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布施ー前編ー

剛徳寺の境内に降り注ぐ朝日が、冬の冷たい空気を優しく照らしている。

新しい命が生まれてから数週間、お寺の生活はいつも以上に温かい空気に包まれていた。

最蔵と澄子の間に生まれた剛仁(たけひと)は、僧侶たちにとっても特別な存在となり、お寺全体が一つの家族のように絆を深めていた。


最蔵は、これまでに見せたことのないほど柔らかい表情を浮かべ、剛仁を抱いていた。その目には、父親としての責任感と深い愛情が宿っている。

生まれて間もない剛仁は、最蔵の腕の中で安心したように小さな手を動かしていた。


『ぷくぷく、ばぁぁぁあぁ!あははっ、笑ってる、笑ってるぅ~』


最蔵は満面の笑みを浮かべ、澄子に剛仁を見せた。

その瞬間、澄子も自然と笑顔になり、疲れを忘れるようにして剛仁の顔を覗き込む。


『わぁ、かわいい~』


澄子は感嘆の声を漏らしながら、そっと剛仁の頬を撫でた。

その手は優しく、母親としての愛情が溢れている。


最蔵は、育児のベビーグッズを買いに出かけることが増えた。

おむつやおもちゃ、そして温かそうなベビー服。

お買い物をする最蔵の姿は、すっかりお寺の副住職ではなく、どこにでもいる普通の父親だった。

店員に赤ちゃん用品のアドバイスを求める様子は真剣そのもので、お寺に戻るたびに僧侶たちが『最蔵さん、また赤ちゃんグッズ買い足したんですか?』と笑顔でからかうほどだった。


一方、澄子も最蔵と一緒に剛仁の世話に全力を注いでいた。

夜中に何度も起きて授乳をしたり、泣き止まない剛仁をあやしたりと、慣れない育児に四苦八苦していたが、その姿は明らかに母親そのものだった。


『最蔵、おむつの交換ありがとね』


『ううん、任せて。もうコツは掴んだよ』


最蔵は手際よくおむつを替えながら、剛仁に話しかける。


『これですっきりだぞぉ~。剛仁、泣いて教えてくれてありがとうだよ。いい子だねぇ~』


こんな温かい日々の中で、剛徳寺の僧侶たちは二人を温かく見守っていた。

おつとめを終えた後、時折剛仁の顔を見に来る僧侶たちは、二人の親代わりのように接していた。

その中でも、出産経験のある照子の支えは最蔵と澄子にとって大きな存在であった。


ある日、澄子は剛仁を抱きながら照子に感謝の気持ちを伝えた。


『照子さん、本当にいつもありがとうございます。育児のこと、いろいろ教えてもらって助かってます』


照子は柔らかな笑顔を浮かべて答えた。


『いいのよ、澄子ちゃん。あなたたちは家族みたいなものだからね。特に最蔵にとって、私は第二の母みたいな存在なの』


その言葉に、最蔵が少し恥ずかしそうに笑った。


『そうですね。照子さんには、ずっと面倒を見てもらってましたから……』


照子は最蔵の頭をそっとなで、次に澄子にも優しく頭をなでながら言葉をかけた。


『澄子ちゃん、あなたも私にとっては娘のような存在だよ。だから遠慮しないでね。困ったときはいつでも頼ってちょうだい』


その言葉に澄子は思わず、うるっときた。


『嬉しい、ありがとうございます……、本当にありがとうございます……』


照子は澄子の涙を見て微笑み、最蔵と澄子の両方の頭をそっと撫でた。

その仕草は母親そのもので、二人に深い安心感を与えた。


『あなたたちは本当にいい家族になる。剛仁ちゃんも、こんなに素敵な両親のもとに生まれて幸せね』


澄子は涙を拭きながら頷いた。

その横で、最蔵も感極まった表情を浮かべていた。

二人とも感受性が豊かで、涙脆いところまで似ているのだ。


その日の夕方、境内に広がる夕焼けの中で、最蔵と澄子、そして剛仁が並んで座っていた。

三人を包む温かな光の中、剛徳寺の鐘の音がどこか遠くで響いていた。


剛徳寺の境内には、冬の澄んだ空気が漂い、静寂の中にも穏やかな活気が感じた。

新たな命が生まれたことで僧侶たちの心には喜びが広がり、日常の中にもどこか柔らかな雰囲気が宿っている。

しかし、そんな中、楓芽の心には密かに葛藤が芽生えていた。


最近の仏教ブームの波に乗り、全国のゲームセンターに登場した仏教僧フィギュア。

各フィギュアには有名な僧侶の名言が刻まれ、その一つひとつが仏教を広める新しい形として注目を集めていた。

楓芽の目を引いたのは、伝教大師・最澄のフィギュアだった。

そこには楓芽が特に心酔している名言、“施す者は天に生れ、受くる者は獄に入る”が刻まれていた。

この言葉は、僧侶としての道を歩む上での指針であり、自分自身を律する重要な教えでもある。


しかし、このフィギュアを手に入れたいという“欲”は、僧侶としての自分の在り方に反すると楓芽は強く感じていた。

僧侶は無欲、欲望に心を奪われることは修行の妨げになる、そう教えられてきたからだ。

楓芽はこれまで、止観を通じて物欲や執着心を遠ざけてきた。

だが、このフィギュアの存在を知った瞬間から、心は激しく揺れ始めてしまったのだ。


この日から楓芽は激しい雑念との闘いが始まった。

勉強の時間、経文を読みながらも、ふとした瞬間にフィギュアのことが頭に浮かぶ。


『あのフィギュアを手に入れたら、最澄さまの名言を毎日眺めて、いつも以上に修行に励める……』


と、一瞬思いを巡らせる自分に気づき、すぐに頭を振って打ち消す。


『いいえ、これはただの欲…。修行を続ける僧侶として恥ずべきこと……』


と自分を戒める。

しかし、頭に浮かぶイメージはまるで消えない蜃気楼のように何度も戻ってきた。


一人で止観をしているときも、深い呼吸をしようとするたびに雑念がよぎる。

フィギュアがゲームセンターのクレーンゲームの中に輝いている様子、実際にそれを手に入れたときの満足感。

そういった情景が次々と浮かび、心を乱していく。

雑念が頭を満たすたびに、楓芽は自分に嫌気が差した。


『私は我欲に汚れた僧侶だ……』


声には出さないが、そう思わずにはいられなかった。


そんなある日、剛徳寺の決まったお買い物の時間が訪れた。

この時間、お寺の僧侶たちは日用品を揃えたり必要なものを買い出しに行くことが許されている。

楓芽はその時間が近づくにつれ、自分の中で揺れる気持ちに決着をつける必要を感じていた。


『このままでは、私は……』


楓芽は、部屋の小さな仏壇に手を合わせながら心の中で祈った。


『フィギュアを手に入れるなら、僧侶をやめよう。僧侶を続けるなら、フィギュアを手に入れない。それ以外の選択肢はない。しかし、この極端な考えも改めなくては!』


そう静かに決意した。


お買い物の準備をしながら、楓芽の心は静かに燃えていた。

手に入れることを諦めるのか、それとも修行を捨てるのか。

どちらを選んでも、簡単な道ではない。

周りには悟られないよう、いつものように穏やかな表情を作っていたが、その胸中では激しい嵐が吹き荒れていた。


ついに、お買い物の時間になり、他の僧侶たちとともに剛徳寺を出た楓芽。

目指す先は日用品を扱う店でありながら、その足は自然とゲームセンターの方向へと向かっている。

葛藤の末にどちらを選ぶのか、楓芽の心はまだ完全に固まってはいない。


ゲームセンターの入り口に立ったとき、遠くから見えるクレーンゲーム機の中で最澄のフィギュアが静かに佇んでいる。

輝くその姿を目にした瞬間、楓芽の中に新たな気持ちが芽生えた。


『仏教僧として、この汚れた欲望とどう向き合おうか……』


楓芽は無意識にお店に近づいた。

ゲームセンターの入り口をくぐると、中は賑やかな音楽と人の歓声で満たされている。

クレーンゲームの明るいライトが照らす中、目当ての仏教僧フィギュアが入った機械が奥の方にあるのを見つけた。

最澄のフィギュアは、他の僧侶たちのものと一緒に並んでいたが、その姿だけがひときわ輝いて見える。


楓芽はゆっくりと機械の前まで歩み寄り、ガラス越しにフィギュアを見つめた。

その小さな姿には、最澄が遺した言葉の力が凝縮されているように感じる。

そこに刻まれた“施す者は天に生れ、受くる者は獄に入る”という言葉が視線の先にあり、それはまるで楓芽の迷いを試す試練のようだった。


『これを手に入れることは、私の修行を捨てることを意味する。それで本当にいいの……?』


楓芽は財布を取り出し、千円札を手にした。

クレーンゲームのコイン投入口が目の前にある。

財布を開ける手が震え、心の中で激しい葛藤が生まれていた。


『私は天台宗の僧侶。このような欲に負けてはならない。でも……このフィギュアを手に入れれば、最澄さまの教えをより身近に感じられる……』


そう考えると、胸の奥に熱い感情が湧き上がった。

楓芽は自分の中で欲望と信念がぶつかり合う音を感じた。


そのとき、隣のクレーンゲーム機で遊んでいる少年が目に入った。

少年は何度もトライし、ようやく目的のフィギュアを獲得した瞬間、満面の笑みを浮かべていた。

少年が手にしたのは臨済宗の開祖、栄西のフィギュアであり、大切に持ってその姿を眺め、笑っていた。


その光景を見た瞬間、楓芽はハッとした。


『私が手に入れたとして、それこそ無意味。物に宿るのよりも心に宿るもの、それが私を導く仏道』


楓芽は深く息を吸い込んだ。

心を静めるように目を閉じ、手の中にある千円札をゆっくりと、お財布に戻した。

ガラス越しの最澄のフィギュアに向かって一礼をし、静かにその場を後にする。


剛徳寺に戻る道すがら、楓芽は心の中にある種の解放感を感じた。

欲望に打ち勝ったことへの強さと、自分が目指す道を再確認したことへの喜びが混じり合っていた。


『欲を持つことは決して悪ではない。ただ、それに支配されてはいけない』


剛徳寺の門が見えてきた頃、楓芽は静かにそう呟いた。

自分が選んだ道に後悔などない。

僧侶としての自分を捨てず、同時に欲望と向き合ったことで、新たな成長を遂げたように感じた。

そして自室へ行き、止観した。


執着するのは人間らしいこと。


それを悪いことだと責める必要はない。


大事なのはその執着が自分をどこに導くのかを見極めること。


その執着が苦しみを生むなら手放し、喜びや成長につながるなら受け入れる。


それが仏教の教えだ


楓芽の中で浮かび上がったものは仏の道、そのものであった。


その後、すっきりした顔で立ち上がった。

たくさん迷って、たくさん学ぶ。

それが僧侶としての道だけでなく、人間としての道を深めることになる。

楓芽は、自分にありがとうと言って長い廊下を歩き始めた。

その顔、その姿勢、それは前よりも美しい姿であり、他の僧侶でも楓芽が更に強く地に立っていることに氣づくほどに成長していた。


こうして楓芽は再び気持ちを新たに修行に励むことを誓った。


その後、楓芽はフィギュアのことを思い出すたびに自分を戒め、同時に微笑むようになった。

それは、かつての迷いと向き合った自分の証であり、僧侶としての成長を感じるきっかけでもあった。

剛徳寺の日々は続き、その中で楓芽の心もまた、少しずつ深まりを増していった。

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