場から一歩も動かなかった。


義徳の涙が、声が、泥に混ざって降りかかる中、ただ何も言わず、両腕を差し出した。


義徳は、その腕にすがりついた。

その胸に顔を押しつけ、激しく、泣きじゃくった。


『うぁあぁああぁぁああぁぁっ!!!うあぁあああああああぁっ!!!!!うああああああああああぁあぁっ!!!!!!』


天志は、一度も目を閉じなかった。

義徳が絞り出すように吐き出す、その一つ一つの声を、受け止め続けた。


天志の瞳には涙が浮かんでいた。

だが、こぼれ落ちる事はなかった。

涙を流すのは今は自分ではないと言い聞かせるように必死に耐えていた。

今は、義徳の苦しみが流れ尽くすその瞬間まで、自分は器にならねばならないと、天志は耐えた。


全てが、刃だった。

そのたびに天志の胸が痛んだ。

だが、天志は一切それを拒まなかった。


拳を叩きつける義徳の手を、無理に止めたりしなかった。

ただ黙って、その肩を包み、震える背中を受け止め続けていた。


泥の中で、義徳の涙は止まることなく流れ続けた。

鼻水も、泥も、涙も、叫び声も、すべてが混ざり合って、

もはや人としての形を保つのさえ苦しいような感情の瓦礫となって、崩れ落ちていく。


天志の襦袢は泥に染まり、義徳の爪が食い込むほどに胸を掴まれていた。


天志は動じなかった。

一切を否定しなかった。

一言も返さなかった。


何かを言ってしまえばすべてが壊れると、天志が本能的に判っていたからだ。


今は、ただ受け止める。

言葉ではなく、生きてきた痛みの全てを聞く。

それが唯一できる事であった。


やがて、義徳の声が少しずつ小さくなっていった。

喉が枯れ、声がかすれ、泣き疲れた体が天志の胸に重く沈んでいく。


だが涙だけは、まだ止まらない。

時間の感覚さえ失いそうなほど、静かで、長い、泣き崩れだった。


やっとのことで絞り出された言葉が、最後に一つだけあった。


『ほんまは死のうとしとったんや……』


それを聞いた瞬間、天志の頬を、ひとすじの涙が静かに伝った。


しかし天志は、決して嗚咽を漏らす事はなかった。

魂が、ただ静かに泣いていた。

義徳の痛みの深さが、あまりにも大きく、あまりにも重たかったから耐える事ができなかった。


『打ち明けてくれて、ありがとう。俺は義徳のこと、むっちゃ好きやに。義徳が死んだらえらいに……。俺が居る。一緒に生きよう』


それを聞いた義徳は泣き叫びながら天志に『ありがとう』と伝えた。

親から好きと言われた事のない義徳にとって大きな愛を感じた。

天志の両腕は、どんな仏像よりも強く、優しく、義徳を包み込んでいた。


そして、そのまま朝の光が、静かに差し込んでいた。

泥に咲くはずの、あの睡蓮の花のように。

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