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最蔵と澄子

あれから1年が経ち、最蔵と澄子の関係は誰にも知られることなく、これ以上にないほど親密なものへと進展していた。

短いようで濃密な時間をともに過ごす中で、二人の距離は自然と縮まり、互いの存在がなくてはならないものとなっていた。

しかし、剛徳寺の僧侶たちはもちろん、普段から澄子と接する機会の多い楓芽でさえも、二人が交際していることにはまったく氣づいていなかった。

澄子がまだ秘密にしておきたいと願っていた為、最蔵もその意向を尊重していたのだ。


そんなある日のことだった。

連日の忙しさに追われる澄子を氣遣い、最蔵は提案した。


『澄子さん、たまにはリフレッシュも必要だと思うんだ。温泉に行って、少しゆっくりしよう』


突然の誘いに驚きながらも、澄子は目を輝かせて即座に答えた。


『行きたい!最蔵さんと温泉なんて、楽しみ』


こうして二人は、初めての宿泊旅行として箱根を目指すことになった。

車に乗り込むときから、普段とは違う非日常感に二人とも少しそわそわしていた。

お互いに特別な時間を共有できる喜びと、それに伴う微妙な緊張感が混じり合い、車内にはなんともいえない温かな空氣が漂っていた。


道中、澄子は助手席で楽しそうに窓の外を眺めたり、最蔵とおしゃべりを楽しんだりしていた。

だが、少し会話が途切れた瞬間、最蔵がふと思いついたように切り出した。


『そういえば、今回の旅行、楓芽さんたちには勉強会って言ったけど……そろそろ私たちが付き合ってること、打ち明けてもいいんじゃないかな?』


『まだ言わない』


そんな提案が飛び出し、運転中の最蔵は一瞬だけ眉をひそめた。

最蔵はちらりと澄子のほうを見てから、苦笑交じりに答えた。


『いや、澄子さん、勉強会で箱根に泊まりがけなんて怪しすぎるよ。バキュラなんて、あからさまに何か怪しいって顔してた』


すると澄子は楽しそうに笑いながら肩をすくめた。


『氣の所為だよぉ~。それに、箱根に行こうって提案したのは最蔵だよ』


『うっ……た、確かにそれは否定できないけど……逆に……』


最蔵は反論する間もなく、少し口ごもった。


『逆にだよ』


『うん?』


『逆に怪しくない?』


『怪しい』


『……でしょ?』


『大丈夫だって!誰も疑ってないって~。考えすぎだよ。せっかくの温泉なんだから楽しもうよ』


澄子は手を振りながら明るく答えた。


車内の雰囲氣は和やかだが、二人のやりとりにはすっかり遠慮がなくなっていた。

もはや、上下関係はどこにも見当たらず、あたかも長年連れ添った夫婦のような自然なやり取りだった。


しかし、そんな澄子に対して最蔵が何も言い返さない理由は一つだけだった。

それは澄子が、自分にとってこの世で最も大切な存在だという確信だった。

澄子のお願いならどんな無理なことでも引き受けたくなってしまう。

それが最蔵の正直な氣持ちだった。


こうして、言葉の応酬はありつつも、二人は箱根への道を楽しみながら進んでいった。

この旅は、二人にとってただのリフレッシュではなく、新たな一歩を踏み出す大切な時間となる予感を漂わせていた。


箱根に到着した二人は、まず温泉街を散策しながら、風情ある街並みを楽しんでいた。

古い旅館の瓦屋根や、湯けむりが立ち上る通りの景色に、澄子は感動を隠せなかった。


『すごいね、箱根ってこんなに趣がある場所だったんだ』


『そうだね。箱根は日本の温泉文化の中でも特に歴史が深い場所だからね。箱根の温泉は奈良時代から使われていたって言われているし、平安時代にはすでに湯治場として知られていたんだよ』


澄子は驚いたように目を見開いた。


『えっ、そんな昔から?奈良時代って、もう千年以上前だよね?』


『そう。実際にはもっと前から湧き出ていたはずだけど、人が本格的に利用し始めたのはその頃だったみたい。記録に残っているだけでも、平安時代の貴族たちが箱根を訪れた話があるよ』


澄子は街並みを見渡しながら、その情景を想像しているようだった。


『じゃあ、昔の人たちもこの温泉街を歩いてたのかな?なんだかロマンを感じるね』


『そうだね。ただ、当時の箱根は今ほど発展していなかっただろうね。特に鎌倉時代になると、箱根は重要な街道として発展していったけど、それ以前はまだ山深い土地だったはずだよ。それでも、湯治場としての評判は広まっていて、戦国時代には武将たちも疲れを癒すために箱根の温泉を利用していたらしい』


『武将たちも?』


『例えば、豊臣秀吉や徳川家康が箱根の温泉を訪れたっていう説があるんだ。戦いや政治の疲れを癒すために、温泉を利用していたんだよ。特に徳川家康は健康をとても大切にしていたから、箱根を含むいくつかの温泉地に頻繁に訪れたみたい』


『徳川家康が温泉に浸かってる姿、ちょっと想像できないかも。でも、健康を気にする気持ちはすごく現代的だね』


『そうだね。でも温泉の効能は当時から知られていて、疲労回復や病気の治療に効果があるって考えられていたから、家康のような人たちにとっても必要不可欠だったんだろうね。箱根の温泉は硫黄や塩化物泉が豊富で、肌や体に良いとされているんだよ。現代でも、温泉療法として人気があるからね』


『温泉って、ただのリラックスする場所だと思ってたけど、そんなに深い歴史があるなんて知らなかった』


『こうやって歴史を知ることで、もっと特別な場所に感じられるよね。特に箱根は、温泉だけじゃなくて日本の歴史そのものに触れられる場所だから。今こうして澄子さんと一緒に歩いていること自体も、なんだか不思議な縁を感じるね』


澄子は照れくさそうに微笑んだ。


『うん、そうだね。最蔵が教えてくれると、どんな場所でも特別に感じられるよ。ありがとう』


二人はそんな会話をしながら、箱根の歴史と温泉の魅力に浸りつつ、旅を楽しむ時間をさらに深めていった。

その後、訪れた旅館の湯船では、最蔵が話してくれた歴史を思い出しながら、澄子はその温かさと湯の効能を全身で感じていた。


温泉を楽しんだ後、澄子が旅館のロビーでくつろいでいると、最蔵が少しだけ緊張した表情で澄子に声をかけた。


『澄子さん、ちょっとお願いがあるんだけど……』


『どうしたの?』


澄子は柔らかい微笑みを浮かべて最蔵を見つめた。


『実は、旅館の中に少し特別な部屋があって、そこに来てほしいんだ。でも、その……できればこの着物を着てきてほしいんだ』


『えっ?すごい豪華な着物!それで…、特別な部屋って……、何かイベントがあるの?』


最蔵は照れくさそうに頭をかきながら答えた。


『いや、イベントというよりも……うん、澄子さんに伝えたいことがあって、それにふさわしい雰囲気のある場所を選んだから、それを着たらお部屋に来てほしい』


その言葉に、澄子の頬が少し赤く染まった。


『はい…』


もう、なんとなく最蔵が何をしようとしているのか澄子には分かっていた。


『これって最蔵が用意したの?』


『うん、特別な時間にしたかったから。無理は言わないけど、ぜひお願いしたい』


最蔵の真剣な目を見て、澄子は静かに頷いた。


『わかった……ちょっと緊張するけど、準備してから行くね。どのお部屋に行けばいいの?』


『あの廊下の奥に特別室があるんだ。そこで待ってるから、準備ができたら来て』


『わかった……それじゃあ、行くね』


最蔵が静かに礼をしてその場を去ると、澄子は部屋に戻り、着物を広げた。

それは、美しい花が刺繍されていた。

優雅なデザインながらも派手すぎず、澄子の雰囲気にぴったりな一着だった。


『これを……私に?』


澄子は最蔵の心遣いに胸が温かくなるのを感じた。

そして着物を手に取り、慎重に身に纏い、鏡の前で姿を確認する。

自分でも驚くほど華やかな姿に、少し照れながらも、これでいいのかな…、と小さく呟いた。


そして澄子は心を整え、指定されたお部屋へ向かった。

ドアをノックすると、最蔵の少し緊張した声が返ってきた。


『どうぞ』


ドアを開けた瞬間、澄子はそこに広がる幻想的な空間に息を呑んだ。

沢山の花々で飾られた部屋と、テーブルの上に並べられたキャンドルライト。

そして、その中央で微笑む最蔵の姿があった。


澄子が部屋の中に一歩足を踏み入れると、柔らかな灯りに包まれた空間が澄子を迎え入れた。

キャンドルの炎が揺れながら天井に踊る影を作り、テーブルには二人分のグラスが並べられている。

その奥に立つ最蔵は、これまで見たことのないほど真剣な表情を浮かべていた。


『来てくれてありがとう』


その声に、澄子の胸がドキリと高鳴った。

着物に身を包んだ自分が、この場にふさわしいのか少し不安を感じながらも、最蔵の視線が澄子を優しく包み込むのを感じて、自然と微笑みがこぼれる。


『すごく素敵な部屋……最蔵さん、こんな準備をしてくれてありがとう。でも……こんなに特別なこと、一体どうしたの?』


最蔵は冷静に、机のそばに置かれた椅子を引いた。


『澄子さん、まずは座って』


澄子が椅子に座ると、最蔵は澄子に向かって腰を下ろし、澄子を見つめた。


『私は……この1年間、あなたと一緒に過ごして、本当にたくさんのことを学んだよ』


最蔵の言葉に、澄子は少し驚いた表情を浮かべる。


『私もだよ』


『ありがとう。澄子が剛徳寺に来てくれたことで、日常の中にある大切なものを氣づかせてもらえたんだ。それに、どんな時でも笑顔を絶やさないあなたの強さに、私は何度も助けられた』


澄子はその言葉を聞きながら、最蔵の気持ちが伝わるのを感じた。

澄子の心は一層高鳴った。


『だからこそ、これからの人生も、ずっとあなたと一緒に歩んでいきたいと思ったんだ』


その瞬間、最蔵はそっと懐から小さな箱を取り出した。

木製の手作りの箱には、繊細な彫刻が施されており、その蓋を開けると、前よりも温かみのある指輪が現れた。


『これは私が自分で作ったものなんだ。私の気持ちを形にしたくて作った』


澄子の目に驚きと感動が入り混じった表情が浮かぶ。


『最蔵さん……これ、あなたが……?』


最蔵はしっかりと澄子の目を見て、はっきりとした声で言った。


『澄子さん、私と結婚してください。そして、これからの人生、ずっと私の隣で笑っていてほしい』


澄子はその言葉に息を飲み、指輪を見つめた。

手作りの温もりと、最蔵の真剣な思いがそこに込められているのを感じた。


少しの間、沈黙が流れる。

その沈黙の中で澄子の胸には、様々な思いが渦巻いていた。

やがて、澄子の目に涙が浮かび、そしてその涙が頬を伝う。

その涙は、悲しみや迷いではなく、心の底からわきあがる嬉し泣きだった。


『……はい。……こんなに真剣に、私のことを考えてくれて、本当にありがとう』


その一言は静かだったが、確かな決意が込められていた。

澄子は少し震える手で指輪を受け取り、最蔵の目を真っ直ぐに見つめた。


『最蔵、私を選んでくれて、ありがとう。これから先、どんなことがあっても一緒に乗り越えていきたい』


最蔵の表情は一瞬驚きに変わり、次の瞬間には安心と喜びで満たされた笑顔になった。

最蔵はそっと澄子の手を取り、丁寧にその指に指輪をはめた。

指輪が澄子の指にしっくりと収まるのを確認すると、最蔵は静かに言葉を継いだ。


『澄子、ありがとう。これからもずっと、あなたを大切にします。あなたと一緒にいられることが、私の一番の幸せです』


澄子は微笑みながら、静かに頷いた。

部屋には二人だけの穏やかで温かい空気が流れ、窓の外では箱根の夜空に星々が瞬いていた。

その光景が、これから始まる新しい二人の未来を祝福しているかのようだった。


二人はしばらく何も言わず、ただ手を握り合い、その温もりを感じていた。

最蔵は心の中で誓った。


この瞬間の気持ちを、決して忘れないと。


そして、澄子もまた、目の前にいる最蔵と共に歩む未来を確信していた。

その夜、二人は初めて夫婦となる未来を共に描き始めたのだった。


それから一ヶ月後、最蔵と澄子は結婚式が決まり、僧侶たちは初めて二人の関係を知った。

剛徳寺の本堂は清らかな朝の光に包まれていた。

堂内には菩提樹の香りが漂い、厳かな鐘の音が静寂を破り、結婚式の開始を告げた。

参列者たちはそれぞれの席に座り、花嫁の澄子と花婿の最蔵を心から祝福する準備が整っていた。


澄子は真っ白な和装に身を包み、その姿はまるで清らかな光そのものだった。

緊張しながらも微笑む澄子の横には、剛徳寺の副住職である最蔵が僧衣をまとい、堂々と立っていた。

二人の顔には、これまでの歩みをともに乗り越えた絆と新たな未来への希望が映し出されている。


式は、天台宗の伝統に則り行われた。

住職である桂之助が導師を務め、読経が響き渡る中、二人の心は一層深く結ばれていった。

剛徳寺の僧侶たちは、経文を唱えながら二人を見守り、その表情には弟子であり仲間である最蔵への深い祝福が込められていた。


式の後半、最蔵の母の兄である伯父、健司が立ち上がり、温かい声で挨拶を述べた。


『最蔵、そして澄子さん、本当におめでとう。あなたがこれから共に歩む道が、笑顔と感謝で満ち溢れるよう祈っているよ』


澄子の母の弟、功信も立ち上がり、涙ながらに祝辞を述べた。


『澄子さん、君がこんなに素晴らしい方と巡り会えたことが、私たち家族にとっても何よりの喜びです。最蔵さん、どうか澄子をよろしくお願いします』


澄子はその言葉に胸を熱くしながら深く頭を下げた。


剛徳寺の僧侶たちも順番に祝福の言葉を贈り、中には思わず涙ぐむ者もいた。

特に、最蔵を支え続けてきた長年の僧侶、楓芽が、感慨深げにこう言った。


『最蔵さん、今までお寺を守るために全力を尽くしてきたあなたが、今日こうして新たな家族を築く姿を見られるのは、私たちにとっても誇りです。澄子さん、どうかお二人で剛徳寺を支え、共に幸せな人生を築いてください』


最後に、澄子は震える手で最蔵の手を握り、静かに言葉を紡いだ。


『私はここ剛徳寺で多くの方々に支えられ、そして最蔵さんという素晴らしい方に出会うことができました。これから先も、最蔵さんと一緒に皆さんに恩返しができるよう努めてまいります。本当にありがとうございます』


参列者全員が拍手を送り、本堂には祝福の波が広がった。


その後、境内で行われた披露宴では、僧侶たちや家族、そして寺院に関わる多くの人々が笑顔を交わし、温かいひとときが続いた。

最蔵と澄子の周りには、二人を祝福する多くの花々が咲き誇るかのようだった。


剛徳寺に新しい風が吹き、澄子と最蔵が歩む未来は、希望と愛で満ち溢れていることを誰もが感じた結婚式だった。

その中にはバキュラと法照も笑顔で見ていた。


披露宴も中盤に差し掛かった頃、功信が立ち上がり、少し緊張した面持ちで一言申し出た。


『皆さん、少しだけお時間をいただけますか。実は、この場にどうしてもお呼びしたい方がいらっしゃって……。澄子さん、驚かないで聞いてほしい』


澄子が驚きの表情を浮かべる中、功信がそっと扉を開けた。

すると、そこに現れたのは澄子のお父さんだった。

落ち着いたスーツ姿で、少し困惑したような、強い意志を宿した目をしていた。


会場が静まり返る中、お父さんがゆっくりと澄子の元へ歩み寄った。

澄子は一瞬戸惑い、次の瞬間、目に涙を浮かべた。

澄子にとって父親との再会は、ずっと心の奥にしまっていた夢のような出来事だった。


そして澄子の目を見つめ、優しく微笑みながら静かに口を開いた。


『澄子さん、私は……、記憶をすべて取り戻すことはできませんでした。しかし、功信さんが直接招待状を渡して、澄子さんはあなたの娘なのだと、そう言いました。私が中国出身、それも思い出せませんでした。故郷だと思われる場所へ行っても何も思い出せませんでした。正直、これまでどうしていいかわからず、迷っていました。だけど……、比叡山へ登山をしたら、澄子、澄子、澄子、と、何度も呼んでいたような懐かしい気がして、今日ここへ来ました。あなたの晴れ姿を見て、私は不思議と今、心が温かく満たされてる』


澄子は涙をこらえきれず、『お父さん……』と呟きながら父親の言葉を聞き入れた。


父親は一歩進み、澄子の前に立った。


『澄子、結婚おめでとう』


澄子は、涙ながらに微笑んだ。


『ありがとう』


最蔵は静かに頭を下げていた。

その後、お父さんは何も語ることなく、ただ静かに剛徳寺を背に歩いて帰っていった。

その光景は、剛徳寺の歴史の中でも忘れられない一幕となり、参列者たちの心にも深い感動を残していたのであった。

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