法華の光
剛徳寺の広大な境内に静寂が漂う。
昼下がりの穏やかな日差しが、古びた木々の間を縫って地面に柔らかな光を落としている。
慧心は、その静けさの中にいると、ひとしきり心が落ち着く気がした。
しかし、その静けさの裏側には、解決すべき問題が迫っていた。
“女人禁制の規律が守られなければ、剛徳寺はその存在意義を失う”
慧心は心の中で何度も繰り返していた。
しかし、心平と光明がその規律に従わないという現実を前に、慧心の心は揺れ動かずにはいられない。
おやつの時間、心平は湯気の立つ茶碗を手にしながら、光明の隣に座っていた。
穏やかな横顔を見つめると、胸の奥が温かくなる。
声を聞くだけで、まるで世界が柔らかく包まれるような気がした。
だが、そのあたたかいひとときは、法照の呼びかけによって破られた。
『心平さん、少々お時間を頂戴できますか』
法照の声はいつになく厳かであり、普段の穏やかな面影は微塵も感じなかった。
『……承知いたしました』
心平は光明に『すぐ戻ります』と告げ、法照の後を追った。
法照はお寺の奥まった静かな場所へと心平を導いた。
二人の足音だけが廊下に響く。
心平の中には、漠然とした不安が広がっていった。
やがて法照は足を止め、心平を静かに見据えた。
『心平さん、バキュラの様子が尋常ではないことに、お気づきでございましょうか』
その言葉に、心平は眉をひそめた。
『……はい、近頃落ち着きがないように存じますが、それが何か』
『私はバキュラとの共存をしてから全てが見えるようになりました。そして今、バキュラの力が、暴走の兆しを見せております』
『………え』
法照の言葉に、心平の胸が大きく波打った。
『それは……確かなことでございますか』
『和尚さんも懸念なされております。バキュラは、僧侶の内心に強く影響を受けるものでございます。そして今、心平さんのお心は、かつてないほど揺れ動いております』
『私の心が?』
『はい。光明さんへのご懸念、お心寄せでございます』
法照の言葉は、静かでありながら、厳かな響きを帯びていた。
心平は息を呑んだ。
『私の想いが、バキュラに影響を及ぼしていると……?』
『その通りでございます。バキュラは、心平さんのお心の映し鏡にほかならず、心の揺らぎが、すなわちバキュラの力の乱れに直結しているのです。今のままでは、いずれ制御が効かぬ事態となるかもしれません』
心平は拳を握りしめた。
光明への想いは、偽りではない。
言葉は心を和らげ、そばにいるだけで満たされる感覚がある。
その想いが、バキュラを暴走させる要因となっているというのか。
『僧侶が恋愛するのが何か悪いとでも……』
心平は真剣な眼差しで法照を見つめた。
『光明さんへのお心を否定なさる必要はございません。ただし、そのお気持ちをご自身でしっかりと見つめ、制御なさることが肝要かと……。情に流されてはなりません。光明さんをお慕いになるお気持ちが生じた折に、バキュラがどのように反応するのか、冷静に観察なされることです』
法照の言葉は厳しくも、慈悲に満ちていた。
『……承知いたしました』
心平は深く息を吐いた。
光明への想いを、どう整理すればよいのか。
どうすれば、バキュラを制御できるのか。
答えはまだ見つからない。
だが、今、気づくことができた。
これからは、自分の心と真剣に向き合わねばならないのだ。
この日からバキュラは法照と二人で過ごすこととなり、ヨガの参加など人前に立つことを控えた。
その日の夕方、慧心は心平を呼び出した。
『心平さん、あなたがここにお越しになった理由を、もう一度思い出して下さい』
慧心は真剣な目で心平を見つめた。
『このお寺にお越しになったのは、剛徳寺の修行をお守りになり、信仰を深めるためでいらっしゃるでしょう。ですが、今のあなたは、その本分をお忘れかけておられます。私どもの伝統と規律をお守りになることこそが、信仰そのものでございます。それこそが、私どもがここで生きる意味なのでございます』
心平はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
『私は自分の心に従っております。あなたがおっしゃることは正しいのかもしれません。ですが、私はここで、あなたからお教えいただいた信仰をただお守りするだけでなく、自分の心も大切にしたく存じます。それこそが比叡の山や、このお寺で学ばせていただいたことであると考えております』
慧心の胸に、ふっと重いものが落ちるような感覚が広がった。
心平が自分の信念を貫こうとする姿は、慧心が育んできたものとは正反対である。
だが、その中に何か深い真実を感じ取ることができた。
『ですが、心平さん、あなたのようなご行動が、このお寺の規律を乱してしまいます。私が守らねばならないのは、規律そのものであり、剛徳寺の伝統なのでございます』
慧心の声は強く、無意識のうちに心平に押し付けるような力を帯びていた。
心平は静かに立ち上がり、目を合わせることなく言った。
『それがあなたのご信念であるならば、私はそれを尊重いたします。ですが、私は私の信念に従いたく存じます。私が正しいと存じることを信じて、生きていきます』
その言葉は、まるで慧心の心を試すかのようだった。
慧心は心平の視線を避けることなく、真剣にその言葉を受け止めた。
心平の言葉には、確かな意思と揺るぎない信念があった。
そして、その信念が心平にとってどれほど大切なものであるか、慧心は知っていた。
そのまましばらく黙っていた慧心は、やがて静かに言った。
『私は、あなたのご信念を否定するつもりはございません。 ただ、あなたがお選びになる道が、この寺の信仰に背くこととなるのであれば、それを受け入れることはできません。 しかし、あなたが本当に心から信じておられるのであれば、それをお守りになることは否定しません。 ですが、私はそれをお許しすることができません。 なぜなら、守るべき規律があるからでございます』
心平は、少しの間沈黙した後、穏やかに言った。
『慧心さんのご信念も、私の信念も、どちらも大切なものであると思います。 しかし、どちらが正しいのかをお決めになるのは、私どもではなく、私どもの心の内にある真実なのではないでしょうか』
その言葉に、慧心は再び深い思索に沈んだ。
慧心は今、自分の信念に対して疑問を抱いていた。
規律を守ることが信仰の核心だと思っていた自分が、実はその規律に縛られて、人の選択を押し付けていたのではないかという疑問が頭の中を巡った。
その夜、慧心は再び剛徳寺の本堂に座り、自分の心と向き合った。
守るべきだと思っていた規律、それが果たして他の者にとっても同じように価値があるのだろうか。
そして、人の信念を尊重しながらも、どのように自分の信念を守り続けることができるのか。
慧心の心はまだ迷っていたが、その迷いこそが、慧心の成長を促すものだという予感がした。
その日、慧心は浄光と共に心平の生配信に参加していた。
いつものように、三人で画面に映り込んでいる。
配信が始まる前、全員が自然に笑顔を作り、リラックスした雰囲気を作り出していた。
視聴者からの質問が届くまで、何の変哲もない日常の一コマだった。
だが、質問コーナーが始まった瞬間、その空気が一変した。
“心平さん、好きな人いますか?”
その一言が、場の空気を一瞬で重くした。
心平は少しだけ視線を落とし、すぐに答えた。
『います』
その後は何も続けず、沈黙が続いた。
視聴者は期待しているのかもしれないが、心平は視線をカメラから外し、言葉を続けることはなかった。
部屋の中の空気が一瞬凍りついたような気がした。
慧心は笑顔を保ったまま、心平をじっと睨んでいた。
その目は冷たく、少し震えているようにも見えるが、表情は一切崩さない。
心平に言いたいことが山ほどあるようだったが、その場ではそれを口にすることなく、無理に笑顔を作り続けた。
浄光は二人の様子を敏感に感じ取った。
いつも一緒に過ごしている為、少しの違いにも気づいてしまう。
目を合わせようとはせず、コメント欄を見つめた。
視聴者が何気なくコメントを流していく中、浄光の表情にもわずかな緊張感が漂っている。
心平と慧心の間に何か不穏な空気が流れているのは、もう誰の目にも明らかだった。
『次の質問行こうか』
と、浄光が急かすように言った。
声のトーンは軽く、場を取り繕うように聞こえたが、その瞬間、何をどうして良いのか分からないような表情をしていた。
その後も、配信はなんとか続いていったが、視聴者が求めていた“楽しいひととき”はどこか遠くに感じた。
慧心は笑顔の裏で心平に何かを問い詰めたかったが、そのタイミングを失ってしまった。
心平の『います』と言った返事は、どこか曖昧さがあった。
慧心は心平のあの一言に何かが隠れているような気がしてならなかった。
配信が終わった後、三人は何も言わずに部屋の片隅に座ったままだった。
心平は黙ったまま、自分のスニャートフオンを見つめていた。
慧心はまだ笑顔を崩さず、ただ視線を落とすばかりだった。
浄光は二人の間に割って入ろうとはせず、ただその場の雰囲気をやり過ごすように、時計の針が進む音だけが響いていた。
そこで、心平はいつものように配信に参加した慧心と浄光にお礼を言った。
『本日も配信にご協力いただき、ありがとうございました。収益は剛徳寺の修理費に充てさせていただきます』
配信の収益は剛徳寺の修理費に使われているが、心平が配信を始めた理由は世の制約に縛られず、ありのままの自分を堂々と生きる大切さを伝えることである。
その中で仏教に興味を持つ取り組みも行っており、慧心と浄光は僧侶として、その活動に快く協力している。
しかし、心平がお寺で恋愛をすることに慧心は違和感と危機感を感じていた。
『心平さんが女性として生きることは否定しません。しかし、女性になられませぬようお願い申し上げます。近頃、バキュラの力が一層強まりつつございます。女性は感情的でいらっしゃるゆえに、その力に耐えうることが叶いません。女性がバキュラの力に触れられますと、破滅へと至ります。男性と比較いたしましても、女性はその力に対抗することが極めて困難でございます。何卒、バキュラの力に触れられませぬよう、力の恐ろしさや破滅的な影響を重んじて慎んで下さい』
慧心は冷静に、そう言った。
この後も、慧心は心平に剛徳寺の僧侶としての誇りを守り、規律を重んじるようにと言ったが、心平は自分の全てを打ち明け続けた。
慧心は心平の言葉をひとつひとつ丁寧に聞いて整理して議論したが、慧心がこうも強く反応した理由は、光明と心平が僧侶としての修行を放棄し、個人的な感情に流されることを許すことが、剛徳寺の存在そのものを危うくするからであると述べた。
慧心にとって、僧としての道を外れることは許せないものであり、信仰の力をもって二人の関係を断ち切ろうとしていた。
その態度は、非常に厳しく、時に冷徹に見えるが、それは慧心の深い信仰心と剛徳寺の伝統を守ろうとする強い意志から来ているものであった。
また、光明の過去が絡む中での現在の状況は、非常に複雑である。
光明は過去に犯した罪と向き合い、悔い改めようとしているものの、心平に対する気持ちが本物かどうかを確信できていない。
そのため、光明は自分の感情に戸惑い、心平を傷つけたくないという強い思いを抱きつつも、何を選ぶべきかが分からず、迷っている状態であった。
心平は、性別や外見にとらわれず、ありのままの自分を生きることを大切にしており、自由と個性を失わないことの大切さを慧心に伝え続けるものの、感情と倫理観の葛藤が渦巻き、二人の意見は食い違う一方であった。
心平は光明に対する感情が真剣であったが、慧心の厳しい態度に対しても自分の気持ちをはっきりと伝えることを試みるものの、慧心の言葉に圧倒され、一時的に沈黙せざるを得なくなってしまった。
『僧侶は、仏教の教義を厳格に守り、個人の修行とともに社会的な秩序を保つこと。聖職者として、世俗の干渉を避けること。精神的な修行や浄土などの仏教の教えを実践すること。仏教への深い帰依に女人禁制の規律は絶対です。平安時代の僧侶たちは、女性を僧侶として受け入れることはなく、女性が僧侶になることを禁じていました。仏教修行における浄化・純粋性を守るためという考えから来ており、女性が修行に関与することが精神的な障害となると考えられていました。私は現代よりも昔ながらの寺院の規律や伝統を守ることが、仏教の精神的な修行と同じくらい重要だと考えております。社会や寺院の中での秩序を保つために、厳格な教義や規律を守ること。失い続ける平安時代の僧侶思想を取り戻すべきだと思います』
慧心が持つ女人禁制を守ろうとする信念や、僧侶としての規律を守ることに対する強い姿勢は崩れることなく、規律の守護者として、歴代僧侶たちが信仰や教義を守るために戦ってきたものを守り続けていた。
伝統を守ることの大切さや、社会秩序を維持するために外部の変化や個々の感情を制御しようと真正面から向き合い、社会的責任感や伝統を重んじる姿勢を崩すなど慧心には考えられなかった。
つまり、慧心の思想は、平安時代の僧侶の思想、特に伝統的な仏教の規律や女人禁制、修行の浄化としての純粋性を重んじていたのである。
慧心の考え方は、平安時代の僧侶が守っていた厳格な信仰や規律を遵守するといもの。
すると、浄光が手を合わせながら、静かな声で、こう言った。
『私も理解しております。あなたが守ろうとしていらっしゃるもの、その信念がどれほど強いものであるかも。時代の変化や仏教の多様化により、最澄さまが提唱したような厳格な修行や戒律を守るという面が薄れつつあるのも現状でございます。しかし、私たちが今生きているのは平安時代ではございません。現代においては、私たちが教義を守る方法もまた変わってきているのです。信仰の純粋さや修行の厳格さが保たれていることにこだわり、仏教の教えが安易に商業化されることや、表面的な信仰に堕してしまうことに警戒するのも分かります。最澄さまが現代の天台宗を見たたら、法華経や一乗思想の本質は変わっていないとお感じになられるかもしれませんが、それがどのように実践されているか、あるいはどのように伝えられているかに関しては、その核心を守ることが重要だと、お考えになられるかと思います。つまり、仏教の教えを守る方法を模索しつつ、時代に合わせた仏教の普及方法に理解するでしょう』
慧心は眉をひそめ、浄光をじっと見つめながら答えた。
『それでは、私たちの信仰が揺らいでしまうのではございませんか。仏教は、今も昔も変わることなく、精神的な浄化と純粋性を重んじるものでございます。平安時代の僧侶方が守り続けてこられたもの、それこそが私たちが受け継ぐべきものでございます』
浄光は少し黙り込んでから、慎重に言葉を選んだ。
『仏教の教義や修行の重要性は変わりません。しかし、慧心さんがおっしゃるように、“純粋性”とは一体何でございましょうか? 仏教の教えは、常に人々を解放し、苦しみから救うものであるのではございませんか? それならば、なぜ人の自由を縛り、心の中での変化を受け入れようとされないのでしょうか?』
慧心は頑なに首を振った。
『変化は、時として危険を孕んでいるのでございます。私たちが守るものは、仏教が長年培ってきた秩序でございます。女人禁制もその一環であり、女性が修行に関与なさることは、私たちの道が乱れることが明白でございます。それが仏教の修行において最も重要なことでございます』
浄光は息を呑み、少しの沈黙をおいた後、答えた。
『ですが、慧心さん、あなたはその規律が本当に仏教の精神を守ることになるとお信じでいらっしゃいますでしょうか? 仏教は、形だけを守ることがすべてではございません。人々がどのように内面的に成長し、変化していくか、その過程を見守り、支えることこそが真の修行ではございませんでしょうか?』
慧心は激しく反応し、少し声を荒げた。
『私が申し上げているのは、形ではございません。修行の浄化としての純粋性、精神の清らかさを守ることこそが、仏教において最も大切なことなのでございます! 時折、現代の価値観に流されているように感じるのでございます。私たちが今求めるべきは、形骸化していない、本物の信仰でございます』
浄光は柔らかな表情で、こう告げた。
『その“本物の信仰”が、果たして他者を受け入れ、理解し合うことと矛盾するのでございましょうか? 私たちが生きている現代の社会では、多くの価値観が交錯し、柔軟な視点が求められているのでございます。女性の僧侶が修行をなさることが、果たして仏教の精神に反するのでございましょうか? 信仰の本質は、人々が心を一つにして仏法に帰依し、共に苦しみから解放されることにあると存じます』
慧心は少し驚き、静かに言葉を詰まらせながら言った。
『……それでも、私は伝統と秩序を守らなければならないと考えているのでございます。それが、私たちの道を正しきものとして守るためであると存じております』
浄光は穏やかに微笑んで答えた。
『その信念があってこそ、慧心さんの修行は強いものになっていらっしゃると、私も感じております。しかし、伝統を守ることと、時代に応じて柔軟に対応することが、必ずしも相反するものであるとは存じません。私たちが求めるものは、仏教が本来持っていた深い慈悲と共感を現代の私たちがどのように実践するかではございませんでしょうか?』
慧心は沈黙し、深く考え込みながら答えた。
『私は浄光さんが仰ることを完全に理解することはできないかもしれません。しかし、あなたの言葉には、耳を傾けるべきものがございます』
浄光は優しく、慧心を見つめた。
『私は、慧心さんのような信念をお持ちの僧侶を尊敬申し上げます。しかし、私たちが教えを守ることの本質は、共に歩み、理解し、他者を受け入れることだと存じます。私たちは、その深い部分を大切にすることが必要であると考えております。心平さんも慧心さんも選択肢の一つとして、お互いの言い分を頭に入れてはどうでしょうか』
慧心は、ゆっくりと頷きながら、心の中でその言葉を反芻した。
『私も、少しずつ考えていかなければならないと存じます』
ここで、心平が深く息を吸い込みながら、ゆっくりと口を開いた。
その表情は何かを決心したような、または何かを受け入れなければならないような、曇っていた。
『実は、法照さんから、バキュラの力に触れてはならないという、非常に厳しい警告を受けました。でも、どうして私の恋愛に、バキュラの力が関わってくるのでしょうか?』
その言葉を聞いた慧心は、一瞬の間をおいてから、沈黙の中で深い思索にふけるように視線を下ろした。
長い年月を経て、さまざまな出来事に耐えてきた慧心の目には、どこか無言の重みがあった。
やがて、慧心はゆっくりと口を開き、まるで心の底から語りかけるように言葉を紡ぎ始めた。
『…………………。…………光明さんはバキュラの力をお持ちでいらっしゃいます。光明さんが抱えるバキュラの力、それは普通の力とは違います。あの力を手に入れる者は、ただ力を得るだけではなく、その力がどれほど深く、そして絶望的なものであるかを自ら理解し、受け入れなければならないことを痛感させられるのです。光明さんがその力をお持ちでいらっしゃるということは、ただの偶然ではありません。光明さんは、その力がどれほど破壊的であるか、そしてそれを使うことがどれほど恐ろしい結果を招くかを十分に理解していらっしゃいます。だからこそ、光明さんは心平さんを傷つけることがないよう、あえて距離を置こうとされているのです』
慧心は一呼吸を置き、心平に向かって真摯な眼差しを向けると、さらに続けた。
『しかし、このバキュラの力を使う者には必ず代償が伴います。力が強ければ強いほど、その代償は重く、最終的には、その力に飲み込まれる危険性が常に付きまとうのです。もし、光明さんとお付き合いなさるとなれば、心平さん、あなたもその危険性の対象となることを避けられません。バキュラの力に触れようとする者たち、またその力を引き寄せようとする者たちの中で、男性であってもその危険性に適応できない者が少なくありません。理性を保っているつもりでも、その力の影響を完全に遮ることは不可能なのです』
慧心の声は次第に低く、強い説得力を帯びてきた。
その言葉はまるで、未曾有の災厄に対して警鐘を鳴らすように響いていた。
『どれだけ理性を保とうとも、その力に取り込まれてしまう者は増えていくばかりです。最初は小さな変化から始まり、次第にその力に支配され、次元の裂け目を引き起こすような状況に巻き込まれてしまうこともあります。法照さんが警告なさったのは、まさにそのことです。法照さんは、心平さんがその力に触れた時に、どれほど恐ろしい結果を迎えるかを見越して、あなたを守るために警告されたのです』
慧心は一瞬、言葉を切り、目を閉じるようにしてから再び目を開けて、静かに続けた。
『バキュラの力に飲み込まれてしまうと、ただ心身が破壊されるだけではありません。最も恐ろしいのは、その力があなたの内面にある優しさや愛情を、どれほど恐ろしい形に変えていくかということです。その変化は、想像を絶するものになるでしょう。あなたの中で、最も大切な部分が、最も残酷で歪んだ形で形作られていくのです』
その言葉は、心平の胸に重く響いた。
慧心の目に浮かんだのは、長年その力を扱ってきた者としての経験と、数多の犠牲者たちへの深い哀しみだった。
『そして、その力に引き寄せられ、闇の中に引きずり込まれてしまってからでは、もう遅いのです。心平さんがその力に取り込まれた後では、どれほど後悔しても遅いのです。闇の中に囚われた者が、最終的にその力から解放されることはほとんどない。どれほど苦しんでも、どれほど心が叫んでも、力がその人を支配してしまうのです』
慧心の言葉は静かであったが、どこか深い決意と警告の色を帯びていた。
慧心は心平を見つめながら、深く息を吐き、さらに続けた。
『だからこそ、私はお願いする。どうか、バキュラの力に触れないように。そして、その力がどれほど恐ろしいものかを、決して軽視しないように。それは、ただの力ではない。命をも飲み込む、深淵のような存在だということを、どうか理解してほしい』
その後、部屋の空気が一層重くなった。
心平はその警告を、言葉としてだけではなく、慧心の真剣な眼差しの中で感じ取っていた。
自分がこれから進む道が、どれほど危険なものであるか、そしてその先に待ち受ける試練がいかに厳しいものであるかを、少しずつ理解し始めていたのであった。
それから七日が経った。
光明は、心平に対して振り返ることのない決断を下した。
その五日間、心平の心の中では、言葉にできないほどの感情が渦巻いていた。
最初の日は、心平の頭の中に疑念がこだました。
光明が言ったこと、そして行動のすべてが、どこか他人事のように思えて、心には浮かび上がる不安が消えなかった。
だが、その不安が次第に確信に変わり、やがてそれが現実となった。
五日目になると、心平は少し冷静になり、光明との関係を少し距離を置いて見つめ直すことを決意した。
しかし、心平の中で沸き上がる感情は、ただの疑念や不安では終わらなかった。
それは失望であり、裏切りのようなものでもあった。
光明が心平に対して示した冷淡な態度、無関心とも言える振る舞いが、心に深く突き刺さった。
何も言わずにすれ違う日々。
言葉を交わすことはなかったが、無言の疎外感が次第に圧し掛かってきた。
三日目には、心平は心の中で決意した。
もう、光明にすがるのはやめようと。
その決意のもと、心平は思いきって光明の元へ足を運んだ。
今まで抑えていた感情をぶつけるつもりだった。
しかし、光明の目は、まるで心平認識していないかのように冷たく、心平の言葉はすぐに飲み込まれてしまうような気がした。
光明はただひとこと、『俺たち終わってるね』と言った。
それが、心平の耳に届いた瞬間、それを信じることができなかった。
心平の中で、心平と光明が共に歩んできた時間が、一瞬で崩れ去るような感覚を覚えた。
その後、心平は自分自身の感情と向き合うことを余儀なくされた。
光明が言った言葉が何度も心に響いた。
光明の目の奥には、もう二度と戻ることのない過去があり、心平を振ったその一言には、すべての決意が込められていた。
心平は、光明の気持ちを何度も振り返りながら、その意味を理解しようとしたが、それはあまりにも辛すぎて、心平は何も言えなかった。
ある朝、光明が心平の元にやってきた。
光明の顔には、どこか冷静で、何もかもが既に決まっているような表情が浮かんでいた。
心平は、これまでの間のすべての思いを込めて、今ここで何かを言わなければならないような気がした。
しかし、その言葉はどこか空虚で、光明の目には何の変化も見られなかった。
『あの時の告白の返事だけど……、ごめん…。恋人として付き合うのは無理。俺は霊だし、みんなを見守ることはできても誰か一人だけを特別に愛すとかそういうのはできない』
光明の声は、どこか遠くから聞こえるように感じ、心平はその言葉が現実だと理解しようとしたが、どうしても受け入れることができなかった。
心平は言葉を探しながら、涙がこぼれるのを感じた。
だが、光明の目の前では、それすらも無駄だと感じた。
心平は、しばらく沈黙を保ったまま、泣きながらその場を離れた。
短い時間の中で、心の中で経験した感情のすべてが、まるで長い年月を生きたかのように濃密で、重たく感じた。
その後、心平はただただ走り続けた。
何も考えず、ただ足が動くままに。
その背中には、すでに光明の影が遠ざかっていった。
心平は、その背中を見つめることなく、どこか遥かな場所へと駆け続けた。
生まれて初めて人を愛し、失恋し、愛に気づき、本気の汗をかいた。
『うわぁぁぁぁん!うわぁぁぁぁぁぁぁん!うわぁぁぁぁぁん!』
光明が心平を傷つけたくないと言った言葉も、冷たくした態度も、紛れもない、たった一つの愛だった。
この現実が心平を強くした。
その日、心平は自分が新たに生きるべき道を見つけたのかもしれない。
ただ、その道がどこへ続いているのかを知るのは、まだ先のことだろう。
バキュラは、暴走が収まり、笑顔を取り戻してヨガのイベントに帰ってきた。
心平は光明に振られたが、それでも二人の絆は深まり続けた。
慧心は、平安時代の僧侶の考え方をインターネッツで広め、世間を驚かせた。
そして、浄光は剛徳寺の次の副住職に選ばれ、本格的に学び始めたとさ。




