持戒
剛徳寺から楓芽が出て行った次の日、桂之助が地下室の鍵を見つけた。
『ほっほっほっ、やはりな。楓芽さんはこれを見つけたか』
桂之助は地下室の鍵を空へ投げると、それを仏様が受け取った。
一方、僧侶たちの心にぽっかりと大きな穴が開いたような氣がした。
その穴はただの空虚感ではなく、まるで何か大切なものが無くなったような、深い喪失感に包まれている。
楓芽はみんなよりも早く起き、皆が眠りから目覚める前に外でスーパースター像の前でヨガをしていた。
その姿を見て、他の僧侶たちは自然と自分を省みることとなり、どこかしらの小さな不安とともに、楓芽の存在がどれだけ大きかったのかを痛感した。
楓芽の寝顔は誰一人として見たことがなく、徹底的に自分にも厳しい背中を後輩たちは見てきている。
楓芽は剛徳寺の中でも最も厳しく、その厳しさはしばしば冷徹さにまで至った。
言葉の端々に、ひとつひとつに、僧侶たちの心を揺さぶる強い力があった。
その厳しさこそが、剛徳寺の秩序を支えていたのだと、後から思えば痛いほど分かる。
楓芽が出て行った後、その姿を見ていた僧侶たちは、最初の数時間にわずかな動揺を感じ、その後は胸の中で何かが崩れ去るような感覚に捉えた。
住職の桂之助は普段から温和で、僧侶たち一人一人に優しく接する。
副住職の最蔵もまた、滅多に怒ることはなく、どちらも大きな器で僧侶たちを導いていた。
しかし、その温厚な姿勢が時に、楓芽の厳しさと対照的な位置にあったことに氣づく者も多い。
楓芽のような存在がいなくなったことにより、僧侶たちはそのバランスが崩れるのではないかと不安に駆られた。
朝の掃除にやってきた僧侶たちは、いつもと変わらぬ日常が訪れると思っていた。
しかし、清掃が始まった瞬間、僧侶たちは楓芽の姿を思い出し、あの厳しい言葉がどれだけ自分たちにとって大切なものであったのか身にしみた。
楓芽がかける厳しい言葉、時には冷たくも感じるあの眼差し。
その一瞬一瞬が、実は自分たちにとって非常に重要で、修行の道を進むための支えであったことを、今さらながら強く実感していた。
楓芽は、ただの指導者ではなかった。
あの厳しさには、決して他の者では代替できない独特の力もあった。
その厳しさは、時にはひどく冷たく、時には恐ろしいほどの鋭さを持っていたが、それが修行の道にとって必要不可欠なものだと氣づく者も居た。
徳密に嫌味を言う楓芽の顔を見て、あぁなってはいけないと学ぶこともあったが、お釈迦様の言葉を宿し目を瞑っていた。
しかし、その楓芽が今、この剛徳寺の敷地から去ってしまったという現実を受け入れることができない僧侶も少なくなかった。
楓芽の厳しさの中で、僧侶たちは自ら律してきた。
あの冷徹な言葉の裏にあったのは、他の誰でもない、楓芽自身の深い愛情と信念だったことを、改めて氣づかされることとなった。
その愛情があったからこそ、楓芽は他の誰も言えなかったような厳しい言葉をかけていたのだろう。
しかし、その厳しさの背後にあった深い思いやりを、今は痛切に感じるばかりだった。
その日、掃除を終えた後も、僧侶たちはどこか無気力で、どこか空虚な気持ちを抱えながら、普段の修行に臨んでいた。
楓芽がいなくなったことで、その厳しさを代わりに担わなければならないというプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、誰もが一歩踏み出さなければならないと感じていた。
しかし、誰もが自分の中でその空洞をどう埋めるべきか分からず、思い悩む日々が続いた。
このまま剛徳寺が崩れていくのではないかという不安を感じる僧侶も多くいた。
楓芽の存在があまりにも大きかったため、その喪失感を埋めるものが何も見当たらないと感じる者が続出した。
普段は冷静で物静かな僧侶たちさえも、その心の中では動揺を隠し切れず、毎日の修行に対して今までのような熱意を見せられない自分を責めていた。
これから剛徳寺がどうなっていくのか、楓芽がいなくなったことでその行く先を見通すことができず、不安は広がるばかりだった。
それでも、僧侶たちは次第に氣づくようになった。
楓芽がいなくなったことを嘆く暇はないのだと。
その空いた空洞をどう埋めるのか、どのようにして修行を続けていくのか、そのために何を学ばねばならないのかを、真剣に考え始めるようになった。
そして、何よりも自分たちの中に眠っている仏の種を引き出す必要があるのだと、心の底から実感し始めていた。
こうして、楓芽の不在が僧侶たちに与えた影響は、時間とともに少しずつ形を変え、やがて新たな力となって剛徳寺の中に芽生えていった。
だが、それはまだ始まりに過ぎなかった。
剛徳寺は、楓芽によって大きな転機を迎えていた。
楓芽がもたらした空虚感と混乱は、僧侶たち一人ひとりに深い影響を与え、心の中で何かが変わろうとしていた。
楓芽が居た時、剛徳寺の僧侶たちはその厳しさに圧倒されるようにして戒律を守り、修行に励んでいた。
楓芽の存在は、規律を守るための強い力となり、何も言われなくてもその厳しさが自然と自分を律するように導いていた。
しかし、楓芽が去った今、その厳しさは消え去り、空虚な日々が続く中で、僧侶たちは次第にその意味を理解し始めることとなった。
楓芽がいなくなった日から、剛徳寺の空気は一変した。
僧侶たちは普段通りに修行を始めるものの、どこか不安げで、その目には焦りが見えた。
それは自分たちにもその変化に氣づき始めていた。
朝の掃除はおろそかになり、以前なら楓芽が必ず見守っていたその時間に今は誰もが手を抜きがちだ。
楓芽は常に最も早く起き、最も厳しく、掃除や作務に取り組んでいた。
楓芽がいれば、その厳しさがすべてを引き締め、無言の圧力が僧侶たちを自然と律していた。
しかし、今それがなくなったことで、他の僧侶たちはその厳しさに頼っていた自分自身を痛感した。
そんな中で剛徳寺の裏方として努めている澄子だけは変わらず笑顔で日常お務めをする僧侶や観光客に対応していたが、その表情を一瞬で崩す出来事が発生してしまった。
剛徳寺に一本の電話がかかり、澄子が出た時のこと。
『もしもし、剛徳寺です』
『1年前に剛徳寺来た時は落ち葉が一つも落ちてなかったのに今日久し振りに来たら全体的にすごく汚い!トイレも汚い!ありえない!わざわざ飛行機に乗って遠くから来たのに伝説のスーパースター像にまで枯れ葉がくっついたままではないか!止観もヨガも予約したのに30分も待たされた!がっかり!』
このクレームを聞いた澄子は境内を見て回り、以前よりも至るところに落ち葉が目立つことに氣づいた。
『あぁっ!智真さんの努力の結晶、伝説のスーパースター像が……。神聖な庭まで、こんなに落ち葉が……。これは酷い…。公衆トイレも、うわ…、くっさ!100年分のうんこが集まったにおいがする!くっさ!楓芽さんが口酸っぱく言ってきた言葉も僧侶たちは何一つ生かせてないなんて……』
澄子は掃除をした。
澄子もお釈迦様の教えを大切にしていたため、特大セールで販売された水色のチェック柄のベビー服を購入して帰ってきた最蔵にも僧侶たちの欠点は言わなかった。
新聞には楓芽が剛徳寺の僧侶をやめたことが大きく取り上げられ、毎日のようにマスコミに追いかけられる楓芽が中国へ向かおうとしている時に空港で『何度も申し上げてる通り、今は大切なお勉強中ですので、やめてください。落ち着かれました際に、現状をご報告しますので……』と答えており、楓芽にとって大事な期間であった。
剛徳寺では日に日に僧侶の遅刻が目立ち、掃除は行き届かず、お寺にはクレームが入り、次第に剛徳寺の評判が落ちていった。
桂之助は穏やかに、最蔵は黙ってその状況を見守っていたが、内心その事態をどうにかしなければならないという焦燥感が募っていた。
しかし、どこかで楓芽がいれば、きっとこの状況を立て直してくれると無意識に思っていた自分を反省し始めていた。
そんな中、最年長の僧侶である慧心は、これまでの自分を深く見つめ直すことになった。
楓芽がいなくなったこの時期に、何度も自分に問いかけた。
なぜ、楓芽がいたときはすべてがうまくいっていたのか。
そして、楓芽がいなくなった今、なぜ自分たちがこんなにも軌道を外れてしまったのか。
その答えは、慧心の中で次第に明らかになった。
自分がどれだけ依存していたのか、そしてその依存が無意識のうちに自分を律する力を弱めていたことに氣づいた。
『私は、楓芽さんの言葉でしか行動していなかったんだ……。楓芽さんがいれば、何も言わずとも修行を続けられた。だが、今それができない。自分を律する力が足りなかったのだ』
慧心は心の中でそうつぶやきながら、決意を固めた。
楓芽のように厳しく自分を律することはできなくとも、自分の内面に向き合い、心を正すことはできるはずだと。
慧心は、外的な圧力に頼ることなく、自分の心を保ち、煩悩や欲望に流されず、清らかな心を持つことを誓った。
しかし、その決意が現実の中で簡単に実行できるわけではなかった。
どんなに強く心に誓っても、周りの環境や外的な圧力がそれを試すように次々と現れることを、慧心はすぐに実感することとなる。
剛徳寺の僧侶たちの心情が揺れ動く中、さらに厳しい現実が待ち受けていた。
剛光、彩雲、響律が、より高い収入を得られる場所に行くと決意し、剛徳寺を去るという事態が発生してしまった。
そのため、剛徳寺は急速に人手不足に陥り、修行やお寺の運営がますます厳しくなっていった。
住職の桂之助や副住職の最蔵は、その現実にどう対応すべきか悩んでいたが、もはや手遅れだった。
慧心もまた、収入のことを聞いて心が揺れた。
剛徳寺よりも遥かに高い給与が提示されたその場所に、心が動かないわけではなかった。
もし、その話を受け入れれば、自分の生活は今よりも楽になるだろう。
しかし、慧心はその誘惑に抵抗できなかった。
阿弥陀さまの前で、自分がそんなことを言えるはずがない。
自分が生きるために、そして人を導くために選ぶべき道は、金銭のためにお寺を去ることではないと、慧心は自分に言い聞かせた。
だが、慧心はこれも違うことに氣づくのである。
『阿弥陀さまの前で、私はどうしてこんなことを考えていたのだろう…。何かのために、何かをするべきでは仏の種は育たないではないか……』
と、慧心は深く反省し、今の自分がどれだけ煩悩に流されやすい存在であるかを痛感したのだ。
剛徳寺を離れるわけにはいかない。
自分の中に深く根付いていた信念が、どんなに誘惑があろうとも、慧心を引き留めたのだ。
それは、幼い頃から誓ってきた“剛徳寺で仏になる”という夢、その信念を破壊したくはなかったからだ。陰湿ないじめによって、その道を踏み外したこともあった。
これまで誰にも責め立てられなかった極悪非道の罪を背負いながら慧心は澄子の言葉をゆっくりと思い出しながら止観した。
慧心は、厳しさに頼っていた自分に氣づいた後、圧力がない中でも自分を戒めなければならないことを深く理解した。
今や、他人の言葉に依存するのではなく、自分の心に向き合い、自己を律する力を育てる時が来たのだ。
それは、もはや外的な圧力が必要なわけではない。
自分の心を整える力を持ち、それを実行することが、最も大切であることに氣づいたのだ。
慧心は、誰にも頼ることなく、日々のおつとめに精進し、内面的な修行を続けていくことを決意した。
その決意は思いつきではなく、深い悟りへの一歩であり、剛徳寺に対する深い愛と誓いでもあった。
今後も煩悩に打ち勝ち、日々の修行を通じて自己を高め、仏道に向かって歩み続けることを誓った。
こうして、慧心は自分の内面に向き合い、試練の中で成長することを決意した。
その決意は戒律の守りではなく、心の中で生きる仏法を実践し続ける強い誓いであった。
金剛龍寺、その神聖なる地に、誰も予期しなかった異変が起こりつつあった。
午前の鐘が鳴り響き、境内の空気はいつものように清浄で静謐だったが、その日、運命の糸がほつれ、そして新たな編み直しが始まった。
義徳の幼馴染、平賀天志は、金剛龍寺の一角で、数々の神秘と奇跡を感じ取ることができ、この日、今間まで一番不思議な出来事が起きた。
天志は、絵を描くことで、言葉では表現しきれない世界の深層に触れることができる、そんな不思議な才能を持つ青年でもある。
その日も、いつものように仏像の間近に座り、筆を手にしていた。
しかし、その筆が描こうとしたのは、ただの絵ではなかった。
それは、心の奥底に秘められた、何千年も時を超えて眠り続けていた何かだった。
天志が選んだのは、睡蓮。
その神聖な花、泥水の中から咲き誇る美しい花。
花言葉の通り、無限の神秘を内包するその存在を描こうとしていた。
その筆先が水面を描き、葉の緑が滲み、そして花弁が徐々に形を成すたびに、空気は次第に異様な熱を帯びていった。
天志の目は、まるで別の世界を見つめるように澄み切り、呼吸さえも浅くなっていた。
そして、ついに完成の時がきた。
その瞬間、金剛龍寺の境内に突如として、眩い光が満ちた。
それは、太陽の光ですらない、どこか遠くの神々しい天の源から放たれた黄金の光。
その光は、まるで天志の筆の動きに応じるように、穏やかに力強く空を裂け、広がりながら降り注いだ。
その光を浴びた地面は、ほんのりと温かく、まるで聖なる土が脈打つように震え、周囲の草木が一瞬にして深い緑へと染まった。
そして、その光の中心から現れたのは、なんと赤ん坊であった。
小さく、どこか崇高な存在が、空からひらりと舞い降りてきた。
黄金の光に包まれ、無邪気でありながら、その瞳には計り知れぬ古代の知恵と力が宿っているような、異次元から来た存在のような佇まいをしていた。
その赤ん坊は、地面に足をつけることなく、ゆっくりと、まるで空気のように漂うように降り立ち、まるで神々からの使者かのようにその場に現れたのだ。
その瞬間、金剛龍寺の周囲のすべてが静まり返った。
風の音も、鳥の声も、全てが止まったかのようだった。
世界の時間が一瞬、静止したかのような感覚が広がった。
そして、その赤ん坊は天志の元へと向かってゆっくりと歩み寄り、天志の目をじっと見つめる。
天志の手が、自然と筆を握り、そして言葉にできない何かを悟ったように、筆を持つ手を止めた。
その瞬間、空は再び音を取り戻し、地面は静かに揺れ動き、周囲の景色が戻った。
だが、天志の心には、それまでに感じたことのないような、深い安らぎと、そして無限の謎が共鳴していた。
何が起きたのか、何が隠されているのか、そのすべては理解できなかったが、天志の内に宿る直感はただひとつ、確信を持ってこう告げていた。
『これは、ただの偶然ではない』
赤ん坊を抱きかかえた天志は、まるで体が自然にその小さな存在に寄り添うかのように、腕の中でその姿を安定させた。
温かな黄金の光がまだ周囲にほんのりと残っており、空気は一層神聖なものに包まれていた。
赤ん坊の瞳は澄んでおり、どこか遠くの世界を見透かすように静かに天志を見つめている。
その眼差しには、過去も未来も超越した存在であることを感じさせるような、不思議な奥深さがあった。
天志はその小さな命の重みをひしひしと感じながらも、その瞬間、自分の中で何かがはっきりと定まったような氣がした。
自分の目の前に現れたこの赤ん坊は、ただの奇跡ではない。
きっと、何か大いなる目的を持って、この世に送り込まれたのだ。
天志はそのことを確信した。
その赤ん坊に宿る神秘的な力に、天志はただならぬ直感を抱き、思い切って義徳に話をすることに決めた。
幼馴染の荒木田義徳は、昔からの理解者であり、最も信頼できる相手である。
金剛龍寺の本堂に到着した天志は、深く息を吸い込み、しばし言葉を選んだ。
義徳は静かにその様子を見守りながら、何も言わずに待っていた。
天志が言葉を発するのと同時に、義徳の声は震え、だがその奥には確固たる決意が宿っていた。
『義徳、見てくれ…これが、今日、この寺に降りてきた存在だ』
天志は静かに赤ん坊を義徳に見せた。
その瞬間、義徳は驚きの表情を浮かべたが、すぐにその目に宿るものが変わった。
目の前の赤ん坊が放つ神秘的な光景は、ただの奇異な出来事ではないことを、義徳もまた直感的に感じ取ったようだ。
『これは…一体、どういうことだ?』
義徳が静かに問う。
天志は、まるで自分の内側でさえも問いかけるかのように、ゆっくりと話し始めた。
『わからない。ただ、感じるんだ。この赤ん坊には、特別な力が宿ってる。いや、むしろ、このお寺にとって、私たちにとって、何かしらの運命が深く関わっていることを』
義徳はしばらく黙っていた。
天志の言葉の重みを、そしてその時空を超えた存在感に圧倒されながら、心の中で何度もその意味を問い直していた。
『救世主かもしれない……』
天志の目を見つめる義徳の眼差しには、強い決意が宿っていた。
その瞬間、二人の間に静かな理解が生まれた。
この赤ん坊は、金剛龍寺の運命に何らかの形で関わり、そしておそらくは全ての人の人生にも深く影響を与える存在であることは疑いようがなかった。
『その赤ん坊をここで極秘で育てよう』
義徳の父、荒木田義之(金剛龍寺の和尚)が後ろからゆっくりと告げると、天志と義徳は頷いた。
『それが最良でしょう。ですが、この子が何者で、どんな運命を背負っているのか、私たちにはまだ何もわかりません。しかし、金剛龍寺の守り手として、この子を迎え入れることが、もしかしたら未来にとって大きな意味を持つのかもしれない』
その言葉が決定的だった。
天志はその後、赤ん坊を寺の一番奥の部屋に迎え入れる準備を整え、義徳と共にその日から新たな生活を始めることとなった。
お寺の内外は静かに、しかし確実に、何かが変わり始める気配を感じていた。
赤ん坊は、金剛龍寺で最も神聖な場所で育てられることになった。
その存在は、ただの小さな命ではなかった。
それは、何千年も眠り続けた古代の力の象徴であり、すべてを超越した存在そのものであった。
そして、天志と義徳は、その子がどのように成長し、何をもたらすのかを見守り続ける運命にあったのであった。




