心の絆 ー後編ー
剛徳寺の静寂な午後、楓芽は電話の音にふと顔を上げた。
『はい、剛徳寺です。はい………、はい…………。…………っえ?!』
楓芽は電話を受けながら心平に最蔵を呼ぶよう指示した。
法務を終えた後、職員室に戻ると、楓芽が少し緊張した面持ちで最蔵を待っていた。
『滋賀の滋凰寺からお電話です。天台宗のお寺で僧侶をされている方から、澄子さんについて話があるそうです』
『滋凰寺……?』
最蔵は眉を寄せた。
いったいどのような要件なのかと心に疑問を抱きつつ、受話器を取った。
『もしもし、剛徳寺の副住職を務めさせていただいております最蔵でございます』
電話の向こうからは、落ち着いた低い声が響いた。
『初めまして、私、滋凰寺で務めております藤原功信と申します。実は、そちらでお世話になっている澄子さんのことでお話ししたいことがあり、お電話させていただきました』
『澄子さんのことで……?』
最蔵は意外そうに声を漏らした。
『ええ。実は私は澄子さんの母の弟、つまり澄子さんの叔父にあたります。澄子さんが剛徳寺にお勤めされているという話を、知人から聞きまして……』
功信は慎重に言葉を選びながら続けた。
『澄子さんが事故で両親と離れ、滋賀を離れて一人で東京で生活していることを耳にしました。私としては、澄子さんの苦労を知り、少しでも助けになれればと思い連絡させていただきました』
その言葉に最蔵は一瞬息を呑んだ。
澄子の過去について、澄子自身が多くを語らなかったため、こうして親族から直接の話を聞くのは初めてだった。
『功信さん、ご連絡ありがとうございます。澄子さんには確かに辛い過去があるようで、私たちも澄子さんをできる限り支えたいと思っております』
功信は深く息を吸い、少し申し訳なさそうに言った。
『突然のお願いで恐縮ですが、一度、澄子さんとお会いしたいと思っています。澄子さんのことをこれまで放っておいた私にも責任がありますし、今後のことも含めて話をしたいのです』
最蔵はしばらく考え込んだが、やがて小さく頷いた。
『承知しました。澄子さんにこのことをお伝えし、澄子さんの気持ちを確認した上で、ご連絡いたします』
功信は電話越しに深々と頭を下げるような声で答えた。
『ありがとうございます。澄子さんのこと、どうかよろしくお願いいたします』
電話を切った後、最蔵は澄子の穏やかな笑顔を思い浮かべた。
その裏に隠された過去が、いかに深いものであったかを改めて感じさせられる出来事だった。
そして、最蔵は澄子の元へと向かい、功信からの連絡について澄子にどのように伝えるべきか、慎重に考え始めた。
剛徳寺の夕暮れ、最蔵は慎重に言葉を選びながら澄子の部屋を訪れた。
襖を軽く叩くと、中から小さな声が返ってきた。
『はい』
襖を開けると、澄子が机に向かって何かを丁寧に書き写していた。
澄子の手元には仏教関連の資料が広がり、筆跡からは真摯な姿勢がうかがえた。
『澄子さん、少々お話をさせていただいてもよろしいでしょうか?』
澄子は顔を上げて、小さく微笑んだ。
『はい』
最蔵は座布団を一つ借り、澄子の正面に座った。
少し緊張した面持ちで、最蔵は話を切り出した。
『実は今日、滋凰寺に務めておられる藤原功信という僧侶の方から連絡がありました』
その名前を聞いた瞬間、澄子の表情が硬直した。
『……藤原功信……私の叔父、です』
最蔵は頷き、続けた。
『そうです。あなたのお母様の弟さんだと伺いました。あなたのことをとても氣にかけていて、一度話をしたいとおっしゃっていました』
澄子は目を伏せ、両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
しばらく沈黙が続いた後、澄子が小さな声で呟いた。
『叔父とは、事故の後、ほとんど連絡を取っていません。私がどうしているのか、きっと氣になっていたんでしょうけど……、私、……どうしていいか分からなくて……』
澄子の声には迷いと戸惑いが混ざっていた。
最蔵は柔らかな声で続けた。
『功信さんは、澄子さんに何かを求めたり責めたりするためではなく、ただ話を聞きたいとおっしゃっていました。過去のことを悔いていて、少しでも力になりたいと』
澄子は深い息を吐き、微かに首を振った。
『私はどうすれば……、会って、何を話せばいいのか分かりません』
最蔵は静かに微笑み、澄子を安心させるように語った。
『澄子さんがどうしたいかが一番大切です。ですが、もし会うことを選ぶなら、あなたが過去を整理して、一歩前に進むためのきっかけになると思います』
その言葉に澄子は少し考え込み、やがて小さく頷いた。
『一緒に来て…………。私ひとりなんて絶対むり…………』
『もちろんです。私も同行します』
最蔵は力強く答えた。
澄子はほっとした表情を見せ、少しずつ肩の力が抜けていった。
こうして澄子と最蔵は、決心を新たにし、翌週の初めに大津へ向かうことに決めた。
途中で、澄子は何度も言葉を探しながら、過去の出来事を整理しようと試みた。
澄子にとって、叔父との再会は長い間避けてきたことであり、どこか心の中で封印していた感情が呼び起こされる瞬間でもあった。
車は山道を進み、しばらくして滋凰寺の壮大な建物が視界に広がった。
澄子の胸は高鳴り、最蔵が静かに澄子の手を握った。
澄子が深呼吸をすると、最蔵が軽く声をかけた。
『澄子さん、無理に言葉を出す必要はありません。ただ、心の中で感じたことを大切にしてください』
澄子は微かに頷き、車が滋凰寺の門をくぐった瞬間、再び心が静まり返るのを感じた。
滋凰寺の本堂に到着したとき、功信はすでに待っていた。
功信は、澄子が子供のころに見た面影があるものの、年月を感じさせる落ち着きが漂っていた。
功信は最蔵と澄子を見ると、軽く頭を下げて微笑み、歩み寄った。
『こんにちは。どうぞ、中へお入りください』
その声は温かく、懐かしさを感じさせるものだった。
澄子は言葉を探すように少しの間黙った後、ゆっくりと口を開いた。
『叔父さん……、私は、どうしていいのか分からなくて。ずっと、あなたと会うことを避けていました。ごめんなさい。いつかは過去を整理しないと…と思ったのですが……、なかなかできなくて……』
功信は静かに頷き、最蔵と澄子に席を勧めた。
二人は座り、最蔵も後ろに控えながら見守る中、会話が始まった。
『澄子さんが避けていらっしゃったのは、当然のことだと思います。私が無力であったため、何もお力添えできませんでした。それに、澄子さんの苦しみを十分に理解していなかったため、ただ時が過ぎるのを待つことしかできませんでした』
その言葉に澄子は静かに目を伏せた。
『しかし、今は少しでも澄子さんが前に進むお力になりたいと考えております。澄子さんがどのように感じていらっしゃるのか、お聞かせいただければと……。もしお話しづらければ、無理に聞こうとはしませんが…何か心に抱えていることがあれば、なんでもお話ください』
澄子はしばらく沈黙し、その後、ゆっくりと語り始めた。
『とても辛い経験をしました。高校生活の最後、旅行へ行った帰りに玉突き事故に遭ってしまったんです。あの時、母は亡くなり、父は脳に異常をきたして記憶喪失になりました』
『それは…お辛かったでしょう…。澄子さんは、お怪我はなかったのですか?』
『はい、私は何も傷を負わずに無事でした。でも、父は記憶を失ってしまい、私のことをまったく覚えていなかったんです。そして、父から『誰だお前は!知らない人だ!出ていけ!』と病室で言われて、どこにも居場所がなくなってしまって……。でも、それだけじゃなかったんです。父は記憶喪失のため、私たちが過ごしてきた家も覚えておらず、家族だったことも忘れていました。そして、新しい妻と再婚し、新たな家族ができました。その時、私はどうしていいのか分からなくて、ただその家で過ごした思い出に縛られている気がして…。だから、家を売り払って、大津を離れる決心をしました。そして、東京に行こうと。でも、母が残したもの、あの家での記憶がどうしても消せなくて…。だから、前に進むためにすべてを壊さなければならないと感じました。それでも、しばらくはどこかで立ち止まってしまって…。でも、こうして少しでも前に進もうとする自分が、少しずつ戻ってきた気がします』
澄子は少し声を震わせながら涙をこらえながら打ち明けた。
功信は静かに澄子を見つめながら話を聞いていた。
その表情には責任を感じているように見えた。
『ごめんなさい…、何も気づけなくて……、ごめんなさい………』
功信は床に頭をつけて謝り続けていた。
澄子は慌てて功信へ駆け寄り、頭を振りながら涙を落した。
『頭を上げてください。あなたが自分を責める必要はありません。もし、あの時、功信さんが手を差し伸べていたら私は、もっと壊れてました。同情の優しさなんていらない。そんなの傷を広げるだけだもの……。過去のことを背負って、ずっと悩んでいるだけでは、前には進めない。だから、私は私の意思で動いて誰の手も借りず、私が決めた道に進んで、自分の手で幸せをつかみ取りました。今、私は最蔵さんと交際して、とても幸せです』
最蔵と功信は澄子の大きな決断に言葉では表せないほどの苦しみがあったことを噛みしめるように聞いていた。
過去を乗り越えるために、どれだけ強く、どれだけ深く悩んだのだろうかと。
それは想像できないほどの痛みを感じているはずだ。
それでも、今、こうして前に進もうとするその勇気に心から敬意を表したい。
最蔵と功信は、そう思った。
『その一歩を踏み出した澄子さんは、もう過去に縛られているわけではありません。新たな道を歩んでいるんですよ。剛徳寺にたどり着いたのも、その一歩の先にある場所です』
最蔵は、そっと言葉をかけた。
澄子は、その言葉に少し微笑んで答えた。
『ありがとうございます』
澄子はその言葉を胸に受け止め、静かに頷いた。
そして改めて、最蔵は功信に澄子と交際していることを打ち明け、挨拶をした。
最蔵は静かに功信を見つめながら言葉を口にした。
『澄子さんとは、お付き合いをさせていただいております。私たちはお互いに支え合いながら共に歩んでいこうと考えております』
功信は穏やかな表情が広がり、ゆっくりと答えた。
『最蔵さんが澄子さんを支えるなら、私も安心です。お二人が幸せであることを願っています』
最蔵は深く頷き、澄子を見つめた。
『ありがとうございます、功信さん』
澄子はそのやり取りを静かに見守りながら、心の中で感じていた温かさがさらに深まるのを感じていた。
最蔵とともに歩んでいくことを決めたことを、澄子は心から嬉しく思った。
『私たち二人の関係も、また一歩進むことができた氣がします』
澄子は心の中で呟き、静かに微笑んだ。
その後、最蔵と功信は握手を交わし、静かな時間が流れた。
澄子の存在が二人の間に新たな繋がりを生み出し、どこか穏やかな平和がその場に広がっていったのであった。




