桃の節句
剛徳寺の朝は、澄んだ空気とともに静かに始まる。
柔らかな陽光が境内を包み込み、木々の葉が優しく揺れる音が微かに響いていた。
その日、澄子は生後二ヶ月の剛仁をだっこしながら、剛徳寺の庭をゆっくりと散歩していた。
澄子にとって、この瞬間はかけがえのないひとときだった。
澄子が剛仁をだっこし、愛おしそうにその小さな頬を撫でていると、突然、背後から慌てた様子の声が響いた。
『澄子さん!』
驚きに振り向くと、そこには息を切らせた浄光が立っていた。
その表情はただならぬ様子で、額には薄く汗が浮かんでいる。
『そんなに慌てて、どうしたの?』
澄子は不思議そうに問いかけた。
しかし、浄光はその顔を見た途端、まるで堪えきれないものを必死に抑えるかのように、ピクリと口元を震わせた。
『………………?!?!?!?!………っう!!!!!!!』
浄光の顔が引きつる。
そして一瞬、肩を震わせながらこみ上げる笑いを抑え込もうとするのが見て取れた。
しかし、それでも目尻はすでに緩み、どうにもならない様子だ。
『何がおかしいの?』
何がそんなにおかしいのか分からず、澄子は怪訝そうに浄光を見つめた。
白塗りに、おでこにはチョンチョンとした麻呂眉の平安貴族メイクの澄子の顔を見て思わず吹き出す浄光。
だが、浄光は咳払いを一つして、何とか真剣な表情を取り戻そうと努めた。
『ヴェェェン!!!(むりのありすぎる咳払い)……い、いえ……、あの…、今日はとても美しゅうございますね…………』
『泰然自若、笑われても動じません。何か用?』
『実は剛仁さまを抱えた人が居たので、誰かに連れ去られたのではないかと……』
『えっ?!』
『ですが……私の誤解だったようです……』
『誤解?』
『顔もそっくりで、それどころか服までまったく同じだったので……。現在、その方が事務室におります。とりあえず、一度来ていただけますか?』
澄子は剛仁を抱いたまま、浄光の後を追って事務室へ向かった。
浄光の様子があまりにも真剣だったため、内心では警戒心が募っていく。
もし、本当に剛仁に似た赤ちゃんがいたとしても、どうしてそんなに大騒ぎになっているのだろう。
事務室に到着すると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
目の前には、まるで剛仁をもう一人複製したかのような赤ちゃんを抱いた女性が立っていた。
そして、その女性は澄子の顔を見た途端、肩を震わせ、ついに耐え切れなくなったかのように吹き出した。
『ぶっ!!!!!!!!』
『えっ?!』
突然の笑い声に驚きながら、澄子もその女性をよく見た。
そして、次の瞬間、はっと気づいた。
『あぁっ!!!!入院した時にお世話になった看護師の友花さん!』
『澄子ちゃん!久しぶりーっ!!その子供……、結婚したの?!』
『うん、結婚したの。ここの副住職の最蔵さんと結婚したの』
『おめでとう!』
『ありがとう!友花さんも結婚したんだね』
『うん、面白くて素敵な人と結婚したよ』
『お互い幸せだね』
『本当の幸せは、これからだよ』
思いがけない再会に、二人は思わず笑みを交わした。
しかし、次の瞬間、友花の顔が困惑に変わる。
『突然、こちらのお坊さんに『うちの寺の子を返せ!警察を呼ぶぞ!』と言われて、ここに連れてこられたの…。何度も私の子ですって説明したのに……』
『えぇっ?!』
澄子は驚きのあまり、剛仁を抱き直しながら友花の腕の中の赤ちゃんを見た。
小さな顔立ちは驚くほど剛仁にそっくりで、さらに着ている服までまったく同じだった。
『ほんと……そっくり……!それに、服まで同じ!』
『これ、赤ちゃんの肌に優しい素材だからいいよね。気に入って何枚か買っておいたの』
『私もまったく同じ理由で買ったんだけど……こんなことになるなんて!』
友花と澄子は互いの赤ちゃんを交互に見比べながら、改めてその驚異的な偶然に言葉を失った。
一方、浄光は顔を青ざめたまま、気まずそうに友花に向き直った。
『……本当に申し訳ありませんでした……。まさか、このような偶然が起こるとは思わず、確認もせずに早合点してしまいました……』
『もう!本当にびっくりしたんだから!』
友花はぷくっと頬を膨らませながらも、すぐに吹き出しそうになり、笑いを抑えながら軽く肩をすくめた。
『まぁ、驚くのも無理ないよね~。でも、次からはちゃんと確認してよね!』
『はい……』
浄光は深く頭を下げた。
その場の緊張感はすっかり和らぎ、剛徳寺の事務室には和やかな笑い声が響いた。
『それにしても、澄子ちゃん、今日も可愛いね。お化粧も衣装も似合ってる』
友花が澄子の顔を見て、ほほ笑んだ。
『あっ……!』
澄子はようやく、自分の顔がおひなさまメイクになっていることを思い出した。
『今日は女の子が怒っちゃいけない日よ。だってひな祭りだもの。うふっ』
自分の顔を触りながら、澄子は思わず赤面した。
こうして、剛徳寺の一日は、笑いと驚きとともに、いつも通り穏やかに過ぎていくのだった。
と、思ったら、事務所の奥から更にもう一人のお雛様が現れた。
白塗りの顔に、額のチョンチョンとした麻呂眉。
淡い色の桃の花の柄があしらわれた白い着物を纏い、優雅な所作で現れた人物は、剛徳寺の僧侶・心平であった。
『おはようございます』
澄子たちの前に現れたのは心平であった。
『わぁ、可愛い!』
即座に友花が歓声を上げた。
『ありがとうございます。今日は、ひな祭りなので観光客の皆さんにお歌を披露する日です。是非、参加してください。にぃーっ!見てみて!お歯黒~』
心平はにっこりと微笑みながら答えた。
『…………ぶっ!!!!!!』
その瞬間、事務所の空気が凍りついた。
澄子と心平の麻呂眉を見た途端、浄光の表情が一気に崩れ、ついに笑いを堪えきれず吹き出してしまった。
更に心平のお歯黒を見て笑いを堪えるのに必死だった。
最低である。
『えっ?!』
澄子は一瞬、状況が理解できなかった。
しかし、浄光が肩を震わせながら笑いをこらえようとする姿を見て、カッと頭に血が上った。
『何笑ってるの?』
澄子の声は低く、怒りをはらんでいた。
周囲の空気がピリリと張り詰める。
『い、いや、その……』
必死に取り繕おうとする浄光だったが、目の前には真っ白に塗られた顔に麻呂眉を施した澄子と心平。
二人ともお雛様のような姿で、まるで平安時代からタイムスリップしてきたかのようだった。
見慣れない麻呂眉がツボとなってしまった。
『……っ!』
浄光は唇を噛み締めた。
しかし、震える肩がそれを物語っている。
笑いをこらえても、こらえきれるものではなかった。
『ぷっ……くく……っ!』
ついに限界が訪れ、浄光は両手で顔を覆いながら肩を震わせ始めた。
酷すぎるのであーる。
澄子の表情が変わった。
『何笑ってるの?』
眉をひそめ、腕を組む澄子。
だが、わざと怒っていることに友花には気づき、下を向いて笑いをこらえていた。
横にいた心平はわけが分からず、若干気まずそうに浄光を見た。
『えっ……?何?変?歯も黒くしたのに……。これから光明さんにこのかっこうで告白しようと思うのですが…、やめたほうがいいですか?』
『光明さんは、お寺のみんなのことが好きなので、みんながどんな姿になっても好きだと言うとおもいます』
『でも浄光さん…、あなた笑ってるじゃないですか……。私のこと笑った!』
心平は少し不安そうに俯いた。
『ち、違います!とてもお美しいです!』
慌てて手を振る浄光。
しかし、その言葉が逆効果だった。
『チャームポイントの丸い眉をよく見て。かわいいでしょ?』
澄子の声が低くなる。
睨みつけるように浄光を見つめる。
『うっ……』
一瞬、息をのむ浄光。
澄子の視線に射抜かれ、冷や汗が流れる。
『はい………とても……ええと……個性的で……はい……』
オーマイガッ!
『ふふっ、正直に笑ってもいいの。普段、しないメイクだから見慣れないものね。みんなが笑顔になったら、私は十分幸せですの。おほほほほっ』
澄子の笑顔は世界一輝いていた。
浄光は人の顔を見て笑ったことを反省した。




