布施ー後編ー
徳密から鍵を受け取って千日が経った。
楓芽は徳密にお返しされたひまわりの種を思い出し、この日、封を開いた。
『…………あれっ?!…………ない?!……えぇ?!』
まさかの中身紛失か。
確かに入れた筈のひまわりの種は一つも入ってなかった。
楓芽は氣を取り直して、その鍵を握りしめながら静かな寺の境内に佇んでいた。
頭の中で、何度もあの頃に戻ることがあった。
あの時、あの瞬間、何が自分を動かしたのか、何が楓芽を変えたのか。
そのすべてが、鍵を手にしたその一瞬に集約されていた。
初めて会ったのは剛徳寺ではなく、大学で当時は楓芽がアイドルから引退した直後だった為、内気な徳密は楓芽に話しかける勇気などなかった。
一見すると、徳密は普通の学生のように見えた。
少し無口で、どこか頼りない雰囲気が漂っていたが、徳密が持っているものはすでに、ただの学生ではない何かがあった。
だが、その当時の楓芽にはそのことに気付くことも、興味すらもなかった。
それはアイドルから引退し、仏教一筋でいたからである。
一方、楓芽は徳密が優秀で大きなお寺の息子なのにもかかわらず自分のお寺とは違う宗派の剛徳寺の住職になると宣言しているというのを新聞で知り、子供のころから剛徳寺の僧侶を目指す楓芽にとって徳密はライバル以外の何にでもなかった。
楓芽の心はその時点で、徳密をただのライバルとして扱っていた。
目の前に現れた一人の人間が、どれほどの背景を持ち、どれほどの実力を備えていようとも、楓芽にとってはそれを乗り越えてこそ意味があった。
しかし、楓芽が剛徳寺の僧侶になった頃に徳密は比叡山にとどまって修行していることを知り、ライバル心がいつの間にか激しい嫉妬にかられていた。
その嫉妬は、徳密が比叡山で修行を重ね、名を上げていく姿を見守りながら、自分が何も成し遂げられていないことに対する焦りから生まれたのである。
それに気付くたびに、自分がいかに不安定な存在であったかを痛感させられた。
だが、剛徳寺に徳密がやってきた頃には楓芽は自分に焦りを感じ、徳密に嫌味を言うようになった。
自分の目の前に立つ徳密が、どれほど優れた修行をしてきたかを知っていたからこそ、心の中で自分と比べ、ただただ悔しさと嫉妬が募るばかりだった。
12月1日に二人で托鉢をした日、目の前でハンカチを落とした女性に『ハンカチが落ちましたよ』と楓芽がハンカチを拾って声をかけると女性は無言でハンカチを受け取り行ってしまったところ、徳密が楓芽に『ありがとうございますくらいおっしゃったらよろしいのに……』と言い、楓芽が『きっと心の中でありがとうございますとおっしゃっていらっしゃることでしょう。それよりも、人に対して無私の心で助けや善行を行うことが重要でございます。人に対して施しを行う際には、見返りを期待することなく、純粋な思いやりの心を持つことが大切でございます』と言い、徳密は『楓芽さんのそういうところ大好きです』と言っていた。
その言葉は楓芽の心に深く刺さった。
それは、徳密がありのまま真っ直ぐに生きていることが伝わってきた瞬間だった。
普段、表面だけで繕った言葉を並べることに慣れていた楓芽は、徳密の言葉に触れたとき、そのあまりの素直さに驚いた。
そして同時に、その言葉が自分の中に何かを呼び起こしていた。
楓芽は自分のことを大好きだと言われたのが心底嬉しく思い、『ありがとうございます。そのようにおっしゃってくださるのは徳密さんだけでございます』と照れながらもちゃんと答えている。
素直な心を持った徳密に、今まで感じたことのない感情が芽生えた。
それは、確かに徳密が伝えた言葉に対する感謝の気持ちだったが、それ以上に何か温かいものが楓芽の心を温めていた。
だが、この時は自分の意見を隠さずに言葉にする徳密を見て、尊敬していた。
自分がこれまで抑えてきた感情や考えを、無理に押し殺さずに表現できること。
それこそが、徳密が楓芽にとってただの修行僧ではない、特別な存在であると確信していた。
人は自分のことを良く思われたいがために毒を隠して生きている。
楓芽は、きれいな言葉ばかりを並べて生きている大人たちの中でアイドルをやっていた過去があり、この時は徳密の言った言葉になんて人間らしくて尊いのだろうと感じ、寒い空の下で立っていることも寒さも忘れるほど心が温まるひと時であった。
その瞬間、楓芽は心から思った。
自分は本当に徳密と出会えてよかった。
徳密のような人間に、ようやく心から尊敬の気持ちを抱けることができた。
徳密の真摯さ、優しさ、さらけ出す毒、それがすべてを包み込むように感じた。
その瞬間、楓芽の手の中で鍵が冷たく光を反射した。
徳密から受け取ったその鍵は、ただの金属の塊ではなかった。
楓芽はその感触を確かめるようにしっかりと握りしめ、鍵の形状を心の中で再確認した。
そして、不意にその鍵を差し込むべき場所が頭の中に浮かび上がった。
鍵を持つ手が震え、その思いに導かれるように、何もかもが明確に決まった。
楓芽はその場で立ち尽くし、一瞬息を飲んだ。
地下室だ。
それは、お寺の奥深くにあるあの場所。
幼い頃からその存在を耳にしていたが、実際に足を踏み入れることはなかった。
だが、今、その場所が楓芽を呼んでいる。
胸の中には、好奇心とともに、何か得体の知れない重い使命感が沸き上がっていた。
徳密が手渡したその鍵が、何を開けるものなのか、何が待ち受けているのかはわからない。
しかし、今、この鍵を使う時が来たのだということを、直感的に感じ取っていた。
楓芽は無言でその鍵を扉の鍵穴に差し込み、静かに回した。
ガチャンと、鉄の扉が反応し、音を立てて少しずつ開き始めた。
まるで長い間閉ざされていた場所がその時を待っていたかのように、扉は重く、ゆっくりと動いた。
空気がひんやりとしており、地下に続く階段の先から漂う冷たさが、楓芽の背筋をわずかに震わせた。
扉が完全に開くと、深い闇が広がっていた。
そこに足を踏み入れるには、先に進むための光が必要だ。
楓芽は灯明を取り出し、穏やかな火を灯すと、光がほのかに広がり、周囲の様子が少しずつ見えてきた。
灯明の光に照らされることによって、地下室の冷たい空気と静寂が身を包み込む。
光が届く範囲を慎重に見渡すと、楓芽はそこに広がる不思議な光景に目を見張った。
巨大な数珠が、整然と並べられている。
それは百八個、1つ1つがどれも異常なまでに大きく、光沢を持ち、独特の存在感を放っていた。
数珠は床に散らばっているのではなく、まるで一つの儀式のために厳密に配置されているかのように、正確な位置に置かれている。
数珠を見つめる楓芽の心に、強い使命感と共に、かすかな恐怖が広がった。
それらの数珠は、単なる装飾ではない。
楓芽がこれまでに目にしたことのない、何か特別な何かを持っていることは明らかである。
その全体の配置が、ある特定の儀式を暗示しているようだ。
楓芽は意を決して、数珠に近づくと、深呼吸をしてその1つに触れた。
その瞬間、体の中を震えるような感覚が駆け抜けた。
手にした数珠の温もりと共に、楓芽の脳裏に明晰な声が響いた。
かすかな響きのようでありながら、確かにそこに存在していた。
楓芽は目を閉じ、その声に耳を澄ませると、自分の中にある何かが目を覚ますような気がした。
『オンバサラダルマキリソワカ』
楓芽は数珠を手にし、真言を唱えると、心の中に言葉にできない何かが湧き上がってきた。
数珠を握りしめた手のひらから、確かなエネルギーが広がるのを感じる。
その感覚に身を委ねながら、ゆっくりと前に進んだ。
数珠の中に込められた力が、少しずつ周囲に作用していくのがわかった。
歩を進めるごとに、楓芽は真言を三回唱えながら、次々に数珠を触れていった。
その音のような呪文が地下室の空間を震わせ、進むたびに数珠の一つ一つがまるで反応するかのように、僅かな振動を感じた。
周りの空気が次第に重くなり、そして明確な存在感が楓芽の周りに迫ってきた。
真言が楓芽の口を離れると、地下室の静けさがますます深く、神秘的に変わっていった。
数珠が1つ1つ、まるで生命のように呼応しているかのようだった。
次第に、自分の足元に広がる影が、奇妙にうごめき始め、その場所の全体に異次元的な圧力がかかってきた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
楓芽が一つ一つの数珠を触れながら進んでいくと、ふと前方に異変を感じた。
灯明の光が、何かを反射しているのだ。
その光の先を見つめると、やがてそれが1つの大きな仏像であることに気づく。
その仏像は、異常に静かでありながらも、どこか無限の力を秘めているように感じられた。
楓芽の体の中で、何かが確実に変わり始めている。
真言を唱え、数珠に触れ、進み続けたその先で、楓芽は仏像と向き合った。
その瞳を見つめた瞬間、仏像が微かに動いたかのように感じ、楓芽は足元からの力を感じた。
何かが、ついに解放されたのだ。
楓芽の背筋に電流が走るような感覚が広がり、全身が緊張で硬直した。
灯明が揺れ、地下室の隅々にまでその光が届く。
仏像の目が徐々にその光を吸い込むように輝きを増し、周囲の空間が異様な圧力を帯びてきた。
その場に漂っていた重苦しい静寂が、今、崩れ去るのを感じた。
楓芽は息を呑んだ。
仏像の表面がわずかに震え、その目が今度はゆっくりと楓芽に向けられた。
その瞳の奥から放たれる光は、まるで無限の時間を感じさせるような深さがあり、楓芽の心に直接響いてくるようだった。
その瞬間、楓芽の中に何かが起きた。
これまでに感じたことのないような意識の変化。
それは感覚ではなく、何か大きな力が自分に働きかけている。
自分の体が、精神が、まるでその仏像と一体化していくような錯覚に陥る。
その時、仏像の口から低い声が響いた。
“お前は、何を求めるのか?”
その声は、地下室に響き渡り、楓芽の心に強烈に突き刺さった。
恐怖ではなく、深い洞察と呼び覚まされるような力がその声に込められていた。
楓芽はゆっくりと、そして慎重に答えた。
『私は私の中にある答えを見つけたく存じます。ただ、どのようにすれば私の力が、この世界を救うことができるのかを知りたかったのでございます』
その言葉を発した瞬間、周りの空気が一層重く、そしてまた異次元的な力が渦巻くような感覚に包まれた。
仏像の瞳が再び光り、今度はその目の中に一つのビジョンが映し出されるように、楓芽の前に鮮やかなイメージが現れた。
それは過去の記憶でもなく、未来の出来事でもない、まるで時空を超えた何かだった。
そこには、過去の出来事と未来の兆しが同時に存在しているようだった。
楓芽はその中に自分の姿を見つけ、しかしその姿は今の自分ではなかった。
そこに映るのは、かつて感じたことのない強い意志を持ち、誰かを導く役割を担う人物だった。
“これが、お前の道である”
仏像の声が再び響いた。
その言葉は楓芽の心に深く刻まれ、同時に不思議な静けさを呼び起こした。
楓芽はただ立ち尽くし、その声を受け入れるしかなかった。
仏像が言った“道”という言葉が何か非常に重大な選択を意味していることを楓芽は本能的に感じ取った。
視界が次第にぼやけ、暗闇が再び楓芽を取り囲む。
その瞬間、灯明の火が一瞬消え、地下室は完全な闇に包まれた。
だが、その闇の中で、楓芽は自分の内面が光に包まれるような感覚を覚えた。
無意識に胸を押さえながら、その変化を感じ取った。
しばらくの沈黙の後、仏像の目が再び光り、その声が静かに響いた。
“お前は、覚悟を決める時が来た“
楓芽の中で何かが弾けるようなものを感じた。
覚悟、そう、それは自分の中で何度も試され、時には逃げようとした言葉。
しかし、今、その覚悟が必要だと強く感じた。
楓芽は深呼吸をし、静かにその場に跪いた。
心を静め、全てを受け入れる覚悟を決めた。
『私は、この道を歩ませていただきます』
その言葉と共に、仏像の目が一層強く輝き、地下室の空間が再び動き始めた。
数珠が微かに震え、部屋全体が徐々に明るさを取り戻す。
灯明が再びその小さな火を灯し、明るく照らされる中、楓芽は再び立ち上がった。
その時、地下室の奥から、長い時間を経て封印されていた扉が、ゆっくりと開く音が聞こえた。
扉の向こうには、未だ見ぬ世界が広がっている。
楓芽はその扉を一歩踏み出すべく、歩みを進める決意を固めた。
そして、楓芽の新たな旅が始まった。
楓芽が踏み出す一歩を決意したその瞬間、目の前の仏像が、もう一つの不思議な物を示すかのように、静かに目を逸らした。
その視線の先に、ふと目を留めたのは、地下室の床に広げられている風呂敷だった。
最初は気づかなかったが、仏像の目線が示す先に、何か異様なものが置かれていることを認識した。
風呂敷は、他のものと同じように一見普通に見えた。
だが、なぜかその存在が楓芽の心を引きつけて離さなかった。
風呂敷は紫色で、しっかりとした質感がある。
その表面には何かしらの模様が施されており、楓芽が近づくにつれて、微細な金色の糸で織られた文様が浮かび上がるのを感じた。
何かを包み隠すように、その風呂敷は広げられていた。
楓芽は慎重に近づき、膝をついてその風呂敷に手を伸ばした。
手が触れた瞬間、その温かさが伝わってきた。
まるで生きているように、風呂敷から柔らかな熱を感じたが、それは決して不快なものではなく、むしろ安心する温もりだった。
楓芽は風呂敷をゆっくりと包みを解くように広げていった。
軽く引っ張ると、布が音を立てて開かれ、中身が見えてきた。
その中には、古びた巻物と一緒に、金色に輝く小さな箱が置かれていた。
巻物には見慣れた文字が書かれているようだが、それは楓芽の目にも見覚えのある文字だった。
巻物の表面に触れると、微細なエネルギーが楓芽の指先に伝わってくるのを感じ、思わず息を呑んだ。
箱には不思議な刻印が施されており、それもまた知らない形だったが、どこかで見たような気がした。
金の箱は、まるで楓芽を待ち構えていたかのように、手にすっと収まる。
箱の重さは不思議と軽く、しかしその中には確かな力が宿っているような気がした。
その箱を持つことで、楓芽は何か大きな秘密に触れたのだと確信した。
風呂敷をさらに広げると、巻物の中に何か記されている情報が浮かび上がり、やがてその記号や文字が理解できるように変化する。
楓芽は目を見開き、巻物に書かれた内容を一文字ずつ追う。
その言葉には深い知恵と、未来を変えるような重大な意味が込められているのを感じた。
『これは…。そんな………。徳密さんは最初から私のことを……………』
楓芽は小さく呟き、再び金の箱を手に取った。
その箱は、楓芽が求めていた答えを含んでいるのだろうか?
それとも、これから始まる旅の中で、自分に与えられた試練を意味しているのだろうか?
楓芽の目の前には、仏像が静かにその動きを見守っている。
無言のまま、仏像は楓芽の決断を待っているようだ。
楓芽はその場で再び深呼吸をし、目の前に広がる未知の世界に向けて、最後の一歩を踏み出す覚悟を固めた。
その時、風呂敷の中から出てきた金色の箱と巻物が、次第に微かに輝き始めた。
何か大きな力が、確実に楓芽を次の段階へと導こうとしているのを楓芽は感じ取った。
その日の夕食後、楓芽は他の僧侶たちと共に、静かな食堂の中で食事を終えた。
いつもと変わらぬ時間、いつもと変わらぬ空気。
だが、楓芽の心の中には大きな決断が宿っている。
食事を終えた後、僧侶たちはそれぞれの仕事や修行に戻る前に、何気ない会話を交わしていたが、楓芽はその中に溶け込むことなく、ただひとり静かに座っていた。
その時、突然、楓芽は食堂の中心に立ち上がった。
僧侶たちは、驚きの表情を浮かべながらも、何事かとその動きを見守った。
楓芽は一瞬、静かに部屋を見渡し、そして無言でその場に立ち尽くした。
その表情は普段の厳しい顔を保っていたが、誰もその瞳の奥に秘められた深い思いを読み取ることはできなかった。
しばらくの沈黙が続き、周囲の者たちも、楓芽が何かを言うのを待っていた。
その沈黙の中で楓芽は無表情で、ゆっくりと口を開いた。
『私、一条楓芽は本日にて剛徳寺の僧侶を辞めさせていただきます』
その一言が、食堂の空気を一変させた。
『何故ですか、楓芽さん。何があったのでしょうか?何がご不満でいらっしゃるのですか!』
『…………………………』
最蔵は感情をむき出しにして引き留めようとしたが、楓芽は揺るぐこともなく黙っていた。
驚き、疑問、そして困惑の視線が一斉に楓芽に注がれた。
しかし、楓芽はその視線を受け流すことなく、静かに言葉を続けることはなかった。
なぜ、どうしてこの決断に至ったのか、理由を明かすことなく、楓芽は堅く口を閉ざしたまま、ただ一言だけ残した。
『ありがとうございました』
その言葉は、まるで誰に向けたものでもないかのように、ただその場に響くだけだった。
そして、何の前触れもなく、楓芽は食堂を後にし、足音を響かせながら寺の本堂へと向かった。
周囲の僧侶たちは、何が起こったのかを理解できずにただ見守ることしかできなかった。
その後、楓芽が剛徳寺の門をくぐり、その先に歩み出すとき、誰もがその行き先を知ることはなかった。
楓芽がどこへ行くのか、何を目指しているのか、それについては何一つとして明かされることはなかった。
そして、楓芽は雨の中、傘も差さずに歩き、次第に遠ざかっていく。
スーパースターの銅像が雨にうたれ、涙を流して楓芽を見送っているように見える。
誰も楓芽の後を追うことはできなかった。
剛徳寺の境内には静寂が戻り、僧侶たちはそれぞれの日常に戻っていった。
しかし、楓芽がその後に選んだ道、そしてその理由が何であったのか、誰もが心の中に疑問を残したまま、静かに幕を閉じたのであった。




