壊れそうな愛
瓜二つの顔を持つ澄子と友花の子。
澄子の子は剛仁、友花の子は輝。
どちらも男の子であり、まるで双子のようにそっくりであった。
お互いの赤ちゃんを抱っこしながら、澄子と友花は懐かしい思い出話に花を咲かせた。
友花は澄子が入院していたときに担当した看護師であり、出産前後の大変な時期を共に乗り越えた間柄だった。
二人とも母となり、それぞれの人生を歩みながらも、こうして再び巡り合えたことに感謝の気持ちを抱いていた。
剛仁と輝は、まるで自分の母親を確かめるかのように交互に顔を覗き込み、小さな手を伸ばして触れ合った。
その無垢な姿に、澄子と友花は自然と微笑んだ。
それから四日が経ったある日のこと。
心平が光明を庭に呼び出した。
剛徳寺の住職である桂之助に育てなおしをされている光明は、歴史や宇宙を学び、手品を楽しみながら、最近では悩み相談を電話で受け付けるなど、優しく思いやりの深い人間へと成長していた。
そんな光明に対して、心平は何を話すつもりなのだろうか。
夜の帳が下りた剛徳寺の庭。
静寂の中、心平は一人待っていた。
おつとめを終えたばかりの彼は、今日はいつもより少し特別な装いをしている。
白地に淡い桜の柄があしらわれた女の子の着物を身にまとい、髪を整え、ほんのりと紅を差した頬に、瞳を際立たせる繊細な化粧。
今日は特別な日でもないのに、なぜか心平はこの格好を選んでいた。
胸が高鳴る。落ち着かない。
まだ誰も来ていないのに、そわそわしてしまう。
“光明さん、ちゃんと来てくれるかな……?”
そう思いながら、心平は庭の灯籠の灯りに目をやった。
柔らかくゆらめく明かりが、風に揺れる草花を優しく照らしている。
その時——
『こんばんは』
心平の胸が、トクンと高鳴った。
光明が、庭の入口に立っていた。
そして、穏やかな笑顔を浮かべながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
心平は、慌てて背筋を正し、少し緊張しながらも笑顔で挨拶をした。
『こんばんは』
少し上ずった声になってしまったかもしれない。
それでも光明は変わらぬ笑顔で、心平をじっと見つめる。
『白、似合ってるね』
その言葉に、心平の胸がまたドクンと鳴った。
『ありがとうございます。今日、ちょっと頑張りました』
そう言いながら、心平は自分の袖を少し握りしめた。
すると、光明はふっと微笑んで、さらりと言葉を重ねた。
『かわいい』
一瞬、時が止まったように感じた。
心平の顔が、ふわりと赤く染まる。
『…………………』
何か言わなければ、そう思うのに言葉が出てこない。
今まで何度も光明と話してきたのに、今日はなぜか言葉が喉に詰まってしまう。
『どうしたの?』
光明が首を傾げる。
その無邪気な仕草が心平の動揺をさらに加速させた。
『いえ、あの……、光明さんに言われると嬉しいなと思いまして……』
ようやく絞り出した言葉が、驚くほど震えていた。
光明は、少し目を丸くしてから、くすりと笑った。
『何それ?』
心平は、もうどうしていいのかわからなかった。
ただ、心臓の音がやけに大きく響いているように感じた。
『光明さんのことが好きです』
『俺も好きだよ』
光明は笑顔で答えた。
『私が思う光明さんへの好きは特別な愛で…、つまり、その……私の彼氏になってください』
光明は驚き、困惑した。
『……俺には、わからない』
その言葉を口にした瞬間、光明は自分の胸の奥に、ひどく冷たい風が吹き抜けたような感覚を覚えた。
まるで、心平の言葉を受け止めきれない自分自身を責めるような、苦々しいものが喉の奥に引っかかる。
目の前の心平は、ほんの一瞬だけ寂しそうな顔をした。
しかし、すぐに微笑みを浮かべ、まるで何事もなかったかのように、静かにこう言った。
『いいんです。私はただ、伝えたかっただけですから』
その笑顔は、無理に作られたものではなかった。
しかし、光明にはわかってしまった。
心平の心の奥底に、ほんの少しの痛みが滲んでいることを。
それなのに、自分には何も言えなかった。
“愛”とは何なのか。
愛するとは、どういうことなのか。
光明は人を愛したことがない。
かつては怒りや憎しみ、悔しさばかりが胸に渦巻き、人を大切に思うという感情すら知らずに生きてきた。
今でこそ、住職や僧侶たちとの日々の中で、穏やかに過ごすことができるようになった。
しかし、“愛”が、どのようなものなのかは理解できないままだった。
心平の気持ちに応えられないのなら、せめて気まずくならないように普段通りに接しよう。
そう思いながらも、光明はどこかぎこちなくなっている自分に気づいていた。
それから数日が経った。
光明は、以前と変わらず剛徳寺に寄せられる悩み相談を電話で受けていた。
相手の声を聞き、ただ耳を傾けること。
それが今の光明にできる役目だった。
その日も、ある相談者が光明に語りかけていた。
『最近人生に行き詰まっちゃって……。実は恋人と喧嘩しちゃって……。でも、やっぱり大切な人なんです。何があっても、あの人と一緒にいたいって思うんです。どうしたらいいですか?』
“何があっても、一緒にいたい”
その言葉が、ふと光明の胸の奥に引っかかった。
大切な人とは、一緒にいたいと願う存在なのだろうか?
心平は、光明にとって“大切な人”なのだろうか?
『もう答えが出てるではありませんか。素直に謝って一緒にいたいと言葉にしましょう。手紙に頼るのもだめ。相手の目を見て言わなくては伝わりません』
考えてみると、心平の存在は、光明にとって日常の一部になっていた。
気づけば傍にいる。
くだらない話をしたり、一緒に食事をしたり、冗談を言い合ったり。
それが当たり前だった。
……もし、心平がいなくなったら?
その瞬間、なぜか胸の奥に小さな痛みが走った。
光明は、そっと息を飲む。
“俺は、心平がいないと寂しいのか?”
さらに数日が経った。
光明は、剛徳寺の庭を歩いていた。
春の風が心地よく吹き抜け、青々とした木々が揺れる。
ふと目を向けると、少し離れた場所で心平が僧たちと談笑していた。
明るく、屈託のない笑顔。
くるくると変わる表情に、周囲の僧たちも和やかに笑っている。
だが、それを見た瞬間、光明は自分の胸の奥がざわつくのを感じた。
なぜか、気に入らなかった。
今までは、心平が誰と話していようと気にしたことなどなかったはずなのに。
なのに、今はどうしようもなく落ち着かない。
まるで、自分が知らない世界に心平が行ってしまったような、そんな気持ちになる。
この感情は何なのか。
なぜ、こんなにも心がざわつくのか。
光明は、そこでようやく気づいた。
心平が、自分にとって特別な存在になっていたことに。
そして、その夜。
光明は境内の静かな庭で、一人佇んでいた。
夜風が頬を撫でる。
そこへ、心平が現れた。
『光明さん、こんなところで何をしているんですか?』
いつものように、優しく微笑む心平。
その姿を見た瞬間、光明の胸がまた静かに騒ぎ出す。
もう、誤魔化せない。
自分の中で、確かに何かが変わってしまっている。
光明は、ゆっくりと口を開いた。
『心平がいないと寂しい』
心平の瞳が、驚いたように大きく見開かれる。
『……え?』
『俺は、人を好きになるということが、今までわからなかったよ。でも最近、考えるようになったんだ。もし、心平がいなくなったらって』
心平は何も言わず、ただじっと光明を見つめていた。
光明は心平に見つめ返したまま更に口を開いた。
『気づいたら、心平を目で追ってるんだ。心平が笑っていると嬉しいし、誰かと話していると、なぜか落ち着かない……。特に慧心、アイツは気に入らない。これが“好き”なのかどうかは、まだわからない。でも、心平が大切な存在だってことは間違いない』
心平の頬が、ゆっくりと赤く染まっていく。
心平の目が、じわりと潤んだ。
そして、そっと微笑む。
『慧心さんは根っから仏教を尊重してる人なので恋愛には全く興味がありません。実は女人禁制だった神聖な剛徳寺を取り戻そうと剛徳寺の住職になりたくて子供の頃から努力を惜しまず、ここまで来れたのですよ。剛徳寺には楓芽さんですら立ち入れない場所に結界が張られているんです。今は悟りを開いたので住職になりたいという欲は消えてますが、深い信仰心は今後もずっと変わらないと思います。私の特別な存在は光明さんだけです』
光明は、初めて心が温かく満たされていくのを感じた。
これが、愛なのかもしれない。
まだ、すべてを理解したわけではない。
だが、それでも心平がいることが、ただただ嬉しい。
そんな気持ちを抱えながら、光明は静かに夜空を見上げた。
澄みきった空には無数の星が輝き、まるで果てしない時の流れを映し出しているかのようだった。
『宇宙って今でも広がり続けているんですよ』
心平が静かなトーンで呟いた。
『宇宙膨張か。成仏するまでには宇宙の端っこがあるのか無いのか、知りたいなぁ』
光明は目を細めて星を見つめながら答えた。
その言葉に、どこか懐かしさのようなものを感じた。
『宇宙に端があるのか、ないのか……』
静かな声でそう呟くと、心平がちらりと光明を見つめた。
『光明さんも、そういうこと考えたことあるんですか?』
『今、ちょうど宇宙のことを学んでるんだ。生きていた頃……いや、あの頃の俺は、生きていたと言えるのかどうか……』
光明の声は遠かった。
まるで、どこか遥か彼方を見ているような響きがあった。
『生きていた頃の俺は、ただ目の前のことに振り回されて、何かを深く考えることなんてなかった。ただ、どうしようもなく虚しい夜には……、星を見上げることもできなくて、ずっと外の世界が全く見えない環境の中に居たんだ。豪邸だけど、扱いは奴隷で………』
光明は自分の過去を全て打ち明けた。
桂之助や最蔵に話したように自分にされた豪邸で起きたこと、観音さまが剛徳寺に導いたこと、その後に起こした殺人事件のことを全て打ち明けた。
心平は横で光明を静かに聞き、どんな光明の過去も受け入れていた。
『あの頃は何を考えても、結局答えなんて出なかったし、何かを考えるのは無駄なことだって、そう思っていたんだよ』
『ここまで変わりましたね』
『今は……、そうだね。もしこの宇宙に端があるのなら、その先には何があるのか知りたくなる。もし果てがないのなら、それはそれで、どうしてそんなふうにできているのか知りたくなる』
光明はゆっくりと目を閉じ、一息ついた。
『光明さんは生きてますよ。知りたいことがある。何かを知りたいとか、感じたいとか、そう思えるのって生きてる証拠じゃないですか』
光明は目を瞬かせた。
『生きてる……か……』
『光明さんは、今だってこうして星を見上げて、宇宙のことを考えて……そういうのって、私には、すごく尊いことに思えます』
心平の言葉は、どこまでも優しく、まっすぐだった。
光明は再び夜空を見上げる。
『……俺はもう死んでるけど、もしかしたら……まだ、生きてるのかもしれないな』
星々が、どこまでも広がる宇宙の中で、静かに瞬いていた。
ただ、そこに広がる光の点々が、遠い宇宙の彼方で燃えているのだと思うと、不思議と心が落ち着いた。
『菩薩様は悟りを開きながらも衆生を救うためにこの世に留まる存在なのですよ。迷い苦しむ者のそばにいて、手を差し伸べる。まるで、夜空に輝く星のように』
心平の声は静かで、どこか優しかった。
光明は驚いたように心平を見つめた。
『星のように……?』
『そう。大悲をもってすべての衆生を救う観世音菩薩。どんなに遠くからでも人々の声を聞き、その苦しみを和らげる。まるで、暗闇の中にあっても、決して消えない光のように』
光明の表情が柔らかくなる。
『俺も、誰かにとっての星になれるかな?』
心平はふっと笑った。
『光明さんは剛徳寺にとって大きな星です』
『心平も俺にとって大きな星だよ』
心平の心臓が、一瞬跳ねる。
『えっ……』
『皆いつも、俺のそばにいてくれた。どんなときも、俺を見捨てなかった。……それがどれほどありがたかったか、今ならわかる。けど、心平だけは俺を特別に愛している』
光明は、夜空を見上げたまま、ゆっくりと話した。
『菩薩は俺たち一人ひとりの心の中にもあるものだと考える。慈悲の心を持ち、他人の苦しみに寄り添うことができるなら、その人自身が菩薩なのかもしれない』
心平は、そっと光明の横顔を見つめた。
『……光明さんは、もう菩薩みたいですよ』
光明は少し驚いたように目を瞬かせ、微かに照れくさそうな笑みを浮かべた。
『俺は、まだまだだよ。でも、また少しずつ、心平のおかげで変わることができた気がする』
そう言って、光明はふと隣にいる心平を見た。
満天の星の下、心平の瞳もまた、まるで夜空に散らばる星のように優しく光っていた。
次の日の夜も二人で星を眺めていた。
光明は、自分でも説明できない衝動に駆られていた。
いつも通り、心平と並んで夜空を見上げていたはずなのに、ふとした瞬間に横顔が目に入り、胸の奥がざわついた。
心平の柔らかな表情、細く美しい指先、ほんのりと上気した頬。
すべてがやけに鮮明に見える。
光明は、知らず知らずのうちに心平の方へと身体を傾けていた。
『……心平』
『はい?』
心平が振り向く。
その無邪気な瞳に見つめられ、光明は喉が詰まるような感覚に陥った。
心平の温もりがすぐ近くにある。
心臓の鼓動が妙に速くなる。
その時、言葉が自然と口をついて出た。
『俺の部屋に来て』
言った瞬間、自分の鼓動がさらに跳ね上がるのを感じた。
心平は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐにその表情が驚きへと変わる。
『……え?』
戸惑いを隠せない心平の声。
光明は何も考えずに誘ったわけではない。
どうしてこの言葉が出たのか、自分でも分からなかった。
ただ、心平が欲しかった。
もっと近くに、もっと強く感じたかった。
しかし、心平の反応を見て、光明は初めて、自分の行動の意味を理解し始める。
自分は今、何をしようとしているのか?
心平にとって、これがどういう意味を持つのか?
無邪気な心平を戸惑わせるつもりなどなかったのに。
沈黙が流れる。
心平は、目を伏せたまま、小さく息をついた。
『光明さん……私、嬉しいですけど……それって、どういう気持ちで?』
優しく問いかけられた言葉が、光明の胸に深く突き刺さった。
光明は答えに詰まった。
自分の中で渦巻く感情が、言葉にならない。
心平を求めたのは確かだ。
だが、それが何なのか、はっきりと説明できない。
ただ、本能的に、どうしようもなく惹かれてしまった。
“俺は本当に心平を愛しているのか?
そんな簡単な問いにすら、答えが出せない。
すぐに好きだというなら、すぐに嫌うだろう。
こんなに単純に感情が動くなら別れも簡単かもしれないというのに…。
だめだ、抑えられない。”
心平は静かに光明を見つめている。
『……光明さんが、私を求めてくれるのは嬉しいんです。でも……今の光明さんは、私がいれば誰でもいい、そういう気持ちではないですか?』
淡々とした口調だった。
でも、その言葉の奥には、確かな寂しさが滲んでいる。
光明の喉が詰まる。
『俺は……』
何かを言いかけたが、続かない。
心平は、にっこりと微笑んだ。
『私は光明さんが本当に私を好きになってくれるなら、その時は……その…、応えたいです』
頬を紅潮させながら、心平はまっすぐに言った。
光明は息をのむ。
心平の優しい言葉が、胸に深く染み込んでいく。
『今の俺は、だめ?』
『だめとかじゃなくて……』
心平は一度言葉を切ると、ふわりと微笑んだ。
『光明さんが、私じゃない誰かを求めることがあるかもしれないって思うと……少し、怖いです』
その言葉に、光明の胸が痛んだ。
心平を悲しませたくなかった。
しかし、心平の言う通り、今の自分は心平だけを愛しているとは言えないのかもしれない。
本能のまま求めることはできても、心平を愛するという感覚が、まだ分からない。
それが、光明の欠けているものなのだろう。
しばらくの沈黙のあと、光明はそっと口を開いた。
『……ごめん』
『謝らなくていいですよ』
心平は、柔らかく微笑んだ。
『光明さんが、私を特別だって思う日が来たら私の初めても全て光明さんに差し上げます』
そう言って、心平はそっと立ち上がる。
光明は、その背中を見つめながら、拳をぎゅっと握りしめた。
この胸のざわつきの正体を、いつか必ず見つけ出してみせる。
それが、愛するということならば。
そう、心に誓いながら、光明は夜空を見上げた。
その時だった。
『何をしている!!』
鋭い声が夜の静寂を引き裂いた。
光明と心平が振り向くと、そこには慧心が立っていた。
夜闇の中でも目は怒りに燃えているのがはっきりと分かる。
『……慧心さん』
心平が驚いたように口を開くが、慧心は心平の言葉を遮った。
『お前たち……! 何を考えている!?』
怒気を孕んだ慧心の声に、心平は思わず一歩後ずさる。
光明はそんな心平をかばうように前に出た。
『……俺たちは、何もしてない』
『何もしてない? では、何故こんな夜更けに二人きりでいる!?』
『ただ、話していただけだ』
『嘘をつくな!』
慧心の鋭い声が、石畳に響く。
その目は、まるで裁きを下す仏のように冷徹だった。
『光明、お前はもともと罪人の身だ。それを剛徳寺の住職が育て直し、お前はようやく人間としての道を歩み始めたばかりだ。それを……!』
拳を握りしめながら、慧心は声を震わせた。
『それを……女にうつつを抜かして穢すつもりか!!』
その言葉に、光明の表情が僅かに揺れる。
しかし、それよりも先に心平が反応した。
『……穢す、なんて……そんな言い方しないでください』
震える声で、しかしはっきりとした口調だった。
『私は光明さんを、穢そうなんて思っていません。そんなつもりは……』
『お前にそのつもりがなくとも! これが許されれば、剛徳寺の規律は崩れる! 光明も、お前も、修行の道から外れることになるんだぞ!』
『……』
心平は唇を噛みしめ、何も言えなくなる。
慧心はその様子を見て、深く息を吐いた。
『お前たちは、何のためにここにいる? 剛徳寺は、お前たちの欲を満たす場所ではない。これは僧としての誇りの問題だ』
『……誇り……』
光明は低く呟いた。
慧心は彼を真っ直ぐに見据えた。
『光明、お前がこの寺で学んできたことを思い出せ。お前はまだ、人としての道を歩む途中だ。心平も同じだ。お前たちが互いに惹かれるのは分かる。だが、それは修行を放棄する理由にはならん』
光明は、拳を握りしめた。
『……俺は……』
慧心はその言葉を待つように、じっと光明を見つめた。
心平はただ、祈るように光明を見つめていた。
光明は静かに息を吸い、そして――
『……まだ、分からない』
そう、呟いた。
慧心の目が細まる。
『……何が分からないというのだ?』
『俺は……確かに、心平に惹かれている。だが、それが「愛」なのかどうか……まだ分からない』
光明の言葉に、心平が僅かに目を見開いた。
『俺は、今まで誰かを愛したことなんてなかった。だから……これが本物の気持ちなのか、俺にはまだ……』
光明は拳を握りしめたまま、慧心を見つめた。
『でも、一つだけ言える。俺は……心平を傷つけたくない』
心平が、そっと目を伏せる。
慧心はしばらく沈黙していたが、やがて深く息をついた。
『……ならば、答えを出すまで関わるな』
その言葉に、光明は目を見開いた。
『お前が自分の気持ちに迷っている間は、心平を巻き込むな。そうでなければ、どちらも傷つくだけだ』
『……』
光明は言葉を失った。
慧心は、そのまま光明の肩を叩く。
『お前が何を選ぶかは自由だ。だが、剛徳寺にいる限り、僧としての在り方を忘れるな』
そう言い残し、慧心は踵を返した。
去っていく彼の背中を見つめながら、光明は静かに拳を握りしめた。
心平もまた、何も言えずに光明の隣に立ち尽くしていた。
夜空の星々は、何も語らず、ただ静かに瞬いていた。




